神が教えているイエシュアが祝われた春の祭り 過越 初穂 種無しパン シャヴオート | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

世界中で、今この時、過越、種無しパン(除酵祭)の7日間が祝われています。過越の祭りは、7日間、種無しパンを食べる祭りです。

その7日間の真ん中に、「初穂」があります。復活の命、新しい命、イエシュア=初穂に連なり大地から新しい小麦が成長する、呪われた大地は、イエシュアの血で贖われ、きよめられ、イエシュアに連なる人は、神の前に新しい穂として、捧げられるのです。

この穂〜小麦の穂を数える7週間が始まり、7週後が、シャヴオートの祭り婚姻契約をシナイ山で受け取った祭りに繋がるのです。

 

種無しパン、マッツアは、ハメッツ=パン種、要らないものが削ぎ落とされたことを表しているものです。

子羊の贖いの血により、新しくされている事実を教えているもので

あり、実際に種無しパンを食べること、そしてその前にパン種除去

掃除をして、自分の中にあるパン種が除去されていること、知らないうちに潜んでいるパン種が何かを、実際に行動して、実践して学習するように、神が考えた福音の学習プランでもあるのです。

神は本当に賢いお方なのです。そして、神が言われる通りに実践する人に、神はその人が知らなければならないことを、教えてくださるのです。これは、実際にやらなければ分からない事なのです。

やった人だけが分かることだからです。食べてみたことのない食べ物の味は分からないと、クリスチャンも例えて言うでしょう

全くその通りなのです。神の教えを捨てる場合には、神が何を教えているのかも、神の言葉を捨てる人には、手がかりを捨てているので

神が何を教えているのかも理解できないことが起きる、起きているのです。

そして、今されている過越の儀式のマッツアは、フォークでマッツアが刺し通されたものを使っています。

刺し通された、イエシュアを表すものです。家の中から、パン種、

イースト菌を除去し、この祭りを迎えたのです。これは、神の仰せです。神の知恵は人間の知恵を遥かに超えて、賢いレッスンプランを

与えています。実際に神のモアデイム〜記念日の全てを祝って、

イエシュアに連なる新しい人を教え続け、1年で巡る命のサイクルを生きる事は、神がデザインした時〜モアデイムなのです。

その中心が、「7」完全、完了、完結していることを教えているのです。過越の子羊は、既に永遠の中に屠られていることを、最初から

教えているのです。

世界中にいる多くの異邦人クリスチャンも、聖書にある本物、生粋の神が創造された、永遠に祝われるわたしの記念日と神が言われた

オリジナルの祭りに気がついて、この祭りを祝うことに戻っているのです。

イエシュアが言われた「過越の祭り」を覚えてとある、覚えてとは、思い出すだけではなく、その通りに、実際に祝うことをするという

意味なのです。ザハルという言葉です。

そのように神の記念日を「覚える」とは、実際に記憶していることを、実際に神が言われた日に、言われた通りに、実際に祝うこと!

それを神が、神の子らに命じているのです。

イエシュアの過越の再臨前に最後の過越の晩餐も、同じです。

覚えて〜とは、毎年過越の祭りを実際に祝う中で、イエシュアのされた意味、過越の子羊の血の意味、永遠の中に屠られて完了し用意され

全ての人が、どの時代もどの人種も、イエシュアの過越の子羊の贖いの血で、死が過越、神の命をいただいたことを、実際に祝って、皆で

思い出してと言われたのが、イエシュアの過越の晩餐での遺言なのです。

神が、ノアを「覚えていた」とある言葉も、それは行動を伴う、

実際に助けを与えて、憐れみと恵を持って実際に助け出すことであるのです。

神の名も、動詞であるように、神を信じて生きる世界は、思想ではない、全てはアクション、行動なのです。

神の名、過去に、今に、未来に永遠の中に存在すると、神が教えているそれが、神の名です。

過越の祭りそのものが、イエシュアそのものであり、イエシュアの

最初の到来を教えているものです。

創造の最初に、光あれ!とあります。これは、太陽、夜と昼が造られる前から、存在する光〜イエシュアご自身です。

イエシュアご自身の光が最初に出現して、この世界は造られた。

人の肉体を、通り過ぎる光、普通の光ではないのです。

だから、光の覆われた顔〜モーセが、山の山頂、天の中で、イエシュアと顔と顔を合わせた語った後、山から降りるとその顔が輝いて、

人が見てもモーセの顔が分からない、光だけに覆われているからです。そして、アダムとハヴァもこの光に体が覆われて、お互いが

この光の中に居たのでしょう。そして、神の性質からずれたら、この光に覆われていたものがとられて、肉の体が見えて、裸であることが見えてしまったのです。

そして、神が屠った子羊の毛皮〜義の衣を、罪を告白した、アダムと

ハヴァに着せた。最初から同じ福音がずっと語られているのです。

タナックに記されている、メシアを残りの民は信じて、聖霊を受け

罪許され、新しくされ、未来にイエシュアが来ることを待望していたのです。現代の人は、過去にイエシュアが来られた事実を見ているのです。でもその実態は同じなのです。永遠の中、この世の礎が造られる前から、屠られている子羊を、この世の礎が造られる前から、

選び出されている残りの民は、どの時点でも、同じ贖い、救い、赦し聖霊を受け取っている事実は全く同じなのです。

贖い、救いの方法も、同じです。全ての人はイエシュアを通してだけ、父の元に戻ることができる。それが、出エジプトの歴史の中で

起きた出来事でもはっきり教えられてるのです。

エデンの園の出来事も同じ。

イサクの代わりに与えられたコルバンの雄羊も同じ。

イエシュアの贖いの血の事実を教えているのです。神が代価を払い一とを贖い出している。神が用意して、贖い出す事実を、最初からずっと教えている。

最初から、イエシュアはずっと教えられた来たのです。

2000年前に、初めて、贖い、救いが完成したのではないことを

しっかり頭脳に置いて、聖書を読めば見えます。

アヴラハムも同じイエシュアを知って、神の教え、トラーを新しくされた人の実態で生きたことが記されているのです。

紀元前160年代のギリシャ帝国と同じく、1世紀のローマ帝国

ローマ皇帝の勅令、後に4世紀以降のローマ皇帝コンスタンチヌス

その後に続くローマ教皇、司祭たちが、ローマ帝国と一体化し、法律により、イエシュアが教えられたトラー=モーセの五書、婚姻契約に記されていることを、教えること、神の記念日を禁じることを、

処刑、死刑を持って強要されなければ。信教の自由を与えられていれば歴史のコースは大分違うものとなっていたでしょう。

でも、神はお見通しだったのです。契約を受け取ったイスラエルでさえ、神の教えの方を捨て、異教の神々の教えに同化、交わり、ズレて、神の教えを捨てた生き方になってしまったでしょう。

それが、約束の地から追放されることにつながる、捕囚の民となる

悲しい出来事は、全ての人に対しての警告なのです。

契約の民が、神の教えを捨てるなら、もともと異教徒、カナン人のような、異教の神々の教えにどっぷり浸かる、イスラエルの神の教えなど知らない異邦人など、簡単に偽物の、異教神の教えに交わり、そして、自分たちが勝手に編み出した教えや、神の言葉そのものを否定するような思想の宗教を編み出すのは、朝飯前のことだったのです。

 

神の言葉が何なのか?と言うことが分からない、神の言葉に対して

人間が手を加えてはならないと言う、基本中の基本の理解がない

トラーを知らない異邦人教父達、ローマ皇帝、教皇が作った宗教がそのような性質=神の言葉を否定して作られたものなのです。純粋な

神の教え、神の伝える言葉とは異なるものがふんだんに盛り込まれた、イズム〜混ざり物なのです。

そして、ローマ帝国皇帝が作ったモーセの五書を否定した思想を土台とした宗教が編み出され、それを法律を持って強制的に実践しなければならないという国の制度がなければ、今もシャバット、新月、

過越、仮庵の祭りを、異邦人も皆が祝い続けたことでしょう。

聖書に書かれていない、聖書と違う教えや、記念日を今実践している

本当の理由は、神の教え、記念日、オリジナルを異邦人は法律により処刑を持って禁じられたから、人間が作った宗教の教えに強制移行させられた結果なのです。ローマ帝国に住む人たちは、それに従わなくてはならなかったからです。

ローマ帝国以外に住む、ローマ帝国の支配の下にいない異邦人たちは、聖書とは違う教えや記念日を生きてはいなかった歴史の事実が

あるのです。

でも、西ローマ帝国が崩壊し、そして東ローマ帝国は1453年、オスマン帝国に滅ぼされるまで存続したのです。

人間の編み出した宗教の教えが蔓延した理由は、全て政治的理由なのです。政治的に、国の法律として、トラーを生きること、実践すること、神の祭りを祝うことを禁じ、ローマ帝国の編み出した宗教の教え、数々の非聖書的教理を編み出して、そして、日曜礼拝〜皇帝の日

太陽神の日、クリスマス、イースター、ハロウイン(万聖節)

バレンタインデーなど、異教の神々、女神の祭りを作り変えた記念日を、ユニバーサル教的な意味の後付けをして、人間が作った祭り、

人間が作って決めた記念日を祝うようになった、それが歴史の事実なのです。

だから、聖書にはない、預言者、イェシュア、使徒や1世紀当時の

人たちが生きていたトラーや、記念日とは異なることを今はやっているのです。イースターなんて名前、聖書にはないでしょう。

異教の女神、春分の満月の後に来る日曜日を、多産を祈願する異教の女神の祭りを、イエシュアの復活の意味づけをして、ローマ教が作りう変えてしまった祭りなのです。

異教の女神の名前が「復活祭」?復活の事実はありますが、

その事実は、イエシュアが来られる前から教えられ、それは「初穂」を祝う日、過越、種無しパンの7日間の真ん中の日に祝われるよう

神がオリジナルでデザインされた記念日があるのです。

神の教え、記念日を退け、異教神、女神の要素、シンボルが混じる

紛い物を祝うとは、神に対してどう言う意味なのか?聖書から考えるべきなのです。神の教えの方を退けて、人間の作り物、異教の神々の祭り、儀式、習わしを混ぜた物、伝統に固執する事こそが、ズレ、

罪そのものなのです。意味さえ通じればなんでも良いと考えるのは、異教徒上がりの思想だからです。

それがユニバーサル教が掲げた思想方法、スローガンだからです。

はじめの愛を忘れた人々〜神の教え、トラーを忘れて、違う教えに

乗り換えたから、オリジナルが何か分からない、聖書に書いてあっても、その意味が、分からないままになってしまっているのです。

でも、世界は、神の言葉、教えの真実に目覚めて、本物に戻る軌道

修正が始まっているのです。

以前は、クリスチャンが、シャバットを祝う、過越の祭りを祝う、

仮庵の祭りを祝うなどということなど、聞いたこともないし、その

ようなことを実践し祝うクリスチャンなど、一切周りで見かけたこともなかったでしょう。

聖書には、神のオリジナルの記念日を祝うことを命じられたこと、

そして人々は神のオリジナルの記念日を祝ったことしか、記されていません。

人間が聖書が閉じられた後、400年も後に作った人間の創作した

記念日のことは、聖書には1つも書かれていないし、聖書の中に記されている人の間では、そのような祭りや記念日は誰も知らない、

祝ってもいませんでした。

春の祭り、過越に関しての、永遠に変わらない神の教え、仰せが

記されています。

レビ記 23:4 その時々に、あなたがたが、ふれ示すべき主の定めの祭なる聖会は次のとおりである。

23:5 正月の十四日の夕は主の過越の祭である。

23:6 またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。

 23:7 その初めの日に聖会を開かなければならない。

どんな労働もしてはならない。

23:8 あなたがたは七日の間、主に火祭をささげなければならない。

第七日には(祭りの最後の日)、また聖会を開き、どのような労働もしてはならない』」。

出エジプト12:2-14, 18-19, 15, 13:3-10

申命記16:1−8

民数記9:2-7, 28:16-17

エゼキエル45:21,ヨシュア5:11、2列王記23:21-23

2歴代誌35:1-19, エズラ6:20−21

 

ルカ22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだで

ある。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

<イエシュアがされていたのは、イースターではなく、聖餐式でもなく、過越の祭りから始まる一連の祭りなのです。この中に復活〜

初穂の日が入っているのです。>

マタイ26:2ー19、マルコ14:12,ヨハネ2:13−23、6:4、
11:55,12:1,13:1, 18:28-39, 使徒12:4, 1コリント5:7-8, 11:20-28
 ヘブル11:28
春の祭りは、イエシュアの最初の到来を教える、預言的記念日です。
1)過越〜永遠の中に屠られた子羊の血の贖いの事実を、地上で証明されたこと。イエシュアを信じる全ての人は、エジプト脱出〜奴隷から、本物の神へ繋がれて戻ったことを教えていること。
2)初穂〜復活の命が与えられていること
3)過越の日から、7日間、新しくされた人の事実を、種無しパン
マッツアを食べて、パン種のない家の中で、頭脳にインプットし続ける
4)そして、過越から7回のシャバット、7週間、穂を数える週を
過ごして、シャヴオートの祭りを迎える
シャヴオートは、小麦の収穫を祝う収穫祭、神の婚姻契約をシナイ山で受け取ったことを祝う日です。
それが、春の祭りであり、これら全ては既に歴史の中で、実現し
証明された預言的祭りです。秋の祭りは、再臨の一連を表す祭り
未来に起きる「再臨」を教える預言的祭りなのです。
春の祭りは最初の到来で、秋はイエシュアの再臨を教えるものです。
そして、春から、秋の間にあるのは、この世の旅路を、新しくされた
人で生きることを教える、荒野の旅とぴったり一致するのです。
約束の地を目指して、新しくされた人として、神から聞いて生きることを学んで生きる、生涯の旅路です。
神は神のモアデイムを通して、イエシュアを通して与えられた人の
実態を、学習し成長するレッスンを与えているのです。
 
マッツア 種無しパン。よく見るとフォークで刺した後が見えます。右は、3つの層に分かれているペサフで使うカバーで、その中に3つのマッツアを入れ、真ん中のマッツアを砕いて、隠し、子供達に探させるゲームがあるのです。これは、砕かれたイエシュアを表す事を、世界に散ったユダヤ人メシア信者、当時はパリサイ派のイエシュア
信者が大部分であったので、パリサイ派のメシア信者により、
イエシュアがされたように、砕かれたマッツアの儀式を通して、
イエシュアの砕かれた体、そして、天に再臨の事実を、過越の晩餐の儀式に取り入れて、後世、子供達にイエシュアを教えたのでしょう。
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