デジタル編集者は今日も夜更かし。 -3ページ目

デジタル編集者は今日も夜更かし。

出版社に在籍していながら、仕事はネット、携帯などデジタル企画のプロデュース。

もし雑誌をやっていたら記事にしたかもしれない様々なネタを、ジャンルにこだわらずコラム風に書いてみる。アナログ志向のデジタル編集者は、相も変わらずジタバタと24時間営業中!

遠くへ行きたい…かな


家の近所と学校が世界のすべてだった子ども頃、
通学路から外れて寄り道をする度に、少しずつ視野が拡がった。
初めての角を曲がって足を踏み入れる路地の風景にドキドキした。
いつも立ち寄る秘密基地に魅力を感じている友だちもいたけれど、
ボクは、どちらかと言えば、新しいエリアへの冒険を好んだ。


中学1年生の時、部屋に日本の白地図を貼った。
好奇心の成長とともに行動の限界を広げ、学校が休みになると学割で買ったJRの周遊券を手に旅に出るようになる。週末も利用して、乗ったことのない鉄道や船やバス路線を使って、訪ねたことのない街へ、友だちと、時には一人でも出かけた。
若い旅行者に人々は優しかったし、教科書に出てくる地名や旧跡を直接目にするのは、いつも刺激的だった。
帰ってくると、部屋の白地図にマーカーで旅行のルートを書き入れた。


その当時、『遠くへ行きたい』(永六輔作詞、中村八大作曲)を歌いながら、地図と時刻表を眺めて旅程を考えていた。旅番組『遠くへ行きたい』(日本テレビ系)の主題歌で、ボクは日曜朝のその番組を見るたびに、歌詞の通りに旅に出たくなったものだ。
ちなみに、この番組はまだ続いているのかなぁ、と検索してみたら、明日朝の放送でなんと37年目に突入するらしい。回数にして、1,822回。スゴイ。


大学卒業の頃、白地図のラインは交錯し、47都道府県のほぼすべてにボクは足跡を残している。
仕事に就いてロケや出張で沖縄県西表島や北海道にまで足を延ばし、結局、日本の全都道府県を踏破したことになる。


ところで、いまボクの週末は、完全に休養に当てられている。
たまの休暇も近郊の温泉に出かける程度で、出張以外の旅行をあまりしなくなった。
第一、「遠くへ行きたい」という気持ちすら忘れていた。
都道府県は制覇したけれど、日本中の街に行ったわけでも、世界中を旅したわけではない。海外渡航経験は、南の島を中心に回数だけは数十回を数えるけれど、訪れた国(地域)は、10に満たない国(地域)と思う。まだまだ行っていない国や行きたい都市が世界にはたくさんあるのに。


体力が落ちたのか、好奇心が衰えたのか。
もし仮に、いま一週間の休暇をもらったとしても、せいぜい一か所の温泉に滞在するだけのような気がする。
日常に満足しているわけではないので、あらためて考えると、逃避やリフレッシュの意味も含めて、遠くへ行きたい。でも、そのモチベーションがこのところ、ない。


先日、ベルトを買った。
ベルトなんて、そうしょっちゅう買うものではないのだが、デザインコンセプトに惹かれての衝動買い。
古い自転車のチューブを再利用、加工してイタリア製のバックルをつけたドイツのベルトなのだ。
ドイツ語でチューブを意味するというブランドロゴ“SCHLAUCH”(シュラウヒ)は、企業CIを得意とするドイツのグラフィックデザイナーの手による。
エコロジカルなデザインが施されているけれど、中国製のチューブには現役時代の痕跡が残っている。
欧州かアジアか、アフリカか、どこかの国のどこかの街を走っていた自転車に装着されていたタイヤのチューブだ。


日々のいろんな出来事を思い起こしながらこのベルトに触れていたら、イメージがどんどんと、遠くへ飛んでいく。
久しぶりに自転車を引っ張り出して、走り出したくなる。
国境を越え、赤道を越えて、海外の街へも行きたくなる。
旅に出るのも、いいかもしれないな。
ウダウダと日常の問題に振り回されるのにも、少し飽きた。
久しぶりに、遠くへ行きたいと、少しだけ、思った。


■SCHLAUCH/リサイクルチューブベルト■



錫のハート


『錫の兵隊(ボクの個人的記憶バージョン)』 を公開したら、早速、読者から連絡をもらった。


「原作は、青空文庫にありましたよ♪」
そうだ、青空文庫を忘れていた!


青空文庫 は、インターネット初期から積極的に活動をしているネット図書館で、著作権が切れた名作をボランティアでテキスト化し、公開している。久しぶりに訪ねてみたら、収録点数は5,000点を超えていた。

著作権は、著者没後50年で消滅する。海外の小説の場合は翻訳者がいるので、同時に翻訳者没後50年を経る必要がある。
著者のアンデルセンは1875年8月4日に亡くなっているので、すでに著作権は切れていて、青空文庫に収録されている『すずの兵隊』の底本(テキスト化するための元となる本)は、新訳アンデルセン童話集第一巻『しっかり者のすずの兵隊』(翻訳/楠山 正雄 同和春秋社/1955年7月20日初版)。翻訳者の権利も消滅している。
挿画も当時のままに、収録されているので、ぜひ読んでみて欲しい。グリム童話ほどではないけれど、けっこうシビア。

■http://www.aozora.gr.jp/cards/000019/card42379.html


ボクが子どもの頃に手にした『すずの兵隊』は、原作を元にして書き下ろしたもっと易しい童話集だったのだろうけれど、どうやらボクは、さらに自分なりに感じた部分をデフォルメして記憶していたらしい。
そういえば、錫の兵隊の原材料はスプーンだったんだな、とか、ドブネズミは門番だった…とディテールを思い出す。
記憶は曖昧だったけど、ボクは思い出のなかで付きあってきたボク仕様の結末の方がやっぱり好きかも。思い出は、自分の都合の良いように改ざんされるのが常なのだ。
だから、そんなことはないとは思うけど、ボク仕様の『錫の兵隊』を子どもに読み聞かせたりしないように! ボクみたいなオトナになっちゃう…。


で、同時に、ホントに“錫”で鋳造された“ハート”を持っていることも思い出した。
2004年12月19日のブログに、『ラッキー・コイン』 のタイトルで書いていた。

ヨーロッパの古い言い伝えで、持っていると願いが叶うというコイン。
いまでもずっと、財布に小銭と一緒に入れて、いつも持ち歩いている。

大きさといい、表面の粗い加工といい、まるで暖炉に燃え残ったハートそのものじゃないか。
これからはこのコインを、錫の兵隊とバレリーナの愛が成就した結晶だと思うことにしよう。

錫の兵隊


子どもの頃、少しおませだったボクは、アンデルセンの『錫(すず)の兵隊』(鉛の兵隊)のお話を読んで、ものすごくつらかったのを覚えている。
もちろん、恋など知らなかった子どもの頃なのだけれど、
もし、自分が決して結ばれない誰かを好きになってしまったらどうするんだろうと、とても不安だった。
“結ばれない”という意味もよく分からなかったはずだし、第一、淡い初恋すら未経験の子どもの頃に、どうしてそんな風に感じたのかはよく分からない。でも、本当に泣きたいほどつらくて、悲しかったし、もしかしたら泣いていたのかも知れない。


その後も、
中学生の頃、某アイドルにキュンとしたときに、この『錫の兵隊』を思い出した。
思春期の頃、何度か片思いや失恋を繰り返してたときにも、思い出した。
そして、いまでも時々、この“錫の兵隊”のつらさが甦ることがある。


オトナになって、何人かの友だちにこの童話を知っているかどうか訊ねても、じつはほとんどの人が知らないことに驚いた。
ボクのなかでは、もしかしたらイチバン影響を受けたかも知れないお話なのに。
最近、ちゃんとしたストーリーを読み直したくて、ネットや書店で探したのだけれど、なかなか適当な原作が見つからない。
と、いうことで、いっそのこと昔の記憶をたぐり寄せるために書いちゃえ!と思い立った。何せ、ホントに子どもの頃に読んだ、もしくは、読み聞かせてもらったストーリーの再現なので、原作とは似てもにつかない可能性もある。アンデルセンさん、ごめんなさい。


でも、オトナになったいまも、ボクに少なからず影響を与えているのは、ボクの記憶の引き出しにあるこのストーリー。トライしてみる。


錫の兵隊(ボクの個人的記憶バージョン)


ある街の工房で、錫の固まりから、小さな兵隊のフィギュアが25体作られました。
精巧な鋳型から作られた兵隊は、鮮やかに彩色されてい、全員一緒にパッケージされて、おもちゃ屋さんのショーウィンドウに並んだのでした。


小さな男のコがいました。
一人っ子でしたが、ごっこ遊びが大好きで、寂しさなんて感じたことがありませんでした。王様やお后、王子やお姫様の人形を大きなお城の模型の前に並べて毎日遊んでいました。


男のコの誕生日、両親は、兵隊のフィギュアをプレゼントしました。
「WOW! 錫の兵隊だ!」
男のコは大喜びで、早速、お城の前に、25体の兵隊を整列させました。
兵隊はみんなそっくりの姿をしていましたが、ひとりだけ一本脚の兵隊がいました。
鋳型で鋳造する最後に、少しだけ、錫が足りなかったのです。
しかし整列させてみると、一本脚の錫の兵隊も、スクッと、しっかりと立つことができました。身動きひとつしません。
男のコは、その凛々しい立ち姿を見て、「ウン」、と納得したのです。


錫の兵隊たちは、毎日、お城の警備に当たりました。
銃を構え、お城の門前で微動だにせずに立ち番を続けます。もちろん一本脚の兵隊も、その職務を忠実に果たしていました。

お城の中には、王様を始めとする王族と、その従者たち。
門前には、兵隊の他に、サーカスの一団もいました。
そこには、美しい姿をした紙細工のバレリーナの人形がいました。
高く高く足をあげ、キレイなアティチュードのポーズをとっていました。
一本脚の兵隊は、彼女を見て思いました。
「ボクと同じだ…」
そう、彼女も、一本脚でしっかりと立っていたのです。


二人は、毎日、見つめ合う位置に立っていました。
几帳面な性格の男のコは、ひとしきり遊んだあとは、いつも同じ場所に人形を置いたのです。
毎日、毎日、彼女のことを見つめ続けて、一本脚の兵隊は、次第に彼女に惹かれていることに気が付きました。
しかし、自分はお城を守る兵隊。しかも、錫の兵隊です。紙細工のバレリーナと、いま以上に仲良くなれるはずもありません。思いは募りますが、二人がいま以上の関係を築くことはゼッタイに不可能なことなのです。バレリーナのココロも同じでした。


5月の気持ちの良い陽気のある日、男のコがたまたま開けっぱなしにした窓から強く風が吹き込み、カーテンが大きく膨らんで兵隊たちの列をなぎ倒しました。
そのとき、一本脚の兵隊だけが戻るカーテンに巻き込まれて窓の外に落ちてしまったのです。
部屋に戻った男のコは、倒れた兵隊たちを再び整列させながら、一本脚の兵隊がいなくなったことに気が付きました。両親とともにひとしきり部屋の中を探したのですが、窓の外に落ちているなんて思いも及ばず、結局諦めてしまいました。


さて、窓の外に落ちた一本脚の錫の兵隊ですが、道路脇の雑草に埋もれ、しばらくの間は、雨に打たれ、日に晒され、その場に倒れたままでした。たまに野良猫が跨いでいったり、散歩中の犬に匂いを嗅がれたりしました。日が経つにつれ彩色は落ち、みすぼらしくなっていきます。


そんなある日、近所の悪ガキ二人組がその窓の下を通りかかりました。何か面白いことはないかなぁ、と小さな事件を期待しながら手に持った木の枝であちこち突いたり、叩いたり。棒で雑草を払いながら歩いていると、男のコの家の窓の下で、錫の兵隊を見つけました。
「おい!負傷兵発見!」
もう一人を呼び寄せ、この錫の兵隊をどうするか、悪巧みの始まりです。
結局、悪ガキたちは落ちていた木の箱で船を造り、錫の兵隊を乗せて下水に流すことにしました。
「出発進行!」
こうして、錫の兵隊は、男のコの家を離れバレリーナ人形のことを思いながら、暗い下水溝のなかをただただ流されていきました。


途中、巨大なドブネズミに襲われそうになったり、急流の渦に巻き込まれたりしながらも、懐かしいお城とバレリーナの思い出に気をしっかりと持ちながら、ずっと耐えていました。
下水に流されてから、どのくらい経ったのでしょう。
木箱の船は、ついに海に流れ出ます。幾多の困難を乗り越えた錫の兵隊ですが、大海の波にはひとたまりもありません。ついに船はひっくり返り、錫の兵隊は海に沈んでいきました。と、その時、大きな魚がスーッと近寄ってきて、錫の兵隊をひとのみにしてしまいました! 真っ暗な魚の胃袋のなかで、彼は、やはり神細工のバレリーナのことを思っていました。


それからずいぶんと時が過ぎたある日、漁師が船釣りの漁をしていて、大きな魚を釣り上げました。
そしてその魚は市場で売られ、街の主婦が買い求めました。今日は、一人息子の誕生日。友だちもたくさん集まるので、パーティー料理に、いつもより大きな魚が必要だったのです。


家に帰って、早速キッチンで魚をさばきます。腹にナイフを入れると、カチンと何か固いものにあたります。取り出してみると……
「まあ、なんてことなの!」
そうなんです。錫の兵隊は、大きな魚のお腹のなかに飲み込まれて、あの男のコの家に帰ってきたのです!
錫の兵隊が消えた日、お母さんも一緒に探したので、彼のことをよく覚えていました。
しかし、男のコは、少しだけ成長していて、少しだけ、ごっこ遊びに飽きていました。
数ヶ月ぶりに戻った一本脚の錫の兵隊を見て、男のコはつぶやきます。
「壊れている…」
そして、自分の部屋にある暖炉に、錫の兵隊を投げ込んでしまい、すぐに彼のこと忘れてお祝いに集まった友だちの元へ駆けていきました。


暖炉の炎に包まれて、錫の兵隊は、テーブルの上のお城を眺めていました。
そこには、残り24体の兄弟たちとともに紙細工のバレリーナが、昔通りに一本脚のアティチュードで立っていました。
「良かった。もう一度、逢えた。なんて幸せなんだろう!」
彼に残された一本の脚も、熱で溶けていきます。

最後の瞬間に、愛しい人に逢えるなんて。


その時です!
いまは窓も開いていないのに、一陣の風が部屋を舞いました。

そして、紙細工のバレリーナがふわりと浮いて、暖炉の火のなかに飛び込んできたのです。
二人は同じ炎に包まれて、ひとつになりました。


翌日、暖炉の火が消えたとき、その灰のなかに、小さな錫の固まりが残っていました。
そしてその固まりは、まるで心臓のようなハートの形をしていました。



ボクの机の上には、錫ではないけれど、小さなスチールのハートが置いてある。
まるで、錫の兵隊と紙人形のバレリーナの愛の固まりのようなこのぷっくりとしたハートは、軽く振ると、まるで遠くから聞こえてくる教会の鐘のような、深くて透明感のある音色がする。手のひらでぎゅっと握ると、その柔らかな丸みがしっくりと馴染む。


本当は内緒なのだが、寂しいとき、つらいときに、このハートを手にとって、しばし音色と感触を楽しむ。

いまでも、錫の兵隊の気持ちを思うと、しんどくなる。
それでも、子どもの頃は理解できなかった結末の意味が、もしかしたら最近、ようやく分かったかも知れない。


★HEALING SOUND HEART★

恋愛寫眞


この小説が生まれたのは、一本の映画がきっかけだ。
2003年『恋愛写真』(広末涼子主演・堤幸彦監督・緒川薫脚本)を発案とした小説として、同年、書き下ろしオリジナルとして出版された。
この素敵な小説を世に送り出すきっかけとなった映画『恋愛写真』は、とてもとても優しくて心地いい映画だった。
ひとことで言えば、あちこちで写真を撮りたくなる映画。


その映画のオマージュとして『いま、会いにゆきます』の市川 拓司が書いた小説は、人生から純粋に“恋愛”だけを抜き出して、培養して、世に送り出された。
そしてこの秋、今度はこの小説の方を原作とした映画が公開される。
タイトルは、『ただ、君を愛してる』
ボクは未見だけど、試写を観た人たちの評判がムチャクチャいい。
ゼッタイ観るぞ、と思いつつ、久しぶりに原作『恋愛寫眞 もうひとつの物語』を書棚から引っ張り出し、再読した。
とにかく、大好きな小説のひとつなんだ。


ボクは、
女性には髪がキレイでいて欲しいし(必ずしも長い必要はない)、
明るくて人気者であって欲しいし(イケイケの明るさは必要ではない)、
柔らかなスタイルであって欲しい(必ずしも胸が大きい必要もない)。
小説や映画で感情移入をする対象の場合は、際だつ美しさか、万人が認める愛らしさが前提となったりする。そこに個性が加わって魅力となり、ヒロインたり得る。
なのに、この『恋愛寫眞』のヒロインは正反対の姿で登場する。
彼女が恋をする対象も、純粋だけど冴えない大学生の男のコ。
そんな二人の恋愛物語には、当初、戸惑ったものだ。著者の修辞的な表現が好きだから、リズムに乗った会話やシチュエーションを楽しみながらも、このままこの二人は、この地味な恋愛話に付き合えというのか…、そう思っていたりもした。

結論から言えば、とんでも無かった。
著者は、主人公たちが魅力的に見えてくる要素を、思いも寄らない方法で提供する。
そして読み進むウチに、ボクも、この二人のことを大好きになる。


この小説には長いエピローグがあるのだが、その部分に到達するころには、誰しもきっと流れる涙をこらえきれなくなるに違いない。


小説を読んでいて、感情が勝手に動き出す瞬間が好きだ。
泣く、笑う、怒る、嫉妬する、憎む、欲する…。
実生活ではコントロールしなくてはならない感情を、読者というバーチャルな立場でいるときには、解放できる。感情に、流されるままに。
『恋愛寫眞』は、ボクのココロの底にある感情を解放する。


恋の初心者に、片思いの真っ最中で苦しんでいる人に、大切な人がいてラブラブな人たちに、もう、恋なんて関係ないと思い込んでいるオトナたちのココロにも、ビシビシと響くに違いない。
先入観を持たずに手にとって欲しい。
いま隣にいる愛する人を、今まで以上に大切にしたくなる小説です。

たとえ、それが片思いでも。


映画の公開は、10月28日。
『ただ、君を愛している』、 ゼッタイ見に行くぞ、っと。


■恋愛寫眞 もうひとつの物語/市川拓司■

名もなき毒


無差別連続殺人事件が起きて、それを解決していくのだからちゃんとミステリーなのだけれど、ハートフルな要素がずっと流れていて、表題にもある“毒”が持つテーマが重たいのに救われる。
むしろ、“毒”に侵されている多くの人々を救いたいがためのお話にも思える。


探偵役の主人公が、財閥の一人娘と純粋な恋愛で結ばれた“逆玉”サラリーマンで“いい人”。なにもかも順調で幸せな境遇の探偵が、不幸な事件の解決に関わる理由は、彼の好奇心だけではなく、その人の良さが原因だったりする。
昨年夏に新書版で出ている『誰か』 と同じ主人公が登場する連作だが、もちろんこの一冊で十分に成立している。未読なら、この設定が気に入ってから『誰か』 を読んでも遅くない。

人のうらやむ幸せで平穏な毎日を送る主人公の周りにも“毒”が存在する。
つまり、誰にでも、どこにいても、有毒な物質や人の悪意という毒からは逃げ切ることができない…。


って、ここまではがんばって書いてみたけど、このお話に、これ以上のシンパシーを持つことがボクはできなかった。書くべきことが見つからない。
面白いんだよ、この小説。宮部みゆきだし…。イッキに読んだし。
でも、ボクの感情はまったく動かなかった。
なぜ?
いろいろなブログや、アマゾンの書評を読んでみても、評判は良い。
作品に責任はない。
ただ、いまのボクが信じている世界観と、あまりにズレがあったのかも知れない。


ボクが小説で感動する要素のひとつは、人と人との関わり、関係性だ。
恋であったり、信頼であったり、尊敬であったり、嫉妬や恨みや、憎しみが、
小説のなかで際だてば際だつほどフィクションとして面白く感じるし、感動を覚える。
その点で、ここに登場する主人公や周辺、加害者や被害者たちのそれぞれの関係とそこから生まれる感情に、暖かさ以外のシンパシーを感じなかったような気がする。あるいは、理解できなかったのかも知れない。


繰り返すけれど、小説としては十分に面白い。
ハートウォームなミステリーである。
社会性もあり、魅力的なシーンも会話も多々あるし、読み終わって後悔はない。
でも、ボク個人として読後に残ったのは、違う人たちが構成する、違う世界で起こった、ボクとは無関係のエピソード、といった傍観者としての散漫な印象。。。
いつもならブログで取り上げることもなかったワケだが、いろんな本を読んでいると、こういう微妙な出会い方もある、ということを書いておきたかった。
じつは、読了する本の三冊に一冊はこんな感じ。書棚にしまい、再び手に取ることはないのかな。。。


■名もなき毒/宮部みゆき■


おはぎ


今日は二十四節気のひとつ、秋分の日。
昼夜の長さがほぼ同じだったのだが、起きたときはもう昼前だったし、日没の時刻には書斎にこもっていたので、まったく実感はナシ。


仏教の世界では、今日、秋分を中日(ちゅうにち)として、前後3日の一週間がお彼岸だ。
ちなみに、ヒジュラ暦(イスラム歴)の断食月=ラマダンが、今年は偶然にも今日から始まった。こちらはひと月続く。イスラム歴は太陽暦とは毎年10日程度ずれていくので、次にお彼岸の中日とラマダン初日が重なるのは、およそ37年後になる。たぶん。

ラマダン初日の今日、バグダッドでは爆破テロが起こり30人以上が亡くなっている。オイルマネーの動きにも少なからず影響が懸念されているし、同じ宗教行事でも、ニュースの扱いも内容も、のんびり歳時記として紹介される日本の仏事“お彼岸”とは対極である。


彼岸(ひがん)というのは、悟りを開いた境地に達した人たちのいるところであり、対して、煩悩や迷いに満ちたこの世のことを此岸(しがん)という。
つまり、あちら側とこちら側。


この数ヶ月、ボクは相変わらずの煩悩に苦しみ、迷い戸惑いの毎日を送っていて、ラマダンに突入しようが、彼岸の中日だろうが、その状況に大きな変化はない。此岸のど真ん中に棲息中である。
カラダが疲れていたり、ココロがしんどかったりの毎日の原因は、煩悩に惑い。分かっちゃいるけど、ジタバタ、ジタバタ。一時、卒業できたかなぁとも思ったモノだけれど、大いなる勘違いだったようだ。
感情は、損得の収支だけではコントロールできないので始末に悪い。


昨日の夜、仕事の打ち合わせがたまたま新橋駅近くであった。
酒が飲めないこともあって、ボクがほとんど足を踏み入れないエリアだ。
最近、ちょっとやそっとじゃ気の晴れないボクは、ええいままよと、ある決意をする。


サラリーマンの聖地・新橋で、花の金曜日、仕事流れでメシを食い、酒を飲む!


そんな冒険をしてみたくて、新橋飲みのエキスパートに案内を請う。
普通のオトナには普通のことだろうけど、ボクのことを知っている友人、知人が聞いたら耳を疑うほどの大それた決意なのだ。
しかしながら、初心者にはハードルが高すぎるからガード下や屋台は避けてくれ、などとエキスパートに注文を出す。下戸を引き連れて飲みに行くのだから、案内人には迷惑な話だろう。


21時を過ぎた金曜日の新橋は、サラリーマン&OLでごった返している。どの店もいっぱいで、結局、渋谷辺りにもありそうなアジア料理店へ。
が、店内に入ってビックリ。客層が違う! カウンターには、肩を寄せ合うオヤジ二人のツーショット、奥の席には、いかにも部長と部下たちといった少人数の男性のみのグループ。ほとんどテーマパークに足を踏み入れた気分で、ボクのテンションもだんだんと上がってくる。


丸テーブルを囲み、いつもは目もやらないドリンクメニューを吟味して、エキスパートのアドバイスを受けながら、軽めのアジアンビールを注文する。エスニックテイストだけど、焼き鳥系やら枝豆やら基本アイテムを取りそろえて乾杯♪
ホントは仕事の愚痴やら上司の悪口やらで盛り上がるつもりが、フツーに話をしていて楽しくなってくる。ビールの小瓶で喉を潤しながら、いつも以上に喋りまくる。
おお!? これは、いいかも…。ほとんど数年ぶりに飲むビールがかなり美味い♪
なんと2本目にも突入して、トイレに立つ足下がちょっとおぼつかない。けど、楽しい。


「フツーは、このあとカラオケ行っちゃったりするんですよ」とエキスパート。
「行っちゃう?」とボク。
毒、食らわば皿までじゃぁ~と、年季の入った酔っぱらいだらけの新橋の街を、酔っぱらい初心者のボクもカラオケ屋へ。
驚いたことにどの店も満員で、ごった返すフロントで1時間待ちを宣告されて、ふらりふらりと銀座まで足を延ばして、ようやく空いているボックスにたどり着く。


じつは、ボクはカラオケもほとんど経験がなくて、生涯三度目。システムもよく分からないので、テキパキと店員と交渉(注文?)をするエキスパートがほろ酔いの目にはオトナに見える。
躊躇いながらも歌い出すと、これがなかなか楽しくて、湘南乃風「純恋歌」や「カラス」を熱唱してきた。しかも、飲み物は、生まれて初めてのなんちゃらサワー。
いろんな意味で、快挙である。


つきあい酒や接待カラオケには興味はないけれど、気の合う仲間と共に過ごす時間の選択肢のひとつとして、こんな過ごし方も良いかもしれないといまさらながらに実感。
少なくとも昨日の夜、ボクの胃は痛くならなかった。すご~く、気持ちが楽になっている。その代わり、帰りのタクシーのなかではアタマがガンガンしてたけど…。


此岸にいる限り、此岸伝承の解決法が知恵と言うことか。生きながら煩悩から卒業したり、悟りの境地に達しようとするなんてどだい無理なのかも。突っ張ったって、見栄を張ったって、仕方がないのかもしれない、と悟る。間違ってる気もするけど…。


ラマダンで、お彼岸なのに、こんな花金。罰当たりである。
でも、かなりHAPPYな夜だった。本当に。


桃の冷製パスタ


山手線の駅から少し歩いて、住宅街のマンションの地下にある店で、気分転換メシ。


メニューにはお任せのコースしかないのだけれど、リーズナブルな価格と、丁寧なサービスに好感の持てるお店だ。

オープンキッチンに面したカウンターで、小気味よく動く料理人たちの手さばきに目をやりながら、古い友人と3時間かけてゆっくりとメシを食う。


仕事上の繋がりはなく、共通の友人もいないけれど、広い意味で同じギョーカイなので、価値観も似て、悩みも喜びも、思いを共有できる。
ほとんど1年振りに会ったので、その間の恋愛話を聞いたりしながら、相変わらずだなぁなんて思いつつ、真摯にアドバイスをしたり理不尽な展開に驚いたり。


前菜に登場したのが、スイカとトマトの冷たいスープだったりして、このあとの料理に期待して思わずほくそ笑む。

続いて薄くスライスした桃の下には、よく冷えたカペッリーニ。
岩塩の粒が舌に美味しく触る。“塩”はボクの大好物。
強すぎず、でも、キチンと主張する塩粒を味わうために、桃の甘さがちょうど良い。
ソースはシンプルにオリーブオイルとレモンをたっぷり搾って、赤い粒胡椒と少しだけミントの葉。


軽く炙った河津の鯖を、白ワインとビネガーで〆て、カットしたマンゴーとリンゴのゼリーで。

産地の異なる3種類のオリーブオイルを楽しみながら、自家製のフォッカッチャ。


先日別れたばかり、というグダグダの恋話を聞きながら、それでも、新たなひと品がサーブされる度に料理の説明を受け、話は中断。
ひとくち運ぶ毎に、おお!と感嘆しながら、素材や調理法に話題は移る。その瞬間、いとも簡単に恋の悩みが吹っ飛んでいく。
他にも何品か登場して、メインは鴨。供される料理の力で、仕事の悩みも、生涯十度目くらいの失恋話も、軽くなる。


最後に、秋の茸が数種類使われたリングイーネが登場するのだが、ホール係に、お腹の具合はいかがですか?と聞かれる。
「桃の冷製パスタ」を“1”として、どのくらい食べられますか?
ボクは、×2で、とお願いして、食べ始めてから、×3にすれば良かったかな、とふと思う。
ココまでで、2時間が過ぎている。


デザートと食後のコーヒーは、活気のある厨房に挨拶をしてから、1階の静かな席に移って。ありがとうございました!と、7-8人はいる料理人たちの声が気持ちよく追いかける。
ごちそうさま。


ラウンジでエスプレッソとジェラートをいただきながら、話の続きが小一時間。
深夜まで営業している貴重なイタリア料理店の閉店時間を気にしながら、ようやく席を立つ。
見送りの店員に心から賞賛と再訪の挨拶をして、店を出る。


深夜の住宅街を、結局さ…などと話をまとめながら大通りへゆっくり数分。
また、近いうちに。と、声をかけながら、たぶん、次に会うのは早くて半年後。
お互い、忙しい。
深夜の住宅街で空車のタクシーを探しながら、空気はもう秋。
そういえば、桃の季節ももう終わりだな。
その瞬間、ボクのアタマのなかから、仕事の悩みは消えている。


夕焼け


近くのDIYショップに買い物に行った帰り際、広い駐車場の向こうには、真っ赤な夕焼けが拡がっていた。
三連休最後の買い物に出かけてきた人々も一様に、西の空を見上げて感嘆の声を上げている。
九州、中国地方に甚大な被害を与えた台風13号(SHANSHAN/サンサン)は、東京のず~っと北、日本海を北東に進んでいる。この駐車場に直接の影響はないけれど、もしかしたらこの夕焼けは台風が作り出しているのかも知れない。


ところで、このブログの写真はほとんどすべてケータイで撮っているのだけれど、フツーに撮影するとこの夕焼けの朱色は写らない。
ボクのケータイの場合、カメラの機能設定で画質調整を選び、ホワイトバランスを“オート”から“曇天”にする。いつもは気にしない機能だけれど、少しいじってみるとちょっと楽しい。


お腹が空いたなぁと思いながら、しばし夕焼けを眺め、フーッとため息をつく。
ほんの1,2分だったと思うけれど、あまりの光景にアタマの中が空っぽになり、気持ちが和む。最近、胃のアタリが痛くなるほどのプレッシャーに負けそうな日々が続いていたのだ。
キレイな夕焼けと、その夕焼けが上手く撮れたことで、ココロが軽い。


ケツメイシの『男女6人夏物語』を大音量で聴きながら、クルマを家路へ。
年齢不相応のこの曲は、発売当初はあまり惹かれなかったのだけれど、杉本哲太出演のPVを見てちょっと泣けてから、親近感を持つようになった。
この夏のボクは、ほとんどサザンの『DIRTY OLD MAN~さらば夏よ~』にシンパシーを感じながら過ごしたわけで、杉本哲太の姿に自らを重ねるにも、じつはもう遅いのだが…。
って、『男女6人…』のPVを知らない人や『DIRTY OLD MAN…』の歌詞を吟味したことがなければ、この気持ち、分からないな。


10分足らずで夕焼けは消え、普段通りに暮れていった。
仕事が追いかけてきてブツブツに分断された三連休最終日は、こうして幕を下ろした。


青空の卵


読んで良かったなぁ、とシミジミ思える優しさあふれる小説シリーズで、
しかし他人に強く薦めたいか…というとそういうわけでもなく、なんとなく読者のココロのなかで自己完結して満足してしまう不思議さも併せ持つ。


素敵なお話なのでもちろん多くの人に読んでもらいたいけど、でも、受け入れられない人も多いのかもしれないな、と思ったりもする危うさがある。
そして何より、小説から受ける影響力が大きくて、自分自身が作者の意図を身をもって実践したくなってしまうのだ。


ジャンルとしてはミステリーなんだけど、殺人も誘拐も起こらず、事件は日常のちょっとしたトラブルが中心で、しかも、そのちょっとした日常っていうのが、ボクたちが生きていく上でいかに大切なことかを思い出させてくれる。


ホームズ役は、ひきこもり。
ワトソン役は、“僕”。
ひきこもりを探偵役に立てるアイディアはそれだけで面白そうだし、ひきこもる原因が、学生時代のいじめなのでキャッチーなテーマだったりする。でも、それだけの小説ではない。
登場人物がすべて魅力的で、事件そのものも、海外ドラマのように併行して展開するサブエピソードも、すべては主人公たちが関わる周囲の人々の幸せへと繋がっていく。
そして、事件を解決していくひきこもり探偵をサポートする“僕”自身が、自答しながら成長していく過程がとても真摯で、性格的に正反対であるボクにはとても好感が持てた。
ミステリーだけど、謎の解決を急いでイッキ読みをするのではなく、彼らのペースで、彼らの成長の過程に合わせて、じっくりと、ゆっくりと、自分を振り返りながら読んで欲しい。そんな小説だ。


作者は、大人になっても弱い人たち、大人になっても涙を流す人たち、大人になっても寂しくて、誰かにかまって欲しくて、一人になったとき、部屋で泣くことのある人たちを主人公にした。大人になっても、自分はこのままで良いのか、と問える人たちを描いた。



正直言って、ボクはそんな感情とはしばらく無縁だった。
青春真っ盛りのころは別として、それこそオトナになってからは、仕事をしていく上で、ボクってスゴイだろ?と逆に周囲に同意を求めたりしながらモチベーションを高めていくことでプレッシャーと戦ってきたのだ。そのくらいじゃなきゃやっていけねぇよって。


じつはそれが最近、あることをきっかけに、イッキにズレ始めた。
このところのボクは、とっても弱い。弱虫なのだ。
あー、ヤダヤダ。もう、こんな自分なんて大嫌い!と思ったりもする。
自己嫌悪なんてしている暇はなかったし、自信満々じゃないとやっていけない環境にもいた。だから、自信を持てるように努力もしたし、自己暗示もかけてきた。
でもいま、ボクは、ちょっと危機。
この秋は結構大きなプロジェクトが控えているし、仕事量も加速度的に増えていて、周囲の人々に対する責任もあるんだけど、ちょっとココロが泣いている。
エイヤ!と自分を騙す方法は、オトナなのでそれなりに持ってはいるけれど、さあてそれでこの危機をクリアできるのか。
もしかしたら、この小説の主人公たちのように、今さらながらにゆっくりと成長しながら強くならないといけないのかもしれないな。


さてさて、弱音はこのくらいにして、ひきこもり探偵のシリーズは三部作。
強くは薦めないけど、やっぱり、できれば多くの人に読んでもらいたい。
この小説を読みながら泣ける人、ボクは好きです。


■青空の卵/坂木 司■

■仔羊の巣/坂木 司■

■動物園の鳥/坂木 司■

インゴ・マウラー


ココロに余裕のあるときは無駄な時間を大切にできる。


ボクは情報から遮断されることが怖くて、パソコンやテレビ、活字が身近に活きていないと、どうにも落ち着かない。つまり、ボーッとアタマをOFFにすることが苦手なのだ。常に情報が飛び込んでこないと、ちょいと焦り始める。
特に忙しいとき、精神的に焦っているときにはこの傾向がさらに顕著になり、自らを追い込むことになる。


今年前半のマイブームは、光と影 、だったのだけれど、
とくに影を楽しむためには、情報から自由になれる時間が必要だ。
薄暗闇のなかで、活字を読まず、パソコンのモニターを切っていられる時間を楽しめるココロの余裕があるとき、初めて光と影の微妙なコントラストを楽しむことができる。


この夏、7月8日から東京オペラシティアートギャラリーで、『光の魔術師 インゴ・マウラー展』 が開催されている。
9月18日までなのだが、先日、ようやく訪ねることができた。
ずっと楽しみにしていたので、ワクワクしながら会場へ足を運んだ。


インゴ・マウラー は照明をアートにしたデザイナーとして著名だが、彼と彼のチームの作品は、芸術というよりは工業デザインなので、カフェやレストラン、インテリアショップで目にすることも多い。
今回はギャラリーでの展示ということで、ショールームやお店とは違う見せ方をしてくれるのではないか、と少し楽しみにしていたのだけれど、その点は少し期待外れ。
マウラー作品が一堂に会しているのは嬉しいのだけれど、会場が明るかったのだ。
灯りは彼のデザインした照明だけではなく、ギャラリーのダウンライトや非常灯は点いたまま。通常展よりは薄暗いが、闇の中の光を楽しむには、明るすぎた。作品のディテールを見るにはちょうど良いかもしれないけれど、それなら他所でもチャンスはある。
自分の部屋にマウラーの照明を置く贅沢な気分を、彼の照明だけで味わってみたかった。
それでも、ウィットに富んだ照明器具をたくさん見ることができたのは、充分に楽しかった。


彼の作品のなかでも有名なのは、電球から直接鳥の羽根が生えている電気スタンド“ルーチェリーノ”のシリーズだろう。MoMAのオンラインショップ では、83,790円で販売されている。もちろん、そんな高価なスタンドはおいそれと買えはしないのだが、かなりカワイイ。
ホンモノが欲しいなぁ、と思いつつ購入したのが“ルーチェリーノ”をモデルとした小さな小さなLEDの組み立てキット“emulation kit”
まったく実用的ではないけど、照明作品のミニチュアは珍しいし、組み立てる前の基盤も美しい。

部屋を暗くし、テレビとパソコンを切り、9Vの電池にセットして小さなLEDの灯りだけを見つめる。
3分間。
その薄暗い世界のなかで、ボクのアタマの中に浮かんでくるのは、やはり焦燥感。
まだまだ、マウラーの照明に大枚を払うココロの余裕はないみたい。
成長しなくちゃ、ね。