・『西欧文明主義』と『国学』 その奇妙な狭間で

 

 

『朝鮮要覧 1973』 現代朝鮮研究会著 時事通信社より 

 

去年にわたって、本書をもとに幾多のシリーズ記事を書かせていただきましたが、それぞれの『歴史問題』を考える前に、あらためて「近現代史の大まかな流れ」を概説していこうと思います。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その18(日韓併合は朝鮮人の「希望」だったのか)

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編1(その歴史と38度線)‐

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編14(朝鮮戦争が遂に勃発す)‐

 

近代から現代にかけて、朝鮮人にとって二つの歴然たる苦悩の谷間があった。

 

すなわち一九一〇年の“合併”から、一九四五年の解放に至る谷間。もう一つは、朝鮮半島を二分する「三十八度線」が基因となった“朝鮮戦争”以後の陰湿な谷間である。

 

ここに書かれたものは、この二つの歪められた谷間での、紆余曲折にして怪奇の事象なのである。

 

これらの原稿は過去五年間に書いたものであるが、その一編ずつを執筆する間中、たえず私の脳中に雲のように漂っては消え、そしてしみじみと考えさせられ、探索への食指が動いたのは次のような諸点であった。

 

(1)「文明」と「歴史」とは何か。

 

(2)現代の「遺産」について。

 

(3)「太平洋戦争」と「朝鮮戦争」の谷間に生きる━その実態。

 

(4)歴史と民族における中毒性と余病について。

 

(5)「日本および日本人」の性格形成の史的要素は何か。

 

(6)朝鮮史への反省。

 

いわば本書に掲げる“日朝関係の視角”の基底なのである。

 

いまさらに文明とは何か、歴史とは何か━を問うのは、それが正常性を欠き、変態的なものにして、不信感を抱くからである。われわれ人間が「文明」の社会を欲し、ヨル人間らしく培養されてきたのは事実である。だが「文明」そのものには“天国から地獄まで”の顔と“文明のなかの野蛮”の顔があるのを知っている。

 

文明は不幸にして本来指向の本業よりも、周辺への弱肉強食という副業に猛威をふるった。

 

またそれは文明人による文明の独占と、他地域人をして野蛮と奴隷を強要する道具であったし、他民族の制圧と侵食の技術だった。英仏の印度大陸侵食と、清国への阿片戦争の吹っかけは東洋的先鞭であろう。

 

一九世紀の半ばまで「日本」も「朝鮮」も鎖国政策によって閉ざされていたが、日本はペリー黒船来航と強談判に刺激されて、ひとあし先に“文明導入”に歩み出した。

 

明治日本の文明導入は、東漸する西欧勢力への対抗と国防意識もあるが、それはアメリカ流の二挺拳銃の早射ち業のように、先に巨砲大艦で武装して、近隣の“文明開化”を封じることであった。

 

明治初期の先覚者・福沢諭吉は「文明」を説くために『学問のすすめ』『文明論之概略』を書いたのだが、かの「征韓論」で名高い西郷隆盛は、福沢の所を“国防論”と見なして熊本の党徒に勧めたくらいである。

 

かくて日本と朝鮮は、一面では“どん栗の背くらべ”の間柄にあったのが「近代」という大気圏への突入段階で・・・・・・ひとあしの遅れが、あたかも数十年の遅れの差をつけられ、「合併」という不運の谷間へ陥ったのである。

 

これが、日本と朝鮮にもたらした“近代文明”の罪科のはじまりである。

 

ここで私には、「日本および日本人の性格形成の史的要因」の究明欲と「朝鮮史への反省」が始まる。二〇〇〇年の文化において朝鮮半島は日本とは比べものにならないほどの伝統と先進の地位にあった。が、かの李朝は三網五倫を金科玉条に固守し、己れの道徳思想に酔ってアグラをかき、西欧文物を侮蔑し排斥した。

 

だが、日本は伝統の道徳のヒモがなかったことが幸いして、西欧の新文物の導入に敏感であった。この点を、われわれはよくよく吟味すべきときである。

 

私たちには、先輩や年輩からの文化継承の遺産は少ない。人によっては皆無の状態である。だが、われわれは一九四五年八月の民族独立への歓喜に浴した者として、なにがしかの“遺産”を残すべき義務があると思う。

 

それは埋もれていた「朝鮮」の文化や史実を伝えることである。

 

現代人の「遺産」というものは、世界の人間仲間に通用しうる、意義連関性と普遍性のあるものと考える。つまり、自己民族にとって真に価値あるものは他民族にとっても価値あるものである。

 

その反対に、自己の民衆に有毒有害な言行や政治は、近隣の民族に対しても危険極まる有毒なものである。したがって、自己民衆に恩恵となった思想は、近隣国家に対しても光を及ぼすものである。

 

かつて私たちの先輩は“民族解放”の処方を求めて日本へ留学し、それなりの思想を汲みとった。たとえば、古くは福沢諭吉にはじまり、吉野作造や河上肇その他の多くの学者や思想家から多くのものを学び、また援助も受けた。このように文化と思想上の「遺産」というのは、人間仲間の進歩性をめざし、真理への促進と共有性と、その授受と、普遍性が脈打つものと考えるのである。

 

とみに近年に反動政治<本書が書かれた1974年段階>が鎌首をもたげている段階では、連帯運動を通じていっそう頻繁になってきた感じである。

 

さきに述べたように、われわれの先輩は“第一の谷間”で喘ぎ、またわれわれは“第二の谷間”に住みついている。谷間に生きる者には、ある他者の足元がよく見えてくる。

 

われわれは、仮面紳士アメリカの本性を、ありありと見た。

 

一九四五年九月、米軍が南朝鮮に上陸したとき、民衆は涙を流して“解放軍”を出迎えた。が、四八年にアメリカ軍が撤退するとき、民衆は石を投げつけて唾を吐いた。

 

かれらの体質は、かれらの伝統劇の「西部劇」に登場するニセ紳士だったようである。

 

かの「朝鮮戦争」は、実質的に太平洋戦争の“延長戦”であり、さらに第二の延長戦は「ベトナム戦争」だった。太平洋戦場に落とされるべき爆弾が、解放民族の朝鮮やベトナムに落とされて一時は地獄と化したのだ。われわれは、この現代史を、よくよく噛みしめて、生きなければならない。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角』 金勉一著 ダイヤモンド社 255~259頁より

 

近代西洋の思想のなかで醸成された『文明主義』に基づく侵略論は、19世紀のドイツで隆盛したナショナリズム史観にもとづく(現象としてはそれ以前から存在していたが)。

 

その契機となった、ナポレオンの攻撃(1806年~1813年)により、神聖ローマ帝国は滅亡し、プロイセンは壊滅的打撃をうけ、先立つフランスに続き『国民意識』が芽生え、民族心祖国愛をかきたて、そのための「国史」が生まれた。

 

ランケはもとより、大学者ヘーゲル『歴史哲学講義(上下)』を紐解くに、見事なまでの『ユーロセントリズム』を体現し、元来のアウグスティヌスにおける『キリスト教直線史観(過去→現在→未来)』を土台に、歴史を“一本のコース”になぞらえ「古代オリエント→ギリシア→ローマ→キリスト教的ヨーロッパ→ゲルマン的近世・近代ヨーロッパ」として、歴史が「完成する」という観念論哲学者ならではの、アプリオリ(生得的)な『世界精神』という存在を定立して、これが上述のコースを辿ってゆき、近代ヨーロッパで華開くとして、眠れる理性の東洋世界から、それが目覚めた西洋世界への発展の現れこそが『歴史』だとしました。

 

本書を詳しく読むに、アジア(中国・インド)は“その範疇”に入っておりませんし、アフリカの記述凄まじいほどの差別意識が内包され、これとは別に『悪魔化されたモンゴル像』(彼らのトラウマ)も含め、“東洋に対する憎悪”欧米列強は養っていきました。

 

‐ネトウヨに国際問題を語らせるとロクな事がない(呆)‐

 

 

興亡の世界史09 『モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明著 講談社 38頁より

 

そうした「侵略思想」を本源とした近代ヨーロッパ文明を、自国の「成り上がり」のツールとして利用したのが、明治日本の支配者層(礼教思想を母体とした国学者)たちでした。

 

‐福沢諭吉の思想をたどる(日本軍国主義の淵源)‐

 

私自身も、幾多の古い書物を拝読させて頂くなかで、いかに『明治の元勲』知識人「欺瞞」を順に理解していく過程で、徐々にその時代の“実像”が見えてきました。

 

‐中国こそ現代の『周王』である 最終回(「北東アジアの民」の一人として)‐

 

福沢諭吉をはじめ、彼らの本質『儒教文化圏』由来の「発想」であり、彼らは表面上それらを嫌いつつも、その「民主主義」の捉え方は、礼教性に基づく『お上意識』からきた「デモクラシイ」であり、明治日本の“国体”を創始した人々の根幹を成しました。

 

誤解を避けるために、儒教の「退廃性」は礼教性にあったわけで、それ自体は時代の経過により「喪失」したり「変形」を遂げ、現在は、私たちの本質的感覚としての“宗教性”のみが残っている。

 

無論、当書の引用で見られる「私たちの先輩」の一人としての金玉均の扱いも酷かった。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐

 

常に朝鮮の利権を狙いつつ、賠償金を奪取せしめ、クーデター失敗で日本に亡命してきた彼らを『厄介者』扱いして、北海道から小笠原へと僻地に追いやった。また、福沢諭吉らの態度も、政府のそれと何ら変わらなかった。

 

自らの責任を棚に上げて、朝鮮の開化派に言いたい放題の悪口を浴びせるようになり、翌1885年には『脱亜論』を仕上げ、後々と露骨極まりない侵略主義を公然と煽り立てるようになる。

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合①)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合②)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合③) ‐

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合④)‐

 

私自身、当時を生きたことがないので、「個人レベルの親交」や「民族を超えた仲間」が存在したことを信じるが、決して『綺麗ごと』だけでは語れない複雑性や重層性が、その時代やこの先も受け継がれていくだろうと思うし、その“膨大さ”に圧殺されそうになりながらも、少しでも物事の本質は何かと、つたなきながらも模索を続けております。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角』 金勉一著 ダイヤモンド社

 

・興亡の世界史09 『モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明著 講談社 

 

 

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