シリーズ記事

 

‐中国こそ現代の『周王』である その1(拡大する漢字文明圏と『天下意識』)‐

 

‐中国こそ現代の『周王』である その2(天下の統一と『東アジア冊封体制』)‐

 

‐中国こそ現代の『周王』である その3(中華主義に恋い焦がれた日本)‐

 

‐中国こそ現代の『周王』である その4(朝鮮半島の中華主義① 高句麗の「特殊性」)‐

 

‐中国こそ現代の『周王』である その5(朝鮮半島の中華主義② 百済・新羅と「倭国」の関係)‐

 

‐中国こそ現代の『周王』である その6(「異民族」の中華主義)‐

 

‐中国こそ現代の『周王』である その7(社会を形作った中華思想)‐

 

 

・『礼儀』を忘れ 「夷」と化す現代日本

 

 

『儒教とは何か』 加地伸行著 中公新書 214頁より

 

先の記事で、江戸時代の日本の儒学者たち夷狄も礼儀もおさめれば華となり、華も礼儀がなくなれば夷と化すと述べたごとく、中華思想の『本貫』としての儒教思想については、人々の「教育」をつかさどり長らく北東アジア地域における「政治理念」や「社会経済」を動かす大本であったが、現代において、人々の奥底に深く沈殿する『宗教的本質』を残す存在となりました。

 

近代以後、この儒教に対する「批判」が、各所で巻き起こったが、結局は「礼教性への批判」であって、宗教性への批判ではなかったので、儒教に対する根本批判とはならなかった。

 

しかしながら、形式的には礼教性批判は功を奏し、礼教の大半は制度や慣行として行なわれており、それらは「時代の進展」と共に内容が遅れ、ズレてくる。その「ズレ」においての様々な矛盾や非現実的なことが当然出てきて、その点を突くことはたやすく、人々の共感も得やすい。

 

このようにして、魯迅ら中国近代の知識人たちの「急進的な儒教批判」は、その表面上では当たっていました。

 

なぜなら、彼らの儒教批判とは、儒教の「礼教性」への批判であったから、それらを基体とした清王朝(礼教性構造)と近代国家のありかたを比べると、そのズレはまことに大きく、近代中国の知識人たちは『国教としての儒教』を批判せざる得なかった。

 

無論、それはそれで正しかったのですが、儒教“本体”である『宗教性』の方を見落としていたので、幾度も述べるごとく「本質的な批判」ではなかったのです。反面、世の宗教者はこぞって「儒教の宗教性」を攻撃し、仏教しかり、キリスト教がそうであったように、いわゆる『祖先崇拝』や『招魂儀礼』への批判です。

 

しかし、後の中国仏教、そして中国仏教を経てきた日本仏教は、祖先崇拝を結局は「自分の側に取り込んで」融合してゆき、東北アジア人に受け入られる『土着の仏教』をこしらえていった。それは故地インドで生まれた仏教とは「異なるもの」であり、つまるところ、仏教は「儒教の宗教性」をついに批判しきることができなかった。もっともキリスト教は、祖霊信仰を含め、招魂儀礼そのものに対して「批判」をしており、たとえば、戦争で散華した英霊の憑りつく忠魂碑への『慰霊祭』を行なうことに向っての攻撃がそれです。

 

一方、国民に「主権がある」とする民主主義にもとづく現代国家となった今日においては、中国の科挙官僚や日本の武家行政家用に煮詰められ、その意識を引きずってきた礼教的儒教は、その一般性や組織においてほぼ完全に瓦解した。とりわけ日本の場合では、戦前のような『天皇への忠義』という「礼教的規範」は、見かけにおいては「消滅している」ように見える。

 

また、経済的には資本主義が現在のところ「主流」であり、商工業の発達した世界では『農本主義の儒教』は「その発言力」を奪われています。

 

すなわち、前近代の「かつての諸制度」と結びついていた儒教の「礼教性」の影響力を、直接的な形で見て取ることはできません。

 

それゆえ、以下のような発言も飛び交った。

 

「儒教文化の精神構造には、変革を通じて経済発展を促すような力はないと思います。たまたま、何らかの要因で、その邦が経済発展の枠の中にはまると、儒教の教えは、その国の経済成長を促進する役割を果たすわけです」(金子敬生・安本泰共編『東アジアの経済発展』三二〇ページの仁平耕一氏の発言・渓水社・一九九〇年)

 

『同』 加地伸行著 中公新書 222頁より

 

ひたすら本書が概説する通り、こうした発言は「儒教を粗大に捉えた典型」であり、儒教の礼教性は一般性や組織性としては確かに崩壊しましたが、「変形」したり、「部分的に残存」する上で、あるいは人々の意識の奥底に沈んでいるし、朱子学的論理性(順序を追って段階を踏んでものごとを因果律的に理解し解決する方法)をベースに、人工・人為的世界の重視(人間や環境を地的な社会性あるものとする)だったり、今の日本でも“主流”とされている「有能な行政官僚の指導」の重視階層の流動性の観念(その典型が科挙という試験の合格者の階層上昇。現代日本では学歴や各種試験の合格がそれに相当している)といったものが、『儒教文化の精神構造』として、私たちが暮らす“社会のシステム”として深く埋め込まれているのです。

 

しかし、それはあくまで傍系であり、儒教の“本体(宗教性)”ではありません。

 

これは現代もしぶとく生き残っており、すなわち『孝』であり、「祖先崇拝」「親への敬愛」「子孫の存在」という、三者を一つにした生命論としての孝、死の恐怖や不安からの解脱に至る『宗教的孝』です。

 

この孝は、日本では仏教が「吸収」し、家庭における仏壇は、実は仏教本来のものではなく儒教における廟・祠堂あるいは祖先堂(祖先の神主を祭る場所。みたまや)のミニチュアであり、仏壇の最奥上段に座します本尊を拝み、読経すること、これは仏教の習わしですが、本尊から一段下がった中段に並べられている祖先の位牌は、空中に浮かぶ祖先の霊魂を憑りつかせる神聖な存在であり、そこに祖霊を招き(思いを致し)慰霊をする。それは儒教です。

 

仏を崇める経文を読みつつ、一方でお香を焚いて、まごころ(誠)をこめて祖霊に祈るのは儒教の『招魂儀礼』であり、崇仏(仏教)と慰霊(儒教)の混淆、古来から日本人は仏壇を自分の家の『精神的拠りどころ』としてきましたが、儒仏を融合している中国人や朝鮮人もそうです。

 

さらに日本人は、お彼岸やお盆には祖先の墓参りをしますが、とりわけ『仏教』(遺骨を無意味な存在とする)においては、墓を建てることはもとより、墓参りなどありえないのに、日本人はそれを行ないます。ここでわかるように、墓参りは本来『儒教』の範疇であり、その日をお彼岸やお盆の日に選ぶのは日本仏教です。

 

儒教において墓参りをし、墓の掃除をするのは、清明節(春分の日からあとの十五日間)のときであり、彼岸や盆とは関係ありません。中国人は今もそうしていますが、こうした儒教と仏教お混合は、なにも日本人だけに限らず、中国人の場合は、儒教・仏教に加え道教までプラスされ、多神教の東北アジア人、神仏をいろいろとお祭りして平気な人種であり、現代では個人化による「稀薄」が幾分見られるものの、法事や墓参りをする家庭は多数であるし、それは台湾や朝鮮半島しかり、たとえば在日コリアン家庭において、命日正月(新旧いずれか)など、祖先の霊を祭る儀式の『祭祀(チェサ)』が代表例であり、完全な儒式の招魂儀礼が、現在もきちんと行われています。

 

‐2019年 新年のご挨拶(画像は友人のチェサより)‐

 

‐2020年 新年のご挨拶(画像は友人のチェサより)‐

 

つまり、儒教における宗教性が家庭において、ちゃんと生きており、ここのところが肝心であり、ここにこそ『儒教文化圏』が存在する根拠があります。家庭による精神的つながりを、各家庭において持っていること、それは家庭という空間を安定させるとともに、“過去(祖先)から未来(子孫)にかけての時間”という儒教風の「永遠」を求める意識を養っています。

 

そこから、現実の己の生死を越えて、広い世界を見る眼も生まれてきます。

 

常に、“常にいま自分とともにある家族という共同体と運命を共にする”というのが、『儒教文化圏の人々』の心情なのです。

 

つまるところ、それは“同じ文化を共有する国家同士”にも援用できよう。

 

また、儒教文化圏の人々には、キリスト教的な「一神教の恩寵を求める」他力的な発想はありません。また、仏教的な輪廻転生という発想もまた稀薄です(亡くなればみな『仏』となるから)。この現在、この現実を家族とともにどう生きてゆくのか、ということを懸命に考え行動する生活者が、儒教文化圏の人々なのです。

 

在日コリアンの友人の亡くなった母方の祖父さまが、生前おっしゃられていた事として「中国人は成功したら“家族全員を呼び寄せる”」としたように、一族としての結束がものすごく強固で、たとえ異国の地であろうと、他文化からどんな嫌がらせを受けようとも、決して滅びないし、それが現代中国の強靭さの源であると、私は今回の話と照らし合わせてつぶさに実感いたしました。

 

それを支えているのが、宗教的孝や、生命論としての孝であることは言うまでもありません。

 

先ほど述べたような、表面的な礼教性としての儒教は、社会や歴史の変化と連動して変りもし消えてもゆきますが、根底の宗教性については、東北アジア人の原感覚に基づいているのであるから、これは絶対に変らない。ましてやイデオロギーごときが動かせるものではない。

 

これらの本質的なベースをもとに、物事と接する中で、いらゆる「進歩的人士」が、相変わらず儒教の礼教性(これまでのそれは、もうすでに崩壊しているのに)を持ち出してきては、古い封建的なこのようなものの復活反対などと声高に叫ぶでしょうが、それは「無学にして無知な知識人」の所業であると、本書を通じて加地博士は綴っております。

 

大きな問題として、儒教における『死の捉え方』についてお話すると、死後、肉体は土に帰り、魂は肉体から抜け出て存在する観念は、非常に古くからあり、世界各地で見られることですが、この魂を現世に招いて再生させる招魂儀礼もまた古くから広く行われてきた。

 

いわゆる『祖先(祖霊)崇拝』はその典型であり、

 

儒教は、①一族が亡き祖霊を追慕して祭ること、すなわち招魂再生儀礼、②生きてある親につくすこと、③祖先以来の生命を伝えるため子孫を生むこと(人口の適切な増加を求める人口論もここに関わっている)、この三者をあわせて「孝」と称し、儒教理論の根本とした。

 

『同』 加地伸行著 中公新書 228~229頁より

 

とは、祖先という「過去」、親という「現在」、子孫という「未来」にわたって生命が連続することに基づく思想であり、“現在の親だけ”を対象とするものではありません。すると、祖霊は招魂儀礼によって、この懐かしい現世に再び帰ってくることができるし、逆に、現在の私たちを遠い過去にも生きていたことを知らしめる、重要な『契機』を生み出し、今私たちが存在すること、すなわち逆を言えば、祖先があるということは、私たちがたとえば百年前、あるいは千年前、さらには万年前に確実にどこかで固体として存在し生きていたことを意味します。

 

このように、儒教における『孝』とは、“生命の連続性”を主張する「生命論」なのです。

 

儒教は、中国・朝鮮、そして日本と、祖先崇拝を核とする儒教文化圏を作ってき、二千年以上にわたって政治や社会を動かしてきた。それを可能にしたのは、儒教理論の根本において孝という生命論があり、祖先崇拝の精神的紐帯とともに儒教文化圏の人々の感情をしっかと捉えてきたからである。

 

その影響は大きく、日本人の心に根深く生きている。

 

流行の新興宗教に共通する呪術的シャマニズム的傾向(とりついている悪霊を取り除くと称する徐冷行為など)は、儒教文化圏の日本人が古くから持ち続けている招魂儀礼・祖先崇拝の心情に巧みに乗ったものである。いや、歴史的には、仏教における祖先供養、あるいはさまざまな慰霊祭もまた儒教やその儀礼の影響の下にある。

 

<中略>

 

たとえば医学部で行われている丁重な慰霊祭(学生の解剖実習のためや、死因研究のため病理解剖に提供された遺体への慰霊祭。おそらく欧米にはない祭祀であろう)などが重要な意味をもってくるであろう。ところが、その慰霊祭において、まごころのこもった慰霊が行われていることを、一般の人はほとんど知らない。私は或るとき列席し、医師はもとより、看護婦ら医療関係者・医学部学生など大学病院の関係者の誠意には、本当に感動した。凡百の議論をするよりも、まごころのこもった慰霊祭の存在を示すことこそ東北アジア人の共感を呼び起こす最大の者であろう。

 

※<>は筆者註

 

『同』 加地伸行著 中公新書 230頁より

 

特に引用文の後半において、先の大戦で亡くなった方々に対する慰霊を、日本が北東アジア諸国の「すべて」に行えばものすごい国益に繋がると、本書を読んでとてもよく理解できるようになった。

 

さらに儒教は『教育』を重視します。

 

中国では儒教以外の思想も存在し、その代表が老荘思想であることは言うまでもありませんが、とりわけ『老子』では、子どもの無邪気さを最高の善とし、大人は虚飾をまとっているが、子どもにはそれがなく、自然そのものであると言う。

 

『老子』のこうした子ども観は、彼らの自然や無為の重視思想に基づいておりますが、老荘は、儒教が人工や人為を重視したことを「徹底的に批判」し、逆に自然を尊重した。

 

反面、儒教の立場では、自然的世界は「未開・野蛮なもの」であり、人間の手が加わった人工・人為的世界(すなわち礼儀の世界)こそがすぐれたものでした。ゆえに、人々が聖人が作った礼を「教」え、道徳による「感」化をしてゆき、その華やかな「文」の恩恵を与えてゆくこと、つまり『美化・感化・文化』してゆくことが大切である。と儒教は主張し、老荘思想は、儒教のもつ人工的性格、人為性を批判したからこそ、嬰児賛歌のような考え方を取るようになりました。

 

ゆえに儒教のもとでは、子どもは人工・人為的世界の恩恵を与えるべき存在として、具体的に言えば『教育の対象』として、自然のままの動物的状態から脱して、人間の作った文化を享受できる「社会性ある状態」に変えることを意味しました。紀元前6世紀ごろに儒教が成立して以来、一貫して「子どもの教育の必要性」が主張されてきたのは、このような理由があったからこそでした。

 

さらには、子どもに対する「しつけ」に関しても、『小学』では具体的にまとめられ、朝、ニワトリの声で起きると、洗顔・うがいをして衣服をあらため、寝床を整頓したのち、家の内外を掃除すること、外出のときは、親に必ず行き先を告げ、帰宅したら報告を欠かさない。年長者と同道するときは少し退いて歩くこと、など日常の作法について細かに述べ、社会的マナー、すなわち礼を子どもに教える。

 

このように、儒教が礼を教えることを第一にしたのは、中国社会の要求でもありました。

 

中国は秦の始皇帝以来、官僚機構が発達した中央集権国家でしたが、組織として整っていたのは、皇帝以下、県知事クラスくらいまでだった。それから下は、実際には地方の有力者や血のつながった者たちが集まった共同体が、自治的機能を果たしていた。これらの地縁・血縁共同体で、第一に尊重されたのは『慣習』でした。

 

慣習とは、言い換えれば礼(道徳)のことであり、中国人の圧倒的多数は農民であり、これらの共同体の基盤は農村にありました。

 

こうした理由から、農村における慣習としての礼について学習することが、中国の子どもにとって、なによりも大切なことでした。この礼を守ることがすなわち道徳を守ることであり、そうした慣習が現代にも残る「側面」は、今日の小中高における『生徒が義務としての掃除をすること』です。これは、おそらく儒教文化圏における学校のみでなかろうかと、『掃除』という習慣は、東北アジア人の労働観にもつながっています。

 

学校では、知識層(エリート)の子弟であろうと、庶民の子弟であろうと一緒になって平等に掃除(労働)をする。

 

インドのカースト制では、掃除は低い階層のすべきこととなって、東北アジア人にはそのような観念は少ない。だから、必要とあれば、みなが一致協力して掃除(労働)をします。

 

こうして、全員が同一作業(職種)をする意味で、現代の工場における共同作業や整理整頓、品質管理の厳密さは、おそらく同一線上において繋がっていると、加地氏はご指摘されます。

 

本来の儒教は、“努力すれば聖人(理想的人間)に必ずなれる”という『大原則』に沿って、朱子は聖人に至る過程を示します。

 

その過程は、全体的に言えば道徳的完成をめざすものですが、この途中で『格物致知』という段階ワードがあって、「物〔の真理〕に格り、知〔識〕を致す(得る)」というセンテンスで表され、要するに、知識段階において“論理的な因果律的順序に従って究めてゆく”という発想を大事にしました。

 

その中での「内なる変化」として、“知識を越えて知識を知る段階では、直覚というジャンプ”が起きて(飛躍)、こうした『段階的・因果律的推論』を“繰り返しの鍛錬”を、朱子は弟子たちに教え込み、朱子学において肝要な概念たる『理(ことわり=万物の原理)』もそうした追求によって解明ができるという『窮理学』(理を究む)の思想に繋がります。

 

すなわち、西欧の近代自然科学が流入したとき、その自然科学的思考「理解できる基盤」がすでにあったように、いわゆる物理学(physics)は、初期において「窮理学」「格物学」「理学」とかで翻訳されていましたが、例に挙げるなら『窮理問答』『格物入門』『理学初歩直訳』という教科書が、明治時代の旧制中学校、旧制高等学校などで使われ、おそらく理科だとか理学部という「理」のついた名称もこれに関係があると指摘されます。

 

このようにして、朱子学が「思考方法」として主張した『格物致知』『窮理』は、自然科学の因果律的思考に近いことが判明しました。

 

さらに『政治』については、

 

儒教文化圏に共通するものの一つは、中国・朝鮮・日本のそれぞれが、同一地域において統一国家が長く続いたことである。特に中国の場合、あの広大な地域に、西暦前以来、中央集権制ならびにそれを動かす法律ができていた。だから、法律はキリスト教社会におけるような契約の観念をもったものではなく、また社会は、たとえば、アメリカ建国以来のようなつぎつぎと移民を許して<作ってゆく>ようなものでもなかった。

 

東北アジア人の場合、生まれたときすでに確固とした政治システムがあり法がすでにあった。しかもその法はお上の統治手段としてあったので、法について東北アジア人は、お上に従うという意識なのである。

 

国語辞典の先駆である『大言海』における「デモクラシイ」の説明が有名な例としてよく引かれる。

 

すなわち「下流ノ人民ヲ本トシテ、制度ヲ立テ、政治ヲ行フベシト云フコト。古ヘノ所謂、下剋上ト云フモノカ」と説明する。

 

また「下剋上」の項も「〔此語、でもくらしいトモ解スベシ〕下トシテ、上ニ剋ツコト。臣トシテ、君ヲ凌ク(おしのける)コト」とある。

 

編者の大槻文彦(漢学者、大槻磐渓の次男)にとって、西欧のデモクラシイは実感のない政治制度であった。だから、江戸時代から明治時代への展開も、東北アジア人が共通に理解できる儒教政治理論で捉えている。すなわち中国における「封建」と「郡県」との相違を示したあと「我ガ邦ニテモ、上古は封建ノ制ノ如クナリシガ、孝徳天皇ノ大化ヨリ郡県の制度トナリ、鎌倉ノ世ヨリ亦、封建ノ勢力ヲ兆シ、室町、江戸ノ世ハ全ク封建の制度トナリ、明治ニ至リテ郡県の制トナレリ」(「封建」の項)と。

 

これはなにも大槻文彦の特別な例ではない。

 

たとえば、馬場恒吾『大隈重信伝』(改造社の偉人伝全集第十三巻・昭和七年)もこう言っている。

 

「伊藤(博文)は・・・・・・外国の郡県制度を見てゐたので、日本の封建制度が如何に国家組織として幼稚なものであるかを知つてゐた(八二ページ)。・・・・・・山県(有朋)が『今日までの兵制改革を見ると、どうしても制度改革の上は、封建を破って先づ郡県政治を施さねばならぬと考へる。・・・・・・廃藩置県に着手しては如何であらう』と相談すると、西郷(隆盛)は『実にさらぢや、それは宜しいが、木戸(孝允)はどうか』(一〇三ページ)」と(加地注・・・木戸らはすでに同意)。

 

『同』 加地伸行著 中公新書 239~240頁より

 

欧米の産業革命以後「近代的中央集権国家の組織」をはじめて知った東北アジア人の場合は、東北アジアの政治理論、すなわち儒教政治理論からいえば、それは『郡県制国家』だと目に映りました。 彼ら『明治の元勲』に見た、江戸時代の幕藩体制は、儒教政治理論からすれば「封建制」であり、封建制における(周)王は天皇に相当し、その下の諸侯は諸大名に当たる。諸侯のリーダー、すなわち覇者は将軍家で、このシステムを倒して『天皇を頂点とする中央集権国家』をつくるとすれば、儒教をおさめた幕末明治の人々のもつ「知識」や「感覚」において、郡県制のイメージが登場したのは当然でした。

 

 こうしたなかで、明治二年版籍奉還(中央政府に対して諸侯の自治権・所有の返還)明治四年廃藩置県(藩を廃止して、全国に府・県を置き、府・県知事は中央政府の任命)は、かつての列国を平定した秦王朝(始皇帝)の『郡県制』に「酷似」しています。 上述の酷似郡県制を布いた明治政府が、秦帝国の法治政治に倣って「法律を最大の武器」としたことや、近代政府となっても『法はお上の為のもの』という観念が、東北アジアでは非常に強く、現代もそれはあまり変わっていないでしょう。 

 

いにしえの秦王朝の始皇帝は、『法家思想』に基づいて中央集権国家を建設しましたが、そのとき「民は官僚を師せよ」とし、いわゆる『官僚政治(官僚による統制)』の行政システムを考案し、こうした法家的発想が何千年にもわたって支配し、同時に「高度な知識人」である官僚(科挙合格者)は、儒教的礼儀においては『道徳的完成者』であらねばならず、私利私欲に走ったり、いたずらな贅沢をしてはならないわけで、天子(君主)ならば、もってほかであるとしました。

 

 また、儒教文化圏においては、民衆は『官僚層の指導と管理を否定する自信』などなく現代日本においても「裁判所の裁判官」などは、まっさきに『お上』と思い込む意識が強いし、その判断に「非常に強い重きをおく」ことでしょう。

 

 或る日本人哲学者が、かつてつぎのような書簡を私に寄せたことがある。 私自身は漢文の素養がないのですが、それでいつも残念に思うのは、事を決するにあたり、自分を支えてくれるような言葉をもたないということです。

 

西洋近代哲学は要するに認識論であり、「何であるか」ということはできても、「何をなすべきか」はそこから出てこないのです。たとえ出てきたとしても、その言葉はなかなか私の身にそわないので、意思の力とはならないのです。行為には情況認識や命令(・・・・・・せよ)のほかに、将兵を安んじて死に赴かせるような司令官の人格そしてその言葉が必要だと思うのです。

 

誤解を避けるためにあえて言えば、右の文中の「将兵を安んじて死に赴かせる」ということばは、比喩であって、実際の戦争のことを指しているわけではない。人の一生には、戦闘と同じような場面に出会うことが何度かある。そのときに必要なことばという意味である。

 

古典は<人間を支えてくれる適切なことば>を豊かに持っている。もちろん、全世界にさまざまなすぐれた古典があり、すぐれたことばが数多くある。しかし、余分な前提をいっさい省き、東北アジア人にとって掛け値なくぴったりとすることばとは何かと言えば、『論語』を代表とする、儒教関係を中心とする古典のことばである。

 

それは儒教文化圏の東北アジア人が共通して理解できることばであり、それを享受できる特権をわれわれは持っているのである。

 

『同』 加地伸行著 中公新書 252~253頁より

 

以上のように、加地教授は綴られ、私たちが暮らす日本、この北東アジアにおいて「己の本質」を体現する思想は、先の中国の政治理論しかり、その源流に眠る『儒教の宗教性』関係する諸制度や認識について、「切っても切り離せないもの」であり、多くの方々が「身近なもの」として捉えたとき、見かけのイデオロギーや統治の違いを乗り越え、何千年にもわたる悠久で浩瀚たる『同質文化の民』として、この地域を平和にしてくれる“大きな可能性”を、常に持ち続けているのであり、度重なる欧米による「分断」や「干渉」に呑み込まれない『強い心』を養ってくれるヒントが、儒教には詰まっていると思います。

 

 

<参考資料>

 

・『儒教とは何か』 加地伸行著 中公新書

 

・中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭著 講談社

 

 

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