スコッフィールド チェーンリファレンス バイブルは、聖書と言う
タイトルが付けられていますが、これはデイスペンセーション
思想=ダービー=人間の編み出した思想を聖書のページにずっと書き記した註解書です。
神の教えに反する思想を聖書のページに盛り込んだ単なる人の
思想を世界へ浸透させる目的で製作された註解書であるのに、
聖書と言うタイトルを付ければ、売れるとスコッフィールドが考え、聖書と言うタイトルで1909年にアメリカで出版されたものです。
囲いが無い部分は聖書=キングジェームス版聖書で、青い部分はその箇所と関連する他の聖書箇所です。ピンクの部分はダービー思想で聖書をスコッフィールドが解説したものです。
下記の画像を見て下さい。
神の教えの中に、人間の教えを混ぜている、書いている〜人の教えを神の言葉、教えの中に混ぜるなかれ、神の言葉に付け足し、差し引きするなかれ!!!を完全に違反しています。
聖書にこの様な註解が書かれている場合、それらは神の言葉ではなく、人の註解であり、それが聖書の記述ピッタリを表しているなら神の言葉通り、トーヴであり、神の言葉とは異なる思想なら、それは単なる人の空想、思想である、だから人の註解
イコール神が語っている真実とはならないと理解して下さい。
これは全てに当てはまります。誰かの聖書解説をネットで講壇上
からされても、その解説者が必ずしも聖書にピッタリ合った真理を語っているのではなければ、どんなに有名で権威あると言われる人の教えでも、それは単純に聖書ではないズレた解説=ハター
真理とはかけ離れた的外れな事を解説しているだけなのです。
ピンクの部分がダービー思想で曲げた聖書解説をしている彼の
思想が書かれた部分です。このピンクの部分の註解の中に聖書とは異なる思想が満載されて記されているのです。これを読むと
なるほど、私が今まで聞いてきた聖書解説はダービー思想そのものだ!と合点が行く、腑に落ちました。
ピンクの囲いの中に、ダービー思想=デイスペンセーション神学
教理=人の編み出した人の教えを通して聖書の事実とは異なる
人の考えついた聖書解説が記されているのです。
ある部分は聖書の事実と合っている部分もありますが、神の言葉根幹、中心を最初から否定して曲げて歪めている土台を通して
聖書全体を歪んだ思想から解説している腐敗、純粋な神の言葉を混ぜ物に腐敗させている原因が記されています。
デイスペンセーション神学は最初から聖書とはズレた曲がった
歪んだ人間が作った思想なので、ダービーの思想は、その思想が編み出された後からずっと手直しされ続けているのです。偽の
土台=砂の土台を、本物の土台=岩=救いの岩=イエシュア=
トラー=神の純粋な言葉に変えない限り、偽物の教え=聖書とは
ズレた思想で聖書をどのみち曲げて解説を続けているのです。
何が違うのか1つ1つ書き出して、聖書に記されている記述とどう違うのか照らし合わせてみます。何が聖書と違うのでしょうか?
1聖書 神は永遠から永遠に変わらない。
ダービー 神は怒りの神から恵の神に変身。
出エジプト34:5 ときに主は雲の中にあって下り、彼と共にそこに立って主の名を宣べられた。
出エジプト34:6 主は彼の前を過ぎて宣べられた。「主、主、
あわれみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、
まこととの豊かなる神、
神は永遠から永遠に恵みの神である事を人に紹介しています。
巷の解説、変化進化する神、怒り〜恵、進化変化する教え、
怒り呪いの厳しい律法〜恵みの律法など対比させていますが、
神の教えは1つしかない=トラー=モーセの五書=婚姻契約に
記された生き方しかない事に丸で気が付いていないのです。
空気椅子、裸の王様の衣装=ないのにあるあると勝手に人が
言っているだけで、異邦人用の別の違う教えや、モーセの五書を
人間の権威で正しく仕分けて良いと言ってるのは、神ではなく
ダービーです!!!!それが聖書で警告されている偽教師の教え=人の教え、言い伝え、空想話とパウロが言っているものです。
神の許可している事を禁じ、神が許可していないことを生きて良い=偽の教え!!!と書いてあるでしょう聖書に。
古い律法と別の新しい恵の教え、契約=これは聖書を完全に勘違いして考えている結果なのです。二つに分断された神の言葉と言う人の思想で聖書=神の言葉の性質を破壊、歪めているから。
新しい=再更新される、同じモーセの契約=エレミヤ31章=
ルカ22:20 同じです。古代中近東の契約にのっとり聖書は書かれています。契約とは何度も同じ中身の契約が再更新され続けるものであると聖書に書かれていると言う知識があれば、新しい=ハダス=新月の新と同じ意味、同じものが再更新される事を聖書記者=預言者達が話している事実を読み取れます。
聖書にだけ基づき考えて下さい。神の側では契約は変更されない
出来ない!取り消さない!人間が神の教えに違反し、破ってるだけです!人が契約を破るから、では神の教えを変えよ〜なんて神は1度も言ってません!神は契約=約束を翻し変更しないと言っているからです。どうして神の言葉を完全、永遠と信じると言いながら、真逆な事を信じて、神の言葉は変化、廃れると主張しているのでしょうか?人間が神の教えを破るから、神が同じ契約を再更新続けて行くのです。神は私達を愛し、捨てないからです。よくよく考えて。シナイ山で契約が与えられる前、イスラエルと異邦人は山の麓で一体何をしましたか?
”自分の学んだ慣れ親しんだ、異教の神々の地で覚えた礼拝方法
自分の考え=自分の手で編み出した方法で、イスラエルの神の
祭りを祝おう!祭り=彼らは婚姻契約=トラーが与えられる前
からレビ記23章の祭り、シャバットを知っていた、それを
祝っていたのです。金の子牛=自分の手柄、業で。
そして、どうなりましたか?モーセが山の麓に戻り、それを見て
石の板を投げて壊したでしょう?その後どうしましたか?
神がその契約を破棄、無効としないで再更新したでしょう!
同じ言葉を、石の板に書き直した事が書かれている意味は
重要な事を意味するのです。人が契約=神の教えを破っても
神の側では破らない。再更新する。
その事実を考えて下さい。同じモーセの契約=婚姻契約を破る人に対して神は憐れみ深く、恵みに富、約束を翻さずに約束、契約を更新し続けてくださっているのです。そして未来は皆イエシュアを知り、腹の底、頭脳に割礼がされDNAに神の教え=トラーが刻まれた人々に新しい=再更新される同じモーセの契約書を与える!
その代表=イスラエルとユダの家が1つ神の中に1つ家族となり
その修復された大家族に異邦人も加えられる!と言うのがエレミヤ31イエシュアの過越の晩餐での同じ再更新された契約の事であるのに、クリスチャンの世界では、異邦人だけに与えられた
神の言葉を骨抜きにした別の新しい教えなどと解説しているのです。それ聖書ではありません!あなたの聖書にもしそう書いてあったら、その翻訳聖書はダービーの偽聖書と同じ間違った解説、解釈翻訳がしてあると気が付かないとなりません。そう言う事が翻訳で書かれているものもあるからです。原典に無い言葉を作り翻訳を聖書の最初の75%と後の25%と同じ言葉を違う言葉で翻訳している又は原典に無い、文章、言葉を挿入しているからです。
神の言葉が変わったと言う様な事が書かれている箇所があると
されている箇所は、完全に不具合の翻訳、聖書解説がされているずれた箇所です。
モーセの契約=モーセの五書以外の別の教え、婚姻契約はこの世に神の前に存在しません!神は人に神の言葉の一点一画も手をつけるな!と警告しているのに、クリスチャンの世界はダービーの違反を神のお告げ、人間の判断、確信で神の言葉を自分の意見で仕分けよ!と教えられそれが新しい時代の神の教えであると言う嘘を本当と信じ込まされているのです。
2 聖書 神の言葉は永遠に固く立ち、歴史の途中で進化変化
又は無効にならない、廃らない。
ダービー 神の言葉は2000年前に変化した。古い教え=
モーセの五書、預言書、諸書=廃れた、異邦人には関係ない。
福音書=異邦人には関係ない、山上の垂訓=異邦人には関係ない
ジーザスの教えを生きる必要はもうない。
使徒=神の言葉が変化する過渡期の記録。パウロの書簡1、2で事足りる。律法と恵などと言い、対比させている。
では、神は何と人に伝えていますか?
イザヤ40:8草は枯れ、花はしぼむ。
それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。
み声=神の声=トラー=モーセの五書に記された教え=命を選びしっかり握って生きよ!と書いてあるのです。
これは、シナイ山で婚姻契約を与えられた時、それはシャブオートの祭り(ペンテコステ)として祝われますが、この時イスラエルと異邦人達がこの儀式で、”誓います”We doと言ったのです。
結婚式で言うでしょう。I doと言う宣言。それと同じです。
出エジプト19:7 それでモーセは行って民の長老たちを呼び、
主が命じられたこれらの言葉を、すべてその前に述べたので、
19:8 民はみな共に答えて言った、「われわれは主が言われた
ことを、みな行います」。モーセは民の言葉を主に告げた。
3 聖書 どの時代のどの人種もイエシュア=永遠の中に屠られて完結している贖いの業、子羊の血を信仰により受け取り義と
され聖霊が与えられて父なる神の元に戻る。
ダービー 古代は神の教え=律法を生きることで義とされたと
言います。2000年昇天以降初めて許し聖霊が与えられ、初めて恵みの時代自由の時代、キリストの教えを生きる時代になった。
神の言葉を生きて義とされる人は歴史のどの時点でも、人種に
関わらず誰一人としていないと聖書にははっきり書いてあります動物の血は罪を消す事など出来ない。神の義は信仰により受け取る以外新しくされた人=聖霊を内側に受け取れない!誰もイエシュアを通して以外父の元に戻れない!と言われたイエシュアの言葉は永遠に真実です!!!!
ヘブル書10:4 なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。
聖霊を受け取り新しくされた人=花嫁は、神の義=トラーに記された神が造られた本物の人間=イエシュアの性質通りを生きる!
神の言葉は救いや贖い、義とされる目的のために与えらたのではなく、神の花嫁、大家族の一員になった人に与えられる麗しい
生き方を教えるものであり、それは神らしさに成長し、命を
保護される鎧兜の生き方であるものです。
この部分をクリスチャンは非常に混同して考えていてるのです。
この違いじっくり考えて、識別、区分けしてください。
だから救われた人は、神の言葉を生きなくて良い、神の教えの
ある一部分だけ=道徳的な事だけやれば良いなどと教えているのです。又は自分の確信が神の言葉より権威あると教えている。
聖なる民にされた人は、今までの異教徒の様な生き方をしないのです。異教の神々の習わしに従って生きてはならない。
それは衣食住、人の生きる全ての側面に於いて網羅する教えを神が人に伝えているのですが、気が付いていないでしょう?
なぜなら、古い教えは終わり、道徳的な事だけ生きれば良い。
それでは、神の民、地の塩、世の光〜イエシュアの実態を生きなくて良いと言っているのです。神の神聖に預かる麗しい生き方に
招かれているのに、蹴って退けているのです。
親切な人なら世間にはいっぱいいます。道徳的な事なら普通の人でも常識的に理解しています。違反者もいますが。異教神を信じながら、知らない間に神の性質を生きる人もいるからです。でも私達がなぜ異教徒の様に生きてはダメなのか?それは、神の子ら人間の本来の生き方ではないから、ずれてしまい、破壊が来るからです。神の言葉に反する事〜ずれ〜罪〜破壊と書いてあります。
神の言葉を少しでも揺るがす〜エデンの園=死が入り込む扉を
開く。一旦扉が開いたらその扉は益々広く開き、閉じません。
神の教えが人の思想でグラグラになり、なんでもあり、ソドムと
ゴモラを今クリスチャンの世界でもOKですと教えてしまっている背教の時代になったのです。それは神の言葉を捨てたからです。ゆっくり1つ1つじっくり考えてみて下さい。