聖書はヘブライ思想、ヘブライ語、永遠の中から時空を超えて
語っている内容を、異邦人的グレコローマ思想=異教思想=歴史線上に物事を見ていては神の伝える真理は理解出来ません。
聖書は時系列関係なく、永遠、今、過去、未来と歴史の順番に
関係なく神が選んだ歴史の出来事、人物の生涯を通して、大事な教えを全て人に教えています。
神の救い、贖い、赦し、恵、祝福は2000年前にイエシュアが処刑され、昇天されて以降に始まったのではなく、永遠から永遠に同じ。永遠の中から同じ。エデンの園から同じ救い贖い赦し
福音同じ!1つの義の道しかないからです。
1コリント10:1 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、
10:2 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。10:3 また、みな同じ霊の食物を食べ、
10:4 みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。
雲=神の臨在=神の供給を意味しています。岩=水=イエシュア
出エジプト17:1−7 ヨハネ7:37
どの時代の人も、神のトラーを生きて義とされた人はいない、
これからも義とされる人は今も未来もいないと神が教えているのに、過去の古代の人は神の律法を生きて義とされたなどとダービーの思想を聖書であると解説してしまっているのです。
その様な教えは、この様なダービー思想から来ているのです。
聖書ではない教えを聖書のページに搭載して人に浸透させているのです。クリスチャンも聖書=神の言葉の真理ではなく、ダービーの思想を通した聖書解釈=聖書とは異なる教えをずっと聞かされているのです。
20世紀のアメリカの教師、パスター、神学校の教師は、聖書ではなく、ダービーの思想を神の言葉の上にレベル上げし、上昇させ、そして聖書ではなく、ダービーの思想註解を聖書のページに書かれたものを読んで、それで熱心に学び、神の言葉を学んだと思っていたのです。
しかも、それらの人達は、モーセの五書などヘブライ語に基づき正しく学ばない、翻訳聖書をダービー思想で読み解くだけで。
欽定版聖書=英語聖書をダービーの思想を通して読んでいただけです。少なくとも15年前まで、どの国に住んでも、私の周りには、今の様に、ヘブライ語聖書からヘブライ思索で人の神学ではなく、書いてある言葉の意味通りを教えられると言う人は一人もいませんでした。ユダヤ人イエシュア信者教師と出会う機会が
なかったからです。
神の言葉を否定する事は死に値する冒涜であり神の子らが神の
言葉に敵対心を持たされている、それはあの蛇の仕業なのです。エデンの園、最初から同じ!騙されるなかれ!神の言葉を否定し、真実ではない記述を聖書の中に書き記しています。読まなくて良い聖書です。いや、原典聖書=ヘブライ聖書をヘブライ思想で知らない人は、聖書とはズレた思想を信じ込まされてしまうでしょう。
3 聖書 神の群れは、1つ。エデンの園から1つ。
ユダヤ人と異邦人両方合わせて完全になる1つの家族。
これは神の宮に置かれている”光”金のメノーラでも表されています。世界を照らす世の光〜イエシュアの光=1本の純金で出来ている7つの支柱。イスラエルも異邦人無くして、完全=7にはなれないのです。なぜなら、神のデザインした人間は最初から
1体の性質であるからです。その事実だけを考えても、分裂させる思想は、人を神の真実から引き離し、偽の教えをするのです。
イスラエル=自然のオリーブの木に接木された野生のオリーブ=異邦人。イスラエルの囲いとは別の囲いにいる羊=異邦人を
イエシュアが1つにする、異邦人の群れ同じイスラエルの羊の
群れに加えられる。
ダービー イスラエルと異邦人は永遠に別物の群れ。
聖書にはない、教会と言う言葉=異邦人の新しい群れと考えているが
それは、聖書には書いてない、聖書の概念と全く反する人間の
思想。教会と言う元の言葉は、エクレシア=神に呼び出された人々の群れ=ギリシャ語の裏にあるエクレシアと言う翻訳の元の言葉は、ヘブライ語=カハール、ケヒラ=同じ1つ神に呼び出された1つの群れ、エデンからずっと未来エデンに戻るまで継続
され続けて行く同じ1つのイスラエルの神の子ら群れ。
教会と言う人が勝手に作った創作造語は、本来の意味を反映していない。カハール、エクレシアを福音書以降は群れと訳さず、
あえて”教会”と言う今迄聞いたこともない造語を作り出し訳としてあてがい、あたかも別物の群れが出現したと人に印象付けて
いてる、不適切な翻訳。でもその言葉が浸透してしまったので、
皆考えもせずに使っているだけなのです。
4 聖書 再臨は1度だけ。最後は天と地が1つとなり、全ての人が1つとなる。エデンから出て、(創世記)、エデンに戻る。(黙示録)で完結する。
ダービー 再臨は2度。最初の再臨は秘密裏に行われ
クリスチャンだけが秘密裏にイエシュアが再臨される時、
地上から突然消える!永遠にクリスチャンは天に留まり、イスラエルとは分断された群となり、天を治める。ユダヤ人は地上に
残り、永遠に地上を治める。永遠に二つの分裂した群れになる。
2つ分裂した群れ。空想話としては面白いファンタジーかもしれませんが、これは聖書の記述と真逆な人の思い付いた思想です。
ダービーの思想が書かれた箇所、読んで見ると、クリスチャンの世界で語られる教えとピッタリ同じ。アリの巣を発見した気分になります。出所はここ=ダービー思想であった!聖書ではない。
言葉にはインパクトがあります。言葉は何かしらの概念を表しているものであり、人に思想の土台となるものを植え付けるのに役立つものです。神=言葉とある様に言葉には実態が伴うからです。
もし永遠と書いてあったら永遠と受け取らないとならないのに、
人の思想の横槍で、永遠だけど、今は暫定的、変化したと言う教えで、クリスチャンはその矛盾に気が付いてないのです。永遠が
途中で変化する?あり得ない、でも人の思想が、理由付して、
神は人が生きられない教えを、取り除いたよ〜罪の定義を変えたよ〜、そんなおかしな思想を刷り込まれても気が付かないのです。どうしてか?神の教えを退けて、人の教えを基準に考えるからです。そして自分に都合の悪い神の教えがあるからでしょう。異教神の国々に生きる自由の方が肉には楽、アピールがあるし、馴染みのない神の教えは違和感感じる。全部自分が中心自分がどう感じるか、自分の考え、都合が中心、神の言葉ではなく、自分の確信が基準になればその方が簡単だし、楽に思うからです。
では、聖書に反する、聖書ではない、ダービー思想が聖書のページに一緒くたに書き記されている内容を検証、見てみます。
これらのダービー思想はクリスチャンの世界で語られる教えピッタリそのもの、定番の教えです。ピンクで囲った聖書のページの下部に記されている、反モーセの五書思想=ダービー思想を、
スコッフィールドが書いたものです。
恵 恵とは私達に対しての、我らの救い主、神の愛である。
<聖書の真実です>恵は、義の行いによるものではない。
<聖書の真実です>ヘブライ語の恵みとは、受けるに値する何もしていない、何もその様な価値がない、でも受け取るから、恵と言うからです。
記事が長くなるので、この後にスコッフィールドが註解として
記している内容は聖書とは真逆の思想なので、それを書いていきますが、まず最初にスコッフィールドが裏付けとして引用した箇所を解説します。
テトス 3:4 ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、
3:5 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
この様な箇所、パウロの今は恵の時代と言う箇所と同じ誤解をして読んでいるのです。イエシュアが現れたとは2000年前の地上の事ではなく、個人個人の人生にイエシュアが現れて、その人がイエシュアを通して新しい人、義とされた時の事です。
なぜなら、イエシュアは永遠から永遠に存在し、エデンの園から
同じ、救い、贖い、赦し、助け、恵み、祝福を与え続けて来た
事実が書かれているからです。
パウロが今は恵みの時代などと言うのを、昇天以降恵みの時代が
始まったとダービーは言いますが、神は最初から恵み、恵みの時代は2000年前に始まったのではないのです。
贖い、救いを受けていない人には、その神の恵みが分からない。
でも個人的に神に出会うイエシュアを通して新しくされた人は
その時から神が恵みである事を自覚し知る事が始まるのでしょう。自分が神を知らなかっただけでしょう。でも神は存在し
神は神を知らない人にも太陽、水、空気、必要なものを与え続けて下さっているではないですか?その神の恵みに気がつかない
神が分からないからです。その事をパウロが言っているのです。
あなたが、神に気がついた!神と歩む恵みを自覚する人生が
始まった!と言う事です。それなのにダービー思想は、2000年前から初めて神が恵みの時代を与えたなどと言う空想話を
盛り込んでいるのです。神は永遠から永遠に恵みに富て紹介しているでしょう??その言葉が永遠に真実であり永遠にアーメン。
偽のイスラエルの神像を作り出してはならない〜神の顔の上に
別の神の顔を置いて、神の実態を別の教えで覆い隠してはならない!