救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。


2025年はお世話になりました。

 

個人の内的なことや考察などを勝手気ままに綴っていた本ブログですが、キリスト者のなかでも、教派をこえて読んでくださっている方がおられて、読者の方から何人も実際にお会いしたときに声をかけられ、恐縮でありました笑い泣き

 

まあ、特定の界隈に渡って出入り、交流させてもらっている人間は私を除いてほとんど聞いたことがないので・・・。

 

とかく、この記事を読んでくださっている画面の向こう側お一人お一人のために、祈らせていただきとうございます。

 

 

これまでの活動報告なのですが、

 

ここ数年間は、私の家庭と教友の家庭をで交互に「家庭集会」を開催しておりますが、

カトリック、プロテスタント、幕屋関係なく、集まり、

聖書を読んだことのない方、心に傷を負った方が導かれ、あたたかい雰囲気の中で神の霊に触れる現場にいさせていただくことができて、本当にこれは神様の力以外の何者でもないと感じております。

 

『17歳から楽しむ聖書』の著者である石田平和さんにも来ていただき、

旧約から新約までの救いの物語、

というよりも、今ここがエデンなのであるということを伝えられ、

大きく聖書の読み方に驚くばかりでした。

 

 

私自身、職場のことで、本当に心身限界をきたし、

詩編の140編、141編・・・ダビデの呪いというか怒り憎しみのような祈りを、神の前で毎日毎日大声で祈っていました。

 

心が、自我で一杯になり、神の前に出られない、祈れないときに、

教友、、、とりわけ、ご婦人の祈りが、まるで聖母の取次のように感じられ、

その祈りのエネルギーは、永遠に私の魂のうちに生き続けております。

 

思い出すだけで、感謝で泣けてきます。

 

また、「こんな悲惨な人生があるのか」という友がおりますが、

神への恨みや、憎しみの中にあり、

日々祈ることを伝えました。

 

祈られた私が、今では、日々祈る側になっています。

 

 

 

 

すべての活動を「私」がやっていたとしたら、まあほとんど何もできなかったでしょうし、誰も集まらなかったでしょう。

 

支えてくださった信仰の諸先輩方のおかげです。

 

 

本当に、「使徒行伝」の家庭でのパンの分かち合いや祈り、ものと心の共有さながらの現場、です。

 

もし、「ちょっと覗いてみたい」という方がいらっしゃれば、是非、遊びに来てください。

 

 

非常にこの前の集会で印象的だったのが、

「キリスト教というともっといろんなことを勉強したり、日曜日に礼拝いかないといかない、いろんな戒律のあるものかと思っていた」と言われたことなのですが、

本質としては、神様に対して「天のお父様」と親しく呼びかけて声を聞くこと、交わること、これでいいんですよ、

と言われ、その方の目がぱっと開かれたようになったことでした。

 

生活スタイルや儀式やコミュニティとしての「宗教」が壁になっていることはすごく大きい。

 

だけれども、いっしょにご飯を食べて、話をして、

親しく神様、神様と呼びかける・・・

 

そういう仲間がいること。

辛いときしんどい時は、ちゃんと助け合うこと。

 

これでいいんじゃないですかね、と思うわけですよ。

 

それこそ、祈ることすら馬鹿らしい、抵抗があるんだったら、

そうじゃなくて、いっしょにしゃべってご飯食べるだけでも立派な「宗教」(笑)ですよ。

 

 

 

塾講師の仕事に従事させていただいている私ですが、

フリースクールの場を使わせていただけることになったので、

コーチングやイエナプランを取り入れた教育の場をつくっていきたいと思っています。

 

それぞれが、個別に、協力しながら、

探求的な学びをすすめていける場です。

あとは、自分の中にある使命やミッションを生き生きと生かして最高の自分を生きるための教育をしていきたい。

 

一緒ごはんや合宿をしながら、生きる力や人を信頼する力を取りもどしていくそんな、

天の国が開けるような学び舎をつくっていきたい。

 

もう一点が、

「一緒ごはん」の「関西支部」(?)じゃないですけれど、

「多拠点生活」の家をつくりたいと思っています。

 

ここで、生きづらさを抱えた若者たちが、

いっしょごはんをして、しばらく寝泊まりして、自分を回復させていく。

 

 

しかし、問題はお金・・・。

 

活動を見て、知って、寄付をしてくださる方がいれば、すごく嬉しいと思いながら、

新年頑張りたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

タブーを述べさせてもらうけれど、
やっぱり一定の条件のもとでの枠組みやルールを決めた上での「体罰」はどうしても必要なんじゃないか、
ということを現場ですごく思うわけです。
「無条件にいかなる体罰も禁止」というのは、さすがに教員の人権を著しく侵害している。
もしくは、法によって、周囲の人を守るための必要な隔離や排除の処置をちゃんと認めてくれ、と。
(一番ベストなのは、
教育の仕組み自体を根本的に変えること、
その必要のない空間を創出することなのだが
これはあと100年は変わんない。)
これをやんない、できないから、教員がどんどん病んでいく。

ただ後者を認める、となると、隔離された側の行き先は?
はいはいじゃあ君は授業中私語をしたり反抗したりしたから少年院ね、とはならない。
少年院未満の吹き溜まりのような界隈、暴走族、非行グループだとか、
やっぱりそいつらを集めた教室や教育機関は地獄だろうと。
それが移行するのみっていう話。

というのも、
大人や社会を完全に舐め切って、ルール遵守の意識の欠片も感じられない、あえて「子ども」とは言わないーーー餓鬼
が一定数いるのはいつの時代も変わらない現象だと思うのですが、
どこかで、そこにきっちり厳しく歯止めをかけられる実力行使がないと、
全体がガン細胞のようにどんどん崩壊していく。

そういう現象に法や実力の歯止めがかからなくなると、
賢い人や富裕層は、うまいこと彼らと関わらないところに逃れ棲み分けが自然に生じる。
スラムの周りに巨大な壁ができるように、
「ラザロと金持ち」のような巨大な分断が生じる。

それを治めるための、巨大な暴力が発生するのは、
福沢諭吉の『学問のすすめ』を読むまでもない。

自由と愛と個人の次元上昇を願う人々は、
「波動をあわせず」
「我関せず」
で、それでいいのかもしれない。


もちろん、大半の子どもは、きっちり話したり、厳しく指導したり、褒めたり、認めたりすることによって、ある程度の枠組みを超えたらこうなるんだなということを察知して、行動を修正していくわけでもちろんそうした層にかつてのような体罰ありき、は私も断固反対である。

では、心の人間らしい部分、他者への共感や思いやりを著しく欠き、
「爬虫類の脳」で生きているような人間。
「ここまで一定のラインを踏み込んだら痛い目見るぞ」
というのをちゃんとわからないと、永遠に貪り続け、信じられないレベルの被害者意識と権利意識を振りかざす。


想像してみてほしい。
オウム真理教と粘り強い対話の末、テロリストと信頼関係を結び共存する警察を。
全く刀を抜かず鬼舞辻無惨やその配下の鬼と対話の結果犠牲を耐え忍びながらじっとしている鬼殺隊を。

気持ち悪くないか。

私の高校生くらいまでは普通に体罰は日常的な風景で、
授業中にケータイが鳴ったら教師が叩き折る、
中間体操中外に出ずに教師をおちょくるいじめっ子を、真っ赤になるまで張り倒した教師に、頼もしく思ったものである。

9条護持、死刑廃止を訴えていた超リベラルで優しいな神父でさえも、
「最近は体罰反対反対言い過ぎはおかしくないか。
昔は普通に殴る神父いたんだけれどなあ」と授業中おっしゃっていたし、
普通に校長をやっていた神父が私語をやめない学生を全校集会でビンタしていたわけだが、
こういうことは、進学校でもあったし、
それらが理不尽で不条理なことだとは思わなかった。

そういうことが、一律に全く法律で禁止され、
少しでも何かあると、もう全国ニュースに流れる。


つまり、
貪る人間、恥知らずの人間、倫理道徳を持ち合わせていない畜生
の権利や市民権をどういうわけか、
大半の人間が「おかしい」と思いながら、
唯々諾々と権力に従うように受け入れているわけである。

排除しなきゃいけない人間は排除しなきゃいけないんだよ。
どっかで、「ここまでやったら痛い目見るぞ」を守れる者がなくなっちゃった。
おかしい人間に合わせようとする、受け入れようとすると、
全てがおかしくなっちゃう。


厳しく強制されず、放置と甘やかしばかりを続けさせられ、
勉学や授業をサボり、言い訳と恨みつらみばかり毒を吐き続け、
周りに迷惑かけてきた人間が、
将来Fラン高校行って、中退して、
人が離れ、定職にありつけず、もっと悪い奴にひたすら搾取されまくった挙句、
行方不明になって、親の死に目にも会えない、、、
10代の頃に調子に乗ってきた何十倍ものツケを払う、
という実例は、
いくつかみてきたのだが、
これって、自業自得なんだろうか。
社会全体の責任?

その人生は幸福だったのだろうか、
意味があったのだろうか、
と神に問う。
確かに十字架のあの人の目から見たら真っ先に天国に行くくらいの価値のあるものだったのかもしれないし、
我々のような感受性を持つものこそが深い縁にいるのは必至なのであろうが、
わからない。

ただ、ざまあみろでもせいせいしたでもなく
悲しいでも、
幸せを祈るでもなく、

なんとも言えない気持ちになる。
どうでもいい、って思えたらいいんだけれど。

そいつの人生だから、これは他人が口にすることでもないし、
関わろう、援助しようとするとそれもはねのける。


地獄があるとしたら、そういうところなのかな。




E今日はインターナショナルデイでした。
国際色豊かなお祭り。
前田万葉枢機卿にもすっかり覚えられてしまい🥰



上智大学のことなど話しました、、、
が後になって「罪深い私のために祈ってください」とお願いすりゃよ良かった。
カリスマ指導者に見られる激しい祈りもなく、逆説的なキラーフレーズもなく、鋭いオーラもなく、
高校生のバンドを孫のように見守る「みんなのおじいちゃん」感が😇

異質な他者や外国人との共生ということについて考えます。

さて、
おりしも、前日の夜、我が家の近くに越して来たミャンマー人たちが夜遅くまで集まってさわいでいました😅
技能実習生でしょうか、留学生でしょうか。
夜の22時、23時、0時を回っても、騒ぐ声が聞こえてくる。
家の窓は開けっぱなしで周りにも聞こえてくる。

うるせーーー」
私はそう思いました。
「集まって楽しむのはいいけれど、いつになったら解散するんだ😡」
「こっちは子供が寝てんだ。
あと、おじいちゃんおばあちゃんたちも寝てんだ。」
そのうち、私の脳内でイライラや恐怖が芽生えてくる。
こんな思想がムラムラと湧いてくる。
「ここは日本だ!
外人はなんでもかんでも無作為に入れるべきじゃない!」
ついに、0時半になっても、彼らは騒いで、路上で喫煙までしているので、
いつも教室で私語のうるさい生徒を注意するノリで、
勇気を出して、、、


「オイコラァ!な何時や思っとんねん!近所迷惑や!いい加減にせい!」

と怒鳴り込んだところ、





ヘラヘラ笑いながら、

「ニホンゴワカリマセーーン」とそのまま叫び続けられた、、、









、、という妄想が出て来て、
ドキドキしていましたが、

「こんばんわー。
すみません、お楽しみのところ申し訳ないですが、
ちょっと夜も遅いので、お静かにお願いできますか?
引き続き楽しんで😅」
と腰を低くして、控えめに伝えたところ、
タバコを吸っていた彼らはハッとして、
「すみません」
そして中にいる仲間に声をかけ、
それからスッと静かになってくれました。

まあ、かくいう私たちも淡路島でBBQして騒いでいたら、怒鳴られたこともあって、
(いきなりああいうキレ方しなくてもいいよね)
と凹んだこともあったし、
毎月、自宅では大声で祈っているし、
大きめの音量でオーディオはかけているし、
寮の時代般若心経練習してたら(笑)隣からドンドン壁を蹴られて「うるさい」と言われるし、、、😅

我々の性質として、
身近にいる交流のない異質な他者を恐れ、排除しようとする傾向があるようです。
そしてそれは私も例外ではない。

交流仮説といって、
実際交わってたり対話を深めると友好的な関係になるそうで。

第一次世界大戦中も恨み憎しみあっていた国同士、前線の兵士同士でクリスマスに友情が芽生えサッカーをして楽しんだことがある。

ふと、
「ああ、今日のインターナショナルデイに彼らを誘えば良かった」
と思いました。
身寄りのない日本で、暖かく受け入れて、
日本の心に感動してもらえたら嬉しいとか思っているよ。

屋台で、ミャンマーのご飯を買いました。
美味しかった🥰


さらに余談ですが、仕事の話。
これはちょっとしたことかもしれませんが、紛れもなく私にとっては奇跡でした。
授業中の私語がうるさくて注意しても反抗されるのが病むほどストレスで、
「本当に地獄に堕ちろ」「消えていなくなれ」というくらい怒り浸透な毎日で、だけど、うっかり表でそんなことを口にしたらとんでもない 笑
そんなことを内心思わずにはいられない人間なのだ
という本音を家の集会で告白したところ、
仲間の皆さんから本気で祈っていただき、
こんな自分でも許され愛されている」
「こんな自分を本気で受け入れ、許そう」
と思えたわけです。

まあ、いいやと授業に臨み、
管理できなきゃ失格という想いを放棄し、
彼らのおしゃべりに付き合い、
自分の四国遍路の話や毒親の話やそういうことを喋っているうちに、
やたら興味を持たれ、質問責め。
その日の授業は進まずでしたが、
正直に申し上げますと、
楽しかった」‼️
彼女ら、彼らと、ラポール(信頼?)の手応えが、初めて感じられた、のでした。

でねー
わかってるのよ。
多分本人が骨の髄まで。
人間って圧倒的に不平等で、
生まれ、育ち、頭脳、性格にも、如何ともし難い差があって、
「努力できない」人とかいるのよ。
どう頑張っても頑張れない子とかいるのよ。
遅い足が速くならないように、
頭が悪い子は頭が良くならないの。
容姿もそうだし、
性格もそうなんだよ。
だけど、全部「本人の責任」にされてしまう。
俺もそうしちゃう。
このまま進んだら、社会から合法的にドロップアウトしちゃって夜の世界に消えていくことがわかっているけれど、
俺たちは、「いい子」「できる子」を守るために、
「正しさ」を押し付けるし、
できない子がドロップアウトしないように、
正しさを押し付ける。
わかってるけれど、
「頑張れ」って言うしかない。
その子のありのままを受け入れる、なんてできるか。迷惑だから。
水を飲もうとしない馬に水を飲ませるのも、教師の仕事。

彼ら彼女らが自分の存在を示せることは、
自分を認めてくれない大人社会への
反抗と挑発、だけ。
心の中では、どれだけ大人がイライラして苦しむか、
ポイントを知っていて、
隙あらばそこを抉ろうとする。
復讐。
もう、社会にポジションなんかいらないから、
悪いとわかっていても引き摺り落とすことしか心のベクトルが向かない。
恨まれれば恨まれるほど、彼女らの目論見は成功する。
で、これ、怒られても叱られても裁かれても辞められないんだよ。
本当に満たされるべきもので心が満たされない限りは。

わかってるからこそ、
辛い。
なんでこんなことしなきゃいけないんだと思う。

特に、母親の愛を受けなかった子は、
その上にどんな自己啓発や社会性を積み重ねてもガラガラと崩れ落ちる。

そうねー
一番伝えたいと思っていることは、
私自身が、社会不適応人間で、
人間存在はクソで、自分もクソで、傲慢と保身の権化で、
人はみんな偽善者で保身的で、そういう自分もどれだけ理想を語っても、やっぱり本質的にはエゴイストで、
こういうことを全員誤魔化して社会的に立派なフリをして認め合っているだけ。
これって、自分でいくら頑張っても祈っても残滓は心の奥底の残り続けていて自分じゃ根本的にはどうしようもないっていう現実。

俺自身が努力してもダメな人間なんだ。
ていうか努力すらできないんだ。

だけど、
そこも含めて、
たくさん愛されて、許されて、支えられて、
いつもいろんな人が本気で背後で祈っていて、ついていてくれる、
それこそお母さんのような人たちに罪深い私が今も死を迎える時も祈られている
っていう経験を重ねていくうちに、
まあまあ、罪を告白して、謝ったり、改善したりして、
人と信頼関係結んで行ったり、
こういう気持ちは消えていったかな、ということ。

まだまだ怖いことはたくさんあるし、
自分を責めてばっかり。

あるときゃあるし、消えないこともあるけれど、
神さまはそれでも大丈夫ともう一度立たせてくれる。
自分を許していこうと思うよ。

そうだな、
ああ、祈られているんだなって思うと、
俺も、みんなにとって、
取り次の祈りをできる存在でありたいと思っている。

人は愛でしか変わらない。
今日は、授業の時間でこれを読みました🥰





めっちゃ響いてた🤣✨

そして、
すごくいい感じの雰囲気ができてきて、
「そうそう!この感じ」!

上から管理から、
「そっちの方がハッピーだからこれ選ぼう」
って自然になる流れ。

この絵本のすごいところは、
「天国言葉を使っている
こうていペンギン君が、
モテモテになって美人の彼女ができて、
奥さんも子どももいっぱいできて」
という、

その、

道徳的な、社会的な、真面目なアプローチじゃなくて、
やると超嬉しいことが起こるよ、
という言い方。笑

否定ペンギンくん、
「そういうことはいけませんよ」
じゃなくて、
「彼女もできず、
絶滅してしまいました」
っつーーー結末をさくっと書いて、

「さてあなたはどっち派ですか」
っつって選ばせているところ 笑

いや、
これはいい☺️✨




まさに、詩篇一編にも同じことが書かれていますね。

「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず 主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。 その人は流れのほとりに植えられた木。 ときが巡り来れば実を結び 葉もしおれることがない。 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。 神に逆らう者はそうではない。 彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。 神に逆らう者は裁きに堪えず 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。 神に従う人の道を主は知っていてくださる。 神に逆らう者の道は滅びに至る。」
‭‭詩編‬ ‭1‬:‭1‬-‭6‬ 新共同訳‬
https://bible.com/bible/1819/psa.1.1-6.新共同訳

イエス・キリストが、十字架に至るまで、至誠を尽くして、真っ直ぐに見ていた「人間」とはなんだったのか。
まっすぐに。どこまでもどこまでもまっすぐに。ただ、それだけしか見ていなかった。
神のまなざし。神へのまなざし。

私たちが一度そのまなざしに目をあわせられた時、
平伏す以外ない。

罪におののく。
喜びながらも。

いかに自分が愛されていたか、
その恩寵を拒み、
人間の自我を中心に生きてきたか。

そして、
それは、自分で救うことができないことを知る。

神の愛にのみ生きていきたい、
と、
そのまなざしは私たちを駆り立てる。



中世ヨーロッパについて調べ始めたら興味がとまらなくなっています。

私は「コーチング」を一つの仕事として持っていますが、
これはつまり、官僚主導型資本主義の相互監視システムが個人の主体を支配しているパワーの系から出たところで、
本当の自由な自分を見出していこうとする営み、と言えますが、
じゃあ、その「本当の自己」とはなにか、「真我」とはなんぞ、、、というと、
それは宇宙万物の根源と繋がってくる。
夢とか目標をこえて、
使命とか天命と言われるものを人生の中に見出し、それを生き切ろうという「あり方」の話になってくる。

では、その自己は自分が自分で創り出したかというとそうではない。
あらゆるものに先立ちて、私の存在を望んだ、大いなる意志の声をまずは第一に聞き、繋がっていなければならない。

その声を人生の中心に据えることが、本当に自由な、本当の私を生きることになってくる。

それは、「外的な」強制に思えて、実はそうではない。
本当の望みと、神の望みは一致し、
大いなる力は、私をはるかにこえて、私にその使命を果たさせようとする。

そして、全人類一人一人の魂が、世界史の中において、固有の大きな使命を持っている。

ーーーそういうプログラムをぎゅっとまとめた古典が、
イグナチオ•ロヨラの「霊操」(スピリチュアル•エクササイズ)。

この世での騎士としての成功者を目指していた彼は負傷し死にかけていたところ、暇つぶしで読んだ、聖人伝に涙し、
人生をすっかり変えられてしまう。
聖フランシスコや、ドミニコのような人生を送りたいと願う。

彼が設立したイエズス会は近代的自由な個人の概念を推し進めた。
その学校から、近代哲学を切り開いたデカルトが現れた。

ーーー私が出た上智大学も、その理念のうちにある。

では、その時代に何があったか?
彼が触れた素晴らしい遺産は何で、そして腐敗は何だったか?

ーーー中世ヨーロッパ。

神の霊がリアルに文明全体を覆い、全ての価値観が神とその栄光のために捧げられていた時代。
一つの憧憬を抱かずにはいられない反面、
それはもう地上においては二度と戻らない永遠の中にのみ現存するノスタルジア。

多かれ少なかれ、遠い地域のあんまり関係ないような発想やスタイル思えて、実のところ、それは私たち日本人の物事の発想の枠組みに大きく影響を与えておりーーーそれもアンチテーゼとしてーーー「根っこ」としての中世を振り返って対話することで、現代の意義も見えてくるかもしれません。
同時に、日本人として、先人たちの歩んできた精神性に身を置くことも大切です。

「もし自分が中世に農民や都市部に生まれていたらどんな生活をしてどんな一生を送っていたか」
「十字軍時代のムスリムやキリスト教徒として生まれていたら」
などと想像すると「何であんな愚かなことをするの」という現代からの「断罪」とは別の切実な「力学」が見えてくる。

現代社会の「苦しさ」について思うと、
それは私たちの精神や心が根っこや共同体から切り離され、
至る所で鉄鎖と相互監視と生産性に繋がれた「自由」だけを与えられている、からという気がします。

中世が「暗黒時代」というのはこれは一面的な見方かもしれません。
カロリングルネサンスや大学の設立などの文化発展があったわけです。
また、公には古代ローマの奴隷制度も廃止。(農奴は存在した)

「キリスト教」は現代的な特殊な「宗教」というよりも、
世界の前提で、生活の全てに入り組んでいた文化形態で「そういうもの」だったようです。
政治から生活の全てが、慈しみ深い神のみ手の中で営まれ、
人生は、神のもとからきて、神のもとに栄光を期す。

見えない神の目に見える形で現れ、一人一人に神の愛が触れる現場である
「秘蹟」は日々の生活に安心と活力をもたらした。

共に祈り、支え合い、旅人をもてなし、貧しい人を助けるそういうあたたかな風土が醸成されていった。

人間の有限な理性も、それらを包括し、それらをはるかに超えた大いなる存在の前にこうべを垂れる。

文化や教育や福祉の担い手となったのが修道士たちでした。

他方で、政治権力との間で癒着が進み、腐敗が生じる。
聖職は売買され、
聖なる秘蹟や贖宥は、信仰を伴わない、単なる外面の偶像となってゆく。
それらの腐敗に対して、クリューニなどの修道会が改革や引き締めを何度もはかり、清貧を旨とした。
(ルターの叫びは、何百年続いてきたものの大きな出口、だったのです。)

十字軍の蛮行については、今更いうまでもありませんが、
その対立の中でも、
アシジの聖フランシスコがスルタンと対話し、スルタンが彼を護って送り返してくれたことも、
イスラム側のサラディンもキリスト教を尊敬し、対話をはかったようです。

さらに、イスラムを通して、古代ギリシャの哲学や学問がもたらされました。

宗教とその世界観が人生の隅々まで行き渡って調和と安心、安全を保っている構造下では、
「異物」、、、すなわち、
異教であるとか異端的な思想というものは、
「世界に亀裂や破壊を生み出す」とんでもない脅威に映ったに違いありません。

現代では、思想や個人の考えは自由で、いかに考えが異なっていたとしても、誰もそこに手を出すべきではない、
という考えは当然ですが、
ーーーというよりも、そうした凄惨な暴力を経て、内心の自由の観念が確立されたーーー
「完成された」調和は、時に自由を抑えつけた。

ワルドー派やカタリ派は腐敗した教会に対して、清貧を目指す運動でしたし、
ルターに先んじて、ウィクリフやフスが聖書に戻れと叫び、殉教。

ルターに至って、
神の前の自由な自己が世界史の中に生まれ、
これは現代私たちが自覚する自己意識にとっても重要なことです。

凄惨な宗教戦争を経て、
宗教と政治は切り離され、
宗教はどれだけ大きな勢力を持とうとも、
個人の魂のうちのこととされました。

カントは、
人間の理性が扱える範囲を明確に立証し、
「目に見えない究極の世界」を語ることに終止符を打ちました。
それは哲学において「禁じ手」となったのです。

民主主義の理念が発達し、
個々人の絶対的な自由が目覚めるも、
それぞれ相互に真理と自由を主張し合いながら、対立を永遠に繰り返していきます。
人間は不安と孤独の中に投げ出されながら、
それでも、つながりや共感を求めて、
そして自由を求めながら足掻きます。

現代に至って、「神は死に」ました。
宗教のうちに生きていた神が、
引き摺り降ろされ、理念となり、思想となりながらも
「それっぽいもの」として形を変えて生き延びてきたが、
人間によって息の根を止められてしまったのだ、
この状況をニーチェは見抜き、
「生きる意味が全くどこにも見つからない」
「それを積極的に受け入れきることから全てが始まる」
と。

他方、少し先の前のキルケゴール。
霊を無くした教会に対して執拗な攻撃をしますが、
彼は、永遠なる神の前、贖い主キリストの前にただ一人立たされ、
おそれ、慄き、絶望します。
そして、現代人は誰もが絶望しているが、それに気がついていない!
と叫びます。

ハイデガーも、この実存の不安の前に、
「そもそも、存在するとはどういうことか」「この世界にある」ってどういうことだ、という言葉にできない驚きの前に哲学を展開していきます。

現代人は、根無草になって、不安から逃れるために自己を喪失して生き、周りに流されて誤魔化しながら生きているのです。

私たちは「荒野」に生きています。
古代の修道士たちは荒野に隠遁し、
ルターやカルヴァンは世俗の仕事に荒野を見出し、神の栄光を表そうとした。
キルケゴールは実存という荒野で叫んだ。
無教会主義者たちは、神のものを神に奪還する運動を教会の外で展開します。

「本当の自分」、、、すなわち、愛、生命との交わりを妨げている自我。
この自我は自分の努力では容易に克服することはできない。

生命に至る選択は「狭き門」なのです。

無数の泡立ち続ける「自由」の中で、
「君たちはどう生きるか」。
共生と排除とか棲み分けということについて考えている。

どのような共生がどこまで認められ、
どのような排除がどこまで認められ、
どのような棲み分けがどこまで認められるのか。

いかなる共生も認められなければいけないのか。
いかなる排除も認めるべきではないのか。
いかなる棲み分けも善か?悪か?

ミスばっかりやらかし、集団にうまく馴染めない私は、
一定の性質を持つ集団組織においては扱いづらい異物、
なのだろうな、というのは感じている。
そうでありながらひどく排除を恐れている。

組織や集団に完全に同化せず、
安心できそうな居場所を選択したり、
あるいは自分でつくりだしていく。

同じような人たちが居場所や語り合える場所を求めて集まる。
そこでも、何割か、
「扱いづらい」、
ストレスになる人たちが出てくる。

自分がそういう存在だって、
自分を責めて悩んでしまう人もいれば、

自覚なく、自分の意志を無理して押し通そうとして、
人を傷つける人もいる。

授業を妨害したり邪魔したり、秩序を乱す生徒がいると、
そして、過度な要求を突きつけてくる顧客や上司に誠実に対応しようとすると、
眠れなくなり、食事が喉を通らなくなり、一日中神経がキリキリし、
このままだと全体が崩壊する、多くの人に迷惑がかかる、責任は自分にある、
自分が無能で価値がない無力な存在だと思ってしまう。
(一番認めたくないし気がつきたくない思いはそれだ。)
それに抵抗しようと、
排除したい排除したい排除したい、
この理論にとにかく正当性を持たせようと
と思う私がいる。
(それを正当だと思う人は多い。
私もそう思う。)
ルールを守らない人は、出ていって、と。
それが当然だ、と。
それは断行されるべきだ。

だけど、
と、ふと思う。

じゃあ、ルールの中でだったら何をしてもいいの?
ルールを守らない人間を「うちにいるやつら」が結束して合法的に貶めることは正義に叶っているのか?

それは容易に「異質なモノ」「劣ったもの」を叩き、
自らたちを、特別な価値のある存在として護ろうとする傾向性に傾く。

彼らは、良心ではなく、
外なる権力にうまく従って、
そういうゲームの勝者のポジションを手にしているだけなんだと、思う。

言われたから、やる、やらない。

いや、コントロールする権力の側にうまく従って、
安全と安心とを最上の目的にしているだけなのだ。

それを一方的に指示しながら、
私も違和感と気持ち悪さを感じる、
が、対話の隙を見せたら、
彼らは一方的に言いくるめて、自分のわがままな言い分を通そうとする、そういう性質を持つのだ。

自分の中にあるうちなる暴力を自覚する。
しかし、それを認められない。
認めながら、それしか仕方がない、と思う。
他者のせいにする。
環境のせいにする。
仲間を巻き込もうとする。
一人で抱え込む。

ーーーエデンの園で知恵の実をとって食べた人祖の性質は、
私の中にも深く根付いており、
否応にもそんな激しい反応を引き起こしてしまう。

(私のうちの悪霊は、救われないことを知ってか、
全ての人がエゴイズムの支配下にあることを知ってか、
それを告発し、全方面に皮肉をちらつかせようとする。)

「愛せよ」「深い心や事情を慮れ」と命じる良心に、
相互に存在を認め合える空間を、と命じる良心に

いや、
「どこから見てもいい人、誠実な人」として見られ、評価されていたいという保身的なエゴイズムが
心のうちで闘い、
神経をズタボロにしていく。

気持ち悪いけれど、ある程度仮面をつけなければいけない。

「暴力」を振るえない。

できることは、
「排除」や「見捨て」のみ。

あとで振り返って、
対話や、忍耐や、適切な距離や壁の作り方、力を分散させる知恵があったことに気がつくが、
その時は、
視野が狭くなって、過度の緊張や恐れの中、何も考えられなくなっている。

それを断行してしまったら、
ひどく放心状態になり、心が苛まれる。
だけど、日々の業務を効率よくこなしていかなければならない。
グルグル考えている暇はない、
しかし、それは何十年も心を苛ませ続ける。

「ごめん」でもなく、
「スッキリした」でもなく、
ひどく哀しく、残念な、絶望的な気持ちが、続く。

神と人とにひどく埋めがたい断絶したものを感じ、
その回復の可能性を自分の中に見出せず、
思い描く希望的空想の全てが籾殻のように吹き飛ばされていく。

tomorrow never knows
癒えることのない痛みを引き連れて、
勝利も敗北もない孤独なレースを、
果てしない闇の向こうに続けていく以外にない。

生きるということは、
断続的な、それの繰り返し、なのだと思う。

でも、
もちろんそういう絶望だけでなく、
様々な人、問題を抱えた人、価値観の人が、
ともに集まって、共感し合い、連帯し、何かを生み出していくことは喜びだ。

そしてそれは可能だ。

もっともっとそうした、殻を破っていくことにチャレンジしていきたい、
とも心から思う。

では、どうしたらそうした条件が可能なのか?

それを可能にしてきた姿勢はなんだったのか?

「相互の存在の承認のセンス」
というべきだろうか?

有機的な個人や小集団でできること、
倫理原則によってのみ動いておらず欲望の集合体として動く社会全体や国家の枠組みでやっていくべきことの間には、
差異もあるだろうし、
当然人間同士の営みで、情熱や誠実さこそが根本にあることもある。


しかし、恩寵の領域もある。

「人にはできないことも神にはできる」
イエスは言う。

ここまで述べてきた
全ての苦しみは、
自分を神の座に置こうとする人間の傲慢からきたものだ。

常に私たちは、偶像を礼拝し続け、苦しんでいる。

それらを神の前に差し出す。
そのままの自分を告白することで、
イエスは、私をそれらから解放してくださる。

覆うように罪を拭い、赦し、
生命へと立ち戻らせてくださる。

その悔い改めに、躊躇する必要はない。

それはとても穏やかで楽で、
素晴らしい平安。

私の魂が新しくされる時、
不思議なことが起こり始める。

敵が、いなくなるのだ。
いや、
もし完全なる幸福と愛と平安に満ち溢れていたら?
私を脅かすものが何一つないと知ったら?

私は、溢れんばかりに全てを愛さずにはおれないだろう。

このことは、繰り返し体験してきた本当のことだ。

これは、
そのまま、外的に何かの宗教を教育すれば世界は平和になるかというとまた別の話で、
愛の世界の完成には、まだ旅のプロセスがあると思うけれど、
時間や空間を超えた永遠の今の中でそれはなっていることだ。