神の言葉と人の教えの違いを聖書から識別する | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書には、どの箇所でも、モーセの五書に反する教えは1つも

記されていません。それどころか、聖書はどの箇所も聖書全体でモーセの五書を解説しているのです。

 

ダービー思想、マルキオン思想初代西洋人教父達、又はルターも含め皆、反モーセの五書思想=神の教えは廃れたと言う思想で、一旦神の言葉をなし崩しにして自由に人の思想で聖書を解説し

始めたのです。1世紀後半から今に至る迄その思想=反モーセの五書=神の言葉は廃れたと言う人間の考えた思想は健在であり、聖書ではなく、人の思想=先祖の言い伝え=伝統の教え=神の

言葉を否定する教えを土台に、聖書を2つに分断し、教えている事は今日に至るまで健在なのです。

 

残念ながらクリスチャンの世界では、神の言葉を聖書に照らし合わせて聖書を考えない、読まない、解説しないで、人の教え=

思想に照らし合わせて聖書を解説しているのです。

だから2つ分断された7つの時代ごとに違う神の人相、神の教えや神の救いの方法、人へのアプローチが違うと語られて、そう

信じているのです。

でも聖書に記された事実は逆です。1つの救い=イエシュア、

イエシュアを通して以外誰一人父の元に来ることは出来ない

古代の人は別の方法で贖われる救われる義とされるとイエシュアは言いましたか?1つの道、1つの教え=トラー、1つの家族=イスラエルの大家族に異邦人が加えられ続けるだけ。それしか

聖書には書かれていません。

神の教えと、人の教えの違いが書かれていますが、人の作り出した作り話と、神の教え=トラー=モーセの五書とを混同して

読み違えていませんか?

1テモテ1:4 作り話やはてしのない系図などに気をとられることもないように、命じなさい。

<神の教え=トラー=モーセの五書は、人間の作り話や果てしない系図なのですか?>

そのようなことは信仰による神の務を果すものではなく、むしろ論議を引き起させるだけのものである。

人の教えを土台にするから、聖書とは異なる、神の言葉に人間が異議申し立てする議論が生まれるのです。>

 

テトス1:14 ユダヤ人の作り話や、真理からそれていった人々の定めなどに、気をとられることがないようにさせなさい。

ユダヤ人の作り話は、神の教え=トラー=モーセの五書なのですか?真理=神の言葉=モーセの五書からそれていった人々

書かれています。それは誰ですか?

 

黙示録2:4に記されている人々と同じ行動をする人達です。

黙示録2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛=シナイ山で与えられた婚姻契約=モーセの五書に
記された生き方〜から離れてしまった。

 

2ペテロ1:16 わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話

用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者

なのだからである。

神の教え=トラー=真理=モーセの五書は巧みな作り話だと

書かれているのでしょうか?

1テモテ1:5 わたしのこの命令=モーセの五書の教えに基づいたものは、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる

愛を目標としている。

1:6 ある人々はこれらのもの=神のトラー=モーセの五書=父の教え=婚姻契約の聖別された生き方からそれて空論に走り、

1:7 トラーの教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。

神の教え=トラー=モーセの五書を教えるはずの人が、自分の言っている主張していること、モーセの五書の中身が分かってない!神の永遠不変の教えを否定する人は神の教えなど正しく理解していないのです。

 

2テモテ4:2 御言=トラー=モーセの五書を宣べ伝えなさい。

時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。

神の教えのある一部を教えなさいとか、神の言葉をある部分否定し破棄せよと言う教えをせよ!などと聖書には書かれていません。あなたの聖書にはそう書いてあるのでしょうか?

4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、

4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。<神の教え、言葉=真理から耳を背けているでしょう。>

神は、神の教え=言葉が何であるか人に伝えています。

イエシュア=トラー=モーセの五書=言葉であると書かれていますが、神=言葉同一である事をクリスチャンは古代ヘブライ人が

理解していた通りには、理解していないと思います。

もし、理解していたら、神の言葉を2つの分断、別物とする様な聖書概念が聖書ではないとはっきり理解するはずだからです。

 

聖書にみ言葉、言葉、教え、仰せ、戒め、さとし、おきてと書いてあれば、1000%それらは全てモーセの五書=トラー=

婚姻契約に記された神の言葉の事を指して語っているのです。

それが神の言葉であり、残りの聖書全体は、モーセの五書を

解説している書なのです。神の言葉=トラー=モーセの五書です。そして、モーセの五書以外の神の言葉、教えは無い!

神が語られた言葉は、モーセの五書、預言書、諸書、そして

福音書〜黙示録の中に記されていて、そしてそれらどの箇所も

100%モーセの五書=父が語られた言葉とマッチし、互いに

敵対しあい、矛盾し、否定し合う様な言葉は書かれていません!

神の言葉に反する、敵対する、イコールそれは、イエシュアに

敵対している行為であると気が付いてください。知らない間に最も愛すべきメシアが最も嫌がる忌み嫌う事をするのは悲惨です。神の言葉を分解する行為は、イエシュアの手足、いや一番大事な頭をもぎ取る行為なのです。なぜならイエシュア=言葉=トラーと神ははっきり伝えているからです。詩篇の記者は1000%

モーセの五書に記された、神の教え、知恵への畏敬の念、憧れ、慕い、賛美をしている事が記されているものです。

 

詩篇105:8 主はとこしえに、その契約をみこころにとめられる。これはよろず代=代々永遠=に命じられたみ言葉であって、

119:89 主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり、

119:90 あなたのまことはよろずよ=代々永遠に及びます。

あなたが地を定められたので、地は堅く立っています。

 119:91 これらのものはあなたの仰せにより、堅く立って今日に至っています。よろずのものは皆あなたのしもべだからです。

119:92 あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、

わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。

イザヤ40:8草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」

ヨハネ1:1 初めに言があった。言=ことば=トラー=ダヴァル=ロゴスは神と共にあった。言=トラー=モーセの五書に記された言葉は神であった。

1:2 この言=ことば=トラー=イエシュアは初めに神と共にあった。

ヨハネ1:14そして言=トラー=イエシュアは肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であってめぐみとまこととに満ちていた。

黙示録19:13 彼=イエシュアは血染めの衣をまとい、その名は「神の言=言葉=トラー=イエシュア」と呼ばれた。

19:16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主という名がしるされていた。

ヘブル13:8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。

 

神=言葉=トラー=イエシュア=永遠不変=同じ!と聖書は伝えているのにダービー思想=人間の教えは、言葉と教えているのです。神の言葉≠永遠ではなく、暫定的一時的と言うのです。

神≠永遠不変とでも言うのでしょうか?

神は神=言葉=トラー教えています。神の言葉の方が正しい

人の教えは神の言葉の権威の上に上昇出来ない、神の言葉を人間は無効に出来ない。人は神にはなれないから、人が神の言葉を

否定する事は何も意味ない、無意味なのです。神の言葉を否定する、自分に取り都合の良い、心地よい教えに変更する。今は何でも許される恵みの時代?<神は最初から恵みの神であり、創造の最初から恵みの時代です>

今は神の言葉に反しても、それぞれの判断する事を生きれば

良い?きよくない動物もなんでも食べ、好みの性を選び、自由LGBTQあり!?同性婚あり!?罪を神が祝福すると教皇までもが言ったのだから!神の記念日も人が主権を取り握り、どの日でも自分の気持ちがあれば、自由に選んで今はそれが聖日、主の日?

それらの教えは聖書ではないです。誰の教えですか?イスラエルの神はそんな事言いません。それ神の言葉を無視している、

神に対する反逆違反行為だと気が付いていないのです。

最初からはっきり書いてあるでしょう!神の言う通りにして!と

申命記28:13 主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせられないであろう。あなたはただ栄えて衰えることはないであろう。

きょう、わたしが命じるあなたの神、主の戒めに聞き従って、

これを守り行うならば、あなたは必ずこのようになるであろう。

28:14 きょう、わたしが命じるこのすべての言葉を離れて右または左に曲り、他の神々に従い、それに仕えてはならない。

28:15 しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、

わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、

このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。

イザヤ30:21 箴言4:26−27 申命記5:32、11:16,26−28 ヨシュア23:6 2列王記22:2

契約は1つのコインの裏表、アヴラハム=無条件譲渡契約、

そしてその契約の裏には、神の祭司の国の民として生きると言う、条件付き契約がついているのです。

2つは切り離せないのです。人がイエシュアを信じてついて行く!と言う意味は、神の教えを生きる事、生きることはキリストと書いてある意味に気が付いていますか?

勝手な生き方、まして神が伝える事を無視して生きない、神が

してはならないと言うことをする、そんな勝手な生き方を無法=トラー無し、あなたを知らない=婚姻関係の中にある生き方ではない=関係ないとイエシュアが言われた言葉の意味を理解したら良いのです。

恵みの時代の新しい教えをくださったのに、古い教えに固執するその様な失礼な態度はやめさい!と考えているのですが、それ全くもって聖書の教えではないのです。神の教え=父の教えはモーセの五書に記されたものしかない。神の言葉を人間がスカスカにして破壊する、仕分ける、削除、付け足しする事を断固として神はその行為を禁じているでしょう?どうして聖書を読んでも気が付かないのでしょう?不思議に思ったら良いです。

いや、聖書の最初の部分を理解していない、分からない場合には、福音書以降イエシュアは100%モーセの五書だけを話している事にも気がつけないのです。そしてヘブライ人が神の言葉を否定するなどという死に匹敵する罪であることを聖書から理解しているという知識がごっそり抜けているのです。

だからイエシュアや使徒パウロが神のトラー=モーセの五書を

否定した教えをすると言うクリスチャンの世界の空想話は1つも福音書以降に記されていないと知らないとなりません。

問題の中心、根は、聖書を曲げて読んで解説していること、

パウロの書簡の内容をことごとく誤解していること、そして不適切な翻訳がされていること。それらが、人に聖書に書かれている事とは違う事を伝えている本当の問題なのです。

大体、人間が神の言葉を仕分け、削除、付け足し、無効、有効とする様な行為が違反行為、背信であると言う事に聖書の罪の定義から気が付いていないことからして大問題なのです。

 

人の思想が神の言葉とは異なることが聖書から読み取れていないみ言葉を聞けない、頭脳が聞き取れない飢饉に陥っているだけです。人は神の言葉なんて聞いて真面目に神に教えに根付いて地に足ついた落ち着いた生活をしようと言うより、肉にアピールする教えに惹かれて、異教徒〜この世の人と同じ様に生きることが楽、だから神の教えとは違う方向に行くのです。人を神の言葉=教えから引き剥がして行くのはエデンの園の蛇がやった事と同じです。神の言葉に神の言葉、教えではない人の思想を混ぜることをする、それが原因です。その注意トラーには実にたくさん記されています。2種類別の種を同じ畑に蒔いてはならない。2つ別物の性質=イスラエルの神と異教の神の教えを混ぜてはいけない事を実際の生活で教えているのです。きよい動物きよくない動物混毛の衣服を着てはならない。etc 衣服は別物毛が混合されると温度が不安定になるそうです。金の子牛を拝む=自分の手で編み出した教え=混ぜ物の教えで神を礼拝する、勝手に決めた日を神の祭りとして祝う。高き所の礼拝、異教の神々の教えに交わる、モレク神に子供を捧げる。etc