政党と選挙
押し入れを漁っていたら、たまたま昔勉強した『比例代表制 国際比較にもとづく提案』(西平重喜、中公新書)が出てきた。この本、1981年出版なので、各国の制度の説明という点では既に古いのだが、選挙制度の原理をとてもわかりやすく説明している。私は名著だと思っているのだが、いま amazon で見たら、どうも絶版のようですね。ぜひ再版してほしいなあ。あ、ちなみに私は出版のずっと後に、古本で買って読みました。
著者は、本のタイトルからも明らかなように、比例代表制を主張している。実際に、試案もこの本の中で提出されているのだが、それは読んでいただくとして、ここでは著者の基本的なスタンスが窺える部分を引用しておこう。直前に、日本の中選挙区制、イギリスの小選挙区制、フランスの小選挙区二回投票制、西ドイツの併用制、イタリアの二段式比例代表制について、メリット・デメリットと考えられるものを列挙。前章までに、それぞれの詳細な分析が既にされている。
というわけで、私の考えは、いままでいくつかのエントリで表明してきたように、引用した部分の言葉を借りるなら「議会全体を国民の意見の縮図にしようという考え方」である。そのために比例代表制が良いと考えるのであって、大政党に有利だとか小政党に不利だとか、そういうことではない。
もう一箇所引用しておこう。それは「並立制」についてコメントしてある部分である。韓国の第三共和制(1963-71)で採用されていた並立制の分析をもとに述べたものだ。
最後に「政党」というものをどう考えるか、ということについて。ここでは、戦後間もなく子ども向けに発刊された『あたらしい憲法のはなし』(文部省)から引用しておく。ここでは、「政党」が独自に一章設けられ、丁寧に説明されている。
文部省『あたらしい憲法のはなし』より
いずれにしても、大変含蓄のある文章である。特に後ろから二番目のパラグラフは、複雑な現代社会を考える上で、財界や官僚に支配されずに政治を行う上で重要な視点を提供しているのではないだろうか。
著者は、本のタイトルからも明らかなように、比例代表制を主張している。実際に、試案もこの本の中で提出されているのだが、それは読んでいただくとして、ここでは著者の基本的なスタンスが窺える部分を引用しておこう。直前に、日本の中選挙区制、イギリスの小選挙区制、フランスの小選挙区二回投票制、西ドイツの併用制、イタリアの二段式比例代表制について、メリット・デメリットと考えられるものを列挙。前章までに、それぞれの詳細な分析が既にされている。
以上のように、どの方法も長所もあれば欠点もある。だから欠点のない方法、欠点の少ない方法を推賞しようというわけにはいかない。議会というものがどうあるべきか、ということをはっきりさせ、それにそった方法をとらざるを得ない。日本、イギリス、フランスの多数制というのは、各地(選挙区)の代表者をもって、議会を形成しようという考え方である。これに対して、西ドイツやイタリアの比例代表制は、議会全体を国民の意見の縮図にしようというわけである。今日ではすでに地域差が縮まり、地域の利害を争う時代ではなく、国会は国民全体の調和をはかるべきものだと考えれば、比例代表制をとらざるを得ないのではないだろうか。議会のあるべき姿、というのはアプリオリに決まるものではなく、その国の国民がどういう役割を議会に付与したいかに左右される。無論、付与したい役割を実現する制度にただちになるかといえば必ずしもそうではなく、そこに様々な思惑が絡み、結果的に国民の望む姿とはかけ離れたものになることはしばしばあろう。とはいえそこは論理である程度カタが付く問題であって、まずは議会とはどうあるべきかを考えることが重要であろう。
(p.146-147、太字は引用者による)
というわけで、私の考えは、いままでいくつかのエントリで表明してきたように、引用した部分の言葉を借りるなら「議会全体を国民の意見の縮図にしようという考え方」である。そのために比例代表制が良いと考えるのであって、大政党に有利だとか小政党に不利だとか、そういうことではない。
もう一箇所引用しておこう。それは「並立制」についてコメントしてある部分である。韓国の第三共和制(1963-71)で採用されていた並立制の分析をもとに述べたものだ。
とにかくこの結果からみて、並立制というのは、小政党を救済することにならないことが明らかである。とくに多数の議席を小選挙区で選び、少数を比例代表で選ぶ方法は、見切りをつけた方がよいのではないだろうか。このような並立制を望む人なら、むしろ小選挙区制で全議席を選ぶことを主張すべきだろう。つまり、並立制というのは、比例代表を導入していることから見掛け上少数意見も救い上げる制度のように見えるが、実態はそんなものではない、ということである。少数意見を本気で救い上げるなら比例代表(選挙区はなるべく大きく)にしなければならず、そうでなければ、並立制は小選挙区制の危険性を糊塗するものでしかない、と言ってもいいかもしれない(著者はそこまでは言ってないが)。
最後に「政党」というものをどう考えるか、ということについて。ここでは、戦後間もなく子ども向けに発刊された『あたらしい憲法のはなし』(文部省)から引用しておく。ここでは、「政党」が独自に一章設けられ、丁寧に説明されている。
文部省『あたらしい憲法のはなし』より
九 政党ちなみに比例代表制でも政党要件によっては個人党を作って立候補が可能であろう。選挙区が大きければ大きいほど、そのような候補も当選がしやすくなり、無所属での立候補を実質的に可能にできると思われる。
「政党」というのは、國を治めてゆくことについて、同じ意見をもっている人があつまってこしらえた團体のことです。みなさんは、社会党、民主党、自由党、國民協同党、共産党などという名前を、きいているでしょう。これらはみな政党です。政党は、國会の議員だけでこしらえているものではありません。政党からでている議員は、政党をこしらえている人の一部だけです。ですから、一つの政党があるということは、國の中に、それと同じ意見をもった人が、そうとうおゝぜいいるということになるのです。
政党には、國を治めてゆくについてのきまった意見があって、これを國民に知らせています。國民の意見は、人によってずいぶんちがいますが、大きく分けてみると、この政党の意見のどれかになるのです。つまり政党は、國民ぜんたいが、國を治めてゆくについてもっている意見を、大きく色分けにしたものといってもよいのです。民主主義で國を治めてゆくには、國民ぜんたいが、みんな意見をはなしあって、きめてゆかなければなりません。政党がおたがいに國のことを議論しあうのはこのためです。
日本には、この政党というものについて、まちがった考えがありました。それは、政党というものは、なんだか、國の中で、じぶんの意見をいいはっているいけないものだというような見方です。これはたいへんなまちがいです。民主主義のやりかたは、國の仕事について、國民が、おゝいに意見をはなしあってきめなければならないのですから、政党が爭うのは、けっしてけんかではありません。民主主義でやれば、かならず政党というものができるのです。また、政党がいるのです。政党はいくつあってもよいのです。政党の数だけ、國民の意見が、大きく分かれていると思えばよいのです。ドイツやイタリアでは政党をむりに一つにまとめてしまい、また日本でも、政党をやめてしまったことがありました。その結果はどうなりましたか。國民の意見が自由にきかれなくなって、個人の権利がふみにじられ、とう/\おそろしい戰爭をはじめるようになったではありませんか。
國会の選挙のあるごとに、政党は、じぶんの團体から議員の候補者を出し、またじぶんの意見を國民に知らせて、國会でなるべくたくさんの議員をえようとします。衆議院は、参議院よりも大きな力をもっていますから、衆議院でいちばん多く議員を、じぶんの政党から出すことが必要です。それで衆議院の選挙は、政党にとっていちばん大事なことです。國民は、この政党の意見をよくしらべて、じぶんのよいと思う政党の候補者に投票すれば、じぶんの意見が、政党をとおして國会にとどくことになります。
どの政党にもはいっていない人が、候補者になっていることもあります。國民は、このような候補者に投票することも、もちろん自由です。しかし政党には、きまった意見があり、それは國民に知らせてありますから、政党の候補者に投票をしておけば、その人が國会に出たときに、どういう意見をのべ、どういうふうにはたらくかということが、はっきりきまっています。もし政党の候補者でない人に投票したときは、その人が國会に出たとき、どういうようにはたらいてくれるかが、はっきりわからないふべんがあるのです。このようにして、選挙ごとに、衆議院に多くの議員をとった政党の意見で、國の仕事をやってゆくことになります。これは、いいかえれば、國民ぜんたいの中で、多いほうの意見で、國を治めてゆくことでもあります。
みなさん、國民は、政党のことをよく知らなければなりません。じぶんのすきな政党にはいり、またじぶんたちですきな政党をつくるのは、國民の自由で、憲法は、これを「基本的人権」としてみとめています。だれもこれをさまたげることはできません。
いずれにしても、大変含蓄のある文章である。特に後ろから二番目のパラグラフは、複雑な現代社会を考える上で、財界や官僚に支配されずに政治を行う上で重要な視点を提供しているのではないだろうか。