デジタル編集者は今日も夜更かし。 -4ページ目

デジタル編集者は今日も夜更かし。

出版社に在籍していながら、仕事はネット、携帯などデジタル企画のプロデュース。

もし雑誌をやっていたら記事にしたかもしれない様々なネタを、ジャンルにこだわらずコラム風に書いてみる。アナログ志向のデジタル編集者は、相も変わらずジタバタと24時間営業中!

金魚


祭に踊らず、海で泳がず、花火を見上げず、浴衣を着なかった夏。
朝顔にも、ひまわりにも、真っ赤な百日紅にも気がつかなかった夏。
じっとりと汗をかき、冷えすぎた冷房に腹を立て続けた夏。
ただただ、忙しく仕事をしていた。
そんな夏が終わろうとしている。


今日、駅からの帰り道、手に持ったジャケットを途中で羽織った。
満員電車で汗をかいたシャツに、風が涼しすぎたのだ。
半月に照らされた雲は、秋の鱗雲。
やべ。夏が終わっちゃう。
昔ほどの焦燥感はないけれど、それでも、明確な思い出の作れなかった夏が終わっていくのは、ちょっとだけ寂しい。


そんな夏の小さな思い出に、季節のお菓子を撮っておいた。
夏の盛りに三冊のオススメ小説を貸してあげたら、面白かったとお礼にもらったのだ。
塩瀬総本店の季節限定創作菓子『涼菓』。
金魚鉢を模したガラスの器に青リンゴのゼリーを満たし、練り切りの赤い金魚と緑の水草、そして小石に見立てた大納言が浮かぶ。
涼しげで、かなりカワイイ。どうやら毎年、夏限定で作られる大人気商品らしいが、見た目だけではなく、ちゃんと美味しい。


夏の風物詩が思い出に昇格するためには、サイドストーリーが必要だ。
花火を見た記憶には、必ず隣にいた誰かの思い出が重なる。
浴衣を着るのは、きっと誰かのためだし、夏の海には仲間か家族か恋人が必要だ。
好きな小説の感動を友と共有できるのは、ちょっと幸せな気持ちになれる。
来年の夏、デパ地下でこの夏のお菓子を見かけたら、きっと小説について感想を話し合ったことを思い出すだろう。小さな小さな、今年の夏の思い出。


明日から、9月だ。
夏にしがみつく歳ではなくなったクセに、秋に感じる物寂しさからはいまだに卒業できないでいる。

もしかしたら、以前よりも秋がしんどいかも知れない。がんばらなくちゃ。


秋の森の奇跡


女性誌『Precious』(小学館)連載時から話題になっていたオトナの恋愛小説。
小学館の広告資料によれば、『Precious』の中心読者は、36-40歳が3割以上を占める。

既婚者が60%近く。
リアルな恋愛小説の第一人者が、この世代に向けて、マジにリアルな恋愛を書いてしまった。

逃げられない現実と、様々に設定されたタイムリミットに押しつぶされそうなこの世代。だから、つらい。甘くない。


彼女の小説に嵌まってしまっているボクでさえ、この小説を正面から受け止めるのはしんどかった。
林真理子の小説は、異性に隠している正直な気持ちがあからさまに描かれているところに魅力があると思っている。
“オンナ”の本音だけなら、ヘーとか、ホーとか、トリビアか蘊蓄のように読んだり、あるいは小説のためのレトリックとして楽しめるのだが、
オトコの本音や都合をここまで赤裸々に、的確に書かれてしまうと、これはもう、ちょいと身構えてしまう。逆に、彼女の小説のなかでオンナたちの数多の台詞や、語られるエピソードが、真実の重みを持ってくる。
おのれの過去を振り返りつつ、そこまで書くなよ、とちょいとびびる。
その調子で、加齢の恐怖や親の介護まで、人の本音と現実を組み込まれる恋愛話となると、これはもう、通り一遍のロマンスではなくなる。


たぶん、20代の男性は手にも取らないだろうから、心配はしていない。
20代の女のコがこの本を読んじゃったら、作者はどう責任を取るんだろう…。
たぶん将来に不安は抱くだろうが、たぶん現実の方が忙しいし、ドラマチックだから、まあいいか、と逃げる。
それよりやっぱり、ドンピシャターゲットの40歳の夢見る女性が読んでしまっても、ダイジョーブなんだろうか。
冬ソナの思い出なんて軽く吹っ飛んじゃうんだろうな。

Precious世代がページを開くには、それなりの覚悟が必要です。


ただ、
余計な、本当に余計な感想を言えば、しょせん恋愛なんて個人的なもの。
もともと、仕事のスケジュールや、学業や、相手の家庭や、親の介護や、政局や経済情勢や、懐具合や、そんな諸事と折り合いがつくわけがない。
そんなものを超越してしまうから、恋愛なんじゃないだろうか。
いくつかのブログで感想を読んでみたけど、終わり方に不満を持つ女性が少なからず見受けられた。ボクはこの小説には、この終わり方が最適だと思っている。恋愛は、結論を他人に委ねてはいけない。この、ある意味でとっても重たい物語では、読み手が自分で結論を出す必要があるんじゃないかな。


■秋の森の奇跡/林 真理子■

終末のフール


さあ、がんばろう!
と決意した誰しもに共通するのは、
その目がすべて、未来を見つめていることだ。
しかし、もし、その未来に限りがあると分かったとき、
人はどれだけ“がんばる”ことができるだろう。
がんばることを自分に求めることができるのだろうか。


三年後、隕石の衝突により地球が滅びることが決まっている。
観測によりその未来が分かったのは数年前。発表当時には、政府機関が科学の粋を集めて対策を練るが、ことごとく徒労に終わる。
もうなすすべはない。人々はパニックに陥り、盗み略奪はもちろん、殺人や暴行など刹那的で利己的な犯罪が多発し、都市機能もダウンする。
この小説は、そのパニックも収まり、不幸な被害者や不埒な加害者がいなくなったあるマンションが舞台となる連作である。
三年後の滅亡は確定しているけれど、街は「凪」の状態。
残り三年。それでも日常の平静さを取り戻した人々は、何をするのか。そして、どう生きるのか。
テーマから想像できるようなSFではないし、ヒーローももちろん出てこない。著者の怜悧な死生観と小説技法が活きる、想像力が膨らむ素敵な小説である。


ちょうどこの本を読んでいる頃、自分の未来に限りがあると、ボクも気づいてしまった。
年齢的な問題、つまり余命の問題とは、本質的にはちょっと違う。


たとえば大好きなレゲエMC4人のグループ“湘南乃風 ”は、名曲『CLASSIC』(湘南乃風~Real Riders~)で、子どもたちと一緒に歌う。


♪やればできる
♪願いはかなう
♪明日はくる、必ず


力強い彼らのメッセージを一緒になって歌って(がなって)いるとき、ふと寂しくなり緊張している自分がいるのだ。この歌詞はボクにも当てはまるのだろうか。本当に願いはかなうのか。がんばって、やり続けることに意味があるのか…。


人は人生の途上で、未来が永劫ではないと、徐々にだが悟っていく。
子どもの頃。ちょうど今ごろ。夏休みが永遠に続くわけではないと、やり残した宿題におののいたことを思い出す。子どもたちに残された夏休みには、あと三日というリミットがある。
高校に入学してしばらくすれば、憧れていた高校球児が同世代で、いまさら野球を始めても望むべくもないスターであることに気づく。
そうやって、すべての可能性がいつまでも待ってくれるわけではない、という事を悟る。
職業という将来の夢を始めとするさまざまな人生設計も、ボクはもうとっくに選択済みだ。
どちらかと言えば、夢をかなえてきたけれど、このまま未来を見続けていいのか。
ボクに残されている可能性は、無限ではない。オトナになって、たくさんのことを順番に諦めてきて、たぶん、できることとできないことのバランスが、逆転しつつあるのだと今さらながらに気がついたのだ。
この夏、じつはそんなことを考え続けてきた。


ある意味での結論。


もしも、このままボクが夢を見続けるとすれば、それをかなえようとすれば、未来を次の世代に受け継いでいくことで、満足や喜びを感じることを目標にしなければならないのかもしれない。
彼らに限られた己の未来の可能性をつないでいくことが、本当はオトナの目標なんだろうな。
つまり、子や孫、次世代の幸せを祈ったり、期待をしたり。
それこそが自分自身の望みとならない限り、ココロ穏やかに過ごすことはできはしない。
本当は、諦めていなくちゃイケナイ年齢になっても、自分自身の夢を持ち続けることは、つまり、ガンバろうのモチベーションそのものが生きていくことに邪魔なんだ。分かってきたような気がするけど、夢は捨てられない。だから、しんどい。


小説のなかで、苦しいトレーニングを続けるボクサーとサポートするトレーナーが登場する。がんばり続ける。地球滅亡が三年後と知っているとき、ボクはどう生きるんだろう。


終末のフール/伊坂幸太郎

あの日にドライブ

「人生、今からでも車線変更は可能だろうか。」と帯にある。


元銀行員。いまはタクシードライバー。
過去のプライド、現在の迷い、
過去への執着、未来への不安、
根拠のない自信、過剰な卑下。
2006年の、街のどこかに、たくさん転がっていそうな主人公の境遇とエピソード。


それでも、『明日の記憶』で読ませた作者の人を見つめる視線の優しさと鋭さが、最後まで飽きさせず、ボクはページをめくることになる。
同時に、章を進む毎に自らに問いかける緩やかな時間の流れと余裕が、文体にはある。


あの時、あの一言を言っていれば、
あるいは言わなければ、別の人生を歩んでいただろうか。
主人公の妄想に付き合ううちに、そんな事を考える時代がボクにもあったなぁ、と思い出す。懐かしむ。

すなわち、いまのボクには、そんなココロの隙は微塵もないのだ。
過去のすべてが今に繋がっていることをボクは知っているが、感謝こそすれ後悔はない。
なぜだろう。
同じ思い出に、かつて悔やんだことも、しっかりと覚えている。
ある時は、後悔。ある時は、感謝。
その違いは、たぶん、“今”という状況の差かもしれない。


飲み屋の隣の席から、電車のなかで隣のつり革から、
仕事の愚痴や上司の悪口が聞こえてくる。
時には、仕事の場でも、テレビのなかからも、
日々と人生のため息が聞こえる。
傍らで聞いている友の顔も、同じ悩みを抱えているのか、一様につまらなそうな顔で同調している。


いやなら、辞めればいいじゃないか。
もし、上司が間違っていれば、諫めればいいじゃないか。
自分の信じる道を、自分で選べばいいじゃないか。
人生のハンドルを握っているのは、タクシードライバーではなくて、自分自身なのだ。
境遇を呪ってはいるけれど、
そこに身を置きたいのは、じつはキミ自身なのじゃないだろうか?と問いたくなる。


「人生、今からでも車線変更は可能だろうか。」


いつでも、いつからでも、それは可能だ、と思う。
ただし、それは、
煙草好きが禁煙することに似ている。
禁煙に成功するのは、本当に煙草を止めたいときだけだ。
もし、失敗するとすれば、それは、本人がなんと言おうと、なんと思おうと、まだ煙草を吸いたいのだと思う。
ダイエットに失敗するのは、じつは、苦労して痩せるよりも、いま目の前にあるチョコレートを一粒食べたいのだ。腹筋を100回するより、そのままゴロゴロ昼寝をしたいのだ。


人は、強くはない。
ボクなんて恥ずかしいことに、いまだに煙草は止められない。
2年も前から、あと5キロ痩せる!と宣言し続けている大嘘つきだ。
それでも、人生は自分で選べる。車線変更だってできると信じている。
与えられた条件は人によって異なるだろう。
運だって、左右する。
でも、人生だよ。人生とは、生きることそのものだ。
もし、持って生まれた運が悪ければ、人以上の努力を必要とするだろう。
いま最悪なら、少し改善するだけでもとてつもない覚悟が必要だろう。
それでも、ボクは、車線変更を躊躇わない。
その事に気が付いてから、ボクは、道を選ぶことに不安がなくなった。


ゆったりと、自らの過去も振り返ったりしながら読んでみると勇気がわく、かもしれない。


あの日にドライブ/荻原 浩

chocolate


昨年は、Valentine Dayのチョコレートについて、三回にわたって書いた。

2005年2月6日

バレンタインデー 真剣勝負 #1
2005年2月12日

バレンタインデー 真剣勝負 #2
2005年2月15日

バレンタインデー 真剣勝負 #3 (最終章)

Valentine Dayとチョコレートに対する思いは、もちろん昨年と大きな違いはなく、

つまりはボクの周囲を取り巻く関連するプライベート環境にも大差はない。
昨年のボクは

「錯覚、誤解、思いこみは、男のエネルギー源だし、身の程知らずは男の性なのだ。」と書いているが、

今年もEカードとチョコに、一週間分くらいの元気をもらった。


チョコ好きとして、今年の傾向について軽く触れておく。
とりあえず、写真に写っている「サロン ド ショコラ」セレクションを一通り試してみた感想を中心に。


本場の“Salon du chocolat”でも人気があったというファブリス・ジロット(Fabrice Gillotte)氏の“テロワール ド ブルゴーニュカシス”はさすがに美味しかった。ジャムではなく、カシスのゼリーを封じ込めた技術に賞賛が集まっているが、やはり口溶けがジャムとは微妙に異なり、新鮮な食感であった。


しかし今年は、ハーブを使ったチョコが多かったような気がする。ファブリス・ジロット氏は、エストラゴンやコリアンダーを使っているし、アンリ・ルルー氏はタイム風味のガナッシュでアクセントを出し、イルサンジェー氏はフレッシュバジルやグリーンペッパー、パトリック・ロジェ氏は、セショアンペッパー。他にも、シナモン、ペッパー、ナツメグ、グローブを風味のプラリネを試したクリスチャン・ヴォーティエ氏やブラックベリーとバジリコのガナッシュをのセバスチャン・ブイエ氏などなど。
ほとんど肉料理のレシピのようだ。


口に入れると、一瞬、ウムム?と、ハーブの香りが広がるのだが、チョコに合うハーブはミントだけではなかったんだ、と感心する。なめらかな口当たりのチョコレートが、一気に、複雑なオトナの香りを持つ作品に昇華するのだ。
ボクのチョコレートに対する思いこみを打ち砕いてくれた衝撃の『黒トリュフ』(LE CHOCOLAT DE H (ル ショコラ ドゥ アッシュ)) の馥郁たる楽しみを知ってから、もしかしたら、ボクのチョコレート感が変化しているのかもしれないが、オトナがゆったりと楽しむための嗜好品として進化を始めているということなのかもしれない。


普段は、じつはフルーツの酸味が効いたチョコが好きだったりする。
でも特別なときに、揺らめく光を眺めながらつまむ一粒のチョコレートは、こんなオトナの味が似合う。

伊勢丹の“サロン ド ショコラ”に集うオトナの女性たちは、自分のために購入する例が多いという。

今年は、フルール・ド・セル(塩の花)を使ったチョコやキャメルも目についた。これらの複雑な甘さのチョコは、シンプルなアタマの構造の男のコには少々もったいないような気もする。


この時期を逃すと手に入らないチョコも多いけど、こんな風に新しい味に出会うと、都内のどこかで似たレシピのチョコを試すシェフに会えるのではないか、と期待する。この数年で、真剣勝負のチョコの店も増えたしね。今年も、チョコのオフシーズンに期待しましょう。

lumen


もしかしたらこの半年は、これまで編集者をやってきて、イチバンの忙しさだったかもしれない。


ごく短期間なら、たとえば締め切り前に3日間一睡もせずに働き続けて、入稿明けに40度の熱を出したりしたこともある。
でも、これほど長期に渡って継続的に次から次へと新しい企画を、しかも並行してこなしたのは初めて。それもすべて初めての試みばかりでプレッシャーも大きかった。
自分で始めた企画で、かねてからの理想に近い方法を試すことができたプロジェクトだから、忙しさを他人のせいにはできない。その成否はボク自身の頑張りにかかっていて、だから逃げ場もなければ、甘えることさえもできない。そんな半年だった。


やりたいことを、やりたいようにできるのは、サラリーマンとしても、編集者としても、理想的な状況だ。だからこそプレッシャーも大きい。
プロジェクトには、たくさんのスタッフ、賛同者、協力者を得ることができて、ボク以上に周りも忙しくなった。より楽しいことをやるために、より面白いコンテンツを発信するために。プロジェクトはまだ端緒についたばかり。しばらくは、こんな状況が続く。


それでもボクは、どうやら忙しさと付き合う術が分かってきたようだ。
週刊誌や隔週刊誌の編集者時代とはまったく異なるネットコンテンツの編集リズム。24時間、どこにいてもネット経由で追いかけてくる仕事。そんななかで、仕事のリズムを決められるのは自分自身の意識の切り替えだけなのだ。ONとOFF。キッチリとOFFの時間を作って、アタマとココロを切り替える。ようやく、それができるようになってきた。少し、成長した。


ボクには、特に趣味と呼べるようなモノがない。読書や音楽鑑賞を趣味と言ってしまう勇気もないし、コレクターの資質もなく、続けているスポーツもない。だから、OFFに特にやりたいことがあるわけではない。でも、そのとき、その瞬間にやりたいことや興味のあることは常にあるわけで、このブログにはそれらを書き連ねてきた。


たとえば、いま、イチバン面白がっているのは、光と影のインテリア雑貨、かな。
写真は、最近入手したオイルランプだ。
ステンレス製のスッキリしたデザインで、炎を点すと、壁に大きな樹の影が投影される。
室内のほんのわずかな空気の流れに、樹の影がゆらゆらと揺れる。
部屋を暗くしてただ炎と影を見ているだけで、それだけでちょっと幸せな気分になれる。
忙しさの反動なのかもしれないが、いま現在のボクの趣味は、光と影。


■デザインオイルランプ Lumen(ルーメン)■
6,800円/BLAU@楽天

whiteband2

コメントで、ホワイトバンドプロジェクトに疑問の声があることを紹介していただいた。
否定的な意見が少なくないことも知っていたし、胡散臭さを感じている人が多いことも聞いている。ボクは、双方の意見を知りうる限り調べた上で、着用することを選んだ。

アフリカの子どもたちの命を救う上で、この方法がベストだとは思っていない。
しかし、批判論者の主張のなかでボクの知りうる限り、よりベターと思われる対案を示している例はなかった。
人の考え方を否定することから始めたコミュニケーションは、その対案を示すことが必須だと思う。
かつて、論理的に否定することで存在価値を示すことのできた時代が、日本にはあった。情報も人的交流も閉ざされた国内でのみで、似通った価値観を共有する社会であった。
いま、ボクたちはその時代に生きてはいない。
様々な考え方が併存するのが“社会"だと思う。
共存できれば素敵だけれど、必ずしも対する考え方を広く容認する必要性も感じないので、敢えて併存。

人と人とが接するとき、必ずそこには別の考え方がある。
なのに、関係性の違和感をそのままに、分かるでしょ? ね?で、済まそうとするのは、甘えであり、怠惰であり、社会性を欠いている。どうして分からないの!と怒るのは、幼児並みの社会的未熟者だ。
大切なのは、自分の考えを持つと同時に、他の人は別の考えを持っている、ということを前提として認識した上で社会を生きること、だと思う。
極端なことを言えば、人と人との関係は、対立から始まると知るべきだ。だからこそ、コミュニケーションが重要なのであり、そのために相違点、対立点を明確にする必要があるのだ。
他の人の意見を尊重したり、擦り寄ったり、論破を試みたりするのは、その後のこと。
とりあえず、異なる意見の人が、多々存在することを認めるべきだ。
共同幻想の元に生きていける社会は、社会として未成熟な過程に存在し、かつての日本がそうであったように、それこそ幻だったのだと思うのだ。絶対的な正義や善すらも、もはや存在しない世界に、ボクたちは生きている。
自分の知り得た情報や、判断がゼッタイだとは決して思っていない。だから、無視されるのも仕方がないが、できれば批判、批評をいただき、その根拠となる情報とともに、別の考え方も聞いてみたい、といつも思っている。

さてさて、ボクがホワイトバンドを着けている理由のその第一は、それがホワイトバンドだったからである。
昨今流行の、イエローバンドやら、グリーンバンド、ピンクバンドには、色彩的に手がでない。それぞれが意味する主張に興味がないわけではないので、誤解なきように。ホワイトバンドは、当初なかなか手に入りにくかったし、デザインもシンプルでキュートだったのだ。だから、最初のブログの記事 も、マイブームのジャンルとした。

そして第二の理由は、もちろんホワイトバンドプロジェクトの姿勢に賛同したから。
ボクが子どもたちにできることは、ユニセフへの寄付だったり、フォスターペアレントの運動に参加したり、アフリカの国々に支援をしている日本という国に税金を納めたり、デモに参加したりと、直接的に間接的に、いろいろの方法がある。それらに、ボクが協力しているかどうかは、ココでは別の問題。これらの活動と、このプロジェクトが根本的に異なるのは、寄付を目的としていないこと。ホワイトバンドの代弁者ではないので詳細はホームページで見て欲しいが、これが唯一の貧しい国の子どもたちの命を救う方法ではない。プラスαの協力としては、グッドアイディアだと思うのだ。
批判のあるなかで、白いバンドをして街に出るのは、それなりに覚悟がいる。だけど、批判することにアイデンティティを求めて何もしないよりも、世の中に対してアピールをする姿勢は、よほど素敵だと思う。

最近、ホワイトバンドを着けた人を多く見かけるようになった。しかも、初夏のころは若いい人中心だったのに、最近は中高年に目立つ。
政府関係機関や、他のNPOもいろいろなバンドを作り始めた。重ねづけもよく見かけるし、単なる腕輪としてオリジナルデザインの似たバンドを販売するショップもある。

そろそろもういいかな、と、じつは思っている。我が政府に声は届いただろう。効果があったかどうかは分からないけど。
第一、もう秋だ。長袖の季節だし、手首は見えないモンね。
ホワイトバンドを切っ掛けに、ボクは貧しさのために亡くなっていく子どもたちの命を考えた。たとえ、政府や国会が動かなかったとしても、いままで以上に、子どもたちの今を、未来を考えるようになった。
たぶんボクは、ホワイトバンドを外しても、そのことをこれからも忘れない。そして、そのために自分たちの政府が何をするか、を見続けていくだろう。

bresaola

世界一予約が取りにくいといわれるスペインのレストラン“EL BULLI” (エル・ブジ)の予約が取れたからと、突然一週間休んだ前科のある上司が、夏休みをガッツリとって、再びヨーロッパに旅立った。

グルメな彼のお土産は、ブレザオラ【bresaola】。
イタリア北部のLombardia[ロンバルディア]州の特産品で、牛の腿肉や腰肉など脂肪の少ない部分を使った半生の塩漬け干し肉。ボクにとっては初体験の味だ。

貴重なお土産なので、パクつく前にちょっと調べてみた。

地元商工会議所の特産品自慢のページには、
オリーブオイルと塩、胡椒、チーズなどを付けて食べる、とある。
鹿肉を使って作る“ブレザオラ・ディ・チェルヴォ(Bresaola di. Cervo)”と言う種類もあるらしい。

なるほど、と思いつつ、イタリアレストランのメニューから、より美味しく食べる方法を探る。
ちなみに日本では、まだ一般に定着した食材ではないようで、生ハムの種類に入れているところが多い。現地の扱いや、食材輸入業者、食材事典では、ほぼ乾燥肉やサラミの仲間に入る。
基本的には、前菜=antipastoで供されるようで、たとえば、こんな感じ。

・牛もも肉の自家製ブレザオラ:ロビオラチーズのクレーマと共にサマートリュフとブロッコリーを添えて
・黒毛和牛の自家製ブレザオーラ(牛肉の塩漬け生ハム)のザクロ添え:野生種ルッコラと削り出しのパルメザンチーズと共に…
・ブレサオラ(牛生ハム)とリコッタチーズのファルシー
・ブレザオーラのカルパッチョ仕立て:牛肉のイタリア風生ハムブレザオーラをカルパッチョ風にオリーブオイル・ブラックペッパー・レモンのソースで、召し上がっていただきます。日本でも当店の他では、数店しかお出ししていません。ブレザオーラの香りとソースのサッパリ感を。
・ブレザオーラとルーコラのロール巻き
・自家製ブレザオーラとリコッタチーズのサラダ
・ブレザオラ、ズッキーニとたまねぎのスライスとともに
・プロシュット・クルード(生ハム)より脂の少ないBresaola(ブレザオラ)をズッキーニと玉ねぎのスライスの上にのせ、レモンとオリーブオイルで味つけ、とさっぱりした一品。

早く食べてみたかったので、とりあえず冷蔵庫にあったルッコラをたっぷり巻いて、少々のマヨネーズを付けて試してみた。
美味い!
しっとりとしているので、確かに生ハムに近い食感だけど、塩漬け肉のしっかり感がルッコラによく合う。匂いと味には少し癖があるが、やめられない、止まらない。他の食べ方を試してみることもなく、あっという間にペロリと完食してしまった。

どうやら一部の輸入食材店では、直輸入ものかどうかは不明だが、ブレザオラが手にはいるらしい。食したのちに上記メニューから想像すると、レモンなど酸味のある果汁を加えるとさらに美味くなる予感。近いうちに探し出してトライをしてみよう。

滅多に出会えない食べ物に惚れ込むと、あとがしんどい。
かつてグラビア誌の担当をしていた時代に、ロケで行く南の島の朝食でいつも食べていた“ポチギソーセージ”というジューシーでスパイシーなソーセージがある。大好物だったのだが、探しても探しても、いまだに日本では見つけられない。沖縄や南九州では国産のポチギソーセージを普通に売っていることを知り、何種類か取り寄せてみたけど、これが違う。どれもサラミに近いソーセージで、ボクの知っているジューシーさが足りない。どちらかといえばB級食材のポチギソーセージだからかもしれないと思いつつ、いまだに探し続ける。

世界には、まだまだ知らない美味いものがたくさんあるはずだが、さあて、それを知ることが幸せなのかどうか。
たとえば我が上司に、人生2度目の“EL BULLI”ディナーはあるのだろうか。
…悔しいけどありそうだな、やっぱり。その時は、お土産に期待しよ。

gold

ギネスブックに掲載されている世界最大の金塊が、昨年末に台湾で製作された220キロに抜かれたため、負けてなるかと250キロの金塊を鋳造した、とニュースで聞いていた。
その時は、ふ~んと聞き流していたのだが、たまたま伊豆の土肥金山を見に行ったら、そいつがそこにドンと置いてあった。

三菱マテリアルの鋳造で、250キロの純金を先週金曜日の相場で計算すると、時価 4億2,075万円(1,683円/g)になる。サイズは、底面で455mm×225mm、高さ170mm。

大手民間企業に勤めるサラリーマンの生涯賃金が約3億円といわれているので、まあよほど運が良いか(ロト6の最高額が4億円になった)、ストックオプションで手に入れるか、独立して事業に成功しない限り、手にすることはできない金額。
この金塊は、観光金山の売店の脇に、ガラスケースに入っているとはいえ思いのほか無防備にゴロンと置いてある。ケースに開いた穴から手を入れて直接触れることができるので、せっかくだからしっかりと握ってきた。

さてさて、約4億2千万円といってもなかなかイメージしにくい。
金塊をネタにちょっと遊んでみた。

衆議院議員選挙が近いが、都市部が選挙区になる国会議員の間には「五当四落」という言葉がまかり通っているという。選挙に5億円かけられれば当選、4億円だと落選ということ。つまり、ギネス級の金塊が1個あっても、当選はママならぬ、ということだ。
小選挙区の法定選挙費用は、公職選挙法、政令等で細かく定められていて、計算してみると大都市の選挙区でも3,000万円以下になってしまう。運動員の日当は車上に乗る人で1万5千円まで、それ以外は1万円以内とか、選挙事務所で出す弁当は、一日あたり45個までで、1個1,000円以内でとか、お客さんに出す茶菓子は500円以内とか、細かく決まっていてこれを破ると当然、当選無効、担当逮捕。つまり定められていないところに、コストがかかるということか。

サラリーマンは一生かかっても稼げないが、日ハムの小笠原道大氏の推定年俸はちょうど4億円。

議員は2週間の選挙戦前後で使い切り、一流のプロ野球選手は1年で稼ぐ。
多いのか、少ないのか…。

たとえばいま、都市銀行の定期預金に4億2千万円を預けるとしよう。年利0.2%の1年複利で10年間預けて、利息は8,476,004円。しかし、20%の源泉分離課税がかかるので、受け取るのは約678万円だ。利子だけでは食えない。

このアメブロを運営するサイバーエージェントの株を買って、経営に参加するというのはどうだろう。4億2千万円もあれば、もしかしたら…。
先週終値は422,000円なので995株買えるが、総発行株数のたった0.3%。筆頭株主の藤田晋社長は96,992株(29.6%)もお持ちなので、これっぽっちでの経営参画は不可能だ。藤田社長は、やはりお金持ち。

やっぱり大したことないのかなと、もし4億円の邸宅を購入して4.7%の住宅ローンを組んで、35年毎月均等で返していくとすれば、月々の返済は200万円を超える。ウムム。

一方、この金額をユニセフに寄付をすると…、
緊急時の基礎的な医薬品や医療器具が入った保健・衛生キット(3か月分)を16,632,000人分提供することができる。緊急時にすぐ手当てをすることができれば、傷や病気が悪化するのを未然に防ぎ、感染症の拡大を抑え、多くの尊い命を守るのだ。
また、39万2千家族に、安全な水を手に入れるためのキットを提供することができる。
さらに、緊急事態にあってもどこでも教室が開け、子どもを守れるよう、生徒40人分の教材が入った「スクール・イン・ア・ボックス」を33,600クラス分を届けることができる。

国境なき医師団に寄付すれば…、
難民に毛布を67万2千枚渡せる。難民8,400万人に清潔な飲料水を10日間供給できる。
外科手術用麻酔キットを33万6千人分購入できる。

他にも、盲導犬を170頭程度育成できるし、ホワイトバンドの仲間を140万人増やせる。

やはり、それなりのことができる。つまりは、使い道。
それにしても、この金塊。
これって次に記録が破られるまで、このまま放置かな。なんだか、もったいないような気もするが。

hatake

かすかな、梅の花や沈丁花の香りで知る春
秋風とともに漂ってくるキンモクセイの香り。
穏やかな季節は“香り"で始まるが、
夏には、香りよりも“匂い"という表現がふさわしいのかもしれない。そういえば、夏の花には印象的な香りを持つものがあっただろうか。

梅雨が明けきらない6月の終わり頃、今年の夏はエアコンの埃くさい匂いから始まった。

そして都心のヒートアイランド化がさらに進んだように感じたこの夏、例年なら部活帰りの高校生の傍若無人な汗の匂いに辟易する電車のなかで、ボクがイチバン嫌だったのが、オヤジの扇子。

子どものころ、母の使う細工の入った小ぶりの扇子からは、微かに白檀の香りがした。暑がるボクをゆっくりと扇いでくれる風は、母の優しさそのものだった。そういえば、母のハンカチからも同じ白檀の香りがしたな。

それに比べて、バタバタとせわしないオヤジの扇子は、風下に汗くさい体臭をまき散らす。隣のつり革にぶら下がったオヤジが巻き起こす風が、オヤジを経由してボクの頬を撫でたりすると、思わずのけ反り、一歩後ろに下がってしまう。煙草の副流煙ならぬ、副流臭だ。

そんな電車に毎日乗っていると、当然、自分の体臭も気になってくる。
注意して時々クンクンしてみると、気温33度でジワジワとかく汗と、筋トレのあとの汗とは、異なる匂いであることに気がつく。ジワジワ汗の半乾きは、我ながらいただけない。人の振り見て我が振り直せ。できればシャワーを浴びたいけれどそうもいかないので、フェイスタオルを携帯して小まめに拭ったりした。
それと、今年はトワレを2種類用意して使い分けている。BULGARIのブラックと、AXIS HOMME。もちろん使い過ぎは傍迷惑だし、消臭効果があるわけではないのだが、少なくとも自分自身には心地良い香りの自己満足。

夏の終わりになってようやく取れた短い夏休みで、伊豆にドライブ旅行に出かけたのだが、目的は温泉三昧だったので水着を持って行かなかった。それでもチラリと、土肥の海岸に降りてみた。お台場や芝浦でいつも感じる東京湾の海とはまったく異なる透明な海の匂い。
本当の海の匂いを忘れていた。

家の前には、住宅に囲まれて約600坪の畑があった。
お年寄り数人が家庭菜園の延長レベルの耕作をしていて、栗の木が何本かと小さな藤棚があって、おかげでリビングからはいつも緑を眺めることができた。とても採算が取れるとは思えず、税金対策大変だろうな…と人ごとながらに思っていたのだが、ついにその畑が整地され、マンションが建つことになった。
先日、ついにすべての木々が切られ、マンション建設が決まってからしばらく伸び放題になっていた夏草が刈られた。草刈りを横目に見ながら出社して、夜、帰宅するときにスッキリと整地されてしまった脇を通ると、夏草の強い匂いが辺りに強く漂っていた。
ずっと忘れていた、子どものころの夏休みの匂い。空き地の草むらをかき分けて遊んだ時に、いつも周囲にあった匂いだ。
思わず立ち止まり、深呼吸を繰り返す。
そうか、夏は花の香りがしない代わりに、木や草そのものが強く匂っていたんだと思い出す。

夏を、夏らしく過ごさなくなってだいぶ経つ。
海にも行かず、野山にも出かけず、気温だけが亜熱帯化しつつある都心で、人工的な冷気を浴びながらやり過ごす季節。四季を楽しむことを心がけているつもりだったのに、本当はイチバン好きだったはずの夏をないがしろにしていた。
もう来年の夏はコンクリートのマンションになっている畑が、最後に本当の夏を教えてくれた。

kuiuchi