前回の記事

 

‐中国こそ現代の『周王』である その4(朝鮮半島の中華主義① 高句麗の「特殊性」)‐

 

 

・百済や新羅 倭国における「中華意識」

 

 

中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭 315頁より

 

三韓のひとつである馬韓の中から興った百済は、その国王である近肖古のとき(371年)高句麗の都である平壌(ピョンヤン)を陥落させるほどの威勢を誇ったが、阿華王の代になると挫折を味わい、前記事における高句麗の「跪王自誓」や「奴客」の関係を期に、彼国の『朝貢国』(396年)となる。

 

さらに、5世紀後半475年には、高句麗の攻撃をうけ亡国の瀬戸際に立たされますが、その後体勢を立て直し、495年百済王は南朝の斉に遣使し、高句麗と倭国のような「自己の配下」に対し、中国王朝の将軍号や王爵などの官爵を賜るように求めるまでに至ります。

 

こうした百済王による「その臣下」に対する中国的官爵の間接的下賜は、かの王が国内にあっての王の中の王、つまるところの実質的「大王」であったことを示しており、古代日本における「大王(おおきみ)」や「天皇」号高句麗における「太王」号の出現(同時に突厥などの騎馬民族国家からは「可汗(皇帝)」号の国とされた)と、同様の動きが百済にもあったことを示した。

 

 

『同』 川本芳昭著 講談社 314頁より

 

すでに本書で示されているように、南朝梁の時代になると『梁職貢図』による百済政治は、叛波・卓・多羅・前羅・斯羅(新羅)・止迷・麻連・上己文・下枕羅などと呼ばれる諸国を従えていたとされます。

 

これは、先立つ高句麗や古代日本(倭の五王時代)の場合と「同様の展開」が、百済にも存在していたものでした。

 

ここで、新羅の「中華主義」にいく前に、後者の倭国の仔細について、改めて論じていこうと思います。

 

‐中国こそ現代の『周王』である その3(中華主義に恋い焦がれた日本)‐

 

古代日本が、漢字文化や律令(文書行政の助け)を受容していく過程で、やがて中華主義の「魅力」に取り憑かれ、果ては自らが唯一の『中華』であると、わざわざ隋の文帝や煬帝時代にまで、海を越えて「報告する」始末で、そもそも「中国と対等」ならば、なぜ彼国の文物を「受容し」、政治体制を「まるっきり受け継いでいる」状況で、ならばそれらを全部そっくり返上し、列島に「引きこもって」自給自足の国家づくりを行なえばよろしいと思うのですが。。。

 

‐『歴史を直視すること』は 現在の「不条理を打ち破る力」である 最終回‐

 

ここでも、先シリーズの金勉一氏のご指摘を思い出してしまうのである。

 

それはさておき、南朝『宋書』倭国伝では、ワカタケル大王(倭王武)中国皇帝に対して以下のくだりがあります。

 

「東は毛人の住む五五の国を征伐し、西は六六もの夷狄の国を服属させ、海を渡って北の九五もの国を平定しました」と述べている。この「毛人」の国、「夷狄の国」、「海を渡って」平らげた国と倭国とがいかなる関係にあるのか、はっきりしないが、彼が現実に「治天下大王」であったと考えられることや『宋書』倭国伝の文面による限り、その場合の「天下」が具体的に平定された「毛人」の国五五、「夷狄の国」六六、「海を渡って」平らげた国九五を含むものであったと考えるほうが自然であろう。

 

もっとも先に見たようにこの諸国平定の文章には続けて、「海を渡って九五もの国を平定しました。その結果、皇帝様の世の中はうよく治まり(王道融泰)、皇帝様の領土は遥か遠くまで広がったのでございます(廓土遐畿)」とあるわけであるので、中国皇帝に対する場合には、これらの諸国や倭国が中国皇帝の支配の及ぶ領域という立場をとっていたことは明らかである。

 

ただ現実の場合においてはそうした領域を含むものとしてワカタケルが「天下」を構想していたことはほぼ誤りでないだろう。この際、注目しておかなければならないことは、

 

①倭の五王の二番目の王である珍が「都督倭、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓六国諸軍事

安東大将軍」と自ら称していること(この自称を宋朝側は認めなかった)。

 

②三番目の王である済のときは、宋から倭国王は「都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事、安東将軍」を名乗ることがゆるされたこと(しかし、宋朝は倭国が望んだ百済に対する軍政権と安東将軍とは認めなかった)。

 

③五番目の王ワカタケル(中国名・武)のとき、右の六国と依然として承認してもらえない百済を含めた七国に対する軍政権と安東代将軍の位を勝手に自称していること。そして、ワカタケルが宋の順帝の昇明二年(四七八)に遣使した後に、百済に対する軍政権の承認はついになされなかったが、ワカタケルは安東大将軍を名乗ることを許され、「都督倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」に任ぜられたこと(以上『宋書』倭国伝)・・・安東大将軍は安東将軍より一段上位の将軍の称号であった。古代の倭国がその将軍号として「将軍」より上位の「大将軍」であることを求め続けたのは、宋朝によって高句麗や百済がいち早く安東と同様の概念のもとに置かれた征東大将軍、鎮東大将軍に任ぜられていたからである

 

※傍点はアンダーライン

 

『同』 川本芳昭著 講談社 303~304頁より

 

北朝の圧迫により、短命王朝が続いた弱い南朝政治権力において(のち併合)、幾分かの「権威」があるのかは知らないが、当時の複雑極まりない国際情勢において、倭国のロビー活動しつこさを極めていたと見ます。

 

大日本帝国時代における、広開土王(好太王)碑の「石灰改ざん」に対する指摘も当然あるし、考古学および金石学など、科学的アプローチを含めたあらゆる分野において、研究を含まなければ、当然真理には程遠い。ゆえに「記述学のみ」での中国史を捉えるのは非常に危険です。

 

史学概論において、古代中国の歴史学「史は史官」つまり官僚行政の範疇であり、彼らを中心にして動き、唐代の劉知畿(661-721)『史通』で、元来の歴史書の体裁を批判し、史実の正しさや評価の客観性を論じましたが、いずれも官人史学の中で埋もれてしまいました。

 

さらに古代日本における、歴史はすなわち「史(フミ)」であり、歴史を単なる文章と捉え、中国風に倣い史官が担当していたが、『古事記』『日本書紀』では「自らの朝廷の正当性を訴え、その体制を固める上の建国神話を語る」という極めて政治的なものであり、何百歳も生きた天皇が平気で事実とされたり、記紀を通じて、国学者(皇学者)たちが「日本版中華帝国」をこしらえ、やがては大日本帝国による朝鮮侵略『思想的淵源』と機能したことは、ぜひとも指摘しておかなければなりません。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その11(日本人の「アジア嫌悪のルーツ」を探る)‐

 

いずれにせよ、北東アジアを取り巻く『謎の4世紀』が解明されない以上、結論は下せないのですが、こうした『東アジア冊封体制』について、興味深い指摘があります。

 

冊封というのは、皇帝が周囲の国家を臣下として序列の中に加え、その関係を確認する行為を言う。だから、理屈でいえば、中国皇帝の下で、その確認行為をしない限り、冊封されたことにはならない。

 

ところが、これも誤解されやすいことだが、その中国皇帝の国家の歴史が編纂されるとなると、冊封があろうとなかろうと、まるであったかのような国家序列がくみ上げられて、その王朝の歴史が叙述されるのである。

 

たとえば、豊臣秀吉は、明王朝から冊封されたことはないが、『明史』の中では、日本に「故より」「王」がおり、その王の臣下として最高位の者は関白と称されると説明される。その上で、織田信長や豊臣秀吉のことが紹介されている。ここに「天皇」のことが紹介されていないことはすぐにおわかりになろう。日本の律令体系が規定したのは、「天皇」を一尊とする「形」である。法体系が形骸化しても、その「形」自体は残されていた。

 

しかし『明史』で紹介されるのは「故より」いる「王」である。

 

このような冊封関係とは、冊封の有無にかかわりなく、史書の中でこうした「形」をとって叙述されるものである。それは理念を語っているのであって、現実を語っているのではない。

 

中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社 59~60頁より

 

つまり、これは「名目的なもの」に過ぎない事実です。

 

欧米のような『支配と従属』というような冷徹な関係ではなく、あくまでも「体裁上」の主従関係であり、その確認行為(朝貢)をすれば、多大なる文物を中国王朝から貰えるわけで、さらには現代の「軍事同盟」の側面もあって、文禄慶長の役(壬辰倭乱)のときは、明が自国財政を犠牲にしても、朝鮮の救援に赴いたことは、れっきとした史実であります。

 

さて、長くなりましたが、いよいよ新羅の「中華思想」のお話をします。

 

‐中国こそ現代の『周王』である その4(朝鮮半島の中華主義① 高句麗の「特殊性」)‐

 

高句麗の属民であった新羅(好太王碑一面)6世紀はじめになって、503年に建立された迎日冷水新羅碑の記載で、至都廬葛文王(しとろかつぶんおう)が、智証王(ちしょうおう)と称し、524年に建立された蔚珍鳳坪(うるちんほうへい)新羅碑の記載では牟即智寐錦王(ぼうそくちみきんおう)法興王(ほうこうおう)と称しているごとく、中国的かつ仏教的王号を使うようになっています。

 

また、鳳坪新羅碑(ほうへいしらぎひ)には、自らが攻め取った地域の高句麗旧民新羅王の命に違わぬよう『天』に誓わせた、とする記載が見える。

 

このときの『天』が、先立つ高句麗や倭の場合と同じく「新羅にとっての天」であったことは明らかです。しかし、その新羅も一方では、南朝梁の普通二年(521)に、百済に従い南朝に朝貢したのを皮切りに「中国との交渉」を深め、中国王朝から新羅王、楽浪郡公などに封ぜられ、倭国や高句麗と同様に中国の冊封国となっています。

 

つづけて、法興王の23年(536)には、初めて新羅独自の年号を建て、536年建元元年と位置付けています。すなわち、新羅も536年の時点で、中国の政治思想における「中華皇帝のみ許される年号の使用」を開始しているのです。

 

この採用は、高句麗の永楽年号採用などに比較すると「100年以上遅れている」が、日本の大化年号と比較すれば「100年以上早いこと」になります。

 

以上のように、『新羅の中華意識』形成過程を考察する上で、「独自年号の使用」重要な意味を持っています。ところで、時期は降りますが、奈良時代の日本統一新羅が使者を派遣してきたとき(735年)自国を『王城国』と称したので、その使節を日本が「追い返す」事態がありました。

 

『王城』とは、中国皇帝から新羅王として冊封を受けた「王の城」という意味ではなく、天子(皇帝)の都城の意味なのです。中国古代においては、方千里を王畿の外側に、順番に侯服、甸服、男服、采服、衛服、蛮服、夷服、鎮服、藩服という9つの区画を設定し、侯服には毎年一朝、甸服には2年ごとに一朝、男服には3年ごとに一朝、采服には4年ごとに一朝・・・・・・というように朝貢させ、そうした天下を直中に天子の住まう『王城』があった。

 

つまり、新羅は8世紀前半の段階において、日本に対し「天子(皇帝)の国」と称したことがわかります。また、であるばこそ『和製中華意識』が確立した奈良朝期の日本において、その使節を本国へ追い返したことは合点がいきます。

 

結果として、新羅の場合しかり、先の高句麗や古代日本(倭国)、そして百済を含めて、朝鮮半島や日本列島における「中華思想」は、確実に定着していきました。

 

 

<参考文献>

 

・中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭著 講談社

 

・中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社

 

 

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