コメントで、ホワイトバンドプロジェクトに疑問の声があることを紹介していただいた。
否定的な意見が少なくないことも知っていたし、胡散臭さを感じている人が多いことも聞いている。ボクは、双方の意見を知りうる限り調べた上で、着用することを選んだ。
アフリカの子どもたちの命を救う上で、この方法がベストだとは思っていない。
しかし、批判論者の主張のなかでボクの知りうる限り、よりベターと思われる対案を示している例はなかった。
人の考え方を否定することから始めたコミュニケーションは、その対案を示すことが必須だと思う。
かつて、論理的に否定することで存在価値を示すことのできた時代が、日本にはあった。情報も人的交流も閉ざされた国内でのみで、似通った価値観を共有する社会であった。
いま、ボクたちはその時代に生きてはいない。
様々な考え方が併存するのが“社会"だと思う。
共存できれば素敵だけれど、必ずしも対する考え方を広く容認する必要性も感じないので、敢えて併存。
人と人とが接するとき、必ずそこには別の考え方がある。
なのに、関係性の違和感をそのままに、分かるでしょ? ね?で、済まそうとするのは、甘えであり、怠惰であり、社会性を欠いている。どうして分からないの!と怒るのは、幼児並みの社会的未熟者だ。
大切なのは、自分の考えを持つと同時に、他の人は別の考えを持っている、ということを前提として認識した上で社会を生きること、だと思う。
極端なことを言えば、人と人との関係は、対立から始まると知るべきだ。だからこそ、コミュニケーションが重要なのであり、そのために相違点、対立点を明確にする必要があるのだ。
他の人の意見を尊重したり、擦り寄ったり、論破を試みたりするのは、その後のこと。
とりあえず、異なる意見の人が、多々存在することを認めるべきだ。
共同幻想の元に生きていける社会は、社会として未成熟な過程に存在し、かつての日本がそうであったように、それこそ幻だったのだと思うのだ。絶対的な正義や善すらも、もはや存在しない世界に、ボクたちは生きている。
自分の知り得た情報や、判断がゼッタイだとは決して思っていない。だから、無視されるのも仕方がないが、できれば批判、批評をいただき、その根拠となる情報とともに、別の考え方も聞いてみたい、といつも思っている。
さてさて、ボクがホワイトバンドを着けている理由のその第一は、それがホワイトバンドだったからである。
昨今流行の、イエローバンドやら、グリーンバンド、ピンクバンドには、色彩的に手がでない。それぞれが意味する主張に興味がないわけではないので、誤解なきように。ホワイトバンドは、当初なかなか手に入りにくかったし、デザインもシンプルでキュートだったのだ。だから、最初のブログの記事 も、マイブームのジャンルとした。
そして第二の理由は、もちろんホワイトバンドプロジェクトの姿勢に賛同したから。
ボクが子どもたちにできることは、ユニセフへの寄付だったり、フォスターペアレントの運動に参加したり、アフリカの国々に支援をしている日本という国に税金を納めたり、デモに参加したりと、直接的に間接的に、いろいろの方法がある。それらに、ボクが協力しているかどうかは、ココでは別の問題。これらの活動と、このプロジェクトが根本的に異なるのは、寄付を目的としていないこと。ホワイトバンドの代弁者ではないので詳細はホームページで見て欲しいが、これが唯一の貧しい国の子どもたちの命を救う方法ではない。プラスαの協力としては、グッドアイディアだと思うのだ。
批判のあるなかで、白いバンドをして街に出るのは、それなりに覚悟がいる。だけど、批判することにアイデンティティを求めて何もしないよりも、世の中に対してアピールをする姿勢は、よほど素敵だと思う。
最近、ホワイトバンドを着けた人を多く見かけるようになった。しかも、初夏のころは若いい人中心だったのに、最近は中高年に目立つ。
政府関係機関や、他のNPOもいろいろなバンドを作り始めた。重ねづけもよく見かけるし、単なる腕輪としてオリジナルデザインの似たバンドを販売するショップもある。
そろそろもういいかな、と、じつは思っている。我が政府に声は届いただろう。効果があったかどうかは分からないけど。
第一、もう秋だ。長袖の季節だし、手首は見えないモンね。
ホワイトバンドを切っ掛けに、ボクは貧しさのために亡くなっていく子どもたちの命を考えた。たとえ、政府や国会が動かなかったとしても、いままで以上に、子どもたちの今を、未来を考えるようになった。
たぶんボクは、ホワイトバンドを外しても、そのことをこれからも忘れない。そして、そのために自分たちの政府が何をするか、を見続けていくだろう。