クリスチャンの間では、神が神の言葉を修了させたという人間の思想を、聖書に根拠もない、記されていない事が、神の教えであると、
疑いもなく信じ込まれています。
聖書には記されていない、神の言葉、宣言とは真逆の思想、モーセの五書は廃れた、破棄されたという思想を、信仰の土台としているのです。
それらの教理、思想は、偽情報、聖書とは全く関係のない、ローマ
帝国が作った宗教、皇帝、教皇、司祭が作った教え、教理なのです。
聖書とは何の関係もない、神はそんな事を1度も人に教えていない。
神ではない人間が、全人類の民のトップ、頂点に立ち、神と同等の
権威があると宣言したのが、ユニバーサル教なのです。人間の宗教。
だから、1世紀聖書に記されているイエシュア、イエシュア信者達、ユダヤ人、使徒、パウロ達とは、全く似ても似つかない宗教の教え、記念日が現在に至る迄ずっと実践されているのです。
子羊イエシュアの贖いの血で、救い、許しがもたらされ、この事実を
信じる人は、無償で聖霊を受けて、神のものとされるという聖書に
記された真実、事実をクリスチャンも同意しています。
信仰義認は、モーセの五書にしるされている福音なのです。
アヴラハムを通して神が与えた「契約」なのです。
この点は聖書の事実でも、他の解説が聖書とはずれた、人間の編み
出した思想のオンパレードなのです。モーセの五書が廃れた、
その他、ユニバーサル教が編み出した教えと、置換神学、デイスペンセーション神学も、非聖書的異邦人が編み出した教えの産物です。
人間が編み出した聖書解説、聖書にない教理が、異邦人クリスチャンの間では語られ続けています。
それは、聖書とは違う、人間の作った宗教の教理、砂〜虚構、聖書に根拠のない仮説、空想を土台とした、人間の思想です。
神の教えを否定した土台に立っているから、聖書とはズレた聖書解説を次から次へ編み出し続けているのです。
しかもその思想は、ヘブライのトラーを知らない異邦人が編み出した西洋哲学思想であり、ヘブライ思索のヘブライ聖書とは全く異物、
1世紀のユダヤ人たちが聞いたら、何を言っているのか全然見えない、異物の思想なのです。
イエシュアの贖いの血、子羊は、この世の礎が造られる前から、屠られている、完了されている、永遠の中に既に完結している事実があるのです。永遠から、見る。永遠の中に完結している。
それが、「7」で表されて、6日の間で神が創造を物理的に完了して
地上に全ての創造物が完全な形で現れ出たことが記されています。
そして、神が7日目に止まられたのは、意図的な停止、創造の完了
完成の宣言です。神が疲れて疲弊したから休んだのではない、完了、完全なるものが現れ出て全て揃ったから、全ての創造物は、この日
神と共に止まり、祝うという日が聖別され、設けられたのです。
神は週の第7日目だけを、聖別し、祝福したのです。
そして、神が創造されたモアデイム〜シャバット、新月、祭りの日を
聖別したのです。神の宣言では日曜日は主日、聖日ではありません。
その日は、普通の日、労働日です。働く日。止まる日ではない。
神が創造されたことは、時〜モアデイム、アポントメントの日を含めて、人間は別ものに、変えることはできないのです。
こんなシンプルな事実が、聖書から読み取れないまま、人間の思想を
土台とし、人間の教えに照らし合わせて、神の言葉の方を捨てさり、神の言葉を削除、曲げ、歪めながら、聖書を読んでいるのです。
ある部分は聖書の事実でも、大部分がずれているのです。
歪んだ土台の上に立って考えているからです。
救い、恵、赦し、人の内側に住まう聖霊は、2000年前に初めて
可能になったのではないのです。最初から同じ。永遠から用意され
エデンの園から同じです。福音も1つ、救いの手段方法も1つ。
神の教え、契約も1つ。神も1つ。神の家族も1つ。
全て、神の性質どおり、エハッド=1つ以上で全く一体、1つである
事実を、ヘブライ思索のヘブライ語のトラーに記されているのです。
この事実から、ズレないで考えれば、何が聖書にない異邦人の西洋思想、西洋人造宗教教理が発想する、聖書の記述とはズレた思想、教えなのか、はっきり違い、間違いが見分けられます。
歴史の中で何が起きて、どうしてモーセの五書が廃れた!という事を
クリスチャン達が言い出したのか、その本当の原因を知って下さい。人間が神に反撃して、神の言葉を勝手に退けた歴史の史実を直視して考えないとならないのです。
そして、神は、昇天以降、人間の意見で、神の教え、言葉、記念日を
勝手に塗り替えたり、変更したり、却下、破棄して良い!などと
一度もそんな事など言っていません。
その逆を、警告しています。人間が神の言葉、教え、記念日を汚し
塗り替えること!これを厳重警告しているのに、人間が作った宗教の
教え、教理が1世紀のローマ帝国で国の勅令として法律で定められ、
それ以降、ローマ帝国皇帝が作った新興宗教、ユニバーサル教
モーセの五書破棄せよ!という思想を土台に作られた宗教は、
ローマ帝国の法律、勅令と一体化したものだったのです。
5世紀まで西ローマ帝国が存在しました。476年、西ローマ帝国が
同性愛、その他諸々の内部腐敗により崩壊しました。
東ローマ帝国は、1453年、15世紀まで続いたのです。
全て、ローマ皇帝〜教皇の手に宗教の教え、教理が法として定められ、人間が権限を握られ、ローマ帝国に住む全ての人、ローマ帝国の勅令、モーセの五書に記されたユダヤ的なこと、教え、祭り、シャバット一切実践してはならない!という、勅令を何度も何度も会議が開かれるために、繰り返し認定され続けた来たのです。
ローマ帝国法律が、宗教の教理と一体化して、ローマ宗教でも、
トラーを禁じる、イコール、それがローマ帝国の法律になり、
それがずっと継続され続けて行ったのです。
そして、神の教え=トラーを捨てるという教理に違反する人、
つまり聖書に記された教えや本物の記念日を実践する人、ローマ教、ローマ帝国の法律に慕わない人は、全て刑罰を受け、処刑された
長い長い歴史の史実があるのです。
ローマ帝国により、強制的に神の教えを捨てさせられたのです。
神が神の言葉を変えたのではない!という事実に、クリスチャンは
目が開かれないとならないのです。
人間が作った教え、教理を信じて、神の永遠普遍の言葉、教えの方をイエシュアを愛するといいながら、イエシュアご自身=教え=言葉を捨てる、拒絶する、嫌うという大矛盾を教えられ続けているのです。
クリスチャン〜西洋人は、西洋哲学思想で、聖書を考えます。
でも、聖書はヘブライ思索の、ヘブライ語で記された違うものなのです。
患難時代は、歴史の最後に起きると考えるのが、西洋思想歴史線上に
ものごとを眺めているのですが、聖書は、サイクル、巡り巡って
同じことが繰り返されていることを、警告、教えているのです。
イエシュアが地上にこられた1世紀のローマ帝国統治下のイスラエルもローマから残忍、残虐な事を受けた時代でした。1世紀ローマ帝国は、残虐な皇帝たちに統治され、腐敗した世界でした。エルサレムの街中、そこらじゅうに、木にかけられて処刑された人を日常見るような有様でした。
そのローマ帝国に雇われた王が時の、ヘロデ王であり、ユダ族である証拠のない合法的な王ではありませんでした。しかも、メシアを殺害しようとたくらんでいた人です。
そして、当時の大祭司カヤパ一族も腐敗していました。
ローマ帝国と結託して、神殿を強盗の巣〜商売の巣にし、不当な金額でコルバンを売り、祭りで外部からエルサレムに上って来る人に、
高額な為替手数料を取るなど悪事を働き、プール付きの豪邸に住ん
でいました。
だから、イエシュアは神殿が強盗の巣となっていると、怒りを表したのです。別物に変える。人間が全て神のものを別物に変え続けて
いるからです。
ローマ帝国が作った宗教は、モーセの五書〜神の教えを捨てて、塗り替えた新興宗教である事実を、聖書から、歴史の史実からはっきり
理解しないとなりません。
クリスチャンは聖書に書いていないこと、神が神のトラーを破棄した新しい教え、契約が昇天以降出現したと本気で信じ込んでいますが、そんなことは聖書には記されていません。福音書以降を読んで、
そこに書かれているのは、モーセの五書の本の短い抜粋の教えだと、理解していないのです。最初の部分を知らないからです。
神の言葉を破棄するようにしたのは、ローマ帝国、反メシアの教えなのです。1世紀当時、どれほどローマ帝国が腐敗し、そしてユダヤ人達を迫害し続けたのか、その歴史を知れば、真実が見えます。
搾取、支配、性的腐敗、同性愛、不品行、ローマの浴場でも分かる
通り、ローマ帝国は最終的に不品行、同性愛で自滅、自己崩壊して
行ったのです。
1世紀のローマ帝国は、残忍、患難は既に歴史の中で、ずっと繰り返し、繰り返し起きているのです。イエシュアが地上に居られた時代のローマ皇帝とは、どんなに残忍なことをした人達だっのか、歴史家たちの残した記録でも分かります。
皇帝カリギュラ(37 – 41年)が、モーセの五書を実践し、生きる人たちを、重税、70万円相当の金を支払うか、餓死刑を持って処罰しました。
クリスチャンは、神が神の教えを破棄したと、聖書に書いてもない事を神が言った教えであると信じていますが、神のトラー=教え=
モーセの五書を生きる事を禁じたのは人間であり、ローマ帝国なのです。全ては人間の仕業です。
皇帝ネロ( 54 – 68年)は残虐な皇帝でした。
この人は、暴君として名高い、有名人です。
多分、サイコパス?又は悪霊に取り憑かれた人でしょう。精神異常、性格異常と思われるような行動を、生涯し続けた人なのです。自分の母親を殺し、妻を殺し、平気で残忍なことをする人だったのです。
自分の宮殿の裏庭でパーテイを開く時、ランプの灯りではなく、
ユダヤ人にタールを塗って、人々を燃やして、人間ランプで庭を
照らし、宴会を楽しんだのです。これが、患難ではなくて何ですか?
このネロが、ペテロやパウロを逆さ吊りに貼り付けにして、処刑したのです。
ユダヤ人、異邦人イエシュア信者をコロシアムに連れて行き、縛り
付けて、ライオンや猛獣の餌食とし、襲わせ、それを楽しんで観覧するという、頭がおかしいというか、ハマスと同じ悪魔教的、悪魔に
乗り移られた人がやるような行為を普通にしていたのです。
そして、妻が亡くなった後、使用人の若い男の子と同性愛不品行を行う。ローマは不品行のるつぼでもあったのです。
大衆浴場、カラカラ浴場でも分かるように、裸のまま、男女が公に
交流する場があったのです。
黙示録20:4 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々が
すわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、
イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊が
そこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に
受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
ヨハナンが黙示録を書いた時代は、皇帝ドミティアヌスが統治していた51年−96年の時代です。70年代、神殿崩壊があった時代。
ヨハナンの警告は7つの群れ、この群れは、ユダヤ人が大衆の群れなのです。
ローマ帝国は、なぜユダヤ人に対して厳重警戒、迫害をし続けて来たのか、理解する必要があります。
1)ユダヤ人はローマ帝国、皇帝に屈服しない。
2)その理由は、ユダヤ人は唯一の神、イスラエルの神以外に、神のように崇め、仕えない人たちだからです。神ではない、皇帝を拝まない。反抗的な態度に思われたのです。異教の神々に仕えない、
拝まない、それがイスラエルの神を信じる人の生き方だからです。
イエシュアが地上に居られた時代も、ユダヤ人はこのローマ帝国の
軋轢、迫害、不当の支配から救い出してくださる救い主を求めていたのです。でも、最初の到来では、イエシュアは預言された通り、
仕える、悩める僕として来られたのです。
皇帝ドミティアヌスの父であるウェスパシアヌス皇帝は、ユダヤ人に対して法と力で、彼らのイスラエルの神への信仰、トラーに根付いて
生きる事を、断じて禁じ、阻止する事を、ローマ帝国皇帝の後継者である息子達教え続けたのです。そして、ローマ帝国の法で、モーセの五書を生きる事に対して、刑を執行し続けたのです。
それに、反乱を起こしたのがユダヤ人であり、110万のユダヤ人の処刑、9000人のユダヤ人がローマ帝国の奴隷となり、70年には、ローマ帝国が神殿を破壊し、ユダヤ人はエルサレムから追放され、世界へ離散して行ったのです。
それ以降も、ローマ帝国、帝国の法律と1つであるローマ教、ユニバーサル教の教理、これらの勅令は帝国の法で裁かれ、人々が偽物の教え生きて、神のトラーを生きる事を禁じて強制執行されて、それが
執行され続けて行ったのです。その法律は、モーセの五書を生きる事を禁じる事シャバット、祭り、割礼やその他、ユダヤ的なもの全て、ローマの異教徒、太陽神信仰の異邦人に取って異物の教えの全てを、法律により排除したのです。そして、神の教えに反する生き方をするように、法律で強制的にさせられたのです。人間がこのようなことを、やり続けて来て、今も同じように主張し、やっているのです。
この歴史の史実を、はっきり理解しないとなりません。
ユダヤ人に取って、イエシュア信者に取って、ローマ帝国の習わし、神々に迎合、同調することはイコール、イスラエルの神に対する姦淫の罪と理解している人たちだから、ローマ帝国に抵抗したのです。
トルコ周辺にいた「5つのユダヤ人の群れ」は、神のトラーに完全に忠実ではない人たちへの警告が黙示録の7つのカハール、エクレシアに対する警告なのです。5〜トラーに忠実ではない群れ。
2つ〜契約の板に記された、神のトラーに忠実な2つの群れ。
神の警告、姦淫の罪とは、このように異教の神々の教え、人間の教えに混じり、神の教えの方を捨てて、別物の教えを生きることなのです。
黙示録 9:20 これらの災害で殺されずに残った人々は、自分の手で
造ったものについて、悔い改めようとせず、また悪霊のたぐいや、金、銀、銅、石、木で造られ、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を礼拝して、やめようともしなかった。
9:21 また、彼らは、その犯した殺人や、まじないや、不品行や、
盗みを悔い改めようとしなかった。
ネロ皇帝による人間トーチ
皇帝ネロのコロシアムでのエンターテイメント
ユダヤ人 異邦人イエシュア
信者を猛獣に襲わせる
これが患難でなくて、何が患難なのでしょうか。
歴史の中で、繰り返し残虐、残忍、患難は繰り返されているのです。
歴史の最後だけではない。黙示録は、サイクル、繰り返し起きることが、記されているのです。