救魂録

救魂録

カルトや発達障害や自己啓発など潜り抜けてきたカトリック信徒のブログです。


過去に経験してきた出来事を語ると、
話を奪うようにして、
「あなたはもともとそういう素質や環境があったから乗り越えられたから良かったでしょうけれども、、、」
「こっちはもっと大変でしたよ。」

という人がポツポツいるわけです。

不幸マウント
苦労マウント
というのでしょうか。

誰も口に出して言わないですけれど、
「はい、一発退場😊」。


「信じる」ことはとても難しいことです。

「信じこむ」ことは、盲目な気がしますし、
「信じない」ことは、孤独なことで
「信じられない」ことは、哀しいことです。

「信じている」つもりが、
実はただ「それにとらわれていただけ」だったり
「ただ頭でそういうことにしているだけ」だったり、します。

けれども、
「信じる人」が美しい、
と思うのはなんでなんだろう。

この世界が「信じない」ゲームの駆け引きの中で動き、
徹底的な検証可能性と証拠とデータと計算と理性のみによって処理されてしまう中、
それでも、なお、やっぱり、
何か一点、
何ものにも汚されることのない処女雪のような意志、
「信じる」
という真っ直ぐな光。

「信じる」ことは、
その人を本当にその人自身にするような気がするのです。

「信じる人」は、
「信じているもの」に、その人を照らし出されている。

少しだけでも、
「信じる人」になりたい、
ちょっとだけ
そんな美しさを持ちたい。

そう憧れます。

 

●「彼らは皆、婦人たちや、イエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちと共に、

心をあわせてひたすら祈っていた。」

(使徒言行録1:14)

弟子たちは誰も「あなたはどなたですか」とあえて尋ねはしなかった。

(ヨハネ21:12)

 

結局、神って「人間のつくりだしたもの」なんでしょうか?

 

よく、「何で神がいるとわかるのですか?」「なぜそう確証できるのですか?」と訊かれ、

あれこれと弁明しているうちに、自分の中の実感を言葉でうまく伝えられないことにもどかし想いです。

対して、分かる人に対しては、教派に関わらず、神に出会った経験というのは近いものがあるので喜びあふれて「そうそう!」となる。

 

他方で、歴史の中でいろんな宗教戦争があったわけです。

様々な教派によって強調点が全く違います。

同じ神を信じているはずなのに、お互いに「あそこは違う!」「うちこそが本物だ」と言い合っています。

内向きな教派のフィルターで他の立場を断罪します。

「本物」であろうとするあまり、そうでないと感じたものに対しては「どーうしても違う!」と違和感や怒りを表明せずにはおれないのです。

その様子を見て、「やっぱり神なんかいない」と多くの人が思う。

 

神とは、ものすごくリアルな共同幻想かもしれない。

「わかんないけれど、長く続いてきたことだし、そういうことにしておきましょう」って誰も何も言わないけれど触れない約束事にして、ただ機構の一部としての形を続けているだけなのかもしれない。

お金や法律は実体がないみんなの決め事に過ぎないにかかわらず、みんなが「ある」というゲームの中でそれを目的にしたり、悩んだり苦しんだりする。

「神」というのも、為政者が多種多様な人種をまとめるためにつくりだした発明品なのかもしれない。

ジョン・レノンは「神というのは苦悩をはかる概念にしかすぎない」(GOD)と歌いました。

私たちの遺伝子の中には「よりパワーを持ちたい意志」こそが根源にあって、それこそが世界を自分の都合のいいように解釈しているのかもしれない。

生きるのが辛く苦悩ばかりという人は次のように考える。

現実は矛盾に満ちているのだから、完全無欠で永遠の世界というフィクションを想定して、そっちこそが本物の世界なんだと言って同じように劣等感を抱えている多数派の人の共感を得て、納得させてしまえば、世の中をひっくり返せるんだと。

現代の常識である、「人権」、「民主主義」、「命は大切」、「人に親切にしましょう」というのは本当はタテマエでしかなく、人間の本当の姿は「北斗の拳」の世界みたいに、強い人間が暴力で支配し、殺し合うのが「ほんとう」の姿なのかもしれない。

要するに目に見えない何かを信じるとか崇拝しちゃうということはそれだけ現実に対する馴染めなさや疎外感やコンプレックスがあることの裏返しなのかもしれません。

神が人間をつくったのではなく、人間の脳が神をつくりだしたのかもしれません。

あるいは、宗教というものは、「麻薬」と似たようなもので、目に見えない彼岸の世界に浸ることで一時的に癒されたり救われたり自分が特別になったような錯覚は得るけれども、結局はただの現実逃避にしか過ぎないものなのでしょうか。

「聖霊を受けた」「神から愛されている」と称する喜びの体験なども、脳内化学物質のエンドルフィンだとかドーパミンだとか「躁的防衛」だとかなんとかで説明がつくかもしれません。

本当は、宇宙も地球も人生も全く偶然の産物で、意味なんかなくて、死んだらすべてが無になって、生きていることのすべて、世界のすべての活動というのは全くの暇つぶしとごまかしでしかなく、「とにかくよくわからないけれど人生には生きる価値があるんだ」「そういうことは言わないようにしましょうね」ゲームを回しているだけなのかもしれない。

公の場では、「神は存在する」ということも、「生きることにはまったく価値がない」ということも同様に一つのタブーとされている感はあります。

「そんなこと考えても仕方ないから問うこと自体やめましょうね」と。

もしくは、単なる「生き方の知恵」や「思想」の一形態、神話や迷信の一種かもしれない。

「信じる人にはいるが、信じない人にはいない」と主観の問題で片づけることもできる。

 

・・・でも〈本当のところ〉は「証明のしようがない」です。

 

だけど、「信じる」ということ・・・誰かの愛や未来や希望を信じること・・・その愛や希望に対して心を開くこと、受け入れること、そして一歩を踏み出すこと・・・こうした人格的な次元のことは、「証明」に馴染むんだろうか、と思います。

信じている人たちは、「実際にそういう働き」を明らかに感じている。

それもありありとリアリティをもって「体験」している。

上記のような理屈や説明を提示しても、「うーん、そこには収まりきらない」何かを生きている。

頭で「たしかにそう考えると整合性が付くな」じゃなくて、本当に生きて働く存在に出会っている。

それは、本人にも「説明」はつかない。

ひとつの体験や出会いを「証し」として表明はできるが、「それはどういうこと」と理性的な説明はなじまない。

 

ただ、現代の私たちの文明や考え方の枠組みって、ものすごく「クール」になってしまっていて、そうじゃないことは「フール」(アホ)みたいに思われがちです。

つまり、「それどういうこと」「そういう理屈でそうなっているのね」「なるほど」を解明する世界で生きている。世界も人生も結局ぜんぶその見方で説明が付くと思っている。

つまり、「何」の世界、「どのように」「そういうこと」の世界で生きている。

他方で、「誰と」「誰に」という人格的な交わりの現場のリアリティや意味が忘れ去られて、学校でも会社でも、人は単なる数や数値やデータになっていく。

 

それが、「結局何か」ということは色々言えるかもしれないけれども、

「誰か」ということに関しては、「あのお方だ」ということは名指しで言える。

その「誰か」と出会って、人生が変わったことは、事実。

そういう「私にとって出会いの意味」が問われるべきだと思うのです。

 

心の一番深いところというか、存在全体の意味。

個人的に呼びかけられている、ということ。

 

恋人と目を合わせて向き合う時、人は色々分析とか「これってどういうこと」「結局この体験ってこういうことでしょ」とかあまり考えないと思うのですが、

目の前の人に意識を全力で奪われるはずです。もしくは、気遣いをしたり、想いに興味関心を向けるはずです。

神様に関しても、もちろん全理性をあげて求めるし格闘もするのですが、一番大切なのは、つまり、全人格的をあげて向き合うということです。

 

もし、神が存在して、自分を知ってもらいたいと思うなら、対象化できる自然や宇宙のカラクリを通してだけでなく、ハートからハートへ、心の奥底に自分を打ち明けるように愛を伝えるはず。

恋人のことを「ちゃんと知る」ためには、対象として考察したりその人の属性やデータを収集するだけでは、やっぱり何かが抜け落ちていると思うのは私だけでしょうか。

その人のことをちゃんと知るためには、「もっと愛したい」と思うこと、どういうことにときめいて、どんなことが好きで、どんなことを大切にしていてに興味関心を持ち、語りかけ、聞くこと、すなわち対話すること、交わることを通して、「知って」いく。

 

もし、神が生きているなら、私の心の奥底になにがあるのかすべてを極めつくしておられる。

それでも、私は自分の心で自らを神に向かって「告白」する。

神の側も、私の心の深きところを通して、自らの愛を打ち明ける。

すべてをつくりだした大いなる意志は、自分を「私はある」(出エジプト3:14)と打ち明けます。原文のヘブライ語では、「エヒエー・アシェル・エヒエー」というのですが、

「ある」というよりも、「居る」というほうがぴったりだというのです。

つまり、「居るよ、居るよ」と人間に自分の存在を知らせようとする神。

「私は必ずお前と共に居る」(出エジプト3:12)

 

イエスは、この神に対して親しく、「アッバ」つまり、「パパ」と呼びかけていいんだよと、言いました。

神は、優しくて善い親であり、何でも話せる友人であり、見つめ合う恋人でもあります。

同時に、私たちは、他者を愛すること、隣人になることを要請されています。

 

人間が生きていく上で、「一番大切なこと」がきっとそこにはある。

一緒に居ることとか、分かち合うとか、助け合うこと、自由であること、心の奥底でつながること・・・。

 

一人ぼっちで、神についていろいろ考えていても、どうも袋小路になってしまうと思うのです。

ある種の強靭な精神は身につくかもしれませんが。

 

実際に、そうした神様を信じている人が集まって互いに助け合って、

しんどい思いをしている人を受け入れて、

しっかり共感し、つながり、心もものも分かち合って、

楽しくてうれしい、「ああ、幸せだなあ」と思える現場で、人は本当の自分に出会っていく。

すべての人が同じひとつの生命を生きながら、それぞれ世界に一つしかないユニークでかけがえのない自分としてお互いに生きる。

 

「神って本当にいるの?」と一人でグルグル考えていて、結局答えが全く分からなくなって、それを問うことも怖くて、この答えを東京のカリスマと呼ばれるある神父に聞きに行こうと決意して教会に行ったところ、彼は忙しい。

「ホームレスの食堂の手伝いして」と言われて、

初めて出会った教会の仲間と色々話しながら教会に集まったホームレスの皆さんにお茶やご飯を提供しているうちに、なんというか、「つながった」というあたたかい感覚があったんですね。

悩んでいたこと、聞かなくてもいいかな、と思いました。

もしくは、教会学校のキャンプをしている時、交わりがとても楽しく、夢中で、お互いに優しく心がつながる現場。

あるいは、幕屋でお互いに自分の抱えている悩みを本音で吐き出して、友のためにお互いに本気で祈る時、大きな愛が流れ込んでくるのを感じ、涙が止まらなくなる体験。

その時、「神って何」とか「神っているのかなあ」という質問をすることが野暮に思われる。

その必要がそもそもない、と思うのです。

泳いでいる最中の魚が他の魚に向かって「水って何か」と訊くようなものです。

だからといって、「ああ、神とはこれだ!」とハッキリ他人に納得いく形で言葉にできるとは思わないのですが。

 

ミスチルの「名もなき詩」に、

「愛はきっと奪うでも、与えるでもなくて、気が付けばそこにあるもの」

 

 

とありますが、

きっと「神」のようなものも、同じじゃないかな。

きっとどんなよくできた「答え」も、現場や実体験と離れたら、結局「なるほど」にしかならない。

 

「神って何?」とか私たちは聞く必要がなくなる。

神を「概念的に知る」みたいなことはきっと永遠にできない。

問うとしたら、自分たちのよろこびに心打たれながら、「ああ、あなたは一体何者ですか?」と、存在の深淵に向かって「もっともっと出会いたいです」と呼びかけ、聴く。

だけど、いつか、その必要もなくなっていく。

気が付いたら、いつもそこにいてくれる。

ただ、いるだけ。もう言葉はいらない。

ただ、そこにいるだけを深く味わうこと。

 

結局、神というなにか考えられた想像上の形を一生懸命信じようとすると、なんだか的外れになっちゃう。

 

神が生きて働く場所はいつも具体的。

教会の中だけとか信じる者同士の間だけとは限らない。

本当に愛があってつながりあう場所、魂が響き合う場所にどこでもいつでもだれとでも。

 

 

●「私の神、私の神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)

●「渇く。」(ヨハネ19:28)

 

神に見捨てられた神。

 

神が信じられない、という時があります。

かくいう私も、今この文章を書きながら、

「こんな自分が聖書を語っていいのか」と恐れおののきながら、告白します。

自分など無価値で誰の役にも立てないと思うのです。

自分の心の中は空っぽで、神というものがよくわからないし、

イエス・キリストがやたらと遠く、まったく救いから遠く離れ見捨てられた気分になります。

いいえ、仮に私が神から呼ばれ目を付けられていたとしても、

「愛されているからこんな試練を与えられるのだ」と励まされたとしても、

「勘弁してくれ」と思いますし、

「もう、これ以上前には進めない」と思います。

自分の信仰が間違っていて、いつも断罪されているような気分になり恐れてばかりです。

自分の信仰が間違っているから、いつまでたっても変容できないのだ、いつまでたっても同じ悩みをグルグルと繰り返しているのだと。

誰にも会わずに、ひたすら逃げて逃げて閉じこもっていたい。

もう、すべてがどうでもいいや。

神というものから逃れて忘れて自由になれたらいいなと思います。

 

ものすごく一生懸命祈ったり、喜びに満ち溢れている人、

誘惑に負けず祈り続けられる人、素直に神を信じられる人、

そういう人たちを見て、「私はここにいるべき人間じゃない」「ついていけない」と激しい劣等感を感じます。

そんな自分を素直に告白できない。

一時期はこのあふれんばかりの喜びを告白せずにはいられなかった

信じている風に振る舞わなければならない。

自分から神から遠く隔たっていること。

 

正直そんな時もあります。

 

その時、「私の神」はどこにもいないのです。

私を見捨てて、「誰かの神」「あの人たちだけの神」になって、私には目もくれないのです。

「その神は、あなたたちにとってはありがたいものかもしれないけれど、私にとっては受け入れがたい」

「誰かの神」はそれを受け入れられない私にとって、重い重い重圧、応援という断罪となって、迫ってきます。

その神は私のことなど知らないのです。

 

「私の神」はどこかに行ってしまって、呼びかけてもやってこないのです。

すべてがまやかしに思える。

もしすべてが本物だったとしたら、私は信仰の篩に振り落とされた脱落者で、裁きの日には地獄か滅びが待っている。

 

イエスが「なぜ私をお見捨てになったのか」「渇く」と叫ばれたとき、

「ああ!この人も、いや、あなたも同じだったのですね!」と呼ばわりたくなりました。

それも、比べ物にならないほどの絶望の中で。

涙が止まらなくなります。

 

私は神が信じられません。必死に求めてきたつもりなのですが、見捨てられたような気持になることは何度もあります。

ナザレのイエスという人間は、「神の子」、「救い主」であると信じられていますし、このことを信じられれば「クリスチャン」というわけですが、その救い主の姿たるや私たちの理想や憧れなどとは全く程遠い、ボロ雑巾以下の扱いを受けて絶命したみじめな最期でした。

ただ、「人間になった神」であると信じられるこの男が、十字架の上でこう叫ぶとき、

とてもとても近く近く彼を感じるのです。

「見捨てられた神」だからこそ、見捨てられた人の気持ちが分かる。

 

しかし、彼は、死を待つだけのどん底のおいても、なお百パーセントの愛でありつづけます。

心を開いてくれた隣の死刑囚に対しては「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」といい、

ついてきた弟子に対して自分の母マリアをさして、「この人があなたのお母さんですからね。」という。

お弟子さんはマリアを家に迎え入れ、マリアはみんなのことを祈り、面倒を見て、互いにお世話しお世話され、血縁をこえたイエスファミリーというべき家族がそこから出来上がっていくのです。

人はどんなに孤独なときでも決して一人ではないのです。

 

 

●裁いてはならない。裁かれないためである。

あなたが人を裁くように、あなた方は裁かれ、

あなた方が量るその升で、あなたがたにも量り与えられる。

(マタイ7:1~2)

 

あなたに嫌な人や苦手な人はいますでしょうか。

「あの人って、○○だよね」と価値判断をしてしまう人。

「あの人は、○○だから、××だ」と思ってしまう人。

または、

「あの人、あそこが悪くてここが悪くて、ここをこうすればいいのに、もどかしい!」

「伝えているのに、なんで良くなってくれないんだ」

と思う人はいますでしょうか。

 

私はいます(笑)

つい頭の中で、「あの人は」「あの人は」「あの人は」・・・ばっかり考えて自己嫌悪に陥ってしまう。

そして、その人からも同じ理由で「苦手」と思われているかもしれません。

それ自体は、ごくごく普通のことです。

どんな人でも無条件に「好きになりなさい」とか、「仲良くしなきゃだめですよ」と言われたら、それは少し難しいものがあるかもしれません。

本当にこれは思っちゃうものです。梅干を思い浮かべたらよだれが出るように。

 

他人から言われた些細なひとことや、うっかり他人に言ってしまって傷つけてしまったかなという後悔が、ずっとトゲのように心に刺さって、モヤモヤして落ち着かない。

 

このトゲを解消するうえでの悪手が、その場にいない人の話、つまり陰口で盛り上がる、ということです。悪口に同調させる。

それは、何の解決にもならない。それどころか、根はさらに深くなる。

たぶん、あなたがいなくなったらその同じ口で、彼らはあなたの陰口で盛り上がっているはずです。

 

ちなみに、陰口大会で盛り上がり始めたら私はすぐさまその場を出ることにしています。

あと、人のうわさ話や悪口への同意を求める人とも付き合わない。

 

「私あの人苦手だなあ」でいったん区切るのです。

あの人は「嫌な人」じゃないのです。「私にとっての」嫌な人。

何で苦手なんだろうという理由をいったん書き出してみる。

ちなみに、私の場合、苦手な人には共通点があって、

「人の話を聞いてくれない」「自分の意見を押し付けてくる」「自分のいる立場を正確に知らないくせに悪く言う」

などという人が苦手です。

で、そういう人が孤立しているかというと、そういうことはなく、別の側面から見たらかなり頼られていたり、リーダーシップを持っていたり、周りを盛り上げることに長けていたりする。

あくまでも「私にとって」の苦手なのです。

「本当はどうされたかったのか」を書き出すこともお勧めです。

 

「苦手に思っちゃう自分ダメだなあ」「こういうこと思っちゃダメだなあ」と思わず、それはそれでジャッジしないで、ちゃんと大切にすることです。

自分のこともジャッジしない。

価値判断をして苦しむ自分が一番しんどい。

「あの人は」「あの人のここが・・・」

自分がなぜジャッジをしてしまうかというと、

自分の中の満たされない想いを他人に満たしてほしいという「期待」があるからです。

もしくは、自分の中に、大切にしている何かがあったり、傷ついて大切に扱われたい何かがあるから。

あるいは、自分の中に「こうあるべき」「こうなりたい」という無意識の理想像があるから。

その無意識の理想像とのギャップに人はイライラしたり悲しんでしまったりするのです。

それは、幼少時に親から満たされなかった傷がそうさせているのかもしれませんし、過去に繰り返してきた失敗からの拒否反応かもしれません。

そのイライラさせたりモヤモヤする自分の中の原因に気が付くと、その瞬間すっとつきものが取れたように心が軽くなって、笑えてくるほどです。

イエスは言います。

「偽善者よ、まず、自分の目から丸太を取りなさい。

そうすれば、はっきりと見えるようになり、兄弟の目からおがくずを取り除くことができる。」(マタイ7:5)

しんどい原因は、「丸太が自分の目に刺さってる」から(笑)

「自分の目の前の丸太」が取れる瞬間です。

 

私が、傷つけられたとか、あの人苦手だと思ったときにやることは、

「自分についての発見や想いをその当事者と率直にシェアする」ということです。

無理に自分の心を押し込めて仲良くする事ではありませんし、相手を裁くことでもありません。

そうしたら、一番胸の荷が落ちるのは自分自身です。

正反対に見える「苦手な人」も、同じ理由であなたのことを苦手と思っていたことが分かります。

そうすると、その苦手だった人と仲良くなれたり、という現象が起こってくるものです。

 

私が真に自分のことを知り、受け入れ、愛することができれば、身の回りの現象も不思議と変わってくるのです。

クレド(弱い者の信仰宣言)
 原詩:ある兵士の祈り


成功を収める為に神に力を願ったのに 弱くなってしまった 

 

ーー謙遜を学ぶように
 

偉大な事をする為に神に健康を願ったのに病気になってしまった 

 

ーー神の心に叶う様に


私の願いは何一つ叶えられなかったけれど 

 

希望した全てのことを私は受けた


幸せになる為に神に富を願ったのに貧しくなってしまった 

 

ーー生きる厳しさ知る様に
 

 

弱い人を助ける為に権威を願ったのに無力になってしまった 

 

ーー神に頼ることを学ぶ様に
 

 

神は私に必要な事何もかも知っておられる 

 

ーー希望した全てのことを私は受けた


人に尊敬される為に神に手柄を願ったのに ただ失敗に終わった 

 

ーー思い上がらない様に
 

 

聖なる人になる為に神に徳を願ったのに 罪の醜さに泣いた

 

ーー神の愛の深さ悟る為に
 

 

私の姿は変わらない


弱く何も出来ないけれど 

 

喜びに満ち溢れて私は歌う

 

マタイ6:25~34

 

 

「あの空はどうして青い」♪

あのそらはどうして青いのでしょう

あの雲はどうして白いのでしょう

あの鳥はどうして飛べるのでしょう

この花はどうして咲いたのでしょう

それは神様のみことばのわざです

世界のすべては神様によって つくられた

 

この草はどうして緑色で

この犬はどうしてまだらなのでしょう

この猫はどうして目が光るの

この虫はどうして羽ならすの

それは神様のみことばのわざです

世界のすべては神様によって つくられた♪

 

 

子供向けの歌で、内容は幼稚園児でもわかるんですけれども、このシンプルな内容に、信仰の本質というか、限りない安心を覚えて涙があふれます。

この自然を通して神様は、「私はある!」(エヒエー・アシェル・エヒエー)と語りかけてくださっている。

ああ、世界はよくみるとこんなに美しいんだ!神が完全なようにこんなに世界は完全なんだと涙せずにはいられません。

すべてが神様の語りかけ、みことばによって存在している。

存在しているということは、そのまま神様が私たちを呼んでくださっているということ。

絶えず、神様はあらゆる存在に「良し」(トヴ)と呼びかけてくださっている。

 

 

 

動けなくなると、今まで頑張って積み上げてきたものが、結局何の価値もないものにしか思えなくなるし、

「これからどうするんだ」

といっても、先のことが考えられない。

「いつになったら、健康になるのだろう。

いつになったら、〈普通〉になれるのだろう。」

 

 

自分が他人からどう評価されるか、受け入れてもらえるか、認めてもらえるか、

ということに関して過度なほどに過敏になって、自分の本音を吐き出せない。

「正解」というものをつい求めてしまう。

 

心の中で、

「そんなことでどうする」「そんな信仰じゃ駄目だ」「もっと祈って突破しなきゃ」

「明るく明るく考えて前に進まなきゃ」

と思うと、そうできない自分に絶望する。

 

そんな私にイエスは優しく語りかけてきます。

「思い煩ってはならない」

信仰の薄いものよ、もっと神様の完全な摂理に目を向けて信頼しなさい。

「明日のことは思い煩ってはいけない。

明日のことは明日が思い煩う。

その日の苦労はその日だけで充分なのだ。」

と。

 

天の父は、私たちに必要なものを知っている、と言います。

 

聖書のこの箇所を繰り返し読んで、心に平安が訪れたか分かりません。

「人間社会のモノサシ」という偶像に苦しんでいる私の中に、神様ご自身がやってこられて、「恐れることはない」と重荷を軽くしてくださる。

「霊の乞食」(マタイ5:3)である私に「幸いなるかな!」と宣言してくださる。

 

「労苦するもの、重荷を背負うもの

休ませてあげよう。

私の軛を受け入れ、私に学びなさい。

そうしたら魂は平安を得る。」

と。

 

公園で散策をしながら、本当に涙があふれて仕方がないんですよね。

ああ、神様!と。

 

空の青、雲、木々や野の草花

主さまのご臨在を感じます。

 

【創世記1:1】

「初めに、神は天と地を創造された。

地はむなしく何もなかった。

闇が深淵の上にあり、神のが水の上を覆うように舞っていた。

神は仰せになった、「光あれ」。すると光があった。

神はその光をみて善しとされた。」

 

あるということは、「よい」ということ。

神さまが、「よし」といっているから、私たちと世界はあるんだ。

世界は「よい」!

私たちの存在はその根源において「よい」ものとして作られている。

今私たちがここにいきていることはみんな、

片ときも離れず、神が「よし」と言ってくださっている。

どんな自分、どんな世界であっても、その根源には神の「よし」があるのです。

 

うちの紘ちゃんですが、最近「いやいや期」で、自分でも「こうちゃんいやいや期」という(笑)

子どもがどれだけ、「いや」と言っても、親は、「よし、よし」と語りかける。

人生たとえどれだけの苦難があり、悪に思えても、それでも、すべてに善しといって絶対的な、永遠の肯定を宣言している。

この「善し」という語りかけーーすなわちロゴスが、肉(人間)になって私たちのうちに幕屋を張られ、共に居てくださる。

 

【ヨハネ1:1~9、14】

「初めにことば(ロゴス)があった。

ことばは神と共にあった。

ことばは神であった。

ことばは初めに神とともにあった。

すべてのものは、ことばによってできた。

できたもので、ことばによらずにできたものは何一つなかった。

 

ことばは肉(人間)となり、われわれの間に住むようになった(幕屋を張った)。」

 

アブラハム・へシェル『人間を探し求める神』

・「自然神学」

時計をみたら、それが偶然にできたとは誰も思わない。

ちゃんとそれを意図をもってつくりだした職人がいる。

宇宙のつくりや、素粒子の構造は相似形になっている。

凄い速度で回りながら、秩序をもって動いている。

宇宙全体が時計とは比較にならないほどの秩序を持っている。

理性的に考えて、それをつくりだした大きな意志があることは推し量って知ることができる。

つまり、私たちと世界をつくったデザイナーがいるのだと。

 

カトリックの入門講座でや教会学校ではそう教えます。

理性によってもある程度までは不完全に神を知ることができる。

 

量子力学。

先日、仏教の花祭りに量子力学のお話。松村大輔さんという東京大学で物理学を専攻し、現在塾講師をされている方。

アインシュタインは現代物理学と仏教の近さについて語っていた。

素粒子はなにもないところからぽっとでてきて、またぽっと消える。

物質の究極の形は、太さのない弦十一次元を使って振動している。

「ゼロポイントフィールド」仮説があって、

宇宙が出来てから、起こったすべての情報がホログラム式に記憶されている。

 

すべては、ゼロポイントから生まれ、世界という形をとり、またゼロポイントに戻っていく。

ゼロポイントフィールドは、時空を超越しながら、いたるところに折りたたまれるように存在している。

 

人間も素粒子レベルで見ると、スッカスカの電子雲。

私たちの想いや感情もバイオフォトン。

バイオフォトンの寿命は無限。

肉体は消えても、生命データはゼロポイントフィールドに移行するだけ。

私たちはみんな素粒子レベルでみると、ゼロポイントでみんな「ひとつ」につながっている。

宇宙に充満している生命と、私たち一人一人を動かしている生命は同じ。

 

最新の科学というものが、ほとんど宗教の世界に近接していることに感動を禁じえません。

松村さんにキリスト者の立場でお手紙を差し上げました。

 

しかし、アブラハム・へシェル博士は、神の前に更に深く問いかけます。

 

この見解の持つ欠点は、時計およびすべての実在(リアリティ)を当然のこととしていることにある。

究極的な問題は、それは如何にして存在するようになったかだけでなく、それがそのように存在するのはどうしてか、ということである。

問題はさらに、質問の実体だけでなくて、その質問を尋ねる行為にまで及ぶのである。」

 

私たちは、時計という確実な出発点として、単純に、誰がこれを存在させたか?と尋ねるわけにはいかない。

時計自体が神秘ではないだろうか。

私が時計を認め、その目的(デザイン)を理解できるという行為が、」何と理解しがたい事実ではなかろうか?

 

世界に対する人間の究極的な驚きへの回答はこの世の中にはない。

「これらをつくったのは誰か」という質問は、原因や力を引き合いに出しても答えることはできない。

世界の中には神の名に値するものは何もない。

世界は神秘であり、疑問であって、答えではない。

 

目的論よりも創造の神秘。

デザイナーや偉大な知能の持ち主よりは神秘を超越する神。

この御方に関係づけられた時、現世が意味を獲得する神―――これらが宗教的問題に対して適合する答えである。

 

哲学者にとって、善の観念は至上究極の観念

ユダヤ教にとっては善の観念はビリから二番目の問題。

聖なる者なくして、善は存在しえない。

善は底辺であり、聖が頂点。

 

「ある」ということ!

「世界が存在する」ということ!

そして、この私がこう問いかけることの神秘!

こうして、ただ存在することの神秘の前に立ち尽くすだけで、「ああ神様」と

彼は言います。

「神は人を尋ね探している、人も神を求めよ。」と。

神と人の出会いは、卒啄同時の出来事なのです。

 

日本における神道においても、

何よりも先行されるのは「神との対面」である。

人間的思考の枠組みの中に自然を位置付けその自然の中に神が現われるのではなく、

自然よりも先なる方が自然の中で私に顕れるのです。

世界、人間から切り離して神だけを体験することはできません。神の直接体験のなかには宇宙も天地も山も海も人間も動物も植物も黄泉もすべてのものが神を源として含まれているものなのです。

キリスト者は自然の中の神体験を神道から大いに学ぶべきだと思います。そうしなければキリストがいのちをかけてもたらした道は日本人の血となり肉とならないでしょう。

 

イエスは言います。一番に、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆、加えてあなた方に与えられる。

迷ったとき、どうしていいか分からない時、まず求めなければいけないことがそれだと思うのです。

 

閉じこもって、「神様自分の問題をどうにかしてください」だけじゃいけないと思うのです。

一教派、一グループのうちに特権的に閉じこもっていることは、イエス様の望むことではないでしょう。

真理から遠いのは、この世には永遠の都はないと思って、地上での勤めをないがしろにして注意を怠る人です。

告白するのと同じ信仰で、神様から呼び出されたことの崇高さを示し、それが透けてみるほどにすべきなのです。

職場や、日々生きる現場、飲み会でもキリストを携えて、

一人一人の存在の奥に神の似姿を見る。特に苦しんでいる人のうちにキリストがいる。

そうするとたまりませんよ。

「You are loved.」と宣言する。

「宗教」を伝えるのではなく、愛を伝える。

イエスが直接天から声を響かせることはできない。これをできるのは、キリストに触れて救われた私たち人間だけ。

あとは、キリストが働く。

 

八紘一宇。すべての人が同じ屋根の中で一つの家族として互いに助け合ってやっていく世界。

 

「ともにあった」「私たちのうちに」

神さまは一緒にいたいんです。

私たちと共に居たい。

十字架の苦しみや死も一緒に分かち合いたい。

 

いつも一緒に居てくださる神様!

キリストは生きておられ、私たちの間で働かれ、私たちみなをいのちで満たそうとしておられます。

キリストは生きておられます。そして、私たちに生きる者であって欲しいと願っています。

先日の、教会での親子講座の感想いただきました☺️✨

子育てでも家族でも、
「安心して想いを受け止めてもらえること」がとても大切になってきます♪

「昨日は貴重なお時間を割いて講座を開いて頂きありがとうございました。
コミニュケーションや聞くことが大事だと普段から認識はしていましたが、なかなか上手く出来ていませんでした。
今回具体的にどう聞くことが大事なのか、どんな姿勢が大切なのか深く納得出来たことで、これからの生活にすぐにでも役立てることができそうです。
聖書を引用してくださったので面白味もあり本当に楽しめました。
また次回があれば参加したいです。
ありがとうございました。」

「講義もとても気付きが多くて、私としてもほんとにありがたい機会をいただきました^ ^
子育て世代だけでなくたくさんの方にこういう機会があるといいですね^ ^

いつもありがとうございます❗️」

とても嬉しいです♪

聞き方、話し方は、
親子関係だけでなく、
会社でも、
サークルでも、
クラスでも、
いろんな現場で、役にたつはずです。

あらゆる共同体や組織が固定化してくると言えることなのですが、

「安心して想いを語ったり、受け止めたりする場所」
「対話」
がなくなっていき、
時代のニーズにあわせた変化を起こしていくことができず、
形だけと固定メンバーだけが残って、
少しづつ衰退していくのです😱

「よくやりがちな間違い」と
「ちょっと小さなコツ」を知るだけで、
場の居心地の良さは劇的に変化していきます❤️

これを全体で一気にやるには時間も労力もかかりますが、
数人規模の小さいところから、成功体験を重ねていくこと。
小さなパン種を入れると全体が膨らむように、
本質的に大切なことを、草の根でやっていくことが、全体に革命を起こしていくのです✨

上からの指示を待つのではなく、
アイデアはちゃんとわずかなところからでも、
自分から自分から実行して、
道をつけていくこと。

もし、こういうこと「いいな」と思ったら、
あなたも是非知恵と工夫をこらして、
小さなところから始めてみてください✨

また九月ごろに開催したいと考えています♪

 

 

●「あなた方を襲った試練は何一つとして人間に耐えられないようなものはありませんでした。

神は信頼に値する方です。

耐えられないような試練にあなた方を遭わせるようなことはなさらず、

むしろ、耐えることができるように、試練と共に抜け出る道をも用意してくださるのです。」

(コリント一10:13)

 

「神さまは乗り越えられない壁は与えない」とよく言われますが、聖書をちゃんと読んでみると、あれは違います(笑)

やっぱり、人生には乗り越えられない壁って厳然としてあると思うのです。

ですけれど、それって「乗り越える必要のない壁」なんじゃないですかね。

大変なことはあるけれども、抜け出る道も用意してくださっているということです。

 

壁は乗り越えなくてもいい。

回ってもいいし、引き返してもいいし、別の乗り越えられそうな壁を見つけてもいい。

 

ウサギに虎のようになれと言ったって無駄です。

発達さんに、定型発達と同じようにならないといけないと思うとそれは一生が地獄です。

発達さんには発達さんにぴったり合ったやり方や場所があるのです。

 

それよりも、環境調整をしたり、工夫をしたり。

そうやっていると、思いもよらなかった道が開けてくるものです。

大切なことは、ちゃんと夢中になること、好きなことをやること、人をよろこばせること。

もっともっと柔軟に考えること。

固定観念を捨てて、現時点で「できる・できない」を捨てて、

「こうしたら面白くなる」というのをたくさん考えてみていく。

何でもゲーム感覚で面白く楽しくやっていく。

 

「平均台の上を落ちないように歩け歩け」というような強迫観念が私たちの中には植え付けられていますし、

もともと四角いのをもっと四角になれ、もともと丸いのをもっと丸になれ、と言われているような気がします。

 

乗り越えられない壁はあるけれども、

そこであきらめない。

希望を失わない。

 

押してダメなら引いてみる。

引いて駄目なら回ってみる。

回ってダメなら叩いてみる。

八方ふさがりになったら、上に行く。

上に行くというのは、ちゃんと心を神様だったらどうやって働くか考えながら愛でやっていくこと。

 

私自身、就職活動でどこにも採用してもらえず、バイトは次々と不適応で辞めて、絶望していましたが、それって要するに、かなり狭い世界の話。

周りの人がどういうとか、SNSの暗い投稿とかそういうものに影響されすぎです。

あと、何回かうまくいかない経験をするだけで、「そういうもんだ」「ダメなんだ」という脳になっちゃってる。

どれだけ挑戦したの?2~3回とかそんなんでしょ?

百回、千回やってみたらどうですか。

神の「現実」は、前頭葉のつくりだした不安の妄想的なリアリティより一億倍以上。

いろんな本を読んだり、自由に生きている人に出会うたび、「ああ、そういう生き方も全然ありじゃん」と思って、そっちに舵を切ったことが成功につながりました。

大変なことは全くないわけじゃないけれども、ちゃんといつも「可能性が開かれている」ということを忘れないでいて欲しいものです。

●「まず、神の国とその義を求めなさい。

そうすれば、これらのものはみな加えてあなた方に与えられるから。

だから、明日の事は悩まないで。

明日のことは明日自らが思い煩う。

その日の苦労はその日だけで充分なんだよ。」

(マタイ6:33~34)

 

先行き不安でこれからどうしたらいいか分からない、

体調を崩して働けない。

貯金もない。

でも、働いても働いても暮らしは良くならず、生きるために働いているのか、金のために生きているのかわからない。

 

そういう時は、空や花や鳥を観察してごらんなさい。

 

 

働いていますか?

でもちゃんとその日暮らしで、悩むこともなく、神様が生かしてくださっている。

人間の方がはるかに優れた者なんですから、

一旦「人間モノサシ」捨てて、「神様視点」で生きてみませんか。

「まあ、なんとかなる。どうにかなる。」

こっちの方が、本当です。

「大丈夫」

こっちの方が真理です。

「もうダメだ。」

これは人間の脳のつくりだした錯覚です。

不安や心配事の9割は起こらないといいます。

恐れや不安は神様がつくってくださった自分を守るための防衛機制なのですが、

行き過ぎちゃうと、それが「本当の私」に変わって主導権を握り始める。

 

でね、生きていく上で、一番大切にしたいものは何なのか、ということです。

 

神の国、神の義って何なのかそれぞれ考えて欲しいんですけれど、

神さまの望む世界ってどんなんですか?

って。

 

そっちの方向に舵を切って、生きるようになれば、必要なものってちゃんとやってくるし、そうじゃないとおかしい。

 

ていうか、神の国って、それこそ人類みんなが求めているものだから、

それに対しては、必ず協力者が現われざるを得ない。

自分一人が生きていくことしか考えていないから、生きるのがしんどい。

だから、本気で「神の国」を目指してみませんかということ。神主体のアクションに人間の側で自由に協力していく。

 

一部の人だけが幸せで誰かが一人で泣いていたら、それは神の国じゃない。

自分だけ偉い思いや特別な思いをして、人を従えるようになったり、搾取するようなこともそれは違う。(いつも誘惑というものはあるけれども。)

信じる人間や特定の集団の人間だけ特権的に救われて、他の人たちは「かわいそうな人たち」でいいのかな。

 

一人一人の人が、神様の子としての尊厳と自由を認められて、

お互いに認め合って、分かち合っている世界。

 

私が私であれていい。

あなたはあなたでいていい。

目の前の一人一人に神の子としての尊厳を見て、その人がその人であることを互いに喜び合えること。

愛し、愛されている現場。

 

特定の誰かだけが行ける天国とかじゃなくて、

過去のことに支配されることもなく、まだ来ていない明日のことで思い煩うこともない。

安心して、いま・ここを夢中で生きている。

何教とか何人とかそういうこと関係なく、

必要なものは、みんなすべて分かち合っていて、「俺の物」と言って、比較し合って苦しむこともない。

すべての人はみな、同じ屋根の下の一つの家族。

 

そういう一見夢物語みたいなビジョンって、私たち人類のイメージの中に組み込まれていて、

たぶんそれは、神様が人間の心の奥底に「本当の望み」として植え付けているんじゃないかなあ。

神さまは何かと言ったら愛。

なんでこの世界をつくったのかというと、

溢れる愛を分かち合うため。

 

すべてをつくられたまことの親と、その親の地球上に伸ばした手である独り子と、親と子を結ぶ愛の心の「交わり」こそが神の正体。

私たちは、その交わりと愛に似せて作られている。

 

でね、不思議なことに、そういうことを本気で目指してやっていくと、

それに必要なものって向こうからやってくる。

 

というか、そもそも、人類って二百万年もの間、そういう生活をしていたのが当たり前だったのであって。

毎日がキャンプとバーベキューと、遊びまわり、それがそのまま学ぶことにつながり、火を囲んで語り合い、物も心も分かち合い、子育ても共同保育で、いっしょにご飯。

今でもそういう暮らしをしている部族にはストレスがほとんどないそうです。

 

どっちかというとここ数千年の都市文明で、人が所有や貧富の格差に縛られて生きている方がかなり不自然なのです。

研究でちゃんとわかってることなんだけれども、もともと、人は戦争をするようにはできておりません。

奪い合うようにはできておりません。

分かち合い助け合うようになっている。

 

だけど、もう都市文明の圧力とか、自分たちの中にある欲望によって、自力で戻ることがすごく難しくなっている。

心が痛みで叫んでいる。

「こんなのおかしいよ!」って。

 

イエスさまやお釈迦様が出てきた時代も、不思議と人類の都市文明が成熟して貧富の格差や差別が際立ってきた時代でした。

どっちかというと、支配機構と結びついた宗教に対して異議を唱えた側面は大きかったんじゃないかな。

 

でもじゃあ、縄文時代や有史以前に戻れとなると、そんなことをしたら恐ろしいことになる。実際にそういうパラダイスを国家レベルでつくろうとしてこの世の地獄が出現したけれど。

 

目指すところは、「楽園の高次の回復」。

文明を滅ぼす必要はないけれども、文明の先にそういうお互いの自由や尊厳を認め合い分かち合っていくような世界の方向にベクトルを向けていくこと。