語学教室(2) | いまのしゅんかん

語学教室(2)

娘の場合、保育園でここの言語を習得しなければ誰ともコミュニケーションがとれずに孤独に陥る状況にあり、なおかつ語学教室で徹底的に日常的な単語を反復練習で獲得しながら、話せるようになってきたのである。

だから、語学教室の効果は認めてはいるのだが。

 

だけど、わたしの考え方としては、

基本的に言語は、二次元ではなく、体験に基づくものであるべきと思っている。

 

確かに、語学教室は、新しい言語を話し出す契機にはなったが、そのあとにさまざまな経験をするようになってから、より言葉が豊かになったように思う。

わたしも、すでに絵本でいくつかことばは知っていたが、毎日生活している中で、彼や子供たちが日常的に使うことばについては実感が伴っているだけに完璧に覚えるようになった。

 

だから、絵本やカードや歌でことばを覚えさせるのではなく、豊かな体験の場を与えることの方がよっぽど効果的なのではないか、と。

森を散策してさまざまな植物を観察したり、あるいは植物を育てたり。一緒に家事をしたり、何かを作ったり。

 

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彼と、息子さんの食事の仕方について話したとき。

 

「教えているんだけど、なかなか改善しない。」

「それだけを改善させようたって、無理だよ。もっと基本的な力を育てないと。あることに焦点を合わしてそれだけを直そうとしてもダメ。もっと全体を見ないと。」

「どういうこと?」

 

「わたしが見るからに、K(息子さん)は、手先が器用じゃない。それで食べるときも指を使ってラクしようとする。それはきっと、手先を訓練する機会に乏しかったせいだと思う。だってね、例えば、服を着るのも靴を履くのも、すべてあなたがやってあげてしまうでしょう?それで自分からやろうという気も起きないわけよ。わたしも時々靴を履かせようとしたことがあったけれど、本当に自分からはまったく動かずにひたすら履かせてくれるのも待っているだけというのに驚いた。」

 

「それにね。M(娘)が通っていた日本の保育園では、靴や服やトイレなど自立を促すだけでなく、崖のぼりをしたり、泥遊びをしたり、あるいは床のぞうきんがけをしたり、玄関の掃除やうさぎのエサとして野菜を包丁で切るなどの労働をして、日常的に手先を動かす機会にあふれていた。そうしていくうちに力がついてきて、同時に器用さも備わってくるわけ。だから、ただひとつのことに注力することは無駄で、日常生活全体を見渡して改善していかないと、なかなか直せないと思うよ。靴や服を自分で履かせるだけでなく、食事のときに食器を運んだり、植物の水やりをさせたり、小さな労働の場を与えて手先の訓練をさせた方がいいと思う。」

 

このわたしの提案に彼も共感を覚えてくれ、早速息子さんに自分で服を着るなど、トライさせるようになった。

 

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ことばにしても、体の発達にしても、日常生活から切り離してそのスキルだけを身につけさせるということに、あまり意味を感じない。

日常生活のうえで、初めて発揮されるスキルだからである。

 

今、英語教育が盛んなようであるが、わたし自身の意見としては、特に子供に限ってはナンセンスだと考えている。

英語を使う機会のほとんどない日本で、そんなことに金も時間も費やすのはエネルギーの無駄でしかなく、しかも情緒が劇的に発達する幼少期においては、感性を育てることに重きを置くべきだと思うからである。

ことばというのは、自分の感性を外側に伝達するツールでしかない。ツールよりも、コンテンツを充実させなければ、ツールは意味のないものとなる。

 

もっとも、英語教室も、ピアノ教室などと同列で、語学習得というよりは、お楽しみのひとつとしてとらえられているのがほとんどだそうだが。

でも、あまり英語に躍起にならずに、豊かな母国語習得の方に重点を置いて欲しいと思う。

 

ちなみに、もし日本に帰ることになったら、娘の外国語能力を維持させる努力はしないと思う。

英語に近いので、もったいないような気はするが、日本では意味のない能力だから。

 

それと、今、日本語能力はだいぶ落ちている。

ボキャブラリーに乏しくなり、日本語を話していても、この国の言葉を導入することもしょっちゅう。

それに、頻繁に日本語が止まり、「えーと、うーんと。」が数十秒間続くことも。

娘いわく、日本語よりもここの言語の方が話すのがラクだそうだ。確かにずっと流暢に話している。

いくらわたしとは日本語で話していても、圧倒的にここの言語で話す時間の長い今は、そういうものなのである。