【書名】一冊で哲学の名著を読む
【著者】荒木清
【発行日】2004年5月15日
【出版社等】発行:中経出版
【学んだ所】
「存在と無」サルトル
・(概要)「わたしたちはどのような存在のあり方をしているのだろうか?」この問題に取り組むサルトルは、ハイデガーの問いを引きずりながらも、ハイデガーをのり超えようとしている。サルトルは博学である。その多彩は、存在論とわたしたちの現実-自己欺瞞・羞恥・欲望・無関心・誘惑・恋愛などの間を突き進み、わたしたちに存在への問いを仕掛けている。
・他者との諸関係
- 対自は、「……へ向かっての逃亡」として自己を時間化し、自己を「未だ来ぬ自己」としてとらえている。⇒対自の追求的逃亡はいいかえると、「対自は、自己の存在であるべきところであるというしかたで存在する」となり、さらに「対自は、自己のあるところのものであらぬ。対自は、それがあらぬところのものである」となる。
- 他者との具体的な関係とは、「他者にとってわたしがそれであるところの対象」である。⇒一般的ないいかたをすれば、「他者はわたしにまなざしを向けて」いる。⇒他者はわたしに対して有利な地歩を占めている。⇒他者の「まなざし」は、わたしの身体を彫刻し、それをあるがままに提出し、わたしには決して見えない姿のままにわたしを見ているのである。⇒このとき他者は、「わたし」を観察している。⇒このときわたしは、他者から「わたし」を取り戻そうとする。
- 逆にわたしは他者を見るとき、「まなざしを向ける者=他人」として、他者をわたしものとしようというありかたをしているのである。⇒このとき、他者とは相剋の関係にある。わたしの存在を取り戻そうとするわたしの企ては、わたしが他者の自由を奪い取ることでもある。⇒「愛」はこの関係にある。=愛は「所有」の関係である。⇒愛するということは他者をわがものにしようということを抜きにしては考えられない。
- 愛は暴力をもっとも嫌う。愛は「服従」させることである。⇒暴力は相手の自由を奪い去ることである。しかし服従は、「相手の自由意志のなかにおいて」相手を所有しようとすることである。⇒相手が自由意志において惚れてくれなければ、愛はつまらない。⇒相手の自由が自らを決定して愛となることを欲するとサルトルはいう。⇒彼が要求している愛は、鳥もちでとらえるように、他者の自由を、他者の自由そのものによってとらえることであるという。
- 我々の対自存在は、いつも欠如の情態であり、不安である。⇒愛されたいと思うことは、「世界のーただなかにーおけるー対他ー存在」として、わたしを存在させたいと思うことである。⇒服従し、自己拘束する一つの自由によって世界・内・存在として自分を再創造しようとすることである。そのように相手に強いることである。=わたしを相手の意識のなかに、安全に存在させようとすることである。
- わたしという不安定な存在が世界・内・存在として存在している。⇒いつも、いまの自分から抜け出そうとして、自分を賭けられる何ものかをさがしている。⇒このとき他者はまなざしによって、わたしを奪おうとする。わたしは生きている確証もなく、ふわふわした存在である。⇒このとき、わたしは他者のなかに愛を求める。愛する対象を求めると同時に、愛されることを求める。=このときに愛する人を見つけた。その人はまた、わたしを愛してくれたのである。⇒このとき、わたしは世界・内・存在で不確かな存在ではない。相手のまなざしはもはやわたしを奪うものではない。まなざしは交わされ、同一化する。それも自由意志において、である。=わたしも相手も、この世界・内・存在で「選ばれたもの」となる。⇒ここには愛する他者の自由が根拠となっている。それが、愛の喜びとなる。「対他ー存在」の存在論的根拠がここにある。
- しかし愛する人は、相手をつねに「誘惑」していなければならない。⇒それにはつねに相手にまなざしを向けていなければならない。まなざしは相手の主観性を奪うことになる。⇒一方、誘惑するとは、他者のまなざしのもとにわたしを置くことであり、他者によってわたしのうえにまなざしが向けられるようにすることである。⇒また、誘惑することは、新たな出発のために、見られる危険を冒すことである。わたしはこの存在の地盤から離れることを拒む。そのためには、わたしはわたしをさらに魅惑的な対象としなければならない。⇒誘惑するとは、さらに新しい戦いを挑むことである。
- こうして、誘惑することによってわたしを一つの存在充実として構成し、このような存在充実として相手に認めさせようとする行為である。⇒この行為には、世界に対して多様な能力を示すことである。何によってか?=金銭、権力、縁故、等々によって。
- 愛ー誘惑の表現上の試みが「言語」である。⇒言語は、根源的に、「対他ー存在」である。いいかえれば、言語そのものが他人にとっては対象として体験される。⇒言語にはわたしの主観が表現されている。この意味ではサルトルは「わたしは言語である(わたしは言語を存在する)」という。⇒つけ加えてハイデガーの「わたしは、わたしの言うところのものである」は正しい、という。
- 言語は他者の承認である。⇒誘惑は言語によってなされている。いいかえれば、言語は、誘惑によって表現の原初的なありかたとして、顕示されうる。⇒誘惑においては、言語は、認識させるのではなく、体験させることをめざす。⇒ここでは言語で「表現する」と「存在する」は一つになる。⇒他者は、言語に意味をあたえるものとして、そこに現前している。⇒一つのことば、一つのしぐさは、他者を他有化すること。「だれかがわたしの思想を盗む」というように。
- 「愛する」とは「愛してもらおうとする企て」である。⇒それゆえに、恋愛関係は「愛」という価値の理想的なしるしのもとに、二つの個体が相互に融合しているという無限指向の一体系である。⇒しかし、この愛には三重の「自壊」が潜んでいる。
- 愛は本質的に一つの欺瞞。一つの無限指向である。⇒愛は暗黙の了解からくる、しかし、わたしが愛されればわたしはわたしの存在を失う。
- 他人の「愛を突然なくす」という目覚めはつねに可能である。⇒他人という目覚めはわたしをいつでも他者として出頭させることができる。恋する人が感じる不安定はそこからくる。
- 愛はたえず第三者によって相対化される。⇒そのために恋する二人はふたりきりでいようとする。
- しかし、「この世で二人きりでいる」ことは世界内においては、心中しないかぎり不可能である。⇒こうして愛は、三重の破綻へと向かう。
- 他者に対する第一の態度「愛」「誘惑」は挫折の道をたどった。⇒他人の意識をわたしに同化させようとしても、それがわたしには不可能と分かると、わたしは決然として他人の方へ向き直り、他人にまなざしを向けるようになる。⇒こんどは「わたしにまなざしを向けている他者のうえに、わたしがわたしのまなざしを向ける」のである。=このとき、「無関心」「欲望」「憎悪」という態度が生まれてくる。
- 「無関心」とは、他人のうえにわたしの主観を打ち立てること。⇒そのとき、わたしはそれを「見ないように覆っておこう」とみずから心に決めたところのものである。⇒他人たちは街路を通るような見知らぬ形態の人たちである。わたしは障害物を避けるときのように、人びとを避ける。⇒わたしはこの世界にただひとりでいるかのようにふるまう。他者がわたしにまなざしを向けることができるなどとは、思ってもいない。気楽に厚かましくふるまう。⇒なぜなら、まなざしが向けられなければ、自分が他有化されるとはかんじないからである。⇒他人がなんであるかなど思ってみることもない。わたしは自分がまなざしによって、他有化されていることを感じない。
- 「無関心」それにもかかわらず、わたしは「見られている」のである。⇒自分の「見られている」という体験をすることもできず、所有されていることも体験できないのである。⇒そして、所有している人の方へ、向き直ることができない。⇒まなざしとして他者を直接に体験する場合には、わたしは体験することによって身をまもり、他人を対象として考え得る可能性が残されている。「無関心」はそれを放棄した。⇒このことは、他者の自由についての知識の放棄である。こうして「無関心」はわたしの茫然自失と居心地の悪さとを引き起こすばかりなのである。
- 逆に、他人の自由を奪い取ろうとすることは、「性的欲望」である。⇒その反対の「性的嫌悪」と並んで、「対他ー存在」の二つの根本的な構造となる。
- 欲望はまず、わたしの意識の特殊なあり方の一つである。⇒羨望は胸が焦がれるというように、澄んだ、半透明なものだが、欲望は溺れる、立ちすくむ、ひりひりするというように、混濁した意識である。⇒この混濁には、対象となる他者の身体だけが目差されているのではない。自分の身体について、埋没しようとしている企てがあるからである。
- 「性的欲望は、一つの身体を、いま一つの別の身体が欲望することである」ことと同時に、いまひとつの自分の身体に向かっての欲望である。⇒「欲望する存在は、自己をして身体たらしめる意識」である。⇒欲望するときほど、自分の身体を意識することはない。
- 性的欲望とは、一つの身体をわがものにしようとする欲望である。それは自分の身体が、肉体としてわたしに顕示されるかぎりにおいてである。
- 欲望に伴う行為として「愛撫」がある。⇒それは相手を満足させようとすることではなく、まなざしと同じように、相手を「加工」することである。⇒わたしの手によって、相手をわたしの思うように彫刻することである。他者を受肉化させる儀式である。
- 対自にとって「存在する」とは、自己の存在の仕方を選ぶことである。⇒このとき意識は、自己を欲望として選んだ。⇒対自は自己の身体を欲望として存在するべく、みずから決意した=他人の自由に触れたのである。⇒他人の意識が他人の身体と同化したとき、それに自分の身体と意識を同化させようとする。⇒この完全な同一化は所有への欲望となる。=それが「性的欲望」である。⇒こうして「性的欲望」は、すぐれて存在論的根拠をめざしている。