能見正比古もろもろ(1) | ほたるいかの書きつけ

能見正比古もろもろ(1)

 現代に蔓延する血液型性格判断のルーツといえば能見正比古だが、こないだ彼の著書『血液型人間学』をつらつらと読み返していて面白いところがいくつかあったので紹介しておく(なんせ読んだの随分昔だから忘れておった)。だらだら書いてたら長くなってしまったので、数回に分けます。(^^;;
 この本については、「忘却からの帰還」のKumicitさんが色々調べておられるので、本筋としてはそちらを参照されたい(「能見」で検索して出てきたページ にリンクを張っておきます)。

 イキナリだが「研究ノートから-あとがきにかえて」において、能見が「論理的根拠」として挙げている第二章「血液型と気質の原理」から少し引用しよう。p.58「2 血液型が気質体質と関係するのは何故か?」より。
材料が違えば機能も…
わからないづくめの血液型が人間の体質、気質と関係があるというのは、どういうことなのか?それは、きわめて簡単な理由による。
わからないといっても血液型が何らかの物質、型物質の違いによって起る現象であることは、はっきりしている。その型物質は、髪の毛の末に至る全身に分布している物質だ。言いかえれば、たとえばA型の人とB型の人では、全身を構成している材料物質が違うということになる。材料が違えば、その機能や特性が違うのは、全く当たりまえのことである。洋服生地でも羊毛か綿か化学繊維かで、性能が違ってくる。日常の道具も機械も、電気回路のようなものでも、構成する材料が違えば、特性は違う。人体だって例外ではない。
 血液型が違っても、つまり材料が違っても、人間の体質気質……機能特性が全く同じということになれば、血液型とは、まるでユウレイのような存在となる。そんなバカげた、非科学的な話はない。
 血液型が人間の体質気質の個性と関連するということは、だから全く論理的にも当然のことなのだ。その上、人体を生化学的に型(タイプ)に分ける物質は、血液型以外に、発見されていない……というより、血液型以上に普遍的なものは、考えられないといってもいい。血液型が人間個性のタイプに対応することは、科学的にも、必然の事実である。
 問題は、血液型による個性の違いが、どの程度の大きさに現れるか、どのようにして表現されるかということである。(以下略)
いやあ、スゴイね。なんらかの違いがあるのだから、気質に反映されないわけがない、されないなんてそんな非科学的なことがあるか、というわけである。このヒトの「科学」なんてえのは所詮この程度で、本人はこれが論理的根拠である(そして読者アンケートや何人もの有名人の事例「研究」が実証的根拠である)と主張しているのだけど、やってることは結論ありきの強引な論法である。

 もう一つ、この人の「論証」のパターンとして典型的な論法を引用しておこう。同じ章の「二 人間気質のメカニズム 1 野菜の味と気質の味(p.66~)」より。
生野菜のO 福神漬のAB
テレビのスタジオで同席の俵萌子女史に聞かれたことがある。
「私の家族は全員A型だけど、一人一人性格が違うわよ」
俵夫妻が別れる以前の話だ。この萌子さんのような質問にはよく出会う。そんなときには、
「そりゃ当然ですよ。人間は玩具(おもちゃ)の兵隊さんじゃないから、そう簡単に、四色に塗り分けられませんよ」
と前置きして、私は次のたとえ話をする。
 人間を仮に野菜だとする。八百屋というくらいだから、野菜には八百ぐらいの種類があるのだろう。人間の個性だって、八百ではきかないくらい、沢山の種類がある。その中でO型の人はナマ野菜に相当する。ナマだけに個性の差が一番あるのがO型である。
 その野菜を、今、ツケ物にしたと仮定する。ツケ物にしても大根、キューリ、ナス、白菜等々、それぞれの個性はちゃんと残っている。見ても判るし食べても判る。違うのはツケ物という共通性が加わっていることだ。その共通性がA気質なのである。
 B型はおでんでも煮〆でもいいから、野菜を似たとする。A型と同じ考え方で、それぞれの野菜の個性は残りながら、新しく加わった煮物という共通性がB気質というわけだ。
 AB型は煮てツケるからややこしい。さしづめ福神漬。福神漬でもよく見れば、キューリかナタ豆かの区別は、つくのである。

血液型で違う気質の味
このたとえで、血液型と気質の関係は、かなり理解していただける。ツケ物にも浅ヅケと深ヅケ?がある。煮物にもアッサリ煮るのと、佃煮などの違いがある。A気質B気質の濃淡も合わせて説明できる。(以下略)
 彼の「論理」というのはどれもこんな感じ。
  この章は、そもそも血液型とは、という話から始まって、上に挙げたような話が続き、能見なりの「血液型と性格」のイメージを表す図が出てきて、あとは有名人を例に挙げてのケーススタディである。それで科学的な根拠だと言うのだからちゃんちゃらおかしい。なんせ、論理の核となるべき部分は「たとえ話」しかないのだから。

 「このたとえで、(…)かなり理解していただける」と言うが、全然理解できない。このたとえで能見が言わんとしていることはわかるのだけれども、それがどうして血液型と性格の関係のたとえになっているのか、とても根拠になるとは言えないだろう。でも、たぶん、これでわかった気になってしまう人は多いのだよね。ああ、なるほど、そういうことなのか、と。
 で、この手の論法は、血液型性格判断に限らず、ニセ科学では実にポピュラーなものだ。「水からの伝言」の江本勝だって、理論の説明の時は、最初に音叉を二つ持ってきて、共鳴の実験をするところから始めるわけだ。音叉の共鳴が起こるのと同じように、万物には波動があって、それが共鳴して云々という話につなげていく。実際はつながっていないのだけれども、わかった気になる人は多いのだろう。やっぱり、簡単に「わかった気」になっちゃいかんのだと思う。

→能見正比古もろもろ(2)