前回の記事

 

‐中国こそ現代の『周王』である その5(朝鮮半島の中華主義② 百済・新羅と「倭国」の関係)‐

 

 

・『礼儀』を忘れた日本社会 だから「衰退」する


コロナショック、自粛警察の出現、パチンコ屋のつるし上げ、一方では朝鮮大学校前での「大密集」ヘイトスピーチなど、この国に生きていると、周りに住んでいる人間のレベルの低さに、ときどき驚かされるわけです。

 

5月10日朝鮮大学校前でのヘイト街宣の真実(大きな騒ぎになった原因について)

 

ここにいるイロモノ連中を含め、以前にも同様の事案(十条街宣や更地会の跋扈)が、ちょくちょく起きていましたが、迎えるカウンター体制がガッチリしているので、直接的なヘイトスピーチの「脅威」は、今のところ低い状況です。

 

‐現実を知らないお子ちゃま政治家の『パチンコ等実名公表』(大阪府や東京都など)‐

 

しかし、前述に生き続き、あれだけ「自粛だ自粛だ」と騒ぎ立てて、政府からロクに保障も出ないから、会社や従業員の生活のため必死に働いている人たち攻撃する反面、あまつさえヘイトスピーチは「容認する」行動を見ていると、そうした決定的な『行政矛盾』に対し、マスコミの報道管制や、国民の社会的規範意識の欠如から、個々人がそれぞれの「興味事」に逃げ込み、俺にとって他人事だから知-らねと、そういう社会を容認し続けた先に、自分たちも『被害者』になることを想像できないバカさ加減を見ていると、やっぱりこの社会に「期待できないな」という結論に至る。

 

‐僭越ながら、良識ある在日コリアンの方々はマジでこの人に関わらない方が良い‐

 

ネトウヨやノンポリ以外にも、差別に反対する『カウンター内部』からも問題が出てくる始末で、これに対する「謝罪」や「総括」すらなされない。挙句の果てには、事件を闇に葬ろうとする『リベラル側の闇』も、相当なものであると常日頃から感じています。

 

という具合に、本来日本人が「知っていたハズ」であろう、この地域の『コモンセンス』を、歴史を通して再確認する企画も、いよいよ最終段階に入ります。

 

 

・『五胡』における 中華意識の形成

 

 

興亡の世界史05 『シルクロードと唐帝国』 森安孝夫著 講談社 174~175頁

 

ユーラシア大陸の東部に位置し、悠久の歴史を誇る中国は、常に多言語世界であった。そして中国史の半分くらいは、支配者層が漢民族ではなく、異民族(中国語で「少数民族」とも呼ばれる非漢民族)であった。例えば五胡十六国・北魏(鮮卑族拓跋氏)・遼(契丹族)・西夏(タングート族)・金(女真族)・元(モンゴル族)・清(満州ジュシェン族)などは誰でもすぐに思いつくであろうが、近年では北魏を受け継ぐ東魏・西魏・北周・北斉はおろか隋・唐でさえ鮮卑系王朝とか「拓跋国家」などといわれている。後者は学問的には中国の陳寅恪が「関隴貴族集団」あるいは「武川軍閥集団」(以下「関隴集団」と略称)というものを提唱し、西魏・北周・隋・唐を関隴集団によって生み出された一連の国家ととらえた学説に近く、その点では中国史研究者にも目新しい説ではなかろう。

 

関隴集団とは、北魏の国防を担うエリート部隊であった六鎮の出身者、とりわけ武川鎮の出身者(多くは鮮卑系)が、北魏分裂後に関中盆地に移動して在地の豪族と手を組んで出来上がった胡漢融合集団のことである。西魏の実権を握り、北周王朝を開いた宇文氏、隋を開いた楊氏、唐を開いた李氏はいずれもそこの出身である。

 

<中略>

 

現代中国では中核となる漢民族のほかに五〇あまりの「少数民族」が公式に認められているが、中華人民共和国の領土内で唐代までに活躍した匈奴・鮮卑・氐・羌・羯・柔然・高車・突厥・鉄勒・吐谷渾・カルルク・奚・契丹などはその中に入っていない。

 

なぜなら、秦漢時代までに形成された狭義の漢民族に、魏晋南北朝隋唐時代を通じてこれらが融合して新しい漢民族となったからである。であるから、唐の漢民族・漢文化と秦漢の漢民族・漢文化とは別物なのである。

 

<中略>

 

漢民族以外の少数民族にアレルギーがなく、能力さえあればこれらを分け隔てなく用いるのは当たり前である。唐の世界主義・国際性・開放性は、もともと唐が韓民族と異民族の血と文化が混じり合うことによって生み出されたエネルギーによって創建された国家であるという本質に由来し、・・・唐には、東魏・西魏分立時代から中国に巨大な経済的負担をかけた突厥人もいれば、商人として活躍したソグド人もペルシア人も、あるいは高仙芝や慧超のような朝鮮人も阿倍仲麻呂や藤原清河や井真成のような日本人もいた。

 

※<>は筆者註

 

『同』 森安孝夫著 講談社 138~140頁より

 

わかりやすく言えば、北魏に連なる一連の王朝は、「騎馬民族×農耕民族」の『ハイブリット国家』であったと言えます。ゆえに壮大かつ奥底深く、私自身は『民族』という近代以後に「つくられた観念(ベネティクト・アンダーソン氏)」に囚われることなく、新石器時代以来の文化母体、いわゆる『黄河文明の子孫』である私たちが、壮大な中国文化に触れることによって、おのずと感化され、それに「統合されていった」のは、幾多の史実を並べたごとく“否定しようのない事実”です。

 

古代朝鮮における高句麗百済・新羅、そして古代日本倭国しかり、それぞれが中国発祥の文書行政(律令)を導入していく過程で、漢字文化の受容発想法を「同一なもの」としていきました。

 

広開土王(好太王)碑の建立が5世紀初めであり、そこに高句麗独自の年号が見えること、その他の諸国に「同様の動き」の開始が、それより時期的に遅れていることなどから、これら諸国の中で『最も中華意識形成への動きが生じた』のは、高句麗においてであり、さらにその「淵源」をたどると、いわゆる『五胡の入華』に示される北東アジア動乱の時代と重なります。

 

この時代は朝鮮、日本へもその影響が波及したように、“文明圏規模での大量な人口流動”が生じた時代です。そうした動乱の中心は、中国の華北にありましたが、そこで胡族と漢族との激しい攻防のすえ、やがて両者が中国文明をベースに『融合』し、あの絢爛たる世界帝国の隋唐王朝を創始した歴史へと繋がります。

 

その先立つ五胡十六国の開始期に、漢族の側から「いにしえよりこのかた、異民族出身で中華世界の帝王になったものはいない。名臣や国家に勲功をたてたものならばいる」とする考えが主張され、「胡族」はあくまでも中華皇帝になれず、所詮は「漢民族」に使われる下僕としての名臣が精々だという『差別的』な言説があり、故族側はそれに対抗して「帝王となるものにどうして常にということがあろうか。中国における昔の聖天子である禹や文王も夷狄から生まれたのではないか。帝王となれるか否かはただその授けられた徳のみによるのだ」として、故族も中華世界の帝王たりうると主張しました。

 

結局のところ、いろいろあったけど“一つにまとまっていった”わけであり、当初の胡族君主の中に皇帝号を名乗ることに躊躇するものもあったが、大勢は皇帝の称号を採用する方向へえと突き進み、こうした事実が、彼らが『中国的な政治理念』を受容し、自らを「中華世界の正統」と位置付ける意識を懐くようになっていきました。

 

ゆえに、「胡族」でありながら自らを中原の正統、中華そのものとみなす動きは、自らの軍(すなわち胡族の軍)を『王師(天子の軍)』の語で呼ぶようになるし、5世紀の初めに劉裕が宋を建国する直前に東晋の将軍として、山東半島に拠って、鮮卑慕容部(ぼようぶ)が建国していた南燕を攻めたときのことを伝えた記事に、

 

「南燕の皇帝であった慕容超は群臣を引見して東晋軍をどのように防ぐかについて議した。公孫五楼という南燕の官僚は、『呉兵(東晋軍をさす)は敏捷で果敢な兵ですので機先を制してこちらから攻めるべきです』と述べた。超はこの意見に従わず籠城策を採った。このとき慕容鎮は韓𧨳(南燕の尚書)に、『主上は籠城策を決定された。・・・・・・今年わが国は滅び、私は必ずこの戦いに死ぬであろう。あなたたち中華の士は再び、文身となるのだ』と述べた」(『晋書』慕容超記載)とあるが、これは当時、慕容鮮卑が自らを中華と見なすようになっていたことをよく伝えている。

 

ここに見える「文身」は、南方の野蛮人(南蛮)の風習たる「被髪文身(冠をつけず髪をふり乱し、入れ墨をした様)」を念頭においており、江南に都をおく東晋をそうした南蛮だとしているのである。そして南燕の支配下から東晋の支配下に組み込まれることを、「中華」から「文身」の境遇に陥ることになると述べているのである。

 

中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭 講談社 318頁より

 

こうした表現の存在は、鮮卑族の慕容鎮が、さらにその国家が、南燕を「胡族が建国した国家であるのにも関わらず、己を『中華』として位置づけ、一方で「漢族王朝」である東晋を『南蛮』の国家と認識していたわけです。

 

無論、上述の動きは、五胡十六国時代の他諸国にもあって見られ、時代を降るごとにつれ、それはいっそう成長した形で示されるようになります。

 

北魏の時代洛陽の有様を記した『洛陽伽藍記』(らくようがらんき)には、

 

「洛陽を流れる伊水と洛水の間にある皇帝様のお通りになる御道をはさんで東に(東西南北の夷狄からの使節に応接する)四夷館があり、それぞれ金陵、燕然、扶桑、崦嵫という名で呼ばれていた。道の西には(これら夷狄の亡命者を住まわせる)四夷里」とする記述がある。

 

『同』 川本芳昭 講談社 319頁より

 

この記事は、鮮卑拓跋部が建国した北魏が、遷都後の洛陽「四夷館」「四夷里」を置いていたことを伝えているが、そこでは帰正(正しきに帰す)、帰徳(徳に帰す)、慕化(王の化を慕う)、慕義(正しきを慕う)の用語に表れているように、周辺の四夷は北魏の義や帝、あるいは王って、その都である洛陽に至るものとする観念のもと、その居住区の名称が定められていたのです。

 

 

中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社 54頁より

 

‐中国こそ現代の『周王』である その2(天下の統一と『東アジア冊封体制』)‐

 

まさに、上述の『春秋戦国時代』以来の中国思想が、時代を降って「異民族」である拓跋鮮卑にも「伝播した」のであり、本来、秦漢以来の「狭義の漢民族」からしたら、ひとつの夷狄に過ぎない種族が建国した北魏が、自国を『中華』として位置づけていたことは、そうした文化が「完璧に根付いた」証左でありましょう。

 

さらに、北魏の歴史を記した『魏書』は、南北朝時代に相対峙した南朝の建国者をそれぞれ「島夷(島に住む夷狄)劉裕」「島夷蕭道成」「島夷蕭衍」などと呼び慣らし、長江以南を“一つの島”に見立て、そこに住む「夷狄としての南朝諸朝の建国者」を呼ぶ現象も、またそうした『中華意識の現れ』の一つです。

 

先立つ理由としては、当時の華北士大夫(漢人官僚)に、自国の北魏王朝の「正当性」を認めてもらうために、鮮卑は天の命を受けこの中国を支配する過程で、彼らからの反撥(ツッコミ)に堪えうる思想の模索を通じ、太武帝(3代目)の時代には「華北統一」を背景に、従来の胡漢対立の立場を乗り越え『中華』皇帝を強く志向しはじめ、「廃仏毀釈」政策を推し進めるベースで、以前の五胡君主ならば「仏教」自体は、遠いインド伝来の“外国の教え”であるため、異民族である自らに連なるものとして親近感を懐きましたが、太武帝の場合はそうでなく、南朝の宋を攻めたとき、彼国の皇帝に手紙を送り、そのなかで『鮮卑』と自ら称して、その強勢を誇りつつ、自民族のルーツ(烏洛侯国のくだり)をつまびらかにし、廃仏を告げる詔(みことのり)「胡の妖鬼、胡の神をすべて廃し、偽りの教えを排除せよ」厳命しました。

 

しかし『五胡』の中には、明らか鮮卑族も含まれているわけで、『胡』自体にはエビスの意味であり、明らかな「侮蔑の意味」が込められているにも関わらず、なぜ「胡の妖鬼、胡の神」と書された廃仏の詔を裁可した過程で、すでに太武帝の中で、鮮卑族は『五胡(外人)ではない』という意識があって、五胡という「漢族創始の用語」を、南朝の皇帝に以下のように送り届けました(北魏の南朝『盯胎城<くいじょう>』攻略時)。

 

「私がいま派遣している兵隊はすべてわが国人ではない。城の東北を固めているのは丁零(中国内地にいたトルコ系民族)と胡であり、南は氐と羌である。おまえが丁零を殺せば、こちらは河南の賊を減らすことができる。胡が死ねば山西の賊を減らすことができる。氐と羌が死ねば関中の賊を減らすことができる。おまえが丁零や胡を殺してくれるなら、それはこちらにとって利益とならないものはない」

 

中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭 講談社 108頁より

 

ここに見える山西の「胡」は、後漢時代に入って万里の長城を越えて、中国の山西の地に移住した匈奴のことを指しています。そもそも『胡』の変遷をたどると、秦漢時代においては、もっぱら『匈奴』を呼んだ用語であり、のちに五胡十六国時代においては、その適用種族が「拡大」して、世界帝国唐の時代には、シルクロード商人である『ソグド人』など西域人らを指す言葉となりました。

 

つまるところ、太武帝は自身をあくまでも『鮮卑族』と捉え、それ以上でもそれ以下でもない、鮮卑や漢族が混在する中国を支配する『唯一の皇帝』として、「外敵」である胡を匈奴とし、国人である鮮卑と、それ以外の種族を峻別し、これらと漢族を互いに争わせることによって、漁夫の利を得ようと、うそぶくその姿勢は、徐々に漢族との「融合」が始まっている段階で、中国自生の宗教たる道教を国教として『中華世界の皇帝』たらんとする立場を明確に示すものです。

 

‐中国こそ現代の『周王』である その3(中華主義に恋い焦がれた日本)‐

 

‐中国こそ現代の『周王』である その5(朝鮮半島の中華主義② 百済・新羅と「倭国」の関係)‐

 

以前に述べた、高句麗や百済・新羅、倭における「中華意識の形成」や、独自年号や太王号、そして治天下大王や天皇号に見られる“一連の動き”は、上述の『五胡の先駆け』があったからこそであり、朝鮮や日本における『中華意識』の確立は、日本が京都を洛陽と称した現象を見ても、非漢民族による中国思想の受容(漢字文化/文書行政<律令>)を通じて、自身のアイデンティティの一部と化していった。

 

 

<参考資料>

 

・Cluttered talk blab blab blab 『武漢から日本へ 水運と航空の直航貨物輸送ルートが続々開通』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12596411266.html

 

・興亡の世界史05 『シルクロードと唐帝国』 森安孝夫著 講談社

 

・中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭 講談社

 

・中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社

 

 

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