前回の記事

 

‐中国こそ現代の『周王』である その6(「異民族」の中華主義)‐

 

 

・周辺諸国の「政治モデル」となった 偉大すぎる『中華思想』

 

 

 

『儒教とは何か』 加地伸行著 中公新書 21頁より

 

『中華冊封システム』は、当時最先端の政治哲学の理論から編み出された膨大な経学主義の賜物であって、儒教がおどろおどろしいシャマニズム的宗教主義の時代から徐々に進化していき最終的には礼教制度として確立し宗教性と完全に分離して2000年以上まで続く歴代王朝の統治理論として君臨した、『東アジア文明国』としての何よりのあかしであった。

 

そうした、中国からの『影響の大きさ』を考えたときに、こうした各地で土着化した「中華」意識が、皇帝号などの尊号、天下の概念、年号中華・夷狄などの概念採用にもみられるごとく、あくまでも伝統中国の政治思想の枠内において形成されたものであるという点です。

 

私たちは、『五胡の入華』(先の記事)によって、中国が混乱を極めたとはいえ、そこにその後もこれらの諸国に及んでいったことに、その文明の壮大さや奥深さを垣間見ることができる。

 

古代朝鮮倭国において、中国諸朝より安東将軍鎮東将軍などの「中国を中心」として「その方」の地域を「寧なもの」とする圧する」といった中国側の中華思想に基づく名称の将軍号を、皇帝より下賜された現実を俯瞰するに、これらの周辺地域が、その国家建設にあたって『中国の国政』を「一つの範」として行なっていた事実でした。

 

さて、日本の場合を詳しく見ていくと、よく知られているように列島を「ひとつの中華」と見立て、蝦夷(えぞ=日本の東夷)を征伐することを目的とし、征夷将軍、征夷大使などのを置き、のちにそれは武官の最高位として『征夷大将軍』へと成長します。

 

そして、この征夷大将軍が幕府を開く(開府)こととなるが、その際の「征夷」という用語は、天皇が住む京都を中心とした日本の東方に存在する夷狄(東夷)である蝦夷(えぞ)を膺懲するところに「その起源」をもっています。

 

また、その「征夷」という用語は、倭の五王の最後の君主である安東将軍倭王武(ワカタケル)が、宋の順帝に奉った上表のなかで、自らや祖先のたゆまぬ努力が『東夷の世界』の地において、「東のかた毛人を制すること五五国、西のかた衆夷を服すること六六国、渡りて海北を平らげること九五国」を成し遂げ、結果、南朝宋の最後の皇帝である順帝の『王道』が「融泰(安泰であること)」となり、その支配領域は拡大したと述べていることから、東アジア冊封体制を「受容した」考えを持っていたことは確かです。

 

続けざまに、『征夷大将軍』という用語の日本的翻案、すなわち本来「中国を中心」とするものとして生まれた『天下』の思想を、「日本を中心」とするものと置き換えたのと、同様の転換が生じている事柄から、蝦夷(えぞ)を「東夷」となぞらえ、先に述べた京都を中国の「洛陽」と呼称すること、および古代日本中国の政治思想を翻案する形『中華意識』を懐いたということは、すべてその淵源を同じくにしています。

 

 

中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭著 講談社 323頁より

 

本書で示されているように、古代日本よりはるか後の安土桃山時代に、日本を訪れたポルトガル人やスペイン人を呼ぶ際、本来は中華世界の南方に住む野蛮人に対する呼称であった『南蛮』などの用語を以て定義し、江戸時代の末期に訪れた外国人『尊皇攘夷』(天皇を尊び、中華たる日本の東方にいるアメリカなどの夷狄をはらう)のスローガンをもって駆逐しようとしました。

 

こうした、『古代中国の国制』の影響を受けて成立した思考方法が、いかに長い時間的スパンのもとで「日本に影響」を及ぼし続けたかを見ることができます。

 

さて、日本の律令体制は、やがて形骸化したことが知られている。しかし、その「形」は残され、江戸時代には幕藩体制を支える理念として活用された。藩は大小あるが、問題になる面積は、中国古代の都市国家と大同小異である。そうした藩の生活の糧を得た儒学者たちの中には、日本を日本と呼ぶのではなく、「中国」と呼んだ者もいた。律令時代にできあがった日本特有の中国・夷狄観を復活させて言う。

 

山鹿素行・浅見絅斎・佐藤一斎ら藩や幕府から糧を得る儒学者が日本を「中国」と表現した。

 

律令施行域の伝統が依然として「形」をなしていたからである。

 

結果的に、江戸時代の儒学者たちは、中国皇帝の大領域を考える学者たちよりは、いにしえの戦国時代の領域国家の実態に近い環境下に生活していたことになる。

 

京都の学者伊藤仁斎は、『論語』子罕の「子、九夷に居らんと欲す。或人曰く、陋し、之を如何と。子曰く、君子、之に居らば、何の陋しきことか之あらんと」(「孔子が道の行われないことを歎じて、去って東方の九夷の地方に居ろうとする意をもらした。ある人が曰うのに『九夷は風俗の陋しい所ですから、どうしておられましょう』。孔子がこれに答えて曰われるには『有徳の君子がそこに居るならば、これを化して礼儀の行なわれる邦にしてしまいます。なんの陋しいことがありましょう』」<宇野哲人>などと解釈されている)について、夷狄も礼儀もおさめれば華となり、華も礼儀がなくなれば夷と化すとし、舜も文王ももとは夷の人であるとして、孔子の心は九夷に寄せられるのであり、その九夷はよくわからないが、わが日本の如きを指すようだと述べている。

 

これも日本を中心に考える発想である。

 

<中略>

 

江戸時代の学者たちは、中国皇帝の下ではぐくまれた宋明理学の多大な影響を受けていたわけだが、自らが置かれた場が藩や日本だった結果として、中国皇帝の大領域ではなく、日本という領域国家の視点でのものを見ていたのである。

 

※アンダーラインおよび<>は筆者註

 

中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社 394~395頁より

 

 

 

中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社 59頁より

 

結局のところ、原点に立ち返る意味で『中国の文書行政(律令)』が、北東アジア地域に「土着化した」ことによって、その後の周辺国の歴史「多大なる影響」を与えたことは紛れもない事実です。

 

こうした議論を抜きに、単なる“優越主義的差別思考”としての中華思想と捉えるならば、それはリサーチ不足浅学無知なる結論(偏見)であって、決して物事の真理を捉えることはできないでしょう。

 

無論、それは現在わたしたちが暮らす社会や、人々の暮らしにおいても「意識していない」だけで、とりわけ『儒教の影響』だとか、それが確実に私たちの「心の奥底に刻み込まれた」原初的感覚として、今もなお生き残り続けていることを、次回の最終章でお話したいと思います。

 

 

<参考資料>

 

・『儒教とは何か』 加地伸行著 中公新書

 

・中国の歴史05 『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』 川本芳昭著 講談社

 

・中国の歴史02 『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』 平㔟隆郎著 講談社

 

 

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