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急行越前のブログ

日々の生活で感じた事や趣味の事を書き綴っています。
不定期更新ですが、お時間があったらご笑覧ください。

今年も桜が咲いた。


当たり前の事なのだけれど、この季節になるとよく忘れずに咲くものだと感心する。認知症になった父は、今の季節が何なのかもわからない。今日は寒いから冬だとか、今日は暑いから夏だとか、毎日季節が変わる。それなのに、もっとずっと年上の桜の木は、毎年間違わずに同じ時期に花を咲かせる。私にとっては驚くべき事である。

20代の頃までは、桜が咲いても特に何も感じなかった。30代になって、桜の花の美しさと儚さに心を打たれるようになった。40代になって、桜の木は良く季節を間違えないものだと感心する様になった。

あと何回、この桜の花を愛でる事が出来るのだろうか。母は、6年前に亡くなった。6年前、この桜が咲いたのを母と見たとき、来年は母は見れないのだろうかと思ったら、とても悲しくなった。母は、それから半年後に他界した。

私は、一人っ子で長男である責任と、故人の伴侶である父が認知症である事から、喪主の仕事をはじめ、全てを取り仕切らなければならなかったので、悲しんでいる余裕は無かった。「泣いてはならない」というのは、母からの遺言でもあった。

この季節、桜の花を見る度にその事を思い出す。


さだまさしさんの曲で「桜散る」という歌がある。

切ない歌だが、この季節になると聴きたくなる。


2013年4月 撮影
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今、JR九州が熱い。


国鉄分割民営化後、JR各社がオリジナリティを出してきた。中でも、経営的に苦しいJR九州・JR北海道・JR四国は、目覚しい企業努力をしている。JR東海やJR東日本が、夜行列車などの非採算部門を容赦なく切り捨て、新幹線で荒稼ぎしているのと比べると、JR九州はなんと誠実な企業だろうと思う。

私が、初めて九州の鉄道に乗ったのはJR発足間もない88年の春だった。当時は、国鉄時代の経営方針により、古い車両は地方へという差別的な車両配置により、九州には古い車両が集まっていた。私が乗った特急「にちりん」「有明」「かもめ」と言った車両も、昔、北陸線や東北線で走っていたと思われる、ボンネットや貫通型が中心の485系だった。一部は、481系も混じっていたかもしれない。ある意味、現在の大井川鉄道のような、保存鉄道的な価値があったかもしれないが、地元の方にとっては迷惑な事だったと思う。

博多から長崎に向かう特急「かもめ」は、キイキイ、ギシギシと音を立てながら、老体に鞭打って走った。リクライニングなんて縁の無い、固定式シートである。でも、窓から見える有明海の景色は素晴らしかった。車窓に広がるみかん畑も、関東から行った私にとっては珍しい光景だった。車窓は最高、車両はイマイチであった。

いま、JR九州が新しい寝台列車を計画している。今までに無い、新しいコンセプト。ただ、残念な事に九州内だけの走行で、関東や関西には着てくれないらしい。どうせ寝台列車を走らせるなら、東京発にしてもらえないだろうか?それには、JR東日本、JR東海、JR西日本の協力が不可欠になる。どう見ても無理そうだ。JR西日本は協力してくれるかもしれないが、JR東日本とJR東海は無理そうだ。

なので、それは無理にしても、JR九州には是非、これからも頑張って欲しい。


鉄道の復権、寝台列車の復権は、JR九州から。


特急「にちりん」 博多駅にて 1988年3月撮影
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特急「かもめ」 長崎駅にて 1988年3月撮影
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私はブラームスが好きである。


昔の映画で、「ブラームスはお好き?暗いのね。」というセリフがあったらしい。ブラームスは暗いと思っている人が居るかもしれないが、私は「暗い」のではなく「渋い」のだと思う。日本人は渋いのものが好きである。緑茶は「渋い」の代表格だし、日本の伝統文化である焼き物や漆器も渋くて良い物が多い。

私は典型的な日本人なので、渋いのが好きなのかもしれない。物心付いた頃から緑茶をすすり、大人たちから驚かれた。親戚の家に行くと、子どもたちはジュースを貰うが、私だけは大人と一緒に緑茶を飲んでいた。

さて、ブラームスはどこが渋いのか、言葉で説明するのは難しい。しかし、音楽を聴いてみると、わかる方にはわかっていただけるのではないかと思う。モーツアルトのように、滑らかに滑るように音楽が進んでいかない。どこか、引っかかるような渋さを持ちながら、重厚な音色で音楽が進んでいく。この渋さが心地良い。渋くて動きが遅くなった次の瞬間、するっと滑って音楽が流れる。これは、ストレスと発散を繰り返すような、絶妙なもったいぶり方である。音楽は、時として不安定な部分があり、次の瞬間安定した部分に達するから、人は病みつきになるのだという。モーツアルトの曲も、ベートーベンの曲も、基本的にこの方針に変わりは無い。

でも、ブラームスの渋さはこれとは違う。どう表現したらいいのか、凡人の私には説明できない。やはり聞いてもらうしかない。


是非ブラームスの交響曲をお聴きください。

時刻表にも愛読者はいる。


宮脇俊三先生が、「時刻表2万キロ」の冒頭に書いた名言である。

なんと、一言にして上手い掴みだろうか。この書き出しを見て、読んでみようと思った人がたくさんいるはずだ。そして、デビュー作にして見事に大ヒットした。

私も時刻表の愛読者であった。「であった」と言うのは、最近は愛読者では無いと思う。かつての時刻表は、改正の度に目を見張るようなトピックがあって、ページをめくるのがとても楽しみだった。しかし、近年の時刻表は全く面白みが無い。「改正」ではなく、「改悪」なのではないかと思うことがある程だ。

宮脇先生も、年々つまらなくなっていく時刻表を憂いていた。でも、時刻表製作者の名誉のため言って置くが、これは時刻表の編集者のせいではない。走らせる側のJRの責任である。

新幹線という採算至上主義の列車を毎回増発し、夜行列車という庶民的で趣のある便利な乗り物を毎回消していく。もう、20年近く続けられている改悪である。しかし、そのために愛読者が減る時刻表は気の毒である。まさか、面白くする為に、勝手にブルートレインを大増発する訳にはいかないし、夜行の快速を臨時で書き足すわけにも行かない。「これはつまらない」とわかっていながら、それを事実のままに出版しなければならない辛さを思うと、胸が痛くなる。

私が中学生ごろの時刻表を開いてみる。東京から九州方面に、多数の寝台特急列車が運転されている。関西から九州へも、たくさんの寝台特急の設定がある。東北方面も、上野~青森間の寝台特急「ゆうづる」が7往復も設定されている。そして、青函連絡船に接続し、函館から道内各都市へ向かう列車が接続してる。それはもう、芸術品の様な、高度なパズルの様な、美しく緻密な職人芸である。

JRは時刻表愛読者を増やす努力はしないのだろうか。かつて、「いい旅チャレンジ2万キロ」というキャンペーンがあった。国鉄が真剣に、時刻表愛読者を増やし、列車に乗ってもらおうと努力していた時代である。当時に比べ、利用者は圧倒的に増えている事だろう。でも、時刻表愛読者は確実に減っていると思う。ファンを大事にしないものは、いつか必ず報復を受ける。


早くJRに気付いて欲しい。

かつて「ながさき」という普通列車があった。


今では考えられないかもしれないが、門司港~博多~長崎間を夜行で走る普通列車で、B寝台をつないでいた。普通列車なのに、「ながさき」という立派な名前も付いていた。そのまま走ると終着駅に早く着き過ぎるせいか、長崎本線を直行せず、肥前山口から佐世保線に入り、早岐経由で大村線を周って、長崎に向かっていた。諫早から先も、長与周りという念の入れ様である。鉄道に興味のない方にはわかりにくいと思うが、とにかく回り道をしてゆっくり走っていたのだ。

この「ながさき」に連結されていたオハネ12という寝台客車は、この列車の廃止と共に使命を終えて廃車された。もう二度と見ることは出来ないと思っていた。しかし、ある時思いがけないことがあった。鉄道ジャーナルで、種村直樹さんがレポートしていた「ながさき」のオハネ12-29という車番を見てどこかで見たような・・・と思ったのだ。もしかして・・と思い、鉄道文化村で撮影したオハネ12の写真を確認すると、オハネ12-29であった。それは、横川の鉄道文化村の展示車両として生き延びていたのだった。思いもよらずに出会えて、とても驚き、感動した。

神様が与えてくださった不思議な偶然。

先のブログでコメントしてくださった方と、私が長崎に行ったのが、偶然にも同じ年の同じ月。そして、子どもの頃、全く別の場所で、同じ列車を見て憧れていた同好の志。これも、神様が与えてくださった不思議な偶然。


私はこれをあえて「ながさき」ミラクルと呼びたい。


鉄道文化村にて オハネ12-29

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私は晴れ男だと思っていた。


旅行に行くと、たいていの場合天気が良く、傘を持たずに観光できる。ありがたい事である。日ごろの行いが格別良い訳ではない。晴れ男なのかもしれないと思う。

でも、ここだけは違うという場所が1つだけある。長崎である。

私は、長崎は憧れの地で、いつ行ってもとても幸せな気持ちになる。駅に着くと、それだけで気持ちがわくわくする。でも、残念なことに行く時は殆ど雨になる。修学旅行で初めて行った長崎は土砂降りだった。学生時代、2度目に行った長崎も雨模様だった。3回目、社会人になってから行った長崎でも雨に降られた。4回目、新婚旅行で行った長崎も初日は大雨だった。ここまで書くと、毎回雨に降られている事に驚く。

それでは、長崎は歌のように雨が多いのだろうか?統計上からは、他の地域に比べて雨が多いというデータは無い。でも、なぜか、私は北海道や東北、四国や山陽、山陰と、各地を旅した中で、ほとんどが晴天であったにもかかわらず、長崎だけは雨・雨・雨・・・。

九州でも、阿蘇や宮崎、鹿児島、大分など、各地に何度も訪れているが、雨に降られた経験は殆ど無い。なぜ、長崎ばかりが雨なのだろう。

でも、よく考えてみると、長崎ほど雨の似合う場所は少ないだろう。オランダ坂や、グラバー園、浦上天主堂や大浦天主堂など、雨がなんと似合う事か。もちろん、晴れた長崎もとても良い。私とて、滞在中ずっと雨という事は殆ど無く、滞在中に大抵は晴れて来ている。そこで、雨に濡れた石畳がまた、とても素晴らしいのだ。

もしかすると、神様が私に美しい長崎を見せるために、わざと雨を降らしてくださっているのかもしれない。そう考えると、とてもありがたい。旅行好きの私に、一番綺麗な景色を見せてくださっているのである。そう考える私が、晴れ男なのかもしれない。


私は、一生、晴れ男でありたい。


三角屋根が懐かしい長崎駅 1983年3月 撮影

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私は日本の風景が好きだ。


特に、郊外の風景が好きだ。

出来れば、田舎の方が良い。

更に、秘境に近ければなお良い。


初めて降り立った駅が、駅前に何も無く、ホームと駅舎だけの駅だとする。いかにも旅情をかき立てられる、まるで青春18切符のポスターの様ではないか。心が開放され、ストレスがすっと消えていく様な気がする。深呼吸したくなる風景である。

もし、初めて降り立った駅が、駅前にビルが乱立する大きな駅で、通勤電車が頻繁に発着する駅だとしよう。そこに風情を感じるだろうか?少なくとも私は、出張で降り立った時を思い出してしまう。そこには、こころの安らぎを感じ得ない。悲しい事に、これから戦場に向かう、ビジネスマンモードに入ってしまう。

それでは、初めて降り立った駅が、郊外の駅だったらどうだろうか?駅前にビルはないが、住宅や商店があったり、場合によっては古い神社があったりする。これはこれで、何となくいい雰囲気である。でも、住宅地や商店街があると、何となく生活感が呼び戻され、家に帰る様な雰囲気になってしまう。旅情とはちょっと違うのではないか。

それはともかく、模型はそれを疑似体験するのに良いと思う。日ごろ、仕事から帰ってそのまま旅行に行く事はできないから、ちょっと1時間だけ海辺に行った擬似体験をする。山にハイキングに行く疑似体験をする。神社やお寺、教会に足を運ぶ疑似体験をするのも良いだろう。

旅は、日常生活を離れたところに行けば行くほど、ストレスを解消し、心が軽くなるという。


そうだ、旅に出よう。

今夜はどこに出かけようか。


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最近、CKYという言葉をよく耳にする。


最近の若者は空気が読めないという言葉をよく聴く。確かに、そう感じる事も無くは無い。では、中高年の方はどうだろうか?中高年の方でも、CKYの方は結構多いと思う。

こんな事があった。私が電車に乗っていて、駅に着いたので降りようとした時、突然私の前に立ちはだかるようにしておばさんの集団が割り込んできた。「ここで降りるのよ!」と指示している。しかも、もうドアが開いているのに、「お世話になりました。お元気で。また旅行に行きましょう。」などど、別れの挨拶をしている。その駅での停車時間は僅かである。ドアが閉まってしまうのではないかとヒヤヒヤする。後から来た高校生も困った顔である。

礼儀を重んじるのはとても大事な事である。しかし、それならば駅に着く少し前から、きちんと準備をして挨拶しておくべきであろう。話に夢中になっていて降りる駅に気付かず、慌てて他の乗客は無視して割り込み、ゆっくり挨拶をしてから降りる。これが、長年の人生を生き抜いてきたベテランのご婦人のする事だろうか?

業を煮やして、高校生の男子生徒がおばさんたちの隙間を通って降りた。「なに?あの子ったら。親の顔が見てみたいわ。」おばさん達は口々に非難する。


私は、あなたたちの親の顔は見たくない。

連絡船という言葉には、旅情をかき立てる響きがある。


かつて、青函連絡船は4時間弱の時間をかけて、本州と北海道を結んでいた。それは、決して飛行機が無かった時代ではなく、ジャンボジェットが東京~千歳間を1時間半で結んでいた時代の事である。

私が初めて北海道の地を踏んだのは、今から25年くらい前の事になる。学生最後の夏に北海道を旅行しようと、周遊券1枚持って上野から夜行列車に乗った。当時、上野~青森間には、定期で急行「八甲田」と「津軽」、それに臨時で急行「十和田」と「八甲田81号」があった。古き良き時代である。

私は、定期列車で最速の「八甲田」を選んだ。それでも、上野から青森まで12時間かかる。当時の「八甲田」は非常に混んでいて、上野発の時点で自由席は満席で、デッキには立ち客もいた。青森まで12時間、デッキで立ちんぼの覚悟をした強者達である。

夜の9時に上野を出た急行「八甲田」は翌朝9時過ぎに青森に着いた。初めて降り立った青森駅のホームを、進行方向に向かって急ぎ足で歩く。乗客はみな、連絡船への連絡通路を足早に進み、大きな連絡船に飲み込まれていく。既に当時は、連絡船に乗り切れないほどの乗客ではなかったが、それでも積み残しになったら大変と、つい皆急ぎ足になる。

私が乗ったのは「八甲田丸」であった。急行「八甲田」から「八甲田丸」に乗り継ぐとは、何となく気分が良い。船内は、先発の臨時便がほぼ満員で出航たおかげで、とても空いていた。桟敷席も非常に空いていて、横になれる程だった。出航すると、津軽半島と下北半島が行く手を阻み、その間をすり抜けるようにして連絡船は海峡に出る。海は凪いでいて、とても快適なクルージングだった。レストラン「海峡」で遅めの朝食をたっぷりいただき、甲板で海をしばし見た後、桟敷席に帰ってゴロンと横になっていると、昨夜の寝不足のせいで直ぐに眠りに落ちた。

「まもなく、函館港に入港します。」というアナウンスで急いで起きると、目の前には大きな函館山がそびえ、北海道についた事を告げていた。

初めて見る北海道の大地に、背筋がゾクゾクするほど感動した。


連絡船の最後の夏であった。


八甲田丸(青森港にて) 2001年8月 撮影
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模型とは一つの情景描写の形だと思う。


自分の好きな情景を絵に描く人、詩にする人、歌にする人などいろいろいるが、模型もその一つだと思う。自分が子どもの頃に見た懐かしい情景や、家族で旅行に行った楽しい思い出、学生時代の甘酸っぱい思い出など様々な自分の思い入れのある情景を再現してみたいというのが、模型道の原点である気がする。

私は、子どもの頃の旅への憧れから、鉄道に興味を持ち、やがてその情景を再現したいと思った。それが、模型を始めた原点であると思う。

人それぞれの想い出の情景は違うし、憧れの風景も違う。海が好きな人も居れば、山が好きな人もいる。都会の情景が好きな人もいれば、田舎の情景が好きな人もいる。それぞれの好みで、それぞれの憧れで、模型の情景は多種多様に変化する。

私は、子どもの頃から、海無し県で育ったので、海へ憧れが大きい。模型には、ぜひとも海岸線の風景を取り入れたい。でも、峠を越えていく列車や、トンネルや鉄橋を渡る列車も捨てがたい。都会の中を走る通勤電車も、生活感がって良いし、路面電車も良い。時代の最先端の新幹線もかっこいいし、箱根登山鉄道や江ノ電も趣があって良い。日本の風景には神社やお寺は必須だし、教会も欲しい。鉄筋コンクリートの学校や、木造校舎の分校も欲しい。病院や消防署、警察署は必須だろう。町には商店街が欲しいし、マンションや住宅、銭湯や工場も無くてはならない。

しかし、そんな自分の憧れの情景を入れていくと、とんでもないごちゃ混ぜの情景が出来上がってしまう。これは困った。そんなにたくさんの景色は作れないだろう。

それでも、できるだけいろいろな盛りだくさんの景色を取り入れたい。


結果としてわかったことがひとつある。

これを実現するためには、体育館位の広さの部屋が必要である。


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