過越の祭りの意味 イエシュアそのものを教えている祭り | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エジプトは、人の内側の生き方、命の状態を表している言葉です。

エジプトは、ヘブライ語で、ミツライム(ミツオリム)、限界、狭い

狭窄、そして、悲しみ、苦しみの場所を表すものです。

エジプトとは、何も地理的な場所のことだけではないのです。

自分自身を、制限された意識、考えの中の餌食としているならば、

それは、狭窄、自分を狭めて苦しめることです。

自分の中にある、疑い、自己嫌悪、劣等感、自分の中にある不安、

不安定感。

 

それが、エジプト〜ミツライムに留まる現実なのです。

その狭い、悲しい、苦しみの場所からの脱出、贖い出されること、

それは、物理的にエジプトから神により贖い出されたイスラエルと

少数の異邦人達、その中には動物、家畜もいたのです。

神に全てを引き渡して、降伏状態になって、神がエジプト〜狭い、

苦しい、制限、搾取の場所から引き出してくださったのです。

キツキツの、苦しい場所から脱出したのは、自分自身を、自分が押し出して、強制的にそこから自分を脱出させたのではないのです。

神に全てを引き渡し、降伏し、降参状態で命を委ねたから、神が引き出したのです。

エジプト脱出とは、そのエジプトとは自分の頭、頭脳の中に潜んでいる、制限をかける、これはできない、あれは無理〜自分の制限された

考え、肉の目からだけ見ること、神には不可能なことはないことが

見えない窮屈で縛られたその思考回路から、神の目から見ることに

脱出すること。

それが、エジプト、エジプトからの脱出なのです。

 

福音は最初の最初から同じで、神の教え、贖い、救い、赦し、解放の

福音は1つで同じで、深い意味でヘブライ語聖書の中では語られているのです。

紀元前1310年、第一神殿崩壊の890年前であると考えられています。

この出エジプトを通して、イスラエルという正式な民が、変更無しの文字で永遠の証拠、神の契約を受け取り、全世界へ神のトラー、福音を伝える役割を担うことになるのです。

でも、それは出エジプト以降に起きた初めての出来事ではないのです。最初から同じ。アヴラハムが全世界の民族の父と任命され、

同じ神の教え、祝福を世界中の民族へ伝える役割を与えられたことが記されています。

記事で書き続けていることですが、クリスチャンの世界で教えられている伝統的な教え、儀式や記念日は、神の仰せ、聖書のオリジナルではなく、人間が作った宗教〜西洋宗教、ローマ帝国と、ローマ皇帝、そして、その皇帝が後に教皇という座に座ることを決議されて、聖書とは異なる様々な教理を編み出し続けて、それが神の教えだ人間が決めた、その宗教の教えを教えらているのです。

神の言葉、教えを捨てるという行為が何なのか?ということも、神の

教えに基づいて、正しく理解していない大問題があるのです。

神は人間に、勝手に神の教えを付け足し、差し引き、変えることを

禁じていること、クリスチャンは理解していません。

それは、人間の教え〜神の教えは古い悪い律法で、神が破棄されたという聖書には書かれてもいないこと、聖書の記者が誰一人考えても

いない、偽教師の教えが、侵入してしまっているからです。

その大元が、ローマ帝国、ローマ皇帝、ローマ教、教皇が決議して

決めた、モーセの五書を生きることを禁じる!という、神の教えに

真っ向から違反する教えなのです。神から出たものではない。

神は神ご自身=聖霊により書かれた言葉を、1つも否定しない、変えていないからです。

人間が勝手に言っているだけなのです。その理由は、ユダヤ人は

ローマ帝国、ローマ帝国の神々、太陽神などに屈服、迎合しない、

神の教えを死守して、反乱を起こす危険な人物達だから、そのような教えをバン、禁じて、暴動を起こさせないようにしたのです。

トラーを生きるユダヤ人を法律で処罰、処刑できれば、ユダヤ人は

反抗できない。反抗したら、ローマ帝国の法律で合法的に処刑できることにしたのです。これが目的、これが神の言葉をローマ帝国が法律で破棄した理由なのです。クリスチャンはその歴史の事実を、はっきりと理解して、神が神の言葉を終了されたという嘘、偽情報、まやかしの教え、宗教教理の主張するパン種=罪を完全に頭脳から除去しないとなりません!

 

聖書は完全である誤りなき神の言葉と言いながら、同時に神の教えは廃れたという大矛盾を言っているのに、そのズレた発言に何も違和感なく、聖書とはズレた教えであることを信じていることに関して、

何も気がついていないのです。

それは、人間の教えで、神の言葉を曲げて変換しているから、

そうか〜古い箇所は終わったんだ〜と思い込んでいるからです。

古い教えは悪いから、その教えから解放するために、イエシュアが来られたと本気で、人間の教えを信じさせられているでしょう。

律法=神の教えの下にいない、恵の下にいると。

その箇所は、イエシュアに贖われた人は、「罪と死の法則」の下に

縛られた状態から解放された!恵の下=イエシュアの性質通りを

生きれる、新しい人とされた!恵の下にいるから、罪が支配されることはない!と書いてあるでしょう。

 

ローマ6:14なぜなら、あなたがたは律法=ノモス=罪と死の法則の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。

 

もし、神の教え=トラーの下にいないというならば、それは聖書が

伝える、無法、神の教えを捨てることであり、無法=アノモス、

トラー無しとは、神の教えが無い状態ということになります。

神の教えは、全て全部で丸ごとで1つ、シャロームの性質であり

クリスチャンが勝手に主張する、この箇所、あの箇所は無効などというそんな教えは、神の言葉の性質ではない、聖書とは真逆の思想

異教徒が発想する思想です。

背教、罪の定義は、神のトラーに違反すること、それが罪なのです。

クリスチャンの世界では、神のトラーに違反することを奨励し

神の言葉を捨てているので、何が罪の定義、基準なのか、理解していない。神の教えを捨てるということは、そのようなズレを招き入れることなのです。

そして、福音書以降に記されているものは、トラーの抜粋のみの、

短い解説であることにも気がついていないのです。

それが、全ての教えだと思い込んでいる。

クリスチャンが読んでいる教えは、モーセの五書、トラーの抜粋であることにさえ気がついてないのです。古い、新しい教えなど、

神の教えなど、言葉の中にはありません!神の言葉は全てで1つで、同じです。削除、付け足し、変更不可能!モーセの五書=トラーしか神の教えはない事実に気がついてください。

時代ごとに、蛇の皮の脱皮みたいに、人間が神の教えを、脱ぎ捨てていく、そんな教えは聖書ではありません!

 

聖書に書いてあるオリジナルの神の教えを否定、削除、破棄されて、それが神の仰せだという偽情報を本気で信じ込んで、今に至っているのです。

神は人間が勝手に神の記念日を作り変え、その意味を変え、日付を変えて、そして人間が編み出した教えを生きるように人に伝えてなど

いません。日曜礼拝、クリスマス、イースター、ハロウイン、

それらは、聖書が閉じられた後、4世紀以降にローマ帝国、ローマ宗教、皇帝、教皇が決議して作った人造の記念日であり、その裏にある本物は、異教の神々、女神、異教徒の祭りであり、それをパクって、カトリック的な意味づけをしただけなのです。それが歴史の中で

恒久的に大衆で、しかも異教徒までもが祝っている祭りなので、

それが神の記念日だと錯覚しているだけです。神はそのような記念日を祝うように人に教えてもいません。それらは西洋宗教の文化、伝統でしかないのです。今はなんでも良い、何の教えでもよい、いつでも主日、記念日、安息日祭りだから、それぞれが考える日が、記念日と人間が決めて良いなどと、ローマ14のパウロの言葉を完全に読み

違えて主張しています。

神は、そんなこと1度も言わないどころか、神のモアデイム、

シャバット、新月、祭りを神の者とされた人たちは汚すなかれ!と

厳重警告しているのです。

そして、この神が創造された記念日の命のサイクルを通して、神は

イエシュアを福音の中核を、人が神の教えに根付いて生きる学習訓練のレッスンサイクルを、それぞれ個人に対してカスタムメードで与えて教えているのです。

 

気がつきませんか?何か問題が起きている、何か自分の中にしっくり

行かない性質があることに気が付く。それらは、普通人間関係、自分の生活の中に起きる問題を通して教えられます。病気や経済状況、

事件や事故や災害もあります。それを通して、神は命のサイクルである、神のシャバット、新月、祭りを生きて、祝うことを通して、

福音を教えているのです。

人間が作り出した記念日の方が、神が創造されたものより優れている

と考えていることこそが、神の上に人間が座り、神の権威を退けている冒涜的、違反的行為〜罪であることに気がついてください。

人間の方が、神より深い考察があるどと考えるのは、神の教えを知らないからそのように考えているのです。

神の教えているモアデイムを知って、学び、そして実際に生きていくと、神の知恵がどれほど深く、1つ1つがイエシュアそのものを教えている、そして預言的祭りであることが、理解出来てくるのです。

神のモアデイムは、神の創造の性質、福音の全てを網羅しているものなのです。

12日、土曜日日没が今年の過越の祭りのスタートです。

記事をまとめてUpしましたが、付け足しで記事を載せて行きたいと

思います。家の中のパン種除去掃除をしながらやっています。

色々なところに、パン種〜ハメッツ、要らないものが潜んでいることを発見します。やってみると分かります。イースト菌、パン、パン粉

クッキー、クラッカー、ケーキなど、イースト菌が入っているもの

全て除去します。普段気に留めない場所に、それらが潜んでいるのです。冷蔵庫、冷凍庫、戸棚、引き出し、部屋の隅。

自分の中に、イエシュアの性質とは異なる肉の性質、思考回路が

たんまり潜んでいることを、日々発見し、あかりを照らされているのです。それは、パン種除去掃除と全く同じです。

 

続く