ペプシあずき
ええとご無沙汰しております。
出張先でネットが使えなかったり、たまった仕事を片付けてたりですっかり更新サボってしまいました。折角いただいたコメントへの返事も遅れておりまして、どうもすみません。やっと一段落しつつあるので、明日ぐらいにはなんとか…。
ところで。
話題(?)の「ペプシあずき」ですが…。コンビニで見かけたので買ってみたのです。見たら買わないわけにはいかないだろう?
で。
…うわなんだこれ勘弁してタスケテ!! というような味でした。(^^;; よー考えるわホンマに。きゅうり味は結構良かったんだけどなあ。まだ冷蔵庫に残ってるんですがどうしよう。どうしようもなにも、買った以上は意地でも飲みきりますが。あー、バニラコークの悪夢が蘇える…。
出張先でネットが使えなかったり、たまった仕事を片付けてたりですっかり更新サボってしまいました。折角いただいたコメントへの返事も遅れておりまして、どうもすみません。やっと一段落しつつあるので、明日ぐらいにはなんとか…。
ところで。
話題(?)の「ペプシあずき」ですが…。コンビニで見かけたので買ってみたのです。見たら買わないわけにはいかないだろう?
で。
…うわなんだこれ勘弁してタスケテ!! というような味でした。(^^;; よー考えるわホンマに。きゅうり味は結構良かったんだけどなあ。まだ冷蔵庫に残ってるんですがどうしよう。どうしようもなにも、買った以上は意地でも飲みきりますが。あー、バニラコークの悪夢が蘇える…。
『香山リカのスピリチュアルを考えよう!』(香山リカ、中塚圭骸)
Jさん
が紹介してたもの。全三巻。それぞれのタイトルは、
どんな感じで話が展開するかというと…。たとえば1巻の最初はこんな感じ。
理奈はバレーボール部の次期部長。ところが、1年生が部活をやめたがっているというウワサを耳にする。でまあこういう時って自分のせいじゃないか、とかどんどんネガティブな思考になりがちなわけだが、そんなとき、理奈はたまたま母親が置きっぱなしにしていた健康や美容の雑誌をパラパラと眺めていた。
そこで目にとまったのが、霊感占い師の広告。「お悩みですね?でも、心配いりません。私におまかせください」という文言につられて、つい電話をしてしまう。で、オーラの話とかされて段々のめりこみかけたところに、たまたま家に遊びに来ていた「ケイタお兄さん」(叔父、母親の弟だが28歳。大学院で「ひも宇宙理論」^^;;を「勉強」している設定)と話をする中で、徐々に懐疑的になっていく…と、まあ、こんな感じの短い話がいくつか載り、それぞれについて最後に香山リカが簡単にまとめをする。
ちなみに1巻では、この後弟が「カルマ落とし」の柔道家にハマりかけたとか、コックリさんと前世だとか、母親にガンの疑いが出て、それは自宅が昔墓場だったので呪われているからじゃないか、とか、そういうことが取り上げられている。で、どれものめりこむ手前で、なんとか復帰する。
こんな感じで話は進む。いろんなエピソードを通して、現代の典型的な「騙し」が紹介されていくので、概観するにはいいだろう。深みはないけど(香山リカだから^^)。ただまあ2巻、3巻は1冊で一つのストーリーになっているため、1巻よりは読み応えがある。3巻は親が「水商売」にはまる(売る側として)のを娘の視点から見ているので、深みはないけど(^^)結構ハラハラする。こういう視点は面白い。面白がってる場合じゃないけど(3巻の中身については、冒頭にリンクしたJさんのところで紹介しています。ご覧あれ)。
どーでもいいがツッコまずにはいられないツッコミとしては、前述のケイタ28歳、「ひも宇宙理論」を「勉強」となってるが、28だったらD論真っ最中で、勉強じゃなくて研究だろう?とか、別の巻では白衣来て登場とか(理論屋で白衣着るとか考えられん^^;;)、その手のステレオタイプが目につくなあ。
褒めてるのかそうじゃないのか自分で書いててアレなんですが、総じて言うならば、いい仕事したと思います。子どもには、どこかの時点で読ませたいですね。
香山リカは、ここ数年、地に足ついた発想で結構いい仕事をしてると思います(どうしても表面的にはなっちゃうのだけれど、これはこれで「味」としないといかんのだろうなあ)。勝間批判とかも含めて。精神科医として、現実に生きる人々の苦しみの「声」を聞く機会がある、というのが大きいんだろう、きっと。
発行は2009年3月。適切なまとめ方を見ると、『信じぬ者は救われる』の経験が随分大きかったのではないだろうか。しかしなあ、高いよ、コレ。1冊1680円が3冊。もうちょい安くならないかなあ。ちなみに3冊まとめて注文したら、3巻セットで箱に入ってきたよ。(^^;; そういう意味でも、学校でぜひ買ってほしいな。
で、それぞれのテーマについて、「元気いっぱいの中学2年生」理奈と、その家族・友人におきる騒動から考えてみよう、というもの。まあ深みはないのだけど(香山リカだから^^;;)、しかし要点はよくまとまっている。kikulogとかよく見ている方々には今更なことがほとんどなので、買ってまで読む必要はないと思う。ただ、小学校高学年から中学生にかけては、ぜひ読ませたい本、になっていると思う。小学校だったら、学級文庫なんかで教室に一揃えあるといいですね。
- 霊感ってなに?
- オーラってほんとにあるの?
- 宿命・カルマってなに?
- コックリさんと前世
- 呪われた?理奈の家!!
- 占い・カルト宗教ってなに?
- おそろしいカルト教団
- カルトってなに?
- 女性弁護士・木下さん
- 怪しい占い!
- マインドコントロールってなに!?
- ニセ科学ってなに?
- お金もうけってそんなに簡単!?
- 人助けの「水」って…!?
- 怪しい水の正体は?
- 科学とニセ科学どう違う?
- 「ネズミ講」って?
どんな感じで話が展開するかというと…。たとえば1巻の最初はこんな感じ。
理奈はバレーボール部の次期部長。ところが、1年生が部活をやめたがっているというウワサを耳にする。でまあこういう時って自分のせいじゃないか、とかどんどんネガティブな思考になりがちなわけだが、そんなとき、理奈はたまたま母親が置きっぱなしにしていた健康や美容の雑誌をパラパラと眺めていた。
そこで目にとまったのが、霊感占い師の広告。「お悩みですね?でも、心配いりません。私におまかせください」という文言につられて、つい電話をしてしまう。で、オーラの話とかされて段々のめりこみかけたところに、たまたま家に遊びに来ていた「ケイタお兄さん」(叔父、母親の弟だが28歳。大学院で「ひも宇宙理論」^^;;を「勉強」している設定)と話をする中で、徐々に懐疑的になっていく…と、まあ、こんな感じの短い話がいくつか載り、それぞれについて最後に香山リカが簡単にまとめをする。
ちなみに1巻では、この後弟が「カルマ落とし」の柔道家にハマりかけたとか、コックリさんと前世だとか、母親にガンの疑いが出て、それは自宅が昔墓場だったので呪われているからじゃないか、とか、そういうことが取り上げられている。で、どれものめりこむ手前で、なんとか復帰する。
こんな感じで話は進む。いろんなエピソードを通して、現代の典型的な「騙し」が紹介されていくので、概観するにはいいだろう。深みはないけど(香山リカだから^^)。ただまあ2巻、3巻は1冊で一つのストーリーになっているため、1巻よりは読み応えがある。3巻は親が「水商売」にはまる(売る側として)のを娘の視点から見ているので、深みはないけど(^^)結構ハラハラする。こういう視点は面白い。面白がってる場合じゃないけど(3巻の中身については、冒頭にリンクしたJさんのところで紹介しています。ご覧あれ)。
どーでもいいがツッコまずにはいられないツッコミとしては、前述のケイタ28歳、「ひも宇宙理論」を「勉強」となってるが、28だったらD論真っ最中で、勉強じゃなくて研究だろう?とか、別の巻では白衣来て登場とか(理論屋で白衣着るとか考えられん^^;;)、その手のステレオタイプが目につくなあ。
褒めてるのかそうじゃないのか自分で書いててアレなんですが、総じて言うならば、いい仕事したと思います。子どもには、どこかの時点で読ませたいですね。
香山リカは、ここ数年、地に足ついた発想で結構いい仕事をしてると思います(どうしても表面的にはなっちゃうのだけれど、これはこれで「味」としないといかんのだろうなあ)。勝間批判とかも含めて。精神科医として、現実に生きる人々の苦しみの「声」を聞く機会がある、というのが大きいんだろう、きっと。
発行は2009年3月。適切なまとめ方を見ると、『信じぬ者は救われる』の経験が随分大きかったのではないだろうか。しかしなあ、高いよ、コレ。1冊1680円が3冊。もうちょい安くならないかなあ。ちなみに3冊まとめて注文したら、3巻セットで箱に入ってきたよ。(^^;; そういう意味でも、学校でぜひ買ってほしいな。
- 香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈1〉霊感ってなに?/香山 リカ
- ¥1,680
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- 香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈2〉占い・カルト宗教ってなに?/香山 リカ
- ¥1,680
- Amazon.co.jp
- 香山リカのスピリチュアルを考えよう!〈3〉ニセ科学ってなに?/香山 リカ
- ¥1,680
- Amazon.co.jp
- 信じぬ者は救われる/香山 リカ
- ¥1,470
- Amazon.co.jp
『藤子・F・不二雄大全集 パーマン2』(藤子・F・不二雄)
…または、個人的動機の話。の前に、簡単に紹介しましょうね、やっぱし。
『大全集』のパーマンは8巻分の刊行が予定されているが、1、2巻をもって、『少年サンデー』掲載分は終了である。従って、この巻には、『サンデー』版の最終回も載っている。次巻からは、小学館の学年誌掲載分である。ちなみにパーマンの最初の回は学年誌の方であり、その初回はパーマンのマスクは今とは違う形であった。不人気だったようで、子ども受けがしそうな今の形(特にマスクの下の部分が唇のように上向きに丸まった部分)に変更した、とはどこかで読んだ藤子F氏の言葉である(どこで読んだんだったか…)。それは私も読んだことがないので今から楽しみなのだが、それはそれとして。
この巻に掲載されているもので出色の出来なのは、やはり「パーマンはつらいよ」ではないだろうか。この巻の「解説」には2号の声優である大竹宏氏が談話を寄せているのだが、彼もこの回を取り上げている。ネタバレありで簡単に紹介すると(結論がわかってても感動するのだ)、夜の出動が続いたパーマン、昼間は眠くてたまらない。パーマンの活躍はみんな知ってて感謝もするけれども、パーマンの正体が須羽みつ夫であることを知らない周囲の人たちは、最近いつもみつ夫が授業中居眠りをしているのを知っている。家族やみっちゃんにまで注意される始末。ついにみつ夫は嫌気がさして、たまたま来ていたスーパーマン(後には「バードマン」と呼ばれるようになる)に、パーマンであることを「せめてママと先生とみっちゃんにだけでも、ぼくがパーマンだってことうちあけたいんだけど……。」とお願いする。もちろんそんなことは認められない。で、
さてそんなみつ夫、夜になって、「さあ、今夜からゆっくりねられるぞ。」と布団にもぐりこむ。そこに窓からスーパーマン。パーマンセットを星へ帰るまで「あずかっといて」と置いていくのである。
やがて鳴るパーマンバッジ。パーマン仲間の呼び出しだ。やって来ない1号にしびれを切らし、他のパーマンたちがみつ夫のところへやってくる。水害が発生している、助けに行こう、と。しかし、パーマンをやめる意思の固いことを悟った仲間たちは、しかたなくみつ夫を残して現場に行く。
そして、布団の中のみつ夫。
この話、昔から知ってはいた。知ってはいたけど、今回あらためて読んでみて、なんて深いんだろう、と思った。子どものころは、なんか騙されたような気がしたものだ。しかし今読むと、今でもわからないのだけど、なんかわかるのだ。「わかってはいないけど、わからないわけにはいかん!!」みたいな。:p
# 『無謀キャプテン』(島本和彦)のもじりですよ、もちろん。
それなりに長いこと生きていれば、「わからない、でもせずにはいられない。わけはあとで考える」なんてことは、時折訪れるものだろう。ニセ科学への批判だってそうかもしれない。きっかけは色々あるかもしれないけど、それを持続させる力が何に起因するものなのか。幾つか挙げることはできるだろうけど、でも「こうだ」とはなかなか言い切れない人が多いのではないか。それでいいのだとも思うし、だからこそ個人的な動機を他人が問い質すのは意味がないとも言えるのだろう。こういうのは、たまに表明したり、なにかの折に語り合ったりして、決意を固め直すのにはとても重要だと思うのだけれど、とやかく言われる筋合いのものではないよね。
先日、『ディア・ドクター 』という映画を観た。鶴瓶が主役はってるやつ(上映中なのでネタバラしはしませんが)。鶴瓶が演じる過疎地の「医師」伊野がなぜ「医師」を続けていたのか、伊野を取り巻く人々が推測する場面がある。伊野と深く関わっていた薬の営業マンが、イキナリ座っていた椅子から後ろに倒れる。思わず手を出し助けようとする人。「あなた、僕を愛してたりします?そんなことないですよね。じゃあなんで助けたんですか?」「こんな感じじゃないんですかねえ」と、その営業マン。わざと倒れて「思わず」手を出さざるを得ないような状況にその人を追い込んだわけだ。
何が言いたいかというと、結局個人的な動機なんてものは、自分でもよくわからないことが多いんじゃないか、と。だから文学ではあっても、論争のネタではないだろう、と思うのだよね。
しかしまあ人間は理屈だけでは生きていけないイキモノであるのも確かなことで。だから「個人的な動機」も、たまには語るのも重要なんだと思う。ここで紹介したパーマンの話に感動するのも(感動するよね?ね?ね?^^;;)、その重要さを物語ってもいるのだろう。
そのあたりの間合というか割り振りというかメリハリが難しいところではあると思うのだけども、ね。
『大全集』のパーマンは8巻分の刊行が予定されているが、1、2巻をもって、『少年サンデー』掲載分は終了である。従って、この巻には、『サンデー』版の最終回も載っている。次巻からは、小学館の学年誌掲載分である。ちなみにパーマンの最初の回は学年誌の方であり、その初回はパーマンのマスクは今とは違う形であった。不人気だったようで、子ども受けがしそうな今の形(特にマスクの下の部分が唇のように上向きに丸まった部分)に変更した、とはどこかで読んだ藤子F氏の言葉である(どこで読んだんだったか…)。それは私も読んだことがないので今から楽しみなのだが、それはそれとして。
この巻に掲載されているもので出色の出来なのは、やはり「パーマンはつらいよ」ではないだろうか。この巻の「解説」には2号の声優である大竹宏氏が談話を寄せているのだが、彼もこの回を取り上げている。ネタバレありで簡単に紹介すると(結論がわかってても感動するのだ)、夜の出動が続いたパーマン、昼間は眠くてたまらない。パーマンの活躍はみんな知ってて感謝もするけれども、パーマンの正体が須羽みつ夫であることを知らない周囲の人たちは、最近いつもみつ夫が授業中居眠りをしているのを知っている。家族やみっちゃんにまで注意される始末。ついにみつ夫は嫌気がさして、たまたま来ていたスーパーマン(後には「バードマン」と呼ばれるようになる)に、パーマンであることを「せめてママと先生とみっちゃんにだけでも、ぼくがパーマンだってことうちあけたいんだけど……。」とお願いする。もちろんそんなことは認められない。で、
みつ夫(以下み): だってそれじゃあんまりだ。と言って、パーマンセットを放り出し、「やめます」と宣言してしまうのである。
み: つらい思いをしたって、なんのとくにもならないし。
み: だれひとりぼくに感謝してくれるわけでもないし。
スーパーマン(以下ス): そんなことないよ。
ス: みんなパーマンには感謝してるさ。
み: それは須羽みつ夫と関係ないもの。
ス: いいかい、自分のとくにならなくても、ほめられなくても、しなくちゃいけないことがあるんだよ。
み: どうしてさ なぜ?教えてよ。
ス: 自分で考えたほうがいい。そのうちきっとわかるよ。
み: そんな返事はインチキだ。ごまかしだい。
さてそんなみつ夫、夜になって、「さあ、今夜からゆっくりねられるぞ。」と布団にもぐりこむ。そこに窓からスーパーマン。パーマンセットを星へ帰るまで「あずかっといて」と置いていくのである。
やがて鳴るパーマンバッジ。パーマン仲間の呼び出しだ。やって来ない1号にしびれを切らし、他のパーマンたちがみつ夫のところへやってくる。水害が発生している、助けに行こう、と。しかし、パーマンをやめる意思の固いことを悟った仲間たちは、しかたなくみつ夫を残して現場に行く。
そして、布団の中のみつ夫。
み: 水害か……。いやあ、全然「簡単」な紹介じゃないですね。(^^;;
み: まあ、関係ないけどね……。
み: ねようねよう。
み: 明日はおくれずに学校へ行けるぞ。
み: (目を開けたまま)グウ…。
み: 現地の人たちは大変だろうな……。
み: 関係ないけどさ……。
み: ねむれることは楽しいな。
み: あったかいふとんはうれしいな。
み: ぼおやはよい~子だ、ねんねしな。(モゾモゾと布団の中で動きながら)
み: (布団の中で目を開けながら、水害の状況や翌日の新聞を想像する。想像した新聞には、「大水害に 死者二十三人 不明…」「市をひとのみ」などという見出しが踊る)
み: (ムクリ、と布団から起き上がる)
み: (電気をつける)
み: (着替える)
み: (パーマンになって窓から出ていく)
ス: 出かけるの?
み: あ、スーパーマン。
ス: なんのとくにもならず、人にほめられもしないのに、なぜ行くんだい?
み: わからない…………。でも行かずにはいられないんです。
み: わけはあとで考えるよ。
み: いそがなくちゃ。
ス: (飛んで行く1号の後ろ姿を見ながら)だれがほめなくても、わたしだけは知ってるよ。きみがえらいやつだってことを。
(終わり)
この話、昔から知ってはいた。知ってはいたけど、今回あらためて読んでみて、なんて深いんだろう、と思った。子どものころは、なんか騙されたような気がしたものだ。しかし今読むと、今でもわからないのだけど、なんかわかるのだ。「わかってはいないけど、わからないわけにはいかん!!」みたいな。:p
# 『無謀キャプテン』(島本和彦)のもじりですよ、もちろん。
それなりに長いこと生きていれば、「わからない、でもせずにはいられない。わけはあとで考える」なんてことは、時折訪れるものだろう。ニセ科学への批判だってそうかもしれない。きっかけは色々あるかもしれないけど、それを持続させる力が何に起因するものなのか。幾つか挙げることはできるだろうけど、でも「こうだ」とはなかなか言い切れない人が多いのではないか。それでいいのだとも思うし、だからこそ個人的な動機を他人が問い質すのは意味がないとも言えるのだろう。こういうのは、たまに表明したり、なにかの折に語り合ったりして、決意を固め直すのにはとても重要だと思うのだけれど、とやかく言われる筋合いのものではないよね。
先日、『ディア・ドクター 』という映画を観た。鶴瓶が主役はってるやつ(上映中なのでネタバラしはしませんが)。鶴瓶が演じる過疎地の「医師」伊野がなぜ「医師」を続けていたのか、伊野を取り巻く人々が推測する場面がある。伊野と深く関わっていた薬の営業マンが、イキナリ座っていた椅子から後ろに倒れる。思わず手を出し助けようとする人。「あなた、僕を愛してたりします?そんなことないですよね。じゃあなんで助けたんですか?」「こんな感じじゃないんですかねえ」と、その営業マン。わざと倒れて「思わず」手を出さざるを得ないような状況にその人を追い込んだわけだ。
何が言いたいかというと、結局個人的な動機なんてものは、自分でもよくわからないことが多いんじゃないか、と。だから文学ではあっても、論争のネタではないだろう、と思うのだよね。
しかしまあ人間は理屈だけでは生きていけないイキモノであるのも確かなことで。だから「個人的な動機」も、たまには語るのも重要なんだと思う。ここで紹介したパーマンの話に感動するのも(感動するよね?ね?ね?^^;;)、その重要さを物語ってもいるのだろう。
そのあたりの間合というか割り振りというかメリハリが難しいところではあると思うのだけども、ね。
- パーマン 2(藤子・F・不二雄大全集)/藤子・F・不二雄
- ¥1,260
- Amazon.co.jp
政党と選挙
押し入れを漁っていたら、たまたま昔勉強した『比例代表制 国際比較にもとづく提案』(西平重喜、中公新書)が出てきた。この本、1981年出版なので、各国の制度の説明という点では既に古いのだが、選挙制度の原理をとてもわかりやすく説明している。私は名著だと思っているのだが、いま amazon で見たら、どうも絶版のようですね。ぜひ再版してほしいなあ。あ、ちなみに私は出版のずっと後に、古本で買って読みました。
著者は、本のタイトルからも明らかなように、比例代表制を主張している。実際に、試案もこの本の中で提出されているのだが、それは読んでいただくとして、ここでは著者の基本的なスタンスが窺える部分を引用しておこう。直前に、日本の中選挙区制、イギリスの小選挙区制、フランスの小選挙区二回投票制、西ドイツの併用制、イタリアの二段式比例代表制について、メリット・デメリットと考えられるものを列挙。前章までに、それぞれの詳細な分析が既にされている。
というわけで、私の考えは、いままでいくつかのエントリで表明してきたように、引用した部分の言葉を借りるなら「議会全体を国民の意見の縮図にしようという考え方」である。そのために比例代表制が良いと考えるのであって、大政党に有利だとか小政党に不利だとか、そういうことではない。
もう一箇所引用しておこう。それは「並立制」についてコメントしてある部分である。韓国の第三共和制(1963-71)で採用されていた並立制の分析をもとに述べたものだ。
最後に「政党」というものをどう考えるか、ということについて。ここでは、戦後間もなく子ども向けに発刊された『あたらしい憲法のはなし』(文部省)から引用しておく。ここでは、「政党」が独自に一章設けられ、丁寧に説明されている。
文部省『あたらしい憲法のはなし』より
いずれにしても、大変含蓄のある文章である。特に後ろから二番目のパラグラフは、複雑な現代社会を考える上で、財界や官僚に支配されずに政治を行う上で重要な視点を提供しているのではないだろうか。
著者は、本のタイトルからも明らかなように、比例代表制を主張している。実際に、試案もこの本の中で提出されているのだが、それは読んでいただくとして、ここでは著者の基本的なスタンスが窺える部分を引用しておこう。直前に、日本の中選挙区制、イギリスの小選挙区制、フランスの小選挙区二回投票制、西ドイツの併用制、イタリアの二段式比例代表制について、メリット・デメリットと考えられるものを列挙。前章までに、それぞれの詳細な分析が既にされている。
以上のように、どの方法も長所もあれば欠点もある。だから欠点のない方法、欠点の少ない方法を推賞しようというわけにはいかない。議会というものがどうあるべきか、ということをはっきりさせ、それにそった方法をとらざるを得ない。日本、イギリス、フランスの多数制というのは、各地(選挙区)の代表者をもって、議会を形成しようという考え方である。これに対して、西ドイツやイタリアの比例代表制は、議会全体を国民の意見の縮図にしようというわけである。今日ではすでに地域差が縮まり、地域の利害を争う時代ではなく、国会は国民全体の調和をはかるべきものだと考えれば、比例代表制をとらざるを得ないのではないだろうか。議会のあるべき姿、というのはアプリオリに決まるものではなく、その国の国民がどういう役割を議会に付与したいかに左右される。無論、付与したい役割を実現する制度にただちになるかといえば必ずしもそうではなく、そこに様々な思惑が絡み、結果的に国民の望む姿とはかけ離れたものになることはしばしばあろう。とはいえそこは論理である程度カタが付く問題であって、まずは議会とはどうあるべきかを考えることが重要であろう。
(p.146-147、太字は引用者による)
というわけで、私の考えは、いままでいくつかのエントリで表明してきたように、引用した部分の言葉を借りるなら「議会全体を国民の意見の縮図にしようという考え方」である。そのために比例代表制が良いと考えるのであって、大政党に有利だとか小政党に不利だとか、そういうことではない。
もう一箇所引用しておこう。それは「並立制」についてコメントしてある部分である。韓国の第三共和制(1963-71)で採用されていた並立制の分析をもとに述べたものだ。
とにかくこの結果からみて、並立制というのは、小政党を救済することにならないことが明らかである。とくに多数の議席を小選挙区で選び、少数を比例代表で選ぶ方法は、見切りをつけた方がよいのではないだろうか。このような並立制を望む人なら、むしろ小選挙区制で全議席を選ぶことを主張すべきだろう。つまり、並立制というのは、比例代表を導入していることから見掛け上少数意見も救い上げる制度のように見えるが、実態はそんなものではない、ということである。少数意見を本気で救い上げるなら比例代表(選挙区はなるべく大きく)にしなければならず、そうでなければ、並立制は小選挙区制の危険性を糊塗するものでしかない、と言ってもいいかもしれない(著者はそこまでは言ってないが)。
最後に「政党」というものをどう考えるか、ということについて。ここでは、戦後間もなく子ども向けに発刊された『あたらしい憲法のはなし』(文部省)から引用しておく。ここでは、「政党」が独自に一章設けられ、丁寧に説明されている。
文部省『あたらしい憲法のはなし』より
九 政党ちなみに比例代表制でも政党要件によっては個人党を作って立候補が可能であろう。選挙区が大きければ大きいほど、そのような候補も当選がしやすくなり、無所属での立候補を実質的に可能にできると思われる。
「政党」というのは、國を治めてゆくことについて、同じ意見をもっている人があつまってこしらえた團体のことです。みなさんは、社会党、民主党、自由党、國民協同党、共産党などという名前を、きいているでしょう。これらはみな政党です。政党は、國会の議員だけでこしらえているものではありません。政党からでている議員は、政党をこしらえている人の一部だけです。ですから、一つの政党があるということは、國の中に、それと同じ意見をもった人が、そうとうおゝぜいいるということになるのです。
政党には、國を治めてゆくについてのきまった意見があって、これを國民に知らせています。國民の意見は、人によってずいぶんちがいますが、大きく分けてみると、この政党の意見のどれかになるのです。つまり政党は、國民ぜんたいが、國を治めてゆくについてもっている意見を、大きく色分けにしたものといってもよいのです。民主主義で國を治めてゆくには、國民ぜんたいが、みんな意見をはなしあって、きめてゆかなければなりません。政党がおたがいに國のことを議論しあうのはこのためです。
日本には、この政党というものについて、まちがった考えがありました。それは、政党というものは、なんだか、國の中で、じぶんの意見をいいはっているいけないものだというような見方です。これはたいへんなまちがいです。民主主義のやりかたは、國の仕事について、國民が、おゝいに意見をはなしあってきめなければならないのですから、政党が爭うのは、けっしてけんかではありません。民主主義でやれば、かならず政党というものができるのです。また、政党がいるのです。政党はいくつあってもよいのです。政党の数だけ、國民の意見が、大きく分かれていると思えばよいのです。ドイツやイタリアでは政党をむりに一つにまとめてしまい、また日本でも、政党をやめてしまったことがありました。その結果はどうなりましたか。國民の意見が自由にきかれなくなって、個人の権利がふみにじられ、とう/\おそろしい戰爭をはじめるようになったではありませんか。
國会の選挙のあるごとに、政党は、じぶんの團体から議員の候補者を出し、またじぶんの意見を國民に知らせて、國会でなるべくたくさんの議員をえようとします。衆議院は、参議院よりも大きな力をもっていますから、衆議院でいちばん多く議員を、じぶんの政党から出すことが必要です。それで衆議院の選挙は、政党にとっていちばん大事なことです。國民は、この政党の意見をよくしらべて、じぶんのよいと思う政党の候補者に投票すれば、じぶんの意見が、政党をとおして國会にとどくことになります。
どの政党にもはいっていない人が、候補者になっていることもあります。國民は、このような候補者に投票することも、もちろん自由です。しかし政党には、きまった意見があり、それは國民に知らせてありますから、政党の候補者に投票をしておけば、その人が國会に出たときに、どういう意見をのべ、どういうふうにはたらくかということが、はっきりきまっています。もし政党の候補者でない人に投票したときは、その人が國会に出たとき、どういうようにはたらいてくれるかが、はっきりわからないふべんがあるのです。このようにして、選挙ごとに、衆議院に多くの議員をとった政党の意見で、國の仕事をやってゆくことになります。これは、いいかえれば、國民ぜんたいの中で、多いほうの意見で、國を治めてゆくことでもあります。
みなさん、國民は、政党のことをよく知らなければなりません。じぶんのすきな政党にはいり、またじぶんたちですきな政党をつくるのは、國民の自由で、憲法は、これを「基本的人権」としてみとめています。だれもこれをさまたげることはできません。
いずれにしても、大変含蓄のある文章である。特に後ろから二番目のパラグラフは、複雑な現代社会を考える上で、財界や官僚に支配されずに政治を行う上で重要な視点を提供しているのではないだろうか。
「動機」「目的」ってなんだ?
大学院に入ったばかりの院生によくある風景。研究室のゼミだと思ってください。
新米とそうでない人の間で話が通じない、ってのはよくあることです。大学院生にとっては通過儀礼みたいなもんですね。
「著者(あなた)が~したのはなんで?」という質問は、日常会話とは違って、普通はこの研究をする意味は社会/学問/コミュニティにとってどういう意味があるのかを問うものなんですよね。「気持ち」はどうでもいい。小さいころから疑問で疑問で仕方なくって、必死に勉強して大学院に入ってやっとこさそのテーマに取り組めた…なんてのは、他人にはどうでもいい話なわけです。そんなことより、それは人に聞かせる意味のある話なのか、それともそんなマニアックな話なら自分一人で勝手にやっててくれ、というものなのか、それを見極める方がずっと重要なわけ。だから、論文の「イントロ」ってのは重要で、「この論文はこの分野でこういう重要な位置付けがなされるべきものだ、だからあなたにとってこの論文は御利益がありますよ!!読んでね!!」というのを訴える場でもあるわけです。
「その2」についても同様で、たとえば「○○が完全な球だと仮定する」とか「△△は一様であると仮定する」なんて文章があった時に、そうしたい「気持ち」なんてのはどうでもよくて、球や一様だとすることに合理的な意味があるのか、よくわからんけどとりあえず第一歩として単純化した、ってことなのか、そういうことを聴衆は知りたいのです。
なんでまたこんな話を書いたかと言うと、最近(に限りませんけど)、ニセ科学を批判する目的はなんなんだ、みたいな話を目にすることが多いのですよね。で、「オマエラの正義を振り回すな!!」とか言われることもあるんだけど、それは物凄い違和感を感じるわけです。
個人的な動機はいろいろあるでしょう。私もたまに書くこともあります。もちろん私に限らず、ニセ科学批判にコミットしている人は、時折そういうエントリを書かれることがあります。書く理由ももちろん様々なんでしょうけれども、実は、それはニセ科学批判が持つ「意味」とはなんの関係もないのですよね。本人が正義感からやっていようが、嗤いたいからやっていようが、はっきり言えばどうでもいい。いやもちろん、一人の人間として見たときにどうよ?ってのはありますし、文脈によってはそっちの方がずっと重要という場合もありますけれども、しかしニセ科学を批判することの意味や目的はなんだ、と問う時に、個人的な動機をあれこれ言うことにはなんの意味もない。
その批判は的確か、とか、その批判によってどういう効果があるのか、を問うことは重要ですよ。とっても。だけど、その時に個人的な動機を持ち出されても、ねえ。
科学が宗教や思想と決定的に異なるのは、客観的に検証が可能か、というところです(検証というものをどう捉えるか、ということになると哲学の領域に入っていき、そこでは科学も相対化されある種の思想の一つとなりますのが、そこはおいといて)。科学で検証可能なとき、ある主張が正しいか間違ってるかに民主主義も義理も慈悲もありません。自然は人間と独立に「ただある」のみ、です(繰り返しますが、その「正しさ」を確定するプロセスのややこしい話はおいておきます)。
ニセ科学ってのは、そういう客観的に検証可能なものを含んでいるのであって、ということは、少なくともその部分を問うのに個人的な動機を持ち出すのは本来はおかしな話なわけです。もちろんその背後にある「思想」についてだって、論じる時は論理的に論じなきゃいけないわけだから、動機が出てくるのはおかしいわけですが。
もう一点。目的にも色々あるわけです。「○○を解明することは、△△や□□や××にとって有意義だろう」みたいなことはざらにある。水伝を批判することは、結晶の成長についての正しい知識を伝える意味もあるし、結晶成長の面白さ・重要さを伝える意味もあるし、「言語とは何か」「美醜とは何か」といった問題意識を伝える意味もあるし、さらに生き方を問う意味だってある。ある批判が、そのうちの一部にしか意味がなくったって、一部にあれば大いに意味がある(まあ他の部分でデメリットが大きかったら困るのですが)。
さらに、それぞれの意味の階層がまた大きく違う場合だってよくある。ニセ科学なんてのはまさにそうで、「正しいか間違ってるか」が問える部分もあれば、個々人の価値観に大いに依存していてなかなか問えない部分もある。このとき、批判の目的はどっちなんだ、という問には意味はなくて、答としては「どっちも」となるわけです(もちろん、どっちが主でどっちが従か、ってのは、場面場面で色々あります)。
もちろん、上で述べたように、そういう感覚は大学院レベルで実地で鍛えられるもので、それが一般的だと言うつもりは毛頭ない。それはごく一部の人にとって必要な discipline であって、一般に必要な常識とは違うでしょう。だから、ニセ科学に対する批判にたいし、素朴な違和感の表明として動機を持ち出される分には、「うーん、ちょっと違うんだけど、まあしょうがないか」と(私は)思います。それに、そう思うからこそ、個人的な動機も表明したりするわけです。ブログは論文じゃないし、広い層に伝えたいし。ただやはり、きっちり議論するとなると、そこは要求せざるを得ないかなあ…と悩ましいところです。
「一般」という言葉を出してしまったので、ついでに。
「一般の人」にとって必要な(科学的)常識…って、ものすごい難しい問題だと思うわけです。filinionさんのエントリ に対するブクマコメント にも書いたことですが。だってさ、「一般の人」を問題にするってことは、言ってしまえば学校教育で何を教えるべきか、という問題ですよね。小中学校で(場合によっては高校まで入れてもいいのかもしれませんが)。で、学校で何を教えるべきか、ってのについては、学習指導要領ってやつがあるわけです。これも散々バトルがあってわけわからんものが出てきたりするわけですが、しかし発達段階を考慮しつつ何をどう教えるか、ってのは、それはもはや教育学の大問題ですよね。それだけでも、そんな簡単に答が出るものではないということは想像がつくでしょう。
filinionさんの歯切れが悪いのは当たり前で、こんな大変な問題に対して「~をやればいい」とか「~があればいい」なんて簡単に言えないですよね。
私だってそれなりに考えはするんですが、しかし答は出ない。確かに、必要そうなキーワードは思いつく。「最低限必要な知識はあるだろう」とか、「知識だけじゃなくて批判的・論理的な思考が大切だよな」とか。でも、「じゃあそれで悪徳商法から身を守れるのか」と言えばNo。それに、「最低限」をどこに設定するかというのがそもそも問題だし、批判的な思考っつったっていつもいつも誰でもできるわけじゃない。自分の分野について見れば、高校レベルを最低限、ということにしたいけれども、自分を省みるに分野外のことについてもすべて高校レベルをマスターしているかと問われれば、「すんませんっ!!」としか言えないです。
じゃあ知識や思考はどうでもいいのかと言えばそうではない。小学校レベルのことがきちんと理解されているだけでも大いに助かるわけです。
そういうわけで、「一般に必要な素養」(知識も含めてより広いものを指したかったので「素養」としていますが)がなにか、ってのは、「どうしても必要なもの」「なるべくあった方がいいもの」「なくてもなんとかなるけどあった方がいいもの」というようにグラデーションがあって、しかも「どうしても必要なもの」ってのがなかなか見出せないのですよね。それは「必要な素養」が必要とされる状況があまりにも多岐にわたっているから。ある状況のクラス(たとえば悪徳商法にはまらない、とか)では、どうしても必要な知識はコレだ、と言えるかもしれない。でも、それが必要でない場合だって思いついちゃうわけで。
A, B, C と三つの事象があった時に、A∩B≠φ, B∩C≠φ, C∩A≠φ,だけど A∩(B∩C)=φ, なんて場合もあるでしょう。抽象的?A=悪徳商法、B=カルト宗教、C=ニセ医療(ホメオパシーとか予防接種反対論とか)とでもしてみましょうか。悪徳商法とカルト宗教、のように、二つについて共通のものをくくり出すことはできても、全部に共通のものをくくり出すのは難しかったりします(あ…この例だとあるかも^^;;)。だけどまあ全部に共通はしなくても、結構広い範囲で共通のものはありそうな気はする。だから、全部にとって必要、という発想だと、たぶん答はでなくて、一通り学んだときに、全部に対抗できるような素養が獲得できていればいい…というふうに考えていくことが必要なんでしょうね。おそらく。
***
どーでもいいのですが、300からブクマのついているエントリに、一番でブクマをつけられるとなんか嬉しいですね。「おお、見る目あるじゃん、自分」みたいな。でも、単に夜更かししてただけなんだよな。(^^;;
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ああ、またダラダラと長文を書いてしまった。^^;;
前半と後半でエントリ分けるべきだったかもしれん。が、まあいいや(すんません)。
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誤植コッソリ修正。あーハズカシ。^^;;;;
(論文紹介編その1)
聴衆: …で、なんでまた著者はそんなこと調べようと思ったの?
院生: え?さあ~、本人じゃないのでわかりません…
聴衆: いやいや、イントロに書いてあるでしょ?
(論文紹介編その2)
聴衆: なんでそういう仮定をしたの?
院生: さあ~、したかったんじゃないですか?
聴衆: なんでしたかったのさ?
院生: 本人じゃないからわかりません…
聴衆: それ説明できなかったら紹介する意味ないでしょ!!
(研究発表編)
聴衆: …で、結局なにが面白いの?
院生: え?なにがって言われても、面白いと思ったんですが…なんかこういうの好きだし…
聴衆: いやいや、あなたの個人的な興味とか動機なんか聞いてないよ、どういう意味があるのさ?
院生: …
聴衆: だから、それを調べると、一体どういういいことがあるのさ?
院生: いいことって言われても、特に役に立つような話でもないし…
聴衆: え?だったらわざわざゼミで発表なんかするなよ、自分で一人でやってろよ!
院生: えー?だけど、これがわかったら、○○を理解する手がかりになると思うんですけど…
聴衆: それを説明してくれって言ってんの!!
新米とそうでない人の間で話が通じない、ってのはよくあることです。大学院生にとっては通過儀礼みたいなもんですね。
「著者(あなた)が~したのはなんで?」という質問は、日常会話とは違って、普通はこの研究をする意味は社会/学問/コミュニティにとってどういう意味があるのかを問うものなんですよね。「気持ち」はどうでもいい。小さいころから疑問で疑問で仕方なくって、必死に勉強して大学院に入ってやっとこさそのテーマに取り組めた…なんてのは、他人にはどうでもいい話なわけです。そんなことより、それは人に聞かせる意味のある話なのか、それともそんなマニアックな話なら自分一人で勝手にやっててくれ、というものなのか、それを見極める方がずっと重要なわけ。だから、論文の「イントロ」ってのは重要で、「この論文はこの分野でこういう重要な位置付けがなされるべきものだ、だからあなたにとってこの論文は御利益がありますよ!!読んでね!!」というのを訴える場でもあるわけです。
「その2」についても同様で、たとえば「○○が完全な球だと仮定する」とか「△△は一様であると仮定する」なんて文章があった時に、そうしたい「気持ち」なんてのはどうでもよくて、球や一様だとすることに合理的な意味があるのか、よくわからんけどとりあえず第一歩として単純化した、ってことなのか、そういうことを聴衆は知りたいのです。
なんでまたこんな話を書いたかと言うと、最近(に限りませんけど)、ニセ科学を批判する目的はなんなんだ、みたいな話を目にすることが多いのですよね。で、「オマエラの正義を振り回すな!!」とか言われることもあるんだけど、それは物凄い違和感を感じるわけです。
個人的な動機はいろいろあるでしょう。私もたまに書くこともあります。もちろん私に限らず、ニセ科学批判にコミットしている人は、時折そういうエントリを書かれることがあります。書く理由ももちろん様々なんでしょうけれども、実は、それはニセ科学批判が持つ「意味」とはなんの関係もないのですよね。本人が正義感からやっていようが、嗤いたいからやっていようが、はっきり言えばどうでもいい。いやもちろん、一人の人間として見たときにどうよ?ってのはありますし、文脈によってはそっちの方がずっと重要という場合もありますけれども、しかしニセ科学を批判することの意味や目的はなんだ、と問う時に、個人的な動機をあれこれ言うことにはなんの意味もない。
その批判は的確か、とか、その批判によってどういう効果があるのか、を問うことは重要ですよ。とっても。だけど、その時に個人的な動機を持ち出されても、ねえ。
科学が宗教や思想と決定的に異なるのは、客観的に検証が可能か、というところです(検証というものをどう捉えるか、ということになると哲学の領域に入っていき、そこでは科学も相対化されある種の思想の一つとなりますのが、そこはおいといて)。科学で検証可能なとき、ある主張が正しいか間違ってるかに民主主義も義理も慈悲もありません。自然は人間と独立に「ただある」のみ、です(繰り返しますが、その「正しさ」を確定するプロセスのややこしい話はおいておきます)。
ニセ科学ってのは、そういう客観的に検証可能なものを含んでいるのであって、ということは、少なくともその部分を問うのに個人的な動機を持ち出すのは本来はおかしな話なわけです。もちろんその背後にある「思想」についてだって、論じる時は論理的に論じなきゃいけないわけだから、動機が出てくるのはおかしいわけですが。
もう一点。目的にも色々あるわけです。「○○を解明することは、△△や□□や××にとって有意義だろう」みたいなことはざらにある。水伝を批判することは、結晶の成長についての正しい知識を伝える意味もあるし、結晶成長の面白さ・重要さを伝える意味もあるし、「言語とは何か」「美醜とは何か」といった問題意識を伝える意味もあるし、さらに生き方を問う意味だってある。ある批判が、そのうちの一部にしか意味がなくったって、一部にあれば大いに意味がある(まあ他の部分でデメリットが大きかったら困るのですが)。
さらに、それぞれの意味の階層がまた大きく違う場合だってよくある。ニセ科学なんてのはまさにそうで、「正しいか間違ってるか」が問える部分もあれば、個々人の価値観に大いに依存していてなかなか問えない部分もある。このとき、批判の目的はどっちなんだ、という問には意味はなくて、答としては「どっちも」となるわけです(もちろん、どっちが主でどっちが従か、ってのは、場面場面で色々あります)。
もちろん、上で述べたように、そういう感覚は大学院レベルで実地で鍛えられるもので、それが一般的だと言うつもりは毛頭ない。それはごく一部の人にとって必要な discipline であって、一般に必要な常識とは違うでしょう。だから、ニセ科学に対する批判にたいし、素朴な違和感の表明として動機を持ち出される分には、「うーん、ちょっと違うんだけど、まあしょうがないか」と(私は)思います。それに、そう思うからこそ、個人的な動機も表明したりするわけです。ブログは論文じゃないし、広い層に伝えたいし。ただやはり、きっちり議論するとなると、そこは要求せざるを得ないかなあ…と悩ましいところです。
「一般」という言葉を出してしまったので、ついでに。
「一般の人」にとって必要な(科学的)常識…って、ものすごい難しい問題だと思うわけです。filinionさんのエントリ に対するブクマコメント にも書いたことですが。だってさ、「一般の人」を問題にするってことは、言ってしまえば学校教育で何を教えるべきか、という問題ですよね。小中学校で(場合によっては高校まで入れてもいいのかもしれませんが)。で、学校で何を教えるべきか、ってのについては、学習指導要領ってやつがあるわけです。これも散々バトルがあってわけわからんものが出てきたりするわけですが、しかし発達段階を考慮しつつ何をどう教えるか、ってのは、それはもはや教育学の大問題ですよね。それだけでも、そんな簡単に答が出るものではないということは想像がつくでしょう。
filinionさんの歯切れが悪いのは当たり前で、こんな大変な問題に対して「~をやればいい」とか「~があればいい」なんて簡単に言えないですよね。
私だってそれなりに考えはするんですが、しかし答は出ない。確かに、必要そうなキーワードは思いつく。「最低限必要な知識はあるだろう」とか、「知識だけじゃなくて批判的・論理的な思考が大切だよな」とか。でも、「じゃあそれで悪徳商法から身を守れるのか」と言えばNo。それに、「最低限」をどこに設定するかというのがそもそも問題だし、批判的な思考っつったっていつもいつも誰でもできるわけじゃない。自分の分野について見れば、高校レベルを最低限、ということにしたいけれども、自分を省みるに分野外のことについてもすべて高校レベルをマスターしているかと問われれば、「すんませんっ!!」としか言えないです。
じゃあ知識や思考はどうでもいいのかと言えばそうではない。小学校レベルのことがきちんと理解されているだけでも大いに助かるわけです。
そういうわけで、「一般に必要な素養」(知識も含めてより広いものを指したかったので「素養」としていますが)がなにか、ってのは、「どうしても必要なもの」「なるべくあった方がいいもの」「なくてもなんとかなるけどあった方がいいもの」というようにグラデーションがあって、しかも「どうしても必要なもの」ってのがなかなか見出せないのですよね。それは「必要な素養」が必要とされる状況があまりにも多岐にわたっているから。ある状況のクラス(たとえば悪徳商法にはまらない、とか)では、どうしても必要な知識はコレだ、と言えるかもしれない。でも、それが必要でない場合だって思いついちゃうわけで。
A, B, C と三つの事象があった時に、A∩B≠φ, B∩C≠φ, C∩A≠φ,だけど A∩(B∩C)=φ, なんて場合もあるでしょう。抽象的?A=悪徳商法、B=カルト宗教、C=ニセ医療(ホメオパシーとか予防接種反対論とか)とでもしてみましょうか。悪徳商法とカルト宗教、のように、二つについて共通のものをくくり出すことはできても、全部に共通のものをくくり出すのは難しかったりします(あ…この例だとあるかも^^;;)。だけどまあ全部に共通はしなくても、結構広い範囲で共通のものはありそうな気はする。だから、全部にとって必要、という発想だと、たぶん答はでなくて、一通り学んだときに、全部に対抗できるような素養が獲得できていればいい…というふうに考えていくことが必要なんでしょうね。おそらく。
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どーでもいいのですが、300からブクマのついているエントリに、一番でブクマをつけられるとなんか嬉しいですね。「おお、見る目あるじゃん、自分」みたいな。でも、単に夜更かししてただけなんだよな。(^^;;
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ああ、またダラダラと長文を書いてしまった。^^;;
前半と後半でエントリ分けるべきだったかもしれん。が、まあいいや(すんません)。
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誤植コッソリ修正。あーハズカシ。^^;;;;