いまのしゅんかん -429ページ目

Tという人々(1)

彼の元奥さんが、6月半ばから、わたしたちが住む市の公営住宅に入居することが決まったそうだ。

立地条件がとてもよく、デポジットはバカ高いものの、家賃は破格に安い彼と同じアパートに固執していた彼女であるが、一向に入居できるチャンスがむぐってこず、2つも又借りし続けていた彼女。

1つめのアパートなど、家賃が12万円であるだけでなく、敷金だけで36万円ほど払い、しかも退居しても返ってこなかったという。。。

2つめはまだ良心的な物件ではあったが、やはり立地条件はよくなく、家賃も決して安くはない額。

しかも、又借りであるゆえに、住民登録もできず、仕方なしに彼の両親宅で住民登録していたという。

それで、さすがに焦ったのか、珍しく一人で市役所に行き、公営住宅入居の申し込みをしたそうだ。

申し込みから2週間という早さで、あっというまに入居が決まった。

 

もし、去年の9月に正式にセパレートしてから、すぐに公営住宅の申し込みをしていたら、、、

12月の期限ぎりぎりまで彼のアパートにいる必要はなかったばかりか、2つも又借りして無駄な出費もしなくてすんだのに。。。。

いくら彼と同じアパートに住むことにこだわったとしても、暫定で公営住宅に住み、そのチャンスがきたら移ればいいだけのこと。それによる損害など、ほとんどない。彼のアパートからも近いし、何よりも家賃が格段に安い。

なんという、無駄なことをしたのだろうか。

 

「B(彼)と一緒だとラクだし、それに、できる限り、Kと一緒に住みたかったのだろう。」

と、お父さんは言う。

確かに、経済的には彼に依存したままだし、家事もすべてやってもらえる。何よりも、好きなときに息子さんと遊べる。おいしい環境であるに違いない。

 

でもそのために、わたしたちは干渉されてきた。

9月に正式にセパレートして、もはや婚姻関係は断絶したにもかかわらず、あたかも妻であるかのようにその立場をさんざん利用しつづけ、彼に家事労働を強要し、金はしょっちゅう無心し、わたしが電話すればすかさず邪魔をし、本当につらい日々だった。彼の貯金は常に0だった。

去年の12月は、最長3ヶ月の同居の抵触を避けるために、彼と息子さんがアパートを出て、彼の両親宅に1ヶ月間仮住まいまでしたのである。もちろん、彼が家賃、光熱費の負担をしている。

もっとも、彼女は、この国の法律をよく理解していなかったらしく、セパレート=ほとんど離婚、であることを知らなかったそうだが。

 

彼女が、名実とともにこの市に移ることに対して、正直なところ複雑なきもちもあるが、同じアパートではないことにホッともしている。公営住宅なら、家賃も安いし安定しているから、敷金で150万円ほども必要とされる彼のアパートは諦めることになるだろうと思う。

 

最初は、息子さんのために、同じアパートであることが好ましいと思っていた。

でも、育児の知識がないくせに、5歳の娘がハサミを使っているだけで文句言ってくるなど、つまらないことで干渉してきたり、さんざん約束を破ったり、とにかく相手の状況を慮らずに自分のペースを貫こうとする元奥さんに、わたしたちの生活がわずらわされることを恐れるようになってきたのだ。

例えば、この日に息子さんを迎えに行くといっても、直前にキャンセルしたり、7時に来るといっても来なかったり。こっちだって、外で遊びたいとかあっても、彼女が来るとなると自宅待機である。

同じアパートになったら、近いことの便利さにますますマイペースが加速されて、突然やってきて息子さんを引き取りたいとか、あるいは翌日まで引き取るはずがやっぱりその日に息子さんが戻ってくるとか、ころころ予定を変えそうでその度にわたしたちが振り回されそうで怖いのだ。

最終的には、彼にも彼のお父さんにも、

「かきまわされそうだから、同じアパートはいやです。」

と訴えたが。もっとも、彼もガールフレンドがいなかったとしたら、新しい家族がなかったら、彼女と同じアパートがかえって好ましかったかもしれないが。

 

それで、幸い双方にとっても好条件な公営住宅の入居が決まったのであるが、そこで、新たに彼のお父さんから借金をしたいという申し出があったそうだ。

Tという人々(2)

彼女は、同意書に従って、彼のお父さんから最高75万円ほど借金ができる権利をもっている。

それは、彼のアパートに入居する目論見があったため、そのデポジットに当てることを考慮して、その項も設けたのである。

しかし、最初の又借りのアパートに入居する際に、36万円ものデポジットを要求されたため、去年すでに50万円借金したのである。

 

あと、25万円ほどしか借金できないので、将来安定した住居に当てる資金を作るため、3月にその50万円の借金を少しずつ返したいという申し出があったが、市からの過剰援助金20万円を急遽返金しなければならなくなったため、分割で返すにしても、やはり借金を返すことはできないと。

 

そして今回。

公営住宅の入居に伴って、敷金や冷蔵庫などの家具を購入するための資金が必要になったと。

それで残りの25万円を借りたい、と彼のお父さんに申し出があったのだ。

 

今まで、さんざん彼女のお金の問題について、このブログでも書き続けてきたが、本当に、早かれ遅かれ安定した住居に移らなければならない状況にあって、そのためのまとまった資金が必要とされることはあらかじめわかっていたことであるはずなのに、なぜその用意をまったくしてこなかったのだろう、と思う。

近い将来にお金が必要となるのに、お金が入ればたちまち消えてしまう。そんなことを、学習なしにさんざん繰り返している。

 

彼いわく、

「それが、T人なんだよ。」

と。

 

すべてのT人がそうではないが、大部分の、特に高い教育を受けていないT人が、将来のことをまったく考えずに実に刹那的に生きている、と。

ギャンブルやお酒に溺れ、お金の問題を抱える人が実に多いそうだ。元奥さんの友達には、ギャンブルで、1千万円も費やしたことがあるのだという。

 

元奥さんは、比較的マシな感覚をもっていたものの、それでも彼に、

「なんでそんなに将来のことを考えるの?」

とさんざんなじっていたそうだ。貯金0であるにもかかわらず、である。

彼女のお母さんは、彼と同じD人と結婚しているが、夫に限度額まで借金させているから、彼女も彼に借金して欲しかったのかもしれない。

 

T人は、例のインドネシア近くで起きた大地震でも有名になったが、実にシェアの精神に富む国民でもある。

問題を共有する。

だから、誰かがお金に困れば、すかさず誰かがお金を貸す。

財産は、皆のもの、という感覚なのである。

だから、将来のことを考えなくとも、問題が起きれば、すかさず社会に還元させてなんとなく皆に解決してもらう。だから、個人が一人で問題を抱え込む必要もなく、自分でケアしなくとも済むのである。

 

その国民性を、彼らはこの北欧の地でも存分に発揮している。

彼女は、どうも自分だけで散財しているのではなく、友達などに大判振る舞いしているようである。

彼女は、仲間うちでは、非常に気前のいい人気ものなのである。

だから、彼はともかく、彼のお父さんは裕福であるから、その財産の一部を自分がもらって、何が悪いの?自分が少しもらったって、別にお父さんは痛むわけではないのに、という感覚だったのかもしれない。

 

T王国の10%は中国人だそうであるが、彼らは財産0のスタートであっても、実に勤勉に働き、将来のことを考えてお金の管理もしっかりするので、最終的には裕福になるそうである。

 

確かに、誰もT人の価値観を変えることはできない。

でも、やっぱり、責任感はもつべきだと思う。

誰かが解決してくれる。

そんなわけない、とわたしは思う。

 

彼のお父さんは裕福であるが、ラクして今の地位にあるのだろうか。

両親が離婚して、常に経済的な問題を抱え、18歳から完全に自立しなければならない状況からのスタートだったのである。

 

自分が楽しんで、散財するのは、どうぞご勝手に、と思う。

だけど、人が苦労して作ったお金を遣うのはやめてね、と思う。

語学教室(1)

砂場遊び

彼の弟一家が来る前に、パーティの準備をする娘。

**************

8月末から始まる、子供向け語学教室について、保育園から打診があった。

正直、今の時点では、この国に滞在し続けるのか、この国で娘の教育を受けさせるのか、まだ決めていないので、別にその必要もないと感じている。

しかし、就学のタイミングについて、話し合ったときにも感じたことであるが、わたしの選択の自由といいながら、結局保育士の勧めに応じないと、それ相応の理由を求められるので、従うしかないのかなぁと半ば諦め気味に考えている。


日本だったら、来年の4月に就学する予定である。

ところが、保育士の強い勧めで、この国にいるとなると、来年の9月に、小学校付属の幼稚部に入学する予定で、日本の小学校1年に相当する学年に進級するのは、さ来年の9月、すなわち8歳になる数ヶ月前ということになる。


将来が未定のわたしにとって、できる限り日本の教育システムとのバイアスを縮めるべく、今年の9月に幼稚部に入れたいとさんざん説得したにもかかわらず、娘は外国人であること、体が小さいこと、12月生まれは外国人でなくとも一年進級を遅らせることなどをさんざん説明され、今年の入学を断念することにした。


しかし、地理的には近いオランダでは、4歳からの就学だそうで、教育システムは国によってかなり異なるようである。

いくら日本の教育システムを説明したところで、国の教育の考え方が根底から違うのだから、納得してくれるはずもない。


それにこの国は、コミュニケーションが何よりも大切と考えているせいか、はたまた自国文化の誇りのせいか、この国の言語に対するこだわりが強いように感じる。

今は変わったそうだが、最近まで外国人に対して無料の語学教育を提供していたほど。

イギリス人同士が、英語ではなく、この国の言語で話すなんていう現象も当たり前のようにみられる。


でも、娘がたとえこの国で教育を受けるにしても、本当に語学教育を別途受ける必要があるのだろうか、とやはり疑問に感じる。

わたしにはよくわからないが、大概の人が、娘の語学能力は完璧と太鼓判を押してくれるほどのレベルにまで到達しているようだし。もちろん、多少のミステイクはあるにせよ。

なんか、外国人だから、という理由だけのような気がする。


もっとも、こっちに来てから半年ぐらいで通った娘の語学教室の効果は大きかった。

それまで、コミュニケーションもなかなかスムーズにいかなかったのが、通うようになってから劇的に語学能力が向上し、いきなり友達が増えたのである。


いくら子供の吸収は早いとはいえ、すでにある言語をもつ子供にとっては、別の言語を獲得するのはそう簡単なことではない。

それなりの訓練が必要なのである。反復練習がないと、覚えられないそうだ。


ハーフでも、バイリンガルは稀。

わたしが知っているバイリンガルの子供は、いずれのケースも、

公共の場ではその国の言語であるが、家庭では完全に別の言語と、家と外とで言語を分けている。

家で、いくら外国人の奥さん(旦那さん)が母国語で話しかけても、両親ともにその言語で話さなければ、ヒアリングは可能でも自分で話すまでは身につかないようである。

わたしたちもそうであるが、使える言語でコミュニケーションとるのがラクだからである。


日本人がどんなに勉強しても英語が身につかないのは、英語を話せなくても、全然困らないからである。

外国人に道を聞かれるなど、英語を話す機会はあったとしても、だからといって英語を話さなければならない局面は滅多にない。仕事で外国人とコラボレートすることがあっても、直接会話を交わすのはほんのわずかで、ほとんどはメールなどのやり取りでコミュニケーションするのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

語学教室(2)

娘の場合、保育園でここの言語を習得しなければ誰ともコミュニケーションがとれずに孤独に陥る状況にあり、なおかつ語学教室で徹底的に日常的な単語を反復練習で獲得しながら、話せるようになってきたのである。

だから、語学教室の効果は認めてはいるのだが。

 

だけど、わたしの考え方としては、

基本的に言語は、二次元ではなく、体験に基づくものであるべきと思っている。

 

確かに、語学教室は、新しい言語を話し出す契機にはなったが、そのあとにさまざまな経験をするようになってから、より言葉が豊かになったように思う。

わたしも、すでに絵本でいくつかことばは知っていたが、毎日生活している中で、彼や子供たちが日常的に使うことばについては実感が伴っているだけに完璧に覚えるようになった。

 

だから、絵本やカードや歌でことばを覚えさせるのではなく、豊かな体験の場を与えることの方がよっぽど効果的なのではないか、と。

森を散策してさまざまな植物を観察したり、あるいは植物を育てたり。一緒に家事をしたり、何かを作ったり。

 

***************

 

彼と、息子さんの食事の仕方について話したとき。

 

「教えているんだけど、なかなか改善しない。」

「それだけを改善させようたって、無理だよ。もっと基本的な力を育てないと。あることに焦点を合わしてそれだけを直そうとしてもダメ。もっと全体を見ないと。」

「どういうこと?」

 

「わたしが見るからに、K(息子さん)は、手先が器用じゃない。それで食べるときも指を使ってラクしようとする。それはきっと、手先を訓練する機会に乏しかったせいだと思う。だってね、例えば、服を着るのも靴を履くのも、すべてあなたがやってあげてしまうでしょう?それで自分からやろうという気も起きないわけよ。わたしも時々靴を履かせようとしたことがあったけれど、本当に自分からはまったく動かずにひたすら履かせてくれるのも待っているだけというのに驚いた。」

 

「それにね。M(娘)が通っていた日本の保育園では、靴や服やトイレなど自立を促すだけでなく、崖のぼりをしたり、泥遊びをしたり、あるいは床のぞうきんがけをしたり、玄関の掃除やうさぎのエサとして野菜を包丁で切るなどの労働をして、日常的に手先を動かす機会にあふれていた。そうしていくうちに力がついてきて、同時に器用さも備わってくるわけ。だから、ただひとつのことに注力することは無駄で、日常生活全体を見渡して改善していかないと、なかなか直せないと思うよ。靴や服を自分で履かせるだけでなく、食事のときに食器を運んだり、植物の水やりをさせたり、小さな労働の場を与えて手先の訓練をさせた方がいいと思う。」

 

このわたしの提案に彼も共感を覚えてくれ、早速息子さんに自分で服を着るなど、トライさせるようになった。

 

*****************

 

ことばにしても、体の発達にしても、日常生活から切り離してそのスキルだけを身につけさせるということに、あまり意味を感じない。

日常生活のうえで、初めて発揮されるスキルだからである。

 

今、英語教育が盛んなようであるが、わたし自身の意見としては、特に子供に限ってはナンセンスだと考えている。

英語を使う機会のほとんどない日本で、そんなことに金も時間も費やすのはエネルギーの無駄でしかなく、しかも情緒が劇的に発達する幼少期においては、感性を育てることに重きを置くべきだと思うからである。

ことばというのは、自分の感性を外側に伝達するツールでしかない。ツールよりも、コンテンツを充実させなければ、ツールは意味のないものとなる。

 

もっとも、英語教室も、ピアノ教室などと同列で、語学習得というよりは、お楽しみのひとつとしてとらえられているのがほとんどだそうだが。

でも、あまり英語に躍起にならずに、豊かな母国語習得の方に重点を置いて欲しいと思う。

 

ちなみに、もし日本に帰ることになったら、娘の外国語能力を維持させる努力はしないと思う。

英語に近いので、もったいないような気はするが、日本では意味のない能力だから。

 

それと、今、日本語能力はだいぶ落ちている。

ボキャブラリーに乏しくなり、日本語を話していても、この国の言葉を導入することもしょっちゅう。

それに、頻繁に日本語が止まり、「えーと、うーんと。」が数十秒間続くことも。

娘いわく、日本語よりもここの言語の方が話すのがラクだそうだ。確かにずっと流暢に話している。

いくらわたしとは日本語で話していても、圧倒的にここの言語で話す時間の長い今は、そういうものなのである。

愛って?

「結局ね、アンタのやったことって、女の子を買ったってことなんじゃないの?」

この国の売春婦について話したときに、思わず口から出たセリフである。

 

**************

 

この国では、売春を斡旋する商売を法律で禁じているが、本人が顧客と個人的に取引する分には違法とはならない。

日本のように、明らかに風俗様な区域を、この国では見たことがない。

だから、風俗産業はまったく存在しないと思っていたのだが、やはり需要はあるようで、意外と売春婦はいるそうである。

「売る」ことを意図してなかったとしても、パーティなどでの「お持ち帰り」、「ワンナイトラブ」は結構盛んなようである。

 

いくら金銭のやり取りがあったとしても、それは個人の責任の上でのこと。

道徳的に好ましくはないとはいえ、それを違法としないところが、個人個人の考え方や価値観をできる限り受容しようとするこの国らしいなぁ、と思うが。

 

わたしは、ある意味、そういう産業が存在するのは、しかたないことなのかな、と思っている。

でも、顧客は、あくまでも「金銭などが介在する取引」であることを認識した上で、わきまえるべきだと思う。

つまり、お金で愛を獲得することはとても困難である、と。

 

****************

 

わたしのお気に入りの日記サイトで、ちょっと考えさせられた。

愛って、なんぞや?

 

その方は、オタク産業に関する記事についてコメントを書いておられたのだが、その記事の中で、

「人は、愛を与える対象がいないと荒む。しかし現実には、金や顔がないと困難である。だから、二次元の世界に、打算のない愛を求めるのではないか。」

とあり、思わず、

「打算のない愛」って、何!?

と噴出してしまったのである。

「愛を与える」のではなく、「愛をもらいたい」のでは?

美少女を求める一方で、自分はどんな容姿であっても受け入れて欲しいとでもいうのだろうか。

なんという、自己都合な「愛」なのだろう。

 

でも、わたしも、誰かを愛したことなどないのかもしれない、と思った。

好きというきもちだけがつっぱしって、相手のことなんて見えてなかった。

自分のきもちだけが大事だった。

 

自分が「愛している」とどんなに言ってみたところで、その感情が相手にとって重荷になってしまうこともある。

相手が苦しくなってしまうような一方的な「愛」なんて、愛じゃない、と今ははっきり言える。

 

どんなに好きでも、時には相手を理解して受け入れなければならなかったり、、、自分の都合で相手をコントロールしてはならない。

これは、子育ての経験から思ったことなんだけど。

つまり、「愛」って快楽を得られるためのものではなく、苦しさを伴っても相手をみることが「愛」なのではないかと。

 

***************

 

彼は、昔バカンス先であったアバンチュールについて、「彼女を愛していた。」と言う。

それに対して、

「あのね。あなたは、彼女に対しておいしいレストランを提供したり、プレゼントをあげて、その一方であなたは美女と時間を共にすることができた。たったそれだけのギブアンドテイクの関係なの!でもね。愛っていうのは、楽しいことばかりじゃないの!いい時間をシェアできたから、あなたも彼女が好きになって執着したかもしれないけど、実際に男女関係を維持する中ではいろんな問題が出てくるのが必須で、それに一緒に取り組めるかどうか。苦しさも伴うのが愛なんだよ!」

と。

 

「あなたは、彼女を得て、快楽だけを求めていた。英語もろくに話せない、コミュニケーションもまともにとれない彼女をどうして好きになったの?かわいい女の人だったら、別の人でもよかったんでしょう?あなたのしたことは、女の子を買ったようなものだよ!」

 

彼は、よく、「愛している」という。

 

なぜわたしが、これほどまでに彼の過去について糾弾するかというと、わたしとの関係をおいしいとこどりして欲しくないからだ。

過去から学んで、今度こそ、

自己満足的な「愛」には浸らずに、相手をきちんと慮れるような、自分の幸せは自分で落とし前つけれるような、自立したもの同士の関係を築いて欲しいと思っている。

 

わたしも、しかり。


外国旅行

ガイドブック


アマゾンで注文した、リトアニアのガイドブック。

 

学会まであと3週間。

この国に来て、初めての外国旅行である。

しかも、未踏の旧ソ連に属していた国。

ウクライナのように、民族間の衝突は比較的問題ならなかったようではあるが。

少し、ドキドキしている。

学会の合間に、街を少しフラフラしようかな、と考えている。

ユダヤ博物館に行ってみたい。多数のユダヤ人にビザ発行した、リトアニア在日本大使だった杉原千畝の展示もあるそうな。

 

秋には、オランダに行くことになりそうである。

彼の弟さんの奥さんのために、ベジタリアン料理をがんばってもてなしたわたしを気に入ってくれたようで、是非招待したいと言ってくださったのだ。

偶然であるが、彼と出会う前に、オランダに滞在、出産経験のある親しい友人から、司馬遼太郎の「街道をゆく オランダ編」をもらっており、それを読んでオランダには興味をもっていたのだ。

国土まで造ってしまう国のパワーってどうなんだろう?と。

移民をたくさん受け入れ、商業的に発展してきた国。

ゴッホ博物館、アンネ博物館にも行ってみたい。

 

でも、実はリトアニアもオランダも、この国から非常に近いところにある。

東京-広島間ぐらいのものであろうか。

日本では考えられないほど、ここでは「外国」が近い。

しかし、数10kmしか離れていない隣国でさえも、一回しか訪れたことしかないほど、外に出たことがない。

 

20歳のころに比べると、旅行に対するモチベーションも下がっており、未踏の地に対する好奇心も以前ほどにはないが、こうして意図せずして縁ができたところに訪れるのも一興かもしれない。


それ自体喜びをもたらしくてくれるもの

掃除


連休の最終日、冷凍庫の掃除をした。

わたしが以前、半開き状態にしてしまったので、内部に氷が厚く張り付いていたからである。

娘も興味をもって、彼と3人で地道にお湯をかけて氷を溶かす作業をかれこれ一時間。

すっかりきれいになった冷凍庫に、なんともいえない充実感をしみじみ。

娘など、翌朝起きるなり冷凍庫を確認して、「おお~!!」と再び感動。幸せの瞬間である。

 

*****************

 

彼の元奥さんを好きじゃないのは、価値観が違うだけでなく、性格も正反対だからだと思う。

彼女は、見るからに人好きしそうな明るさがあり、友達を作るのも容易な方であるが、わたしは逆に人を近づけない雰囲気をもっており、社交性に乏しい方である。

彼女はしょっちゅう携帯電話で誰かに電話したりメールして、彼にもつまらないことで電話してくるが、わたしは携帯を普段持ち歩かないし、滅多なことでは電話しないしメールもしない。

 

彼女が、「広く浅く」に対し、わたしは「細く長く」付き合う方である。

 

彼女の母国の人たちは、押しなべて社交性にすぐれ、「シェア」の精神に富んでいるという。

お金の貸し借りもしょっちゅうしているようである。

 

でも同時に、わたしからしてみると、孤独に耐えられない、一人では解決できない、集団じゃないと安心できない面もあるのではないか?と思ったりする。

 

わたしにとっても、友達の存在は大切なものである。

でも、決して寂しさを埋める存在ではないし、困ったときに救ってもらおうと思っていない。ただ、友達が好きというきもちだけで、その関係を大事にしている。

 

助け合うことはあるけれども、決して依存しあう関係ではない。助け合うというのは、本人の発展を助けるものであって、決して本人の問題を肩代わりはしない。

お金を無心したことなどない。経済的な不安を漏らしたことはあるけれど、それならば市役所に相談するのはどうかと提案されて、それに従って自分で解決した。

日本人の友達が、課題で苦しんでいたときには、日本語の参考書を入手し貸してあげた。

 

わたしは、一人の独立した人間同士として、その関係を大事にしている。

だから、離れていてもさみしくはないし、どこかで元気にやっているのだろうと信頼している。

 

***************

 

元奥さんは、外ではとてもいい「妻」を演じていた。

隣人の人にスープをおすそ分けすることもあったという。

けれども、内情は、家事や育児のほとんどを彼が担っていた。

 

でも、労働は、何の見返りなしに、それ自体喜びを見出してくれるものではないか?と思う。

きれいになったら、それだけで達成感を味わえる。

育児も、大変だけれども、その過程で考えさせられて、いろんな発見があったりして、とても面白い。

 

彼女は、つまらないことであっても、なんとしてでもコンタクトをとろうとする。

まずアパートに電話して不在だと、次にわたしの携帯に電話を入れ、それでも連絡とれないと、彼のご両親宅に電話する。

それでこっちから連絡とろうとすると、応答がなかったりして、急ぎの連絡だと思ってコンタクトとれるまで彼もがんばってしまう。

相手の事情おかまいなしである。

 

彼女にとって、「労働」も、「関係」も、何かしら彼女にとって利益になるための道具なのかな?と思ってしまう。

病気になれば放り出すくせに、さみしいと息子さんを呼び出して遊園地で一緒に過ごす。おいしいとこどりである。

外からみえることはするけれども、見えない家事はしない。

 

***************

 

だけど、つくづく人って、表面だけではわからないなぁ、と思う。

それは彼女に限ったことではなく、彼にしてもそうだ。

きっと彼も、わたしが思いのほか怖い女であると認識しているに違いない。腫れ物に触るかのごとく、びくびくものでわたしに接してくるさまなど、ちょっと可愛そうになるぐらいである。

 

ちなみに、この国に対する印象も、数日旅行したときと、今住んでいるのとでは、大きな違いがある。


弟一家訪問で感じたこと

つくづく、今回の弟一家訪問で、彼だけでなく、お父さんとか弟さんの内面みたいなものが垣間見れたような気がする。

とても完璧な家族だと思っていたけれど、それぞれいろいろとあるんだなぁ、と。

 

彼らがオランダから来る前、さんざんお父さんからその話を聞かされていた。

「孫娘は、とても難しい子供でね、、、保育園に馴染まなくて週2日しか行ってないのだよ。」

 

ところが、実際会ってみれば、ごくごく普通の子供で、とても楽しそうに娘や彼の息子さんと遊ぶではないか。自己主張の強さから言えば、娘に比べたらかわいいものだし、人見知りもしない。

それに週2日というのは、オランダだったら普通のこと。

 

話が違うよ、お父さん!!

 

わたしが思うに、彼の息子さんに比べたら、お父さんに馴染んでくれないので、「難しい子供」と思うことにしているのではないか、と。

そもそも、滅多に会えないのだし、言葉も違うから、彼の息子さんとのような関係性を築くのは難しいのは仕方がないことだと思うのだが、、、。

わたしからしてみれば、いつも大人に環境を与えてもらい、いつも大人に頼んで自分からはやろうとしない自立心の乏しい息子さんの方に問題を感じているが。

 

というか、彼にも問題を感じている。

 

彼は、本当に社会性に乏しいなぁ、と思う。

優しいし、決して相手を支配しようとはしないけれど、その場の空気を読むのが本当に下手。

相手が退屈になっているのにも気がつかず、自分の話に熱中したり、意外と失礼なことを言ったりするし、相手のセリフにちゃんと応えず自分の言いたいことを言ったり。寒いギャグを言ったり。何度、彼のギャグに、一同凍りついたことだろうか。本当に、「シーン」(無言)である。

 

はっきり相手に言ってもらわないと、相手のきもちがわからないのだそうだ。

それぐらいわかれよ!と思うが。

「もうつまんないから、その話やめてよ。」

とでも言って欲しいのだろうか。

 

でも、これは、彼の生い立ちにも少なからず影響を受けていると思う。

5歳になるまで、保育園に行かず、しかも近所に遊ぶ相手もなく、ずっと一人で遊んでいたのだそうだ。この国は、ほとんどの子供が小さいときから保育園に行くからだろう。

ほとんど集団で過ごす経験のなかった彼は、この国では珍しい存在で、小学校で完全に浮いてしまい、挙句にはひどいイジメを受けるようになったため、逆に一人でいることを好んだのだそうだ。

高校からはイジメをあうことはなくなったが、充実したコミュニケーションはとれないまま、大人になってしまったそうである。

 

家で過ごすか保育園で過ごすかはあまり問題ではないが、集団で過ごすことは子供にとって必要なことである。

周りの状況をみえるようになるには、集団生活の中でそのセンスを磨いていくほかない。

 

ほとんどの母親が家にいるオランダでは、保育園に行かずとも遊び相手には事欠かないそうだが、不幸にしてほとんどの子供が保育園に行ってしまうこの国で、彼の充実した幼少生活をどうして与えてあげられなかったのだろうか、と思う。

いくら親の愛が充分であっても、親が子供の発達のすべてを保障することはできない。

 

だけど、彼の社会性の乏しさはイジメのせいにして、彼の息子さんの問題は離婚のせいにして、エクスキューズしているくせに、弟さんの娘さんを「難しい子供」にしてしまうのはあんまりではないか、と思う。

 

この家族は、本当に結びつきが強いけれど、だからこそ、彼にとっていい「逃げ道」になっていたと思う。

現に、彼は、苦しいことがあると、あえてその問題を考えないようにして、時間が解決するのをひたすら待っていたという。

今でも、頻繁に実家に帰るし、問題が起きれば、すぐにお父さんに解決してもらおうとする。

 

「言い訳したり、逃げたりして、問題を本質的に解決しようとしなければ、いつまでたっても成長しないよ。」

わたしは、彼に、そう言った。

オランダからのお客様

オランダから、彼の弟一家がやってきた。

弟には一度会ったことがあるが、奥さんと娘さんは初対面である。

ドキドキしていたが、とても感じのよい奥さんと娘さんだった。

いろいろと、オランダ事情とかも聞けて楽しかったです。

同じヨーロッパなのに、こうも違うのか、、、と。

デンマークは、ジェンダー差はだいぶなくなってきているけれど、オランダは、まだまだ女性は家で育児するのが普通だとか。

「3日以上保育園にあずけると、悪い母親というレッテルを貼られるのよ。」

う~ん、わたしは保育園推進派なので、この価値観の差に驚きました。


弟訪問(1)


3人でおままごと。


弟訪問(2)


弟訪問(3)


一緒に、チボリ公園へ。

最後にはバレエも鑑賞したとかで、とても楽しかったよう。


わたしは、ディナーの準備のため、早くにチボリをあとにしたのだが、幸いにして楽しい夕べとなり、喜んでもらえてうれしかったです。


詳しい内容はまた後日に。

営業

わたしと同室の女性は、実はわたしとはまったく違う組織に所属している。

いわば、大学が出資して設立された、コンサルタント会社で働いているわけである。

 

日本の大学でも、民間会社とコラボレートすることは多くなっているが、会社からもらえる研究費など微々たるもので、大学の職員の給料は100%大学から支給されている。

けれども、彼女の働くその会社は、大学から多少の支援はあるが、基本的に大学から独立した自力運営で成り立っている。つまり、顧客がなければ、給料の支給さえも危ぶまれる状況にあるのである。

しかし、幸いにして、現在のところ、充分な顧客があり、経済的な問題はほとんど皆無だそうだ。

ただ、大学の中で実質働いているので、物理的に近しい大学の職員からの要請で何か手伝ったり、職員主催の会議に参加したり、本来の仕事以外で時間を割くことが多々あるので、それが問題になっている。

 

その問題について、話し合いの場が設けられたそうだが、そのあと、彼女はわたしに、顧客の獲得について勧めたのである。

 

ほとんど大学からの独立機関であるから、彼女たちは、顧客の獲得にも気を配っている。

学会かなんかで関係を築いた会社側が抱える問題を認識し、会社が本当に要求していることを理解してそれに応えるよう努力すること。

大見得を切らず、できることを正直に伝え、誠実に対応すること。

そして、決して自分たちの技術を大判振る舞いでオープンにはしない。

 

せっかく顧客を獲得するチャンスがあっても、誠実に対応しなければ、二度とその顧客はやってこない。

自分の好奇心を優先して、顧客が本当に求めることから離れてしまえば、それで信用を失うことにもなる。

 

自分たちで、給料も含めた資金を調達しなければならない分、責任が重いのである。

日本の大学のように、微々たる研究費ぐらいだったら、思うような結果が出なくても、それで咎められることはないし、会社が離れても大学にとってはそれほど問題とならないであろう。

日本でも、研究費が大幅に削られているので、自力でお金を調達する必要性が出てきたようであるが、かといって給料まで保障されていないわけではない。自分の生活まで脅かされてはいないのである。

 

しかし、営業か。。。。

ある意味、研究より厳しいなぁと思う。

実際に、研究能力は高いのに、営業はまったくできないという人もけっこういる。

なんといっても、人と交わらなければならないわけだし、自分の思惑で動くのではなく、他人を尊重することが必須だから。

 

お父さんのコンサルタント会社で働く彼にしても、解析能力はあるが、自分自身で顧客を獲得したことは皆無である。おそらく、外部の人と接触する機会もほとんどないと思う。

彼は、お父さんから与えられた仕事をひたすらこなすだけである。

 

そしてわたしも、どこかの会社に勤めて、与えられた仕事をするのが望ましいと思っていた。給料は保障されているし、やることが決まっているほうがラクだからである。

 

でも、同室の女性に、

「あなたも、自分からどこかの会社にコンタクトをとって、コラボレートできそうなら、プロジェクトを立ち上げるのはどう?」

と言われ、大いに考えさせられた。

 

彼女と同じように顧客を自力でつかんで、ここで働き続けるかどうかはともかくとして、やりがいのある仕事を得るには、自分の優位性をいかにデモンストレートするかどうかが鍵になるのだ、と。

わたしはこういうことができるので、それに合った仕事をしたい、というのではなく、会社が求めることを認識し、それに応えることが大事なこと。

 

ひたすら自分の好きなことだけに邁進していたわたしは、ある意味甘いのかなぁと省みたのだ。

 

彼のお父さんの今までの過程について聞いてときも、お父さんは決して自分の専門を生かすことのできるような仕事ばかりではなく、前例のないハードな仕事も多かったと聞いて、仕事とはそういうものだと認識はしたけれど、どこか自分からは離れた、遠い話のように思っていた。

研究者だったら、研究や開発に専念すればいい、と。

 

でも、今、自分も、そうしなければならないのかな、と。

 

「最初は顧客を獲得できるか自信なかったわけでしょう?それでも、この仕事をしたかったの?」

「自信はなかったけど、とにかくトライしてみようと思ったの。でも、そのおかげで、営業能力も上がったわ。」

 

怖いし、自信はないけど、とにかくやってみたい、と思った。