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急行越前のブログ

日々の生活で感じた事や趣味の事を書き綴っています。
不定期更新ですが、お時間があったらご笑覧ください。

想い出の電気機関車が廃車になった事を知った。


新婚旅行で長崎に行った時、寝台特急「あかつき」に乗った。その時牽引していたED76-94が、廃車になってしまったようだ。当時、寝台特急「あかつき」も、まさか一年後に廃止になるとは夢にも思わなかった。「あかつき」や「さくら」が廃止になり、ED76の仕事もなくなってしまったのか。とても残念である。

私は、子どもの頃から関東で育ったので、周りは殆ど直流区間で、青い電気機関車しか見たことが無かった。九州に行って、赤い電気機関車を見たとき、すごく感動した。寝台特急のブルーの車体と、電気機関車の真っ赤な色が、鮮やかなコントラストを放ち、私の眼を釘付けにした。「この列車が、東京から長崎まで走ってくるんだ」と考えただけで、背筋がゾクゾクした。

残念ながら、もうその列車は無い。随分前に廃止になってしまった。それに伴って、電気機関車も余剰になり、廃車が進んでいるということだろうか。

形あるもの、いつかは壊れる。盛者必衰という言葉もある。いつまでも元気で走り続けてくれるわけではない。でも、想い出が少しずつ消えていくのは、とても寂しい物である。

せめて、どこかの公園か博物館に、保存することはできないのだろうか。


2007年 4月 長崎駅にて撮影
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小説家は偉大である。


1つ、新しい話を作って小説にするのであれば、たいていの人にできると思う。しかし、それを何作も作ることが出来る人が一体どれくらいいるだろうか。

小説家は、常に新しい作品を生み出している。今までに自分で書いた小説と異なるストーリーである事はもちろん、他の作家も書いたことが無いストーリーを書かなければならない。しかも、誰にでも思いつくような話ではなく、想定外の話をである。

私は、読書が大好きで、電車に乗ると本をよく読む。大好きな旅行で、大好きな列車に乗って、それでも本を読みたくなる。小説であったり、歴史物であったり、紀行文であったり、ミステリーであったり、音楽関連であったり、ジャンルは実にさまざまだが、列車内で読むと不思議と頭によく入る。国家試験の勉強なども、電車の中で勉強しただけで合格できた。

それはともかく、小説家はどうしてあんなに色々な奇想天外なストーリーを思いつくのだろうか。しかも、次々に新作が発表され、その度に1つ題材が使えなくなる。まるで、トランプの神経衰弱をしているかのように、残りのカードはどんどん減っていく。でも、なぜか枯渇することが無い。日本中に、いや世界中に、多くの小説家がいて、それでもネタ切れが無いのはなぜなのか。

その理由がわかれば、私もベストセラー作家になれるのかもしれない。それがわからないので、私は凡人の道を歩んでいくしかない。


どなたか、ネタ帳をお持ちの方、いませんか?

世の中には、時間の使い方の達人がいる。


私の大好きなオーボエ奏者の茂木大輔さん(NHK交響楽団首席オーボエ奏者)は、模型道にも造詣が深い。本業のN響だけでも大変なのに、指揮活動や執筆活動、大学での講義、映画やドラマの監修等、幅広く活躍されている。にもかかわらず、趣味の模型がとても充実しており、本物かと見まがうほどの完成度の高さに驚嘆する。一体、どうやって模型を製作する時間を捻出されるのだろう。


世の中は一般的に、忙しい人ほど、時間にゆとりを感じられる。要は時間の使い方が上手なのだ。

私の親友は、外科医で夜昼無く勤務していて、常に非常に多忙な状態にあるが、私の友人の誰よりもメールの返信が早い。パソコンメールなのに、場合によっては、1時間以内に返信が来る事もある。しかし、彼は大病院の救急救命センターの責任者であり、常にパソコンの前に座っている仕事ではない。そして、誰が見ても多忙である。それなのに、メールの返信はとびっきり早い。

一方、いつも割りと暇そうな会社員の友人がいる。この人は、実に返事が遅い。2週間程度で返って来れば早い方だ。

自営業で、時間が自由になる友人に至っては、メールしても殆どの場合返信が無い。電話してみると、「あれ?メール来てたっけ?」という始末である。


茂木さんや外科医の友人の例を見る限り、「忙しい人→時間を上手に使っている→仕事が出来る人」、という図式が成り立つようだ。「忙しくてメールを書いている暇も無い。」という人は、「私は仕事が出来ません。」と自白している様なものなのか。


私は、メールの返信は、できるだけ早くする事にしよう。



最近、鉄の道はレトロブームである。


蒸気機関車の復活運転は、まさにレトロな物への憧れだろう。

私は、蒸気機関車が全国に活躍していた頃の事を知らない。40代半ばの私がそうなのだから、多分40代より下の方たちはみなそうだろう。だから、何となく新しいアトラクションのような感じでSL列車に乗る。

客車も、旧型客車を使っているとなお良い。古い客車は独特の匂いがある。匂いも、レトロな雰囲気を出す為に重要な要素だ。最近の新型車両に乗ると、独特の匂いがする。新車の香りである。これはこれで良い。

しかし、レトロな物には長い時間を経て来た独特の貫禄がある。いぶし銀のような、渋い尊さである。

親の世代でさえ、蒸気機関車を知らないのだから、現代の子ども達にとってはまさに遊園地のアトラクションである。でも、彼らが嬉々としてSL列車に乗り込む様子を見ていると、古い物を捨て去ってしまっていた「古い時代」は過ぎ去り、古い物を大事にする「新しい時代」になったのかなと、少し安堵する。

イギリスには昔から保存鉄道という考え方がある。伝統の国、イギリスらしい古い物を大切にする文化である。日本も、2000年以上の歴史がある伝統の国なのだから、誇りをもって古い物を大切にしていきたい。

大井川鉄道のように、全線・全車が保存鉄道のような会社もある。昭和40年代に、保存鉄道という形に踏み切った社長の英断は素晴らしい。

旧山陰本線のように、観光鉄道として再生をかけている所があるのも素晴らしい。

でも、碓氷峠のように重要な鉄道遺産が埋もれつつあるところも多い。

観光資源として活用すれば、新しい資源になる。

今なら間に合う。でも、今でなければ間に合わない。


今こそ、過去の大事な遺産であり、観光資源である鉄道を、大事に守っていこう。

D51-498と旧型客車の編成 2012年4月 撮影
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新幹線の原型を守り続けた200系が引退する。


私が高校生の頃、東北・上越新幹線が開通した。それまでは、新幹線と言えば東海道・山陽新幹線しかなかったが、初めて東北と上越に新幹線が走った。諸事情があり大宮暫定開業という形ではあったが、東海道の0系によく似た、いかにも新幹線という形の200系が、東北・上越を走るインパクトは大きかった。

当時は、停車パターンは2種類位しかなく、速達タイプ(ひかりタイプ)と各駅タイプ(こだまタイプ)だけだった。座席はリクライニングし、前にはテーブルが付き、0系より豪華な印象だったが、回転しないタイプだった為、車両の半分から後ろの人は後ろ向きのまま走った 。これが非常に不評であった。

でも、0系の座席はリクライニングしなかったから、当時としては画期的であったと思う。しかも、雪に弱い新幹線と言われた時代に、豪雪の中、雪をかき分けて200キロで疾走した功績は大きい。

ビュフェも連結していた。車窓を楽しみながら、カレーなどの軽食を味わうことが出来た。当時、在来線の食堂車は減少の一途を辿っていたので、ビュフェの価値は非常に高かった。

今は、東海道・山陽新幹線でさえ、食堂車は連結していないし、在来線の昼行列車の食堂車は皆無である。だから、上越新幹線のように乗車時間が短い列車にも、ちゃんとビュフェを連結していたのは、今では考えられないサービスであり、「古き良き時代」なのかもしれない。


上越新幹線に最後まで残った200系がついに勇退する。

私は、この古参の名優に、惜しみない拍手を送りたい。


デビュー当時の200系新幹線 1982年11月撮影
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かつて、東京~長崎間を24時間かけて走る急行「雲仙」という列車があった。


さだまさしさんは、中学生の頃から故郷の長崎を離れ、一人東京でバイオリンの修行をしていた。そこで、長い休みになると急行「雲仙」を使って帰省していた。しかしある時、実家の経済状況が悪かったのか、いつまで経っても帰省費用送られて来なかった。さだ少年は、せめて故郷の空気だけでも味わいたいと、毎日東京駅まで行き、急行「雲仙」を見送った。
そしてある時、こらえ切れずに乗ってしまった事があった。「次の駅で降りて戻ればいい。」そう思って空いていた座席に座っていると、意外にも早く車掌さんが検札に周ってきた。困ったさだ少年は、とっさに切符と財布をなくしてしまったと嘘をついてしまった。
すると、驚くべき事に向かいに座っていた大学生のお兄さんが、「僕も長崎まで行くから、切符代を立て替えてあげるよ。」と言ってお金を出してくれた。しかも、食事時になると毎回駅弁を買ってきて、食べさせてくれた。さらに、長崎駅に着くと家の場所を聞き、路面電車の運賃まで出してくれた。
さだ少年が、突然実家に現れたときの家族の驚きは言うまでもない。訳を知ったお母さんは親戚中かけ回ってお金を工面し、大学生のお兄さんの家までお礼に行った。
親切とはこういうものだと思う。見返りなんて期待していない、本当の思いやりである。

人を信じるとはこういうことだと思う。見ず知らずの少年を、同郷と言うだけで絶対的に信頼してくれる。

なんて心が広い人なのだろうと思う。この大学生のお兄さんは、おそらく現在60代半ばを過ぎて、素敵な熟年のおじさんになっていることだろう。


人はこれを、古き良き時代と言うのだろうか。

でも、私は今でもこんな素敵な人がたくさんいるに違いないと信じている。

そして、自分もそういう人になりたいと心から思う。

東北の方たちは、本当に勤勉で努力家だと思う。


2年前の震災で、被災した地域の人達は、未だかつて無い苦難を強いられた。その惨状が世界中に報道され、世界中から暖かい支援をいただいた。本当にありがたい事だと思う。

いつもは、必ずしも外交が円滑に行っていない国からも、心からの支援をいただいた。本当にありがたい事だと思う。

そして、世界中が感心し、感動したのは、それを受けた東北の方たちの規律や礼儀の正しさである。

みな、少しでも早く物資を受け取りたいのに、きちんと順番を守って列に並ぶ規律の正しさ、コンビニやスーパーが襲撃される事なく、みな順法的に行動する紳士的態度、自分を犠牲にしても人を助けようとする道徳心の強さ。

すべてが、お金に換えられない宝である。

私は、同じ日本人として生まれ、本当に誇らしいと思う。


私は以前何度か東北を旅行した。夜行列車で夜が白々と明け始めた車窓には、既に黙々と田畑で働く、勤勉な東北の農家の方たちが見えた。車内では、もうすぐ故郷に降り立つ為の準備をしている人たちが、別れ際に暖かい言葉をかけて降りていく。

本当に勤勉で努力家で、忍耐強く、しかも心が暖かい人達だと思った。


自分が同じ立場になったとき、同じように行動できただろうか?

同じように、紳士的な態度で、忍耐強く、努力できただろうか?

私には、出来なかったと思う。

自分にはできないことをやり遂げた人を、人は心から尊敬する。


私は、東北の方たちを心から尊敬している。

夜汽車という言葉が死語になってしまうのではなかと案じている。


かつて、高速道路が整備されてなく、飛行機はべらぼうに高かった頃、鉄道は庶民がもっともよく選択する移動の手段だった。当時、新幹線は殆どなく、長距離の移動と言えば夜行列車、すなわち夜汽車が当たり前だった。しかし、車で長距離がたやすく移動できるようになり、飛行機の価格破壊が起こり、新幹線が青森から鹿児島まで開通した現在、夜行列車に乗るのは物好きと思われるような風潮になってしまった。


私は、何が何でも夜行列車が良いという訳ではない。私とて、出張には飛行機や新幹線を使う。しかし、旅行とは日常生活を離れて、時間を贅沢に使う事だと思っているので、できるだけ飛行機や新幹線は使わない。なぜなら、飛行機や新幹線は旅情に乏しいからだ。

夜行列車に乗っていると、隣り合った人との会話が生まれ、お互いの連帯感が生まれる。昔の「向こう三軒両隣」という様な関係である。最近は近所付き合いも煩わしいと言う人も多い。しかし、それこそが日本の昔からある「お互い様」という文化であり、世界に誇れる素晴らしい事だと思う。夜行列車は、まさにその縮図であり、色々な人生を歩んでいる人が隣り合わせている。


20年くらい昔、私と友人が男2人で寝台列車に乗ると、若いお母さんと息子さん、それにお母さんの妹さんの3人が同じ寝台に乗っていた。見送りに来た御祖父さんらしき男性が、私達に向かって、「女二人と子どもで乗ります。よろしくお願いします。」と挨拶した。僕達は、「御安心ください。」と答えた。これが、正に「お互い様」の文化である。

幼い息子さんは鉄道好きらしく、新幹線のおもちゃを大事そうに持っていた。私が、「新幹線、好き?」と聞くと、にっこりわらって頷いた。お母さんがお手洗いに行く時など、「すみませんがお願いします。」と私達に声をかけて行く。そうすれば、お母さんは安心して行けるだろう。そうでないと、駅に停まった時など、ホームに降りてしまうかもしれないし、心配でおちおちトイレにも行けないだろう。

私達は独身男二人の気ままな旅行だったが、そんな私たちが少しはお役に立てて嬉しかった。


最近の列車でも、こんなふれあいがあるのだろうか。あの時、新幹線をもって嬉々としていた少年は、もう25~6歳になっているだろう。お父さんになっているかもしれない。

彼が、幼い頃、お母さんと叔母さんと、寝台特急で旅した事を覚えているだろうか。

今でも鉄道好きで、子どもをつれて鉄道で旅してくれていたらいいと思う。


袖振り合うも他生の縁という。これも美しい日本の文化である。


「僕の音楽武者修行」という本を書いた方を御存知だろうか。

かの、指揮者:小澤征爾さんである。

小澤さんは20代のとき、貨物船に乗せてもらって渡欧し、いきなりブザンソン国際指揮者コンクールという世界的なコンクールで優勝し、その後、カラヤンやバーンスタイン、ミュンシュといった、巨匠指揮者に次々に師事した。
指揮者としてのキャリアは、名門ニューヨークフィルの副指揮者に始まり、トロント交響楽団やサンフランシスコ交響楽団の音楽監督を経て、名門ボストン交響楽団の音楽監督に就任したのが35歳の時。その後30年近くボストンのシェフを務め、その後ウィーン国立歌劇場の音楽監督へと華麗なる転身をする。
凄過ぎる。カッコよすぎる。尊敬せずには居られない。


でも、この輝かしいキャリアの裏には、小澤さんの血のにじむ様な努力と苦労が隠れている。小澤さんは、とにかく努力家である。しかも、苦労をいとわない。
極東の島国日本に生まれ、およそ西洋音楽と縁の無い文化に育った彼が、生まれた時から西洋音楽を聴いている音楽の都ウィーンの、しかも世界屈指と言われる歌劇場の音楽監督に就任するということが、いかにすごい事であるかは想像を絶する。


しかも、彼はこれを実験と言う。西洋音楽になじみの無い日本人が、音楽の本場でどこまでやっていけるか、彼は実験しているのだと。
そして、まだ実験の結果は出ていないと彼は言う。
でも、私が言うのもなんだが、この実験、大大大大成功だと思う。


そんな謙虚な小澤さんを、私は心から尊敬している。

さださんはおそらく多くの人に誤解されている。


私は、30年来のさだファンである。

だから、あえて言いたい。さださんは、多くの人に誤解されていると思う。

それは、「さだまさしは暗い」という先入観。

でも、さださんのTV番組やコンサートで、さださんに触れた方の殆どは直ぐに誤解に気付く。

私も、高校生のころ偶然聴いた深夜放送で、「この面白いお笑い芸人の人は一体誰だろう?」と思い、よく聴いてみたら、なんとさだまさしさんであった。

精霊流し、無縁坂、縁切り寺・・・。彼の初期のヒット曲を聴けば、暗いと言う印象を持ってしまうのは致し方ないかもしれない。しかし、明るい歌も結構多く作っている。しかし、大ヒットしてしまうのはなぜは暗い歌。

それはつまり、さださんが暗いのではなく、暗い歌を好んで買うファンが暗いのではないか?

そう。もしかするとファンは結構暗いのかもしれない。

あっ、じゃあ私もか・・・。


確かに、コンサートに行っても全員総立ちになるような事は全くないし、みな終始大人しく拝聴している。中には涙ぐんでいる方さえ居る。それは、さながら法要を営む教祖様の様でもある。

しかし、曲の間のトークでは、大爆笑の連続で、これはお笑いライブだったのかと勘違いする人も3人くらいは居そうである。曲の間のトークが、ライブCDで発売されるシンガーソングライターも珍しい。

毎日の生活の中で、誰もが色々なストレスを感じ、それを抱えて生きている。そんな中で、さださんのコンサートで大爆笑し、さださんの歌で大泣きする事で、新しい元気を貰っている人が多いだろう。

つまり、さださんのコンサートに行く時は心が沈んでいても、帰りは元気になって勇気をもらって帰ってくる。さださんの歌は、みんなに元気と勇気を与えてくれる。


もうすぐ、さださんのコンサートは通算4000回目を迎える。日本人アーチストとしては初の快挙である。

しかし、さださんはその回数を特に気にしていない。1回、1回のコンサートを、その日が最後だと思って、誠心誠意一生懸命に歌う。その、愚直までに真摯な態度に、私は感動して元気と勇気をもらう。


私は、さだまさしさんを心から尊敬している。