神の言葉を塗り替える行為は神に敵対すること | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ネット上でパスター達が、こう会話していました。旧約聖書の教えは

厳しくて、人が生きられない、苦しすぎるからね。。。。

古い教えは、終了して良かったですね、と言っていました。

異句同音に、こういう教えだけが、主に聞かれるのです。

クリスチャンの世界では、事実そうです。それはどういうことでしょう?神の伝える教えの意味が見えないまま、理解できないままだから。自分の慣れ親しんだ生き方とは違う事や、都合の悪いことは、

面倒、受け入れがたい、だから、苦しくて窮屈に感じるのでしょう。

いや、福音書以降に書かれている教えは、100%クリスチャンが律法であると言っている教え モーセの五書であり、しかも、神の言葉はどの箇所も削除変形などされていないのです。

福音書以降には、モーセの五書=神の教えの全部が書かれていないから、古い教えは、終わったのだと考えているからです。

神の言葉が、歴史の途中で終了し、再臨後、またその教えが復活するのでしょうか?なぜなら、エレミヤ31もイエシュアの過越の晩餐で語られた、再更新される契約とは、モーセの契約=シナイ山の婚姻契約を、皆が理解して生きる世界がくる預言だからです。

神の契約終了などと、いいかげんな教えがされているのです!!!

 

高校生の数学の教科書に、九九の表が書いてないから、九九の基本は

終わり?なんて、言わないでしょう。

九九の表が書いてないとは、九九を理解している高校生には書いてないだけで、数学の法則は消えてないのです。

 

一神教と言いますが、なんでもいいんですよ、色々な神を信じて良いですよと言われた場合、ヤオロズの神の文化の日本人には、なんて

寛容な教えなのだ〜と響きませんか?逆に、そんな、なんでもかんでも受け入れるなんて、と思う人もいるかもしれませんが。

人は、自分の考えや、感じ方を基準に物事判断しているだけなのです。神の言葉を基準に判断していないから、抵抗を感じるのです。

神がそう言われるなら、それは真実であると、その一線を絶対にずらさないでいれば良いのです。

神の言葉を、勝手に塗り替えるから、こんなに多くの宗派、聖書ではない教えが生み出され続けているのです。

 

LGBTQにとっては、混乱した自己像を正しく矯正されるのは、苦痛ですよね。だから、自由にすれば良い?と言うゲイの牧師がいます。

そう言う場合、聖書によれば、牧師などという職業は、即座にやめないとならないのです。神の御名=実態を、歪めて人に伝えているからです。神の教えに反する事を生きて教える人は、その群れを

汚し破壊するからです。そして外部の人にも、歪んだイスラエルの神像を伝えてしまうからです。ソドムとゴモラを、群れにもたらすからです。羊が狼に喰われてしまう。追放されなければならない、と書かれています。それほど、教師とは、重たい責任があるのです。

人を誤りへ導いてしまうからです。

異教の神々の国に生きている人には、自分の生活習慣、食生活規制

されるの苦しい?ですよね。自分の好きなもの、楽しみ奪われてしまう感じがするからです。全部自分の都合。

神の教えている事の意味を正しく理解して分かっていないから、馴染んできた生き方が、ズレてるよと言われたら、抵抗感じるのです。

 

でも、それは人の都合や、感情の問題であり、神の教えが間違っているからではないのです。神は神がこの世界を創造されたのです。神は人を男と女に創造し、神のデザイン通りを生きるように造られました。

神は人が食せる動物を創造し、別の動物は、別の目的、清掃目的その他別の目的のために創造されました。人間の食べ物ではない。

全ての創造物には、神のデザイン、意図、目的があるからです。

それを、神の意図、目的以外に扱えば当然問題が起きるからです。

 

神の創造の事実、実態を人間が否定してみたところで、どうなるのでしょう?人が神の言葉を否定すれば、神の言葉が変わり、神の創造物に変化があるのでしょうか?

人間が生きるのに適さない生き方、神のデザインに反する、LGBTQ,そして、人間が神が創造された食べるのに適さない、相応しくない、きよくない動物を、神からこれはあなたの食べ物ではないよ、食べるなかれ!と言われて、人間が、抵抗する、怒る。

エデンの園で言われた事と同じ、これは食べてはダメ!そう言われて

人間が異議申し立てなどする余地がないのです。

なぜなら、神が創造された世界を人間が教えられる事だけが、残されているから、神に聞けばよいのです。それを無視するのは、神の知恵を捨てる行為、自分を守る術を捨てることであり、自分の体、環境、そして聖別を汚す行為を平気でやっているのにまるで気が付かなくなるのです。神の教えが、正しく聞こえなくなる状態になるのです。

だから、人間の理屈で、神の言葉を曲げて、今はもう異邦人には、

関係ない教えと言います。おかしくありませんか?

では、ユダヤ人と異邦人の混血はどうなるのですか?

同じ人間でしょう?体が別構造なのですか?人間と宇宙人?

 

今アメリカでは、分別つかない子供に、ホルモン剤で、神が創造されたデザイン通りの大人の男性になれないものを与える、子供が言えば大人はそれを与える、親がそれを反対したら、子供を親から取り上げられる?おかしな世界が到来しているのです。

狂気の沙汰です。手術して外側の外見を変えても、切り取り、付け足ししても、中身、DNAは変わらない、生めよ、増えよ、地を満たせなど絶対にできない。

 

人が彼らの考え、利益のために考えついたもの、そのようなものは、最初からあってはならない毒であるのに、それが作られて、人はそれらを疑いなく受け入れる。識別、分別なくなんでも取り入れる危険。

人には、免疫システム、防御をする力が備えらているのに、それらを

壊す事ばかりし続けている。

そして、神のデザインであるものを曲げるのは、どんな事も不具合があるのです。神を知らない、神の教えを認めたくない人は、好き勝手するのが、楽なのです。そうでしょう?

神の教えを生きるなんて、クリスチャンの世界でも人気など、ないのですから。 繁栄の神学とか、力、奇跡、人の語るアピールする予言、不思議な現象、そういうことに惹かれる方が圧倒的。地に足のついた真面目な生き方なんて、事実そうでしょう?神の言葉は終了だ〜、

律法は十字架にかけられて廃れたという、聖書にも書いてない教えを唱えて、人間の教えの方がアピールする、気楽に自由に感じる。

神が教える意味を全く理解しないまま、ハレルヤ!自由だ〜と、

とんでもない事を信じてしまっているのです。

なんでもやれることが、自由だと、勘違いしているのです。

神の語る自由は、罪の法則の下から開放されて、本来の性質=イエシュアの性質で神の性質=トラーに記された生き方が自由に出来る人に

なったと言っているのです。

それを、神の言葉から解放されたなどと言っているのです。

神の言葉を生きれない、それは実は不自由な状態のままなのです。

神の性質=言葉とは違う、以前の肉のままの状態=法則に引っ張られるからです。

 

神の言葉は全て人を守るものである鎧兜、プロテクションであるのに。

神の言葉は、完全で人を神の創造通り=イエシュアの似姿を生きることを、教えているのに、気が付いてないのです。

普通の人なら尚更、どんな方向にも行ってしまえるのです。

 

聖書に書かれた教えは、神殿に入ること、そしてその意味を理解しないと不明ですが、それは人が理解していないから分かってないだけでどれほど深い教えを神がしているのか、人が理解出来ていない、

知ろうともしない、それが問題なのです。神の言葉に何も問題はありません。なぜなら、神の言葉は完全だからです。

 

そして、神の言葉を苦しいと感じる時点で、その意識こそが、本来

神の似姿に創造された実態からズレていると分かれば良いのです。

神の言葉に対する、自分の理解、捉え方がずれている!!!それが、神の教えが苦しいと思う本当の原因だからです。自分が神の言葉の

意味、教えの意味が理解出来ないから、ただ厳しい規制を神からされていると、勘違いしてしまっているからです。

神が人に教える意味が分かったら、深く納得しアーメンと言えます。人の理解、判断より、神が賢いに決まっているからです。得に異邦人など、イスラエルの神の教えとは遠く離れて生きてきたとパウロが言う通りです。

 

だから、2世紀以降、ユダヤ人の群れと完全決裂した、異邦人教師達

西洋教父達は、神の言葉を塗り替えて、自分たちの教えを作り出す

爆走をし始めたのです。

聖書ではない教えを勝手に作り出し続けて、今に至るのです。

いつ、どこで神は、神の教えや、記念日を変えたと言いましたか?

そんなこと1度も言ってもいないのに、そのように異邦人は神の教えを塗り替えて、西洋宗教というイズム=人間の思想が混じる宗教を

作ってしまって、それが昇天以降の新しい教えだと思っているのです。いやプロテスタントは、16世紀に誕生したから、神はそれまで人に神の教えを伝えなかったのでしょうか?そうではないのです。

人間の宗教の教えは変化しても、神の教えは変化などしないからです。エデンの園、最初の最初から同じ1つの神の教え=トラーしか存在していないのです。
 

イスラエルと、異邦人を分ける思想は、西洋宗教、置換神学や、

デイスペンセーション神学、異邦人思想に基づいて考えているからです。

基本的に、人の思想で語られる聖書解釈、伝統で伝授されている教えを、聖書ではないと気が付かないまま、受け入れていることに気がついていない問題があるのです。

誰かがそう考える、自分がそう考えて、その人がどう感じるかということをベースに語っていることが多いのです。

 

だから、聖書に書かれていない、聖書に根拠のないことでも、聖書が語るが如くに教えられ、そう信じているでしょう。

 

安息日は、第七日目以外には、聖書には書かれてもいないのに、日曜日が安息日と変更した、異邦人の思想を取り入れて、継承し2000年近く伝承しているだけなのです。

 

そのような思想を持つ異邦人はこのように言います。

十戒も関係ありません。旧約聖書は、異邦人には関係ありません。

今の時代は、キリスト教、新約時代です。

とても意味不明な、解説をしていることに、まるで気がついていないのです。時代ごとに変化する神の教えをするのは、宗教の教えであって、聖書ではないからです。神と神の言葉は永遠に変わらないからです。

十戒=本当は「10の言葉」というヘブライ語ですが、それらが、聖書のお題目=タイトルであることに気がついていないまま、今は異邦人は十戒は関係ありませんと言い、それでは、殺人盗みは関係ない?

安息日は、聖書では、第七日目以外には書いてないけれど、日曜は

違うよね?それは人の伝統ですからねと言っていました。そんな重要なことを聖書から気がついているなら、もっと考え続ける必要があるのです。

聖書のタイトルという意味を、もう少し後で詳しく説明しないとならない内容でもあります。本の最初に、題目が書かれているでしょう。その本すべてを解説するのに、10の章がありますと、短く伝えていて、その書、全体でその10の項目を説明しているからです。

聖書=神の言葉の土台、柱を、人間が勝手に仕分けているのです。これは、要らない、これは関係ない、これはどっちでも良いと。

十戒はクリスチャンに無関係という定義は、クリスチャンはイエシュアーイスラエルの神との関係は無いと言っているのです。

変でしょう?

 

後、翻訳を読んでいるので、ヘブライ語で書かれた本来の意味の、

深淵を見る事ができないものが、数多くあります。

出エジプト20、10の言葉の1つに、「父母を敬え」とあります。

これ、虐待する毒親だったら、どうすれば良いの?と思いませんか?

では、敬うという言葉には、どういう意味があるのか、分かれば良いのです。

 

続く