どうして人の書いた書物や手紙は書いてある通りに読むのに、
聖書を読む場合、聖書には書いてもない意味に曲げて読んでいる
その矛盾、間違いに気が付かないのでしょう?
聖書には安息日は第7日目としか書いていないのに、どうして
シャバットは今は第7日目ではなく、第一日目と聖書に書いていない事を言って実践して不思議に思わないのでしょうか?
十戒の4番目は自動的に神が変更されたと信じているのでしょうか?これ聖書に知識の無い人の方がはっきり聖書に書かれている言葉〜7は1ではないと分かります。
聖書をそのまま読んだら、安息日は第7日としか書いていない、
神の言葉は永遠に固く立つと書いてある。イエシュアの昇天前後で安息日変更とイエシュアも教えていない事を読んだら、書いてある事と実践と辻褄合わないと分かるからです。
そうです。人の教えと言う思想で思考回路が不真実な教えで占拠され、神の言葉に盲目になっているからです。永遠不変=一時的、永遠に変わらない=歴史の途中で変わる、神の言葉は異邦人には関係ないなどと読み込みしているのです。
人の教え=人の判断、確信が神の言葉に優ると言うそのダービー思想は、人が神になる以外に是正されるものではありません。
人は神になどなれません。だから、人の確信が神の言葉に反する教えであるならば、それは神の前に罪、背信行為である危険に気がついていないままその様な事を語り続けているのです。
よく考えて下さい。神が伝える言葉〜永遠と神が一度でも永遠と言われたらそれは永遠に渡り、永遠であると言う事を理解をしていますか?
神が永遠と言われたのに、歴史の途中でそれは永遠ではなくなりましたと、もし神が言われたら、もちろん聖書にはそんな事どこにも書かれていませんが、それでは、神は完全なる神の言葉を人が語らず、そして神が嘘つきと言うことにされてしまっているのです。
神の真理は後で真理ではなくなるのだ、そんな嘘、矛盾にどうして無感覚でいられるのでしょう?神の言葉ではなく、神に造られた人が勝手に作って言っている嘘を本気で信じているからです。その場合聖書は誤りのない完全である神の言葉であるとは信じてなどいないのです。それは信仰の土台を揺るがすもの、砂の上に建てた家と同じです。神の言葉を退ける事が恵みの時代の正義だと本気で信じて人に伝えていますが、それは聖書=神の教えとは
真逆の偽りの思想です。
その様な聖書の読み方〜ダービーが教える様な思想で聖書を読めば、聖書を正しくなど読み取っていないことになります。
一番の問題の原因は、人の編み出した聖書とは異なる思想に照らし合わせて聖書を曲げて読んでいる事、それが聖書=神の言葉を正しく読み取らない最も大きな原因です。
聖書を人の思想に照らし合わせて読んでいるとさえ、気が付いて
いないでしょう?
ある人が、”何何神学に基づき聖書を語る”と教えるなら、それは
聖書ではなく、人の思想を通して聖書を人の思想に合わせて
語らせているだけであると気が付いて下さい。
ある部分の聖書箇所は真実を語っても、神の言葉が廃れた!と言う思想が大前提である場合には、聖書を正しく読み取れていないからです。土台、柱を崩壊したら建物は破壊されるのです。
そして、聖書が2つ別物の教えであると言う人間の思想と、福音書以降に書いてある内容、特にパウロの書簡に書かれている内容をダービー思想に照らし合わせて解説している事が問題なのです。聖書=トラーが廃れた〜と言う根拠にしている箇所は
100%ことごとく、人の思想を通して考えている間違った聖書解釈がされている事が原因なのです。
ヘブル書には祭司制度がイエシュアが未来に再び地上に来られたら、レビ族アロンの家系の大祭司は天の現実を地上で、影の役割として表す役割でありましたが、天の本物、大御所=ユダ族、
天の大祭司=メルキゼデクの位に属するイエシュアが大祭司として地上に来られれば、代役の役割はもう終わると言う事が書いてあるのに、神のトラー=教え=モーセの五書の中身が変わるなどと言う読み違えをしているのです。
どうしてですか?ヘブライ聖書をヘブライ思索で学ばない、モーセの五書を知らない人、西洋人の反モーセの五書思想で翻訳した
聖書だけを読んでいるからです。
最初の律法=創世記〜マラキが廃れるなどと言う解説がありますが、ヘブル8:13には律法などと言うギリシャ語言語は入ってないのに、勝手に翻訳者の考えでノモス=トラー、律法と訳されている言葉を挿入する様な事をしているから、聖書を知らない、
何も知識の無い人が読めば、あれ?と勘違いする、そう言うトリックが翻訳には仕組まれているからです。
そして、何度も書いていますが、ノモスと言うギリシャ語には
多様な言葉に適用されるものです。
クリスチャンが読み違えているのは、神の教え=トラー=ノモスと、神の教えではない、伝統の教え=人間の教え=人の言い伝え=先祖の言い伝え=律法の行い=口頭トラーを同一の言葉=
ノモス=律法と翻訳で括られているから、区別が付いてない、
聖書を間違った読み込みをしている事が原因です。
またそのノモスと言う言葉には、罪の法則、法廷の主旨、ある事柄の性質など、他の意味もありますから、神の教えと罪の性質が
1つの同じ言葉で語られていたら同一の事を話しているのだと、勘違いしますし、何より神の言葉=トラーは廃れた、古代の人だけ神の教え=トラー=律法を生きて儀とされていたと言うダービーの反聖書思想を信じているのですから、その時点で完全に神の言葉を誤解して読み続けている事にさえ気がつけない状態になっているのです。
よく詳しい事が聖書の記述から理解出来ない、分からなくても、神の言葉は永遠に変化しない!と神が語る大前提は崩壊しない
事を念頭に入れておけば良いのです。どの部分の聖書箇所も
100%モーセの五書に基づいて書かれていると言う永遠の事実に聖書から気が付いて、神の言葉は同じ!変わらない!と言う
大前提から聖書を読んで下さい。
1世紀の、古代のヘブライ人が読んで理解している様に聖書を
理解にしないとならないのです。
タナックを正しく知っている人が、ヘブル書を文脈内容逸脱しないで読めば、モーセの五書が廃れたなどと言う話を、このヘブル書の著者がしていないことは明らかな事実として読み取れますし、祭司制度の話をしている事は理解出来るのです。神の言葉が変更、変化するとは、天地がひっくり返ってもあり得ないこと
だからです。神が変化する、神の言葉も変化すると、聖書に反する思想を信じている異邦人には、基本的な理解が欠如しているのです。
クリスチャンの世界では、主題説教と言って、ある聖書箇所だけ
数節ポツンと取り出して、内容から文脈から論点を逸脱して理解し、聖書に自分の思想を語らせる事はあっても、聖書全体を、
聖書に何が書かれているのかと言う事に徹して満遍なく忠実に学び続ける、教えると言う事をしません。元の教科書=タナックに書かれている内容、意味を知らなければ空想、憶測が飛び交い
続けるからです。
そして、もちろんモーセの五書を常に満遍なく読み学び教えられると言う教育背景も全くないのです。
だから聖書と人の思想の違いが分からくなっているのです。
無理もないです。20世紀のアメリカで、神学校の教授達がこぞってこの非聖書的思想〜ダービーの思想に傾倒し、それに飛びつき、肉にアピールする人間が作った教えの虜になり、聖書ではない、人の思想を信じて聖書の記述を歪めているのに気がつかないまま、その教えを一般の人々の間に浸透させてしまったからです一般のクリスチャンの間でもれなく同じ様に聞かされる教えの
出所は聖書ではなくて、ダービー思想!デイスペンセーション
神学教理=人が考えた非聖書的思想からの解説だからです。
聖書を聖書で読んでいない教えがされているのです。
こんな教えを聞くでしょう?古代は、律法を行う事により人々は義とされていた。そのダービーの思想、ちゃ〜〜〜んとスコッフィールドチェーンバイブルの註解の中に記されています!でも
それは神の言葉を正しくなど解説していないのです!古代の人も今も未来も、誰一人として、律法=神の教えを生きて義とされる人など一人もいない!と書いてあるでしょう???聖書に!
どうして聖書と真逆な解説をし、時代ごとに別の救い=イエシュアがあり、2つの道があり、2つの教えがあるなどと言う空想を信じるのでしょう?
イエシュア=子羊の血の贖い=永遠の中に屠られて完結している
その代価の事実を通して以外、誰一人父なる神の元に戻る事は
出来ない!!!とイエシュアも言っているでしょう??よくよくイエシュアが言われた意味を正しく考え、理解して下さい。
そして、クリスチャンの世界で語られる、今はそれぞれの確信に
立って決めれば良いと言いますよね。その思想、教えが何を言っているのか気がついていますか?人が神になると言っているのでです。現にあの方はLGBTQ、罪を祝福しますと宣言した方は、
ご自分を”聖なる父”ホーリーファーザーなどと人々に呼ばせているでしょう。聖なる父はイスラエルの神以外にはいません。
神は真理である神の言葉のどれひとつさえも、真理ではないと
する事がない、出来ない事を聖書から知っていますか?
一般の主流のクリスチャンの間では、神の教えと人の考えついた教えを混同しているのです。
福音書以降以下の様な箇所を読んで、モーセの五書の教えに固執する=人の言い伝え、作り話を信じる人、イコール、モーセ五書に記された事を生きよ!と言う教えは今は古い教えだと考え、
だから、律法=モーセの五書に戻るのか〜と言っているのです。イエシュアは人々に父の教え=トラー=モーセの五書を生きよ!と実際のお手本を持って人々に教えていたのに、イエシュアの言葉の意味する事に全く気が付いていないのです。別の教えを教えたと思っているもしくは、今後生きなくて良い生き方を人の地上で見せたなどと本当矛盾と言うか変な教えを信じているのです。
創世記〜マラキ書と、福音書〜黙示録とは2つ別の教え、最初はモーセの五書、律法〜行いにより義とされる人達に書かれた教え福音書以降は、恵、聖霊時代のそれぞれが確信を持つ事を生きる自由に解放されて、違う教えが書かれている、教会と言う今までになかった新しい群れへの新しい教えであると言う人の創作話を神の教えであると本気で信じてませんか?
聖書には2つ別の教えが記されていると考えて、その様に聖書を読み違え、人間の思想で読み込みしているのです。では、福音書以降に、人の伝統の言い伝え、先祖の言い伝え、律法の行いが何であるとイエシュアや、パウロは言っていますか?
これらは、モーセの五書の事ではなく、当時ユダヤ人の間に
あった口頭トラー=彼らの考えに基づいたトラーの解釈を生きる
と言うものなのです。又は、異邦人のグノーシス主義で神の言葉を無効にする教え=偽の教えとパウロが言っているのです。
今は口頭トラーは書物になり、タルムードと言う書籍になっています。タルムードの中には有益な教えも記されています。全部が神の言葉の意図とは違う事が書かれているのではないのですが、
その中には人の編み出した思想が多く書かれている、モーセの
五書神の教え本質とはずれている違う事も書かれている、その
内容に対して、イエシュアは当時の人々と議論しているくだりが福音書に記されているのです。
クリスチャンの世界で語られる聖書とは異なる教え=宗教の伝統の言い伝え、人の教え、クリスチャン版の口頭トラーも多数あるでしょう?聖書には書いてない、人が作った教えが多く語られているのに、気が付いていますか?
聖書に登場する、1世紀の人々の中で、クリスチャンの世界で
語られるダービー思想、神の言葉が歴史の途中で変化進化するなどと言う事を考える、言う人など1人もいないのです。
神の教えを正しく理解しないで、人の編み出した教え〜口頭トラーに変化させている、その事をイエシュアが正しているのです。手洗いの儀式や、シャバットに病人をいやしてはならないとか
それは人の教えであり神が教えている事ではない。
神の言葉=トラーを、否定する教えをパウロが言っているのだと
勘違いしているのです。聖書に書いてある事をその意味通りに読んで見ると、人の教えと神の教えが敵対しあい、矛盾します。
<人の教え、伝統の教え、人の言い伝え、律法の行い、これらは神の言葉の事ではありません。>でもクリスチャンは、この様に書いてあったら古い律法の教え=神の言葉を生きる様に伝える人の教え=悪などと考えているのです。人を律法主義に導く=神の教えに生きることに導く事は古い律法に戻る、恵みを捨てた悪い生き方だ〜と言っているでしょう?でもその主張、聖書を正しく読むと甚だ矛盾している事に気がつけます。なぜなら、神は神の教え=トラーを生きる様、創世記〜黙示録まで同じ事を語っているからです。
コロサイ2:4 わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも
巧みな言葉で迷わされることのないためである。
7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。<神の戒め=モーセの五書の事です。モーセの五書を差し置いて、モーセの五書を修了、破棄、無効、今異邦人には関係ないと言う人間が編み出した人の言い伝えに固執していませんか?>
7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。
<宗教の伝統の教え、4世紀にローマ帝国が制定した、モーセの五書を終了とし、神の教えや神の記念日を勝手に人間が変更した言い伝えを守り続けるために、神の教え=モーセの五書を捨てているのです。神の教えは人間の意伝えではありません!
神の言葉は永遠不変の神の言葉で人から出たものではありません!>
続く