前回の記事

 

‐中国こそ現代の『周王』である その2(天下の統一と『東アジア冊封体制』)‐

 

 

・天皇主義者が 『一番恐れること』

 

 

『儒教とは何か』 加地伸行著 中公新書 23頁より

 

その2で、中国大陸で「天下」が統一され、儒教思想典籍の再解釈を経て、新たな『東アジア冊封体制』が出来上がると、周辺諸国にも「律令制度」が通訳を介して『土着化』すると、各国はそれぞれの君主を「一尊」とする考えを持ちはじめた。

 

よく知られているように、日本の古代国家形成のルーツを研究された江上波夫氏の学説に、『騎馬民族征服論』というものがあって、私も随分とお世話になった記憶を思いだす。徳間書店『騎馬民族の思想』(豊田有恒著)を通じて、朝鮮半島を南下した騎馬術に長けた民族が、日本列島まで至り、そこにいた勢力を征服して、新たな王朝(今日の天皇家に繋がる)を開いたとするものです。

 

この是非については、『謎の4世紀』が明かされない以上、最終的な結論は下せませんが、当時代における中国華北の動乱に発した「巨大な人口流動」が、周辺地域に大きな影響を及ぼしたことは確かなことでした。

 

ちなみに、邪馬台国が中心となった266年から、再び倭が中国に使節派遣を再開したのが413年、史料の欠落や、魏晋秩序の崩壊など、大陸での様々な混乱、満州地域や朝鮮半島における政治的緊張など、さまざまな要因を勘案したうえで、『古代日本における中華意識』について、小野妹子の有名な一文を想起するだろう。

 

日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙ないでしょうが。(原文:日出処天子致書日没処天子無恙)(『隋書』倭国伝)

 

中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭著 講談社 300~301頁より

 

それまでワカタケル(倭王武)「治天下大王(稲荷山鉄剣銘文)」と称しながらも、中国側に「臣雖下愚=皇帝陛下の臣下としての私の身分は低く愚かですが」(『宋書倭国伝』倭王武が南宋順帝に送った上表文)という時代から、ずいぶんと大見栄を張ってきたわけです。

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編2(国名の由来とその民)‐

 

そもそも「自分から見て」日出ずる処は、日本よりも東であるはずなのですが、かつて中国朝鮮について「東方日出の地」(史記/山海経)と述べるのなら、おのずと理屈は通じます。

 

話はもどって、天子とは、天の神である天帝の命令を受けてこの天下を支配している「皇帝の別称」であり、遣隋使がもたらした国書において当時の倭国がこうした外交用語を用いたということは、倭国もまた天命を受けた天子が統治する国であると隋に対して告げたに等しいのです。

 

なんだか、物凄くおかしな話です。

 

という、前近代において「圧倒的要害」に四方を囲まれた状態で、中華帝国と国境を接している国々とはいざ知らず、天帝の子を自称し、中国を日没するところなどとディスるが、かの国の文物は欲しくてたまらない。

 

倭国の王は天を以て兄とし、日を以て弟としている(原文:倭王以天為兄、以日為弟)

 

『同』 川本芳昭著 講談社 301頁より

 

あまつあえ、この小野妹子による607年の遣隋使より前の600年に隋に至った倭国の使者は、煬帝の父である文帝が倭国の風俗を問うた時、その下問に上述のようにイキり倒す始末であり、率直に「だったら何で来たんだよw」とツッコミたくなるわけです。

 

 

中国と「対等」ならば、わざわざ海を越えて、大陸の文物を乞うことも無かろうに、この時点でかなりの矛盾を抱えておりますが、最終的に倭国の大王『天皇』号を称するまでに至り、「天皇」とは天皇、地皇、人皇の三皇の首座であり、中国太古の天子の称号です。

 

すなわち、『天皇』もまた天下を支配する「皇帝に等しい用語」であり、古代日本は「漢委奴国王」に始まる中華皇帝の臣下としての王号から、「治天下大王」や「天子」の採用を経て、「天皇」を頂点とする体制の確立に至ったことが理解できます。

 

本来、中華皇帝にしか許されない年号を、大化の改新以降採用し、中国の体制を模倣しながら、土着化した法律体系(律令)を運用し、古代律令制国家を建設していく過程で、己こそが『中華』であるという意識が形成されてきたことは、倭(日本)が『漢字文明圏(天下)』に組み込まれた何よりの証でした。

 

中国を中心とした東アジア地域にもたらした・・・そうした変化の一つとして、中国周辺地域の広い意味での「中国化」の進展をあげることができる。たとえば、日本の鎌倉時代にできたと考えられる『拾芥抄』という書物に、「京都では、・・・・・・東の京を洛陽城を号し、西の京を長安城と号す」とする記述が見える。ここに見える京都は日本の京都のことであるが、このように日本では洛陽という用語が日本の都である京都の雅称として使用されるようになるのである。このことは京都に行くことを歴史上「上洛」と称したり、「洛中洛外図屏風」(狩野永徳筆)の存在などに端的に示されているといえるであろう。

 

しかし、よく知られているように、洛陽は中国の王都の中の王都ともいうべき都であり、「土中」(中国の中心)とも称せられるように、永く「中国」、「中華」の中心とされてきた都である。

 

中国人は古来その高度な文明を誇り、「未開」「野蛮」な周辺の民族や地域を犭偏や虫偏をつけて呼び(搖、撞、獠、蛮、蜀、閩など)、強烈な中華意識を抱いてきたが、洛陽はいわばそうした意識の空間的中心であった。

 

日本において、その洛陽に自らの都である京都を擬するということが生じていることは、古代の日本にあっても中国と同様の中華思想、すなわち中国の思想を下敷きにした中華思想が存在したことを想像させる。

 

『同』 川本芳昭著 講談社 20~21頁より

 

‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その1-

 

‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その

 

戦国時代の終わりに、中国史上はじめて天下統一を果たした秦王は、新たな中土を支配するリーダーとして「ふさわしい称号」を、『皇帝』という新たな称号に見出し、自らがその初代に就いた(始皇帝)。それまで、一国の首長を呼ぶのに用いられていた「王」という称号は、皇帝の下位にある称号となり、王は以降、皇帝によって任命される存在となった。

 

すなわち、王は「始皇帝以後の中国」において、決して西洋世界におけるナンバー1の称号(キング)ではなくなり、文字通り「皇帝の臣下」としての称号となった。

 

もう少し詳しく見ていきましょう。

 

東方の六王を抑え天下を統一した年に、秦王は諸王の上に立つ皇帝という称号をはじめて使った。皇帝号が生まれるにいたる経過は、司馬遷の『史記』秦始皇本紀に詳しい。秦王と大臣(丞相の王綰、御史大夫の馮劫、廷尉の李斯)らとのやりとりの過程で皇帝号が採用された。

 

そうすんなりと決定したわけではなかった。

 

まず秦王から丞相らに、従来の王号を帝号に変えることの是非を議論せよとの命令が下された。審議の結果、秦王の功績はいにしえの五帝の治世を超えるものであるから、それにふさわしい称号をさがすことになった。五帝とは黄帝、帝顓頊、帝嚳、帝堯、帝舜の五人の帝を指す。この五帝は天ではなく地上の統治者であった。神話の時代のことであるが、かれらは死後天に昇り、帝なにがしと呼ばれたのである。秦の博士らは古典のなかから天皇、地皇、泰皇という称号を捜しだし、そのなかでも泰皇がもっとも貴いものであるとした。泰とは泰一、天や地の神々よりも上の天帝を指す。大臣たちはこれを秦王に提案した。

 

もしこの提案がそのまま通っていたしたら、皇帝の代わりに泰皇の称号が後世にまで残ったかもしれない。しかし秦王はこれを斥けて、泰皇の皇の字と、上古の帝位の帝の字をあわせて皇帝とした。ここに見える皇とは、もともと王に通ずる文字だが、光り輝くという形容詞として用いられた。秦王はあくまでも帝の字にこだわり、これを修飾することばをさがしていた。煌々たる上帝の意味で皇帝が誕生した。

 

天の中心に存在する天帝に対して、みずからは地上世界の中心に位置する権威を求めた。

 

この皇帝の称号は、同時に採用された詔(命令)、朕(事象)とともに、以後の中国歴代の皇帝制に踏襲されていくことになった。

 

中国の歴史03 『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』 鶴間和幸著 講談社 53~54頁より

 

-「皇帝」の由来-

 

ちなみに、この「朕」西周時代の一人称所有格である「われ」を意味誰でも使えたのですが秦王の取り決めにより、皇帝の自称用語として確立し、また君主が崩御する臣下がそれに対する評価をする「諡(おくりな)」制度を廃止して、専制君主国の体裁を整え「朕である始皇帝を一世として、二世皇帝、三世皇帝・・・・・・n世皇帝」秦王朝が続く限りこの方式での称号付けを徹底させました。その始皇帝の永代統治制影響されて、日本の天皇が「万世一系」という自国の君主論をたてました。

 

 

・律令制度の「定着」によって生まれた 『自国ファースト』

 

 

中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社 59頁より

 

‐中国こそ現代の『周王』である その2(天下の統一と『東アジア冊封体制』)‐

 

前回でもお話致しましたが、『東アジア冊封体制』により中国以外の「周辺諸国」に漢字文化(天下意識)と律令制が根付くと、今回の日本をはじめ、それぞれの国々で『中華思想』が醸成されていくことになる。

 

周辺国に文書行政がいきわたり、土着化した律令が施工され、そのことでもって「文化国家」を自任するとなると、中国が一尊ではないという理屈を、「漢字」でこね始めることになる。

 

歴史を振り返れば、律令制に見られる中国の法体系は、戦国時代に出来上がって王を一尊とし、天下統一後は皇帝を一尊とする政治思想へと「アップデート」されたが、それが「型」として周辺諸国に導入されたということは、同じ性質をもつ法体系が、それぞれで採用されたということを意味します。

 

とりわけ、『東アジア冊封体制』周辺地域を「文明化」させたことは事実であり、皇帝が周囲の国家を「臣下の国」として、名目的な序列の関係に加え、いわば現代国家の『国交』ないし『同盟関係』の意味合いも含めて、秀吉時代の文禄慶長の役には、明が「倒れる原因(国庫の窮欠)」を作ってまでも、朝鮮の支援に乗り出したし、朝貢国には多大なる文物と奢侈品が与えられ完璧なまでの「収奪」を基本とする『欧米的な支配と従属』関係と一線を画すものだったことは、特筆しておかなくてはなりません。

 

次回は、日本以外の国々の『中華思想』如何なるものだったかについて、お話させて頂こうと思います。

 

 

<参考資料>

 

・『儒教とは何か』 加地伸行著 中公新書

 

・『史記-古代中国の人びと-』 貝塚茂樹著 中公新書

 

・中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭著 講談社

 

・中国の歴史03 『ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』 鶴間和幸著 講談社

 

・中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社

 

 

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