前回の記事

 

‐中国こそ現代の『周王』である その3(中華主義に恋い焦がれた日本)‐

 

 

・もっと「歴史」に 関心を持とう


英語ブロガーのMichikoさんより、興味深い記事が挙がっていた。

 

浩瀚な知識を保つ方でも、中国との「関係」日本人が意識した場合、それは『比較』やら『競争』の観念を生み出してしまう。純粋な経済分野においては、それが「正しい」のかもしれないが、もっと大きな視点で、この北東アジアを捉えた場合、先の西洋主義的な物差しだけでは測れないものがある。

 

この数千年間を俯瞰し、去りし20世紀において中国が「圧倒的に貧しい状況」にあったことは、まことに異例中の異例であった。

 

中華と異民族の混交分裂と統合の果てに、その『脅威的な文化力』は、常に拡大し続けていたし、揺らぐことのない「アジアの中心地」であった。しかしながら、日本が『脱亜入欧』を標榜し、その「延長期」にある現在において、日本人が一種の『近視眼的』な状況にあり、欧米に「尻に敷かれる」カタチで、彼らの創り出すものを、テッペンからつま先まで「妄信している」体制から、一度抜け出して、元来の『西洋偏重主義』的思考を崩して一から物事をリビルド(再構築)する必要があると思います。

 

 

・突厥帝国から 日出づる『高句麗可汗』と称された史実

 

 

(本来は成長して突厥の支配貴族たる)ベグとなるべき男子たちは、唐(タブガチ)の民への奴隷になり、ベグ夫人となるべき女子たちはその女奴隷になってしまった。突厥のベグたちは突厥風の名前(称号)を放棄し、唐にいるベグたちは唐風の名前(称号)を帯びて唐皇帝(タブガチ可汗)に服属したという。五〇年間(唐皇帝に)労力を捧げたという。前方(東)の日出づる所には、高句麗可汗(の国)にまで出征したのだという。

 

後方(西)へは、(ソグディアナとトハリスタンの境界にある)鉄門にまで出征したのだという。

 

『キョルテギン碑文』東面七~八行目引用

 

興亡の世界史05 『シルクロードと唐帝国』 森安孝夫著  講談社 261頁より

 

 

 

『同』 146・151頁より

 

この碑文は、かつて唐草創期まで「中華世界」に多大なるプレッシャーをかけた大帝国の突厥(遊牧系)が、のち東西に分裂し、東突厥太宗以後(630年)打倒され、その支配に甘んじ、高句麗や西突厥の遠征とする、さまざまな軍役に奉仕させられた『屈辱の50年間』を、戒めの歴史として、深く記録に刻んだものです(先述『キョルテギン碑文』より)。

 

ちなみに、『タブガチ』という言葉は、古代トルコ語諸資料より、中央ユーラシア東部のトルコ系諸民族の、唐王朝・唐帝国に対する名称です(拓跋鮮卑族の由来)

 

 

中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭 107頁より

 

そして、この『可汗』号というものは、突厥以前北方系遊牧国家の柔然が使用していた「騎馬民族の皇帝号」からはじまり、後の大元ウルス(モンゴル族)大清グルン(女真満州族)にも引き継がれていきます。

 

つまり、高句麗は当時の「中華世界」で、「王」として日本を含む周辺諸国と同じ冊封国であったが、同時に「騎馬民族世界」で、「可汗」という皇帝国だったということです。

 

 

・高句麗における中華意識

 

 

 

『同』 川本芳昭 315頁より

 

さて、これに先立つ三国時代の魏は、遼東半島に拠った公孫氏の勢力を駆逐し、その「新領土確保」のため、244年に将軍母丘倹(ぶきゅうけん)を遼東に派遣して、その背後にあった高句麗を討った。この攻撃により、朝鮮北部にあって国力を醸成させつつあった高句麗は、国都の陥落、国王の亡命など手痛いダメージを受けたが、三世紀後半から魏晋交替晋の国力衰退を期に、遼東方面での中国の勢力が弱まったのを期に、再びその勢力を伸長し、ついに313年には前漢以来の、中国王朝の長年にわたる半島支配の根拠地たる楽浪郡を陥落させ、生産力豊かな西北朝鮮の地とそこに住む漢人を傘下におさめることに成功さらなる躍進を遂げてゆく。

 

その後、朝鮮半島の南方にあって勢力を拡大してきた百済との熾烈な抗争を演じ、史上有名な好太王<広開土王>(在位391-412)の代になると、高句麗の君主は『太王』号を称するようになり、永楽という独自の年号を使用するまでに至ります。

 

こうした年号などの採用は、高句麗がその国家形成にあたって、中国の政治制度を一つの模範としていたことを明瞭に示す材料と言えるでしょう。その好太王が崩御し、後を継いだ子の長寿王(在位413-491)は、414年父の功績を讃える有名な『好太王碑<広開土王碑>』を建立しました。

 

その第一面(建国神話)には、こう記されております。

 

昔、(高句麗の始祖の)鄒牟王が国の基を創めたとき、(王は)北扶余の地の天帝の子として生まれた。母は河伯(河の神)の女郎(むすめ)であり、卵を剖ってこの世に降誕した。・・・・・・そして、我はこれ大いなる天の子なりといった。・・・・・・(原文:惟昔始祖鄒牟王之創基也、出自北扶余天帝之子。母河伯女郎、剖卵降世。・・・・・・言曰、我是皇天之子)

 

中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭著 講談社 305頁より 

 

-とあるネトウヨとの問答1-

 

こちらの方で、匈奴の攣鞮(れんてい)氏族しかり、モンゴルのボルジギン氏族など、同じ騎馬民族特有の『天意識』があり、上述の神話における「卵生神話」など高句麗独自の世界観を有している。

 

ドイツの民俗学者バウマンは、農耕民を<大地-肉体-霊魂-生と死>で示し、狩猟民ないし牧畜民の神話を<森林-海-天と星辰-動物-力質>で示し、見事に図式化されたが、その証左として東明王(朱蒙=鄒牟王)は、母親が天の気をうけて妊った結果生まれたという「感生神話」として扱われ、神話中朱蒙自身「天帝の息子、河伯の外孫」言い、神話学的見地から見てもエウヘメリズム(英雄の神格化)の騎馬民族の場合として該当します。

 

このように、中華世界との「決定的な違い」があったにせよ、そうした高句麗の神話世界が、中国に由来する『天帝』『皇天』などの用語を以て語られていることが、ある種の「中国思想」というフィルターを通じて語られているわけであり、そこには高句麗が中国文化を受容し、中国の用語でもって自らの神話を語るとう屈折した側面がありました。

 

さらに重要な点として、

 

好太王碑第一面には、「百残(百済のこと)や新羅はもと(高句麗の)属民にして、由来朝貢す」と見え、第二面には、「(百済の王は高句麗の)王に跪いて自ら誓う(跪王自誓)、今より以後、永く(高句麗王の)奴客たらん、と。大王(好太王のこと)恩赦す」とあって、高句麗の政治体制は、高句麗王を中心とした「朝貢・跪王(貢を献し、高句麗王に跪く)」体制であったとされている。

 

『同』 川本芳昭著 講談社 311~312頁より

 

 

中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社 59頁より

 

これは完璧に「中国」の律令制(文書行政)が根付いた結果であり、「朝貢」という言葉が出てきたということは、中国の世界観(漢字文化)を理解し受け入れた証です。ただし、高句麗では「跪王」「奴客」など独特の用語が使用されていることから、まったく同じものであったとは考えられない。しかしながら、ここで広開土王(好太王)の碑を建立した当時の高句麗が、百済のような服属勢力との関係「朝貢」という用語でもって表現したことは、注目に値するでしょう。

 

従来の好太王碑の研究では、こうした用語の使用が当然のことがらとして取り扱われ、不思議なことに「朝貢」といった中国起源の政治用語が、中国ではない朝鮮のような地で適用されることへの「疑問」自体が投げかけられることはなかった。しかし、こうした用語の使用は、少なくとも当時の高句麗が「跪王自誓」などの『独特の服属儀礼』を持っていたにも関わらず、百済や新羅などの関係を、中国の政治思想に基づく「朝貢」関係にあるものと捉えていた事実がありました。

 

続けて、中国文化の『受容』を示す一例には、好太王の次の長寿王の時代における北扶余の地方官であった牟頭婁(ぼうとうろう)という人物の墓から出土した墓誌には、「天下四方」という表現も気になる。つまり、こうした中国思想に基づく高句麗国家、高句麗社会形成の動きは、好太王の子の長寿王の代にも受け継がれ、「天下」という概念の受容をもたらしています。

 

 

・中国と同じ 『夷狄』意識をもった

 

 

『同』 平㔟隆郎著 講談社 54頁より

 

‐中国こそ現代の『周王』である その2(天下の統一と『東アジア冊封体制』)‐

 

以前の記事で、列国の律令制(文書行政)が確立した戦国時代において、それぞれが「中国/夷狄」意識を持ち、やがて秦帝国天下(漢字文明圏)を統一すると、その全域『中国(特別地域)』へとアップデートされました。

 

文字通り、こうした考えが、高句麗に「伝播」しました。

 

五世紀末に建てられた朝鮮の忠清北道中原郡にある高句麗による新羅領侵入の記念碑である中原碑には、「東夷の寐錦(新羅王を当時の現地音に基づいて呼んだ称号)」「寐錦に衣服を賜う」などの表現が見えるようになる。新羅を「東夷」と呼び、衣服を賜うなどの行為は、高句麗自身が、中国が高句麗を東夷(東方の夷狄)と見なす見方を受け入れ、同じく東夷である新羅に、その新羅が高句麗に服属してきたのでとった対応であると理解することはできない。なぜなら、高句麗は先に述べたように年号や天下の用語などを使用し、自らを「中華」と位置づけるようになってきているからである。すなわち、このときの高句麗は自ら「中華」と位置づける立場から、新羅を自国の東方にいる東夷(東方の夷狄)と見なしていたと考えられるのである。

 

中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭著 講談社 313頁より

 

‐中国こそ現代の『周王』である その3(中華主義に恋い焦がれた日本)‐

 

分かりやすくいうと、中国文化を受容した高句麗が、自身こそが「中華である」と位置づけ、先述の倭国のように「治天下大王」「日出処天子」などの呼称を用い、最終的には自前の年号を建て、皇帝の別称である天皇を頂点にした律令体制を布いた経緯と重なるところがある。

 

高句麗王は太王を称しながら、一方では、中国へ遣使し、自らを臣下に対し中国王朝の将軍号や王爵などの官爵を賜るよう求めてもいる(四九四年、四九八年)。この動きは倭国王が南朝の宋に使節を派遣して中国王朝の官爵を求めた場合と同様であるが、こうしたことがらの実行もまた、高句麗における中国的政治思想の定着を促進したと考えられる。またこの際、高句麗中枢がそうした路線を積極的に採用しつつ、その国家形成を行なっていたことは十分注意されなければならないことである。

 

つまり、中国の政治思想に発する年号の採用、「朝貢」の採用、「天下」の認識などから考えて、高句麗は古代日本に先んじて、高句麗を中心とする「中華」意識を形成し始めていたといえるのである。

 

『同』 同頁より

 

-朝鮮北部・遼東南満州帝国高句麗の対隋唐戦争-

 

ただし、高句麗の場合は、やがて強大化する中華帝国「国境を接する」場所に位置し、海という鉄壁の要害もなく、そのプレッシャーがダイレクトで伝わるところでありながら、のちに世界帝国たる隋との戦争に打ち勝ち(乙支文徳将軍)唐の攻撃からも幾度も耐え抜くという偉業を達成し、最終的には滅亡(唐と新羅の挟撃による)という形になりますが、突厥という大帝国から「可汗国(皇帝国)」と目されるかなり特殊な位置づけの国であったことは間違いないでしょう。

 

 

<参考資料>

 

・Cluttered talk blab blab blab 『日中は、ライバルではないのに』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12594850403.html

 

・興亡の世界史05 『シルクロードと唐帝国』 森安孝夫著 講談社

 

・中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭著 講談社

 

・中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社

 

・『騎馬民族の思想』 有田有恒著 徳間書店

 

 

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