過越の祭り 神の教え 神の記念日は永遠に変わらない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

過越の準備ですが、ハガダなど、日本語版は無いと思いますので、

英語サイトにはいろいろ出ていますので、いくつか載せます。

1つはメシアニックのグループのサイトで見つけました。

メシアニック ハガダ

2つ目は、一般的なユダヤ人がするものです。

Jewish Federation North America ハガダ

 

聖書に記されている、教えや記念日、祭りと、ローマ帝国が4世紀

以降に作った宗教の教えや、記念日は異なるものです。

聖書は、神の教えであり、それとは別の人間の作った宗教は、人間の思想を土台として、神の教えが廃れて、破棄されたというローマ帝国政府の勅令、法律を元に作られた宗教なのです。

神の教え=トラーを生きることを、全面禁じる!そして、神の教えや

記念日を自由自在に塗り替えて、別物にした、それがユニバーサル教なのです。

だから、1世紀のイエシュア信者達、聖書に記されている教え、

記念日、儀式の実践が、現代のユニバーサル教、その派生のプロテスタント、キリスト教の教えや実践が異なってしまっているのです。

 

何度も書いているように、神は人に神の言葉や記念日が変わった

変えて良いなどと教えていません。逆に、神の教えや記念日を人間が別物に塗り替えて汚すことを、禁じているのです。

 

そして、今はキリストさえ信じていれば、人間の意見で神の教えを

人間が選択し、いつでも記念日として、気持ちさえあればなんでも

良いなどという、クリスチャンの世界で主張されているようなことを

イスラエルの神、聖書にするされている神は人に絶対に言いません。

 

本物を変えるとは、コピー品、偽物になります。

そして、神の教えや記念日の意味を変えてしまうと、神が伝えている

深い教えが、人には通じなくなってしまいます。

神が伝えている、神との関係を育む深い、麗しい教えが、見えなくなってしまっています。そして、不純物、添加物の混じる、人を縛る

教えに変身している宗教の教えが蔓延るのです。

イエシュアが、教えられたのは、100%モーセの五書、トラーのみであり、イエシュアが祝われた記念日は、レビ記23章、シャバット

新月、過越、種無しパン、初穂、シャヴオート、そして秋には

角笛を吹く日、大贖罪日、そして仮庵の祭りです。

これらを、聖書に記されている福音書〜黙示録に登場する人は、

変わらずに祝っていたのです。

堂々巡りになりますが、昇天以降、イエシュアがトラー以外の新しい教えや、トラーより、もっと優れた教えや、別の福音を教えたから、ローマ教という宗教の教えが出てきたのではありません。

新しい教え、より優れた教えなど、昇天以降教えられてもいません。

同じ福音、同じトラー=神の教えしか存在しないのです。

人間〜ローマ帝国皇帝、教皇達が、神の教え、仰せ、禁じていることに違反して、勝手に神の言葉を却下、破棄し、モーセの五書を実践する人、全て法的に処刑したからです。

政治的弾圧、圧力により、神の純粋な教えを生きる信仰の自由を奪ったのです。

神の言葉を神が変えたのではない、人間が変えて、神の教えを

実践する人を、処刑したという、歴史の事実にはっきり気がついた人は、神が神の教えは変えてなどいないことは、聖書に記された永遠の

真実であり、ローマ帝国が勝手に変えて作った、新興宗教が作られたおかげで、聖書の神の教えが、変えられ、曲げられ、追いやられ、

捨て去られ、別物になってしまったことに気がつけます。

もう一つは、ヘブライ思索で書かれたヘブライ聖書の中に書かれて

いる、聖書の基本となる意味、言葉、その他諸々当時の人たち、

ユダヤ人達が理解していた通りに、聖書を教えられ、学ぶならば、

人造宗教の教えと、本来聖書に書かれている意味が大きく異なることに気がつけるのです。

全ては、正しく聖書を教えられて来なかったという教育の欠如であり人間が編み出した宗教の教理だけを聞かされ、聖書とは異なる

聖書解説だけを常に聞いているから、神の教えは廃れたという、変化する神、変化する神の言葉〜聖書では無い教えを、刷り込まれてしまっているのです。

聖書に記されていること、1世紀の人たちの信仰の実践と、4世紀から今に至るまでの人々がやっている教えや、祭り、記念日、儀式が

聖書にはないもの、聖書とは異なる理由は、人間〜ローマ帝国が

神の教え、記念日を禁じて、別物の変えたから!シンプルな事実なのです。

イエシュアが祝われた、そして当時の人々、一般の人も、使徒も

パウロも祝っていた、春の祭りは、過越です。

ペサフというと、過越の子羊を意味します。

この日から、7日間、種無しパンを食べて、イースト菌が入った

食べ物を家に置かない、食べないという、神の教えを理解しない人には、意味不明な7日間を過ごすのです。

神の教えは、神の教えを理解しない人には、愚かしく聞こえるとは

本当にそうです。なんでそんなことするの?それを、理解するには

神の言葉を正しく理解すれば、その深い意味、イエシュアの贖い

救い、福音の中核を教えているものであり、実際に実践する人には

神は約束通り色々と教えてくださいます。

 

日本はもう夕方だと思いますが、パン種除去掃除をやってみることを

おすすめいたします。これが、神の仰せであり、イエシュアも教え

実際にやっていたことなのです。

神の教えを捨てるというのは、愚かであり損失です。

神が教えていることが何かも正しく、よく分からないままになるからです。

信仰義認〜神が言われたことを、言われた通りにした人たちの家は

死が過越ました。そして、即座にエジプト脱出させられたのです。

神の言葉を受け取り、信じた。子羊の血の贖いは、イエシュアの贖いの血と同じ実態なのです。

影〜目に見えない本体=イエシュアを表して、人々に最初から同じ

福音を教えているのです。

エデンの園で、神が屠られた動物=子羊の血、そして、その衣は義の

衣であり、アダムとハヴァが罪を告白して許されて、義とされた

同じことなのです。

ヘブライ思索〜永遠の中から神が語っているその思考回路を、

歴史線上に物事を眺める、西洋哲学思想で考えているからズレるのです。2000年前まで、救い、贖い、赦し、恵の無い時代?

どんなに酷い神を想像しているのでしょうか?

それは、聖書に書いてあるイスラエルの神ではありません!

クリスチャンが空想する、七変化の神、怒りの神と怒りの時代

恵の時代、聖霊時代。そんなのは聖書の事実でもなんでもないのです。人間が考えて作った宗教の教え、教理、聖書では無い教えが

盛りだくさん編み出し続けられて、不真実な聖書解説ばかりされていることに気がついてください。

レフトビハインドの小説と映画もそうですが、画像、映像になって

人の空想話が聖書の真実だと人に植え付ける、そして殆どのクリスチャンはそれが聖書の事実だと、今も信じ込んでいるでしょう。

聖書ではない誰かの空想ファンタジーの思想を、教え続けられていることから、聖書の真実に目覚める必要があるのです。

 

2025年も、同様に、イエシュアが過越の祭りの晩餐で遺言された

言葉、過越の祭りを祝うたびに、イエシュアが地上でされたことを

皆で思い出して、過越を祝ってと言われたのです。

でも、ローマ帝国の法律、勅令のせいで、神の教え、トラーと神の

創造された記念日を祝うことを禁じら、ローマ帝国が作った宗教の

記念日を代わりに祝うようになってしまったのです。

 

アメリカでも、日本でも、クリスチャンはこう言います。

古い廃れた律法の教えだから、過越なんて祝いません!と。

では、過越の祭りを祝うことをやめ、イースターを祝えと、イエシュアが言いましたか?イエシュアは過越の祭り、シャバット、神の記念日を意図通りに祝うように、人に教えたことを知らないのですか?

1世紀の人たちは、ローマ帝国が作った宗教の教えや記念日が何なのかも知らないのです。それは神の仰せではないのです。

神の教えや記念日が、人間が作ったものに、すり替えられてしまっているだけです。神の創造された記念日は、丸ごと、シャロームで

一番優れており、神ご自身がその日に人々を呼び出し、聖別された日を祝うように招いているのです。

天の招きを、クリスチャンは退けているとも気がついていません。

そして、人間、ローマ帝国、皇帝、教皇〜人間のトップに立ち、神と

同じ権限があると勝手に宣言している人の教えを、大事に大事に継承し、実践し続けてきたことにも、気がついていないのです。

いや、今や正しい情報に触れて、聖書に何が書いてあるのか、真摯に

追求するクリスチャンが世界中に出現しているのです。

そうすると、神に創造された事実を知る人が、進化論、ビッグバン

仮説を2度と信じられないように、偽物の教えには、2度と戻れないことが起きるのです。

嘘でも良いから、なんでも良いからと思えない。なぜなら、神がそれらの偽物、混ぜ物の断じて禁じて、生ぬるい、吐き出そう、姦淫の罪であること、トラー、預言書に記された同じ警告、高きところの礼拝混ぜ物の教えが禁じられていることが黙示録にもはっきり記されているからです。

純粋な神の創造、神のデザインを壊す、汚す、これを人間がしてきたのです。だから、神の教えを捨てる場合、それこそLGBTQが正当化されると、考えるのです。心で思うだけなら良いさと。

でも、イエシュアははっきり警告しましたよね。

心に抱くことは、罪を既に犯しているのと同じであると。

そして、神の教えの一点一画も廃れない。神の教えを、蔑ろして行動する人、神の教えを捨てるように人に教える人は、天の国、神の前に

最も無価値な存在、意味ない存在になると。

無法を働く者に対して、「あなたを知らない」と言われたのです。

これ、おどしで言っていると思いますか?なんでもあり、なんでも

許される?でも、トラーには神の仰せに忠実に生きることに対して、

祝福という報酬があること教えています。

 

マタイ7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。

 7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

 

神と最も親しい場所の関係に留まれるのか、それともあなたを知らないと言われるのか。そうですよね。神の言葉や教えを捨てるように

人に教える人は、あなたは私の伝えた教えを、人に正しく伝えず、

私の言葉が歴史の途中で無効、廃れた、破棄された、終了、異邦人には関係ない教えと、私が言ってもない偽情報を、どうして教え続けているのですか?と言っているのです。

歴史の事実〜ローマ帝国が神の教えを追放して、それを法律にして

実践することを、勅令、処刑をもって禁じたことを知れば、人間の

教え、嘘、先祖の言い伝えに固執することができなくなります。

それは神が忌み嫌うことであることを理解する人は、混ぜ物、偽物に戻れない、だから本物〜神の教えと神の記念日を祝うことに戻っているのです。

それが、どれほど深い体験か、知らない、やらない人には分からないものなのです。

神の招きを拒否して、人間の作ったものに固執する、イエシュアも言われた通り、それが神の前に本当はNOであることは、聖書に戻れば

分かるのです。神はなんでも良い、気持ちさえあれば良い、そういう神はイスラエルの神、聖書に記されている神とは真逆の空想の神像です。

マルコ7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、

口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。

7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ

<律法〜神の教えは廃れたという思想、実践は、イエシュアが警告されたことをやっているのです。神の戒めとは、トラーのことだからです。

大体なんで、神の教えや記念日を捨てて、人間が作ったものの方が

良い、優れていると思い込んでいるのか?それは、2000年前に

初めて、キリストや、福音、贖い、救いが教えられたと勘違いしているからです。

それは、聖書の最初からずっと教えられていること、何も変わらないのです。クリスチャンというあだ名で呼ばれていないだけで、残りの民とは、イエシュアをアヴラハムのように信仰により受け取り義とされ、神の教え=トラーをガードして生きていた人たちのことです。

でも、今のキリスト教の教えは、神の教えを捨てよ!という、

聖書とは大分違う教えを、教えられてしまっている教えなのです。

そして、長い年月、大勢、大衆が実践しているからそれが本物、

神が認めているものと、思い違いしているから、分からないのです。

ローマ帝国皇帝は、自分のローマ帝国の領土を拡大して、人々を支配するために、そのような新興宗教を作ったのです。政治的理由。

どんなに長年、どんなに多くの人が人造宗教の教えや記念日を実践しても、それは真実とは永遠にならないのです。

 

続く