ただの愚痴です。

 

 

マスコミが「安楽死」の問題を取り上げる際の典型的な記事があったので、その間違いと問題点をいくつか列挙してみる。

 

現代ビジネスで 8/26(水) に配信された、斎藤 環(精神科医)氏の寄稿がそれである。

 

そもそも、マスコミはあたかも自分たちは公正な第三者であるかのように、自分たちの代弁者だけを取り上げて巧妙に世論を煽り、発言内容をろくに確認もせずに、責任は代弁者に取らせる。

卑劣極まりない。

 

その内容を見て行こう。(掲載記事の間違いや問題点はイタリック表示、私の指摘は⇒以降)

 

(1) 植松聖死刑囚やヒットラーのユダヤ人虐殺を、林優里さんの安楽死の引き合いに出すこと。

 

⇒ マスコミ報道の典型例でもあるが、決定的な間違いが2つ

 

1. 本人の意志の有無

 

林優里さんは「死」を望んでいた。

一方、「相模原障害者施設殺傷事件」で犠牲になった障害者も、ヒットラーの思想のもとに殺されたユダヤ人達も、「死」を望んで居たという話は聞いたことがない。

 

「死」を望んでいない人を殺すのは殺人。

斎藤環氏もマスコミも、殺人と安楽死の違いすら分かっていない

 

2. 被害者の置かれた状況

 

植松聖死刑囚やヒットラーに殺された人達は、不治の病に冒されていたわけでもなければ、死期が迫っていたわけでもない

「安楽死」の議論は、そう言う状況に追い込まれた人達の話であり、健康な若者の自殺幇助の是非を議論するものではないことが分かっていない。

 

子供でもこんな嘘には騙されない。

この一事を持ってしても、マスコミの流す情報が如何に適当かがよく分かる。

 

(2)『医療が第一になすべきことは、延命治療の継続の説得であり、背景にあるかもしれないうつ状態や希死念慮の治療だ』

 

⇒ 間違ってはいけない。

医療が第一になすべきことは、根本の病気を治療して患者を快復させることである。

 

あたかも自分なら『延命治療継続の説得』や『うつ状態や希死念慮の治療』が出来ると言わんばかりだが、その難しさを理解しているのか?

今までどんな患者を診てきたのか?

これらが出来なかった患者は居なかったのか?

単に努力をすれば良いという程度の考えで言っているのだとすると、その努力が実を結ばなかった患者はどうするのか?

林優里さんは、具体的にどんな方法で救えたのか?

 

聞きたいことは色々有るが、7割が呼吸器という延命措置を望まないALS患者を含む神経難病患者に関して、日本にこれを成し遂げる能力を持つ医師が居るのだろうか?

 

仮にそんな医師がいたとしても、特殊な能力を持つ者にしか出来ないことを、一般論に置き換えるのは無理がある。

恐らく、緩和ケアの領域の話をしているのだろうと思うが、神経難病の林優里さんは緩和ケアを受けられない現状をどう捉えているのだろうか?

 

(3)『生活保護の水際作戦、入国管理センターにおける不法残留外国人の長期収容や処遇の問題、わが精神医療における収容主義と身体拘束の濫用ぶり』や『気軽な罵倒語として「死ね」という言葉がこれほど日常的に飛び交う(日本という)国は珍しい』、などを理由に『日本という国では、安楽死のような「高級品」は百年早い』と結論づけている。

 

⇒ 支離滅裂。これらがどう「安楽死」と関係するのか理解不能だ。

『「死ね」という言葉がこれほど日常的に飛び交う』国は、殺人者だらけとでも言うつもりなのか。

もし、本気でそう思っているなら、精神科医としてやるべきことは「安楽死」の議論を潰すことではなく、『「死ね」という言葉がこれほど日常的に飛び交う』こと、そして『精神医療における収容主義と身体拘束の濫用ぶり』を放置する国を何とかすることだろう。

日頃溜め込んだ鬱憤を「安楽死」問題にかこつけて晴らしているだけとしか思えない。

 

(4)『生存に手厚いサポートを必要とする患者や障がい者の多くが、「なぜ安楽死を選ばないのか」という周囲からの暗黙の圧力にさらされる怖れ』

 

⇒ これが、「安楽死」の議論否定派の表向きの心配なのだろうが、本当にこれが心配なのなら、障害者を「安楽死」の対象としないとか、『周囲からの暗黙の圧力がかからない』ための然るべき条件付けをすれば良い話で、「安楽死」の議論をしない理由にはならない。

そのための議論なのだ。

 

 

この医師の主張は、幼子が理由もなくイヤイヤをしているようにしか聞こえない。

もしくは、安易なマスコミが掲載してくれることだけを目的として、無理やりこじつけの文章を作ったのか。

 

これ以上書くと、あたかも私が日頃の鬱憤を晴らしているだけ、と取られかねないので、ここいらで終わりにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

Part 4で終わるつもりだったのだが、偶然、下の記事、と言うかその記事についたコメントを目にしてしまったので、書かざるを得なくなった。

 

『ALS患者が「命の選択迫られる課題」…嘱託殺人事件で心痛めたALSと生きる元FC岐阜社長の「第3の選択肢」』

 

FNN プライムオンライン 8/23(日) 18:01配信

https://news.yahoo.co.jp/articles/aba3be875aeb32221335d43030131827b263e433

 

と言う記事がYahooニュースで配信されていた。

Yahooニュースには、記事に対してコメントが付けられるようになっている。

 

記事自体は、ALS患者のサッカーFC岐阜元社長・恩田聖敬氏のインタビュー記事で、

 

『本件の患者様の生き地獄から解放されたいという思いは心底わかります。しかしながら、生き地獄から解放される手段が「死」しかなかったのか?命を保ちながら彼女の心のケアをする選択肢はなかったのか?そう考えると無念でなりません』

 

と、ありきたり、人畜無害、無味無臭、新鮮味の欠片も無い、マスコミ迎合型の典型的な内容。

 

一方、私が見た時点で166件に上るコメントはほぼ全てが、この記事や恩田聖敬氏に対する批判。

ざっと見た限り全員が「安楽死」自体や、少なくとも議論をすることへの肯定派。

全員と言うことは、即ち同調圧力によって反対意見を投稿し辛い環境、ということが想像に難くないが、同調圧力は通常、多数派の意見に対する同調だから、少なくとも現時点においてこのコメント欄ではこの意見が多数派だという証拠。

しかも、それぞれのコメントは至極真っ当なものばかりだった。

 

少々旧いが、2010年に朝日新聞が行った世論調査(2010年11月4日朝刊)の結果は、下のグラフの通り(「安楽死の法制化賛成」が74%、「自分が安楽死を選ぶ」が70%)であったから、この傾向は今も変わっていないということが証明された。

 

 

看護学生&若手看護師向けの女性メディアである「看護roo!」のアンケートでは、実に1,306人中1,212人(92%)が安楽死に賛成している。

実際に患者を看ている現役の看護師の声はずっしりと重い!

 

ついでに、昭和大学で生物学を学んでいる学生を対象(一部は医学部生)に、「安楽死」、「尊厳死」に対する意識調査の結果も興味深いので、紹介しておく。

 

 

更に、第一生命が40~69歳の男女900名にアンケートを取った、「終末医療に関する意識調査」も興味深いので紹介しておく。

 

 

77%の人が、「多少は死期が早まっても、苦痛など不快症状を和らげることに重点を置いて欲しい」か「苦痛から開放されるために、生命を短縮させて欲しい」と望んでいるのに対して、「出来る限りの手を尽くして、少しでも長生きしたい」と望む人は僅かに10.2%だ。

これが、神経難病患者を対象としたアンケートだったら、どう言う結果になっていただろう。

 

 

話をもとに戻す。

 

前出の記事に対するコメントの主旨は大方、

 

「考え方はそれぞれなのだから、自分の考え方を押し付けるな」

「本人の選択を尊重しろ」

「選択肢を増やせ」

「マスコミが生きることを肯定する記事ばかり流すのはおかしい」

 

に集約されると思う。

 

 

ほんの一部のコメントを抜粋すると、

 

『頑張って生きるのもいい。でもそうじゃない人もいるってこと。』

 

『何が耐え難いのか当人にしか分からないしそれを否定出来る人はいないと思います

「生き地獄を越えて生きる」
あなたはそうすればいいけど他人にそうしろと押し付けるのはよくないですよ
人それぞれ』

 

『頑張って生きたいと言う人も居れば、もう死にたいと言う人も居るのは事実で、この相入れない双方の方達を救済が出来るのは、「安楽死を決めるのは、飽くまでも本人自身で有るとの事を、明確化にした上で、国が法的に安楽死を認めれば良い」、だと思います。』

 

『自由意思に基づいた安楽死の選択は、何人にも否定されるべきものではない。』

 

『まるで安楽死を望んだ人を責めているように感じる
安楽死を選ぶ事は罪なんだろうか
この人の言う「第三の選択肢」
それを押しつけられたところで誤魔化される人がどれだけいるんだろう』

 

『「自分の命をどうするか」という話に何故か他人の意思の話が介入してきて厄介だなと感じる。亡くなった女性が死にたいと望んだ事も、この記事の人が生きたい(死ぬのが怖い、死を考えた事がない)というのも全て個人差』

 

『この病を患った身内を看取った者として、生き地獄を目の当たりにしたと思ってます。
生きる希望?どう見出だせと言うのか?本当に酷です。本人の希望で延命処置はしませんでした。生きてさえくれればと思う家族の勝手なワガママは心にしまい、本人の意思を尊重しました。』

 

『みんなにお別れの言葉をもらい、自分で納得し、心穏やかに苦しまず寝るように死ぬ
それを望んではいけないことなのだろうか』

 

『死を選んだ人を題材にして俺は生きて頑張ってるから俺のほうが偉い、安楽死とか間違ってる!と、自信満々に語ってるだけの上から見下しおじさんでした。
ALS患者でも別々の個人なので、自分の考えが全て的な思考はよくない。』


『本人が最後まで悩んで、苦悩して出した答えなら例えどの様な選択でも、他人が否定する事は出来ないのではないでしょうか?
ましてや命の選択なんて他人から迫られる事では無いんです、どんな選択も最後は自分で選ぶ事が出来るよう周りが理解して助ける事が大切だと思います。』

 

『自分で、もうここまでって思ったときに自分でクローズできればいいが、そうでない状態になっていたとき、他の人を罪に巻き込みたくない

何が何でも生きろとは無責任には言えない』

 

『マスコミが連れてくる人はなぜ反対の人ばかりなのだろうか。
そもそも賛成の人は出たがらないのか、あえて取材しないのか、、』

 

『言論を歪めてまで、議論を封殺したいのはなぜなのか。』

 

『1部の反対する人たちによって、国民の7〜8割の人が望んでいる「穏やかで安らかな死」を選ぶ権利が奪われ続けている事にみんな気づき始めていて、怒りすら感じ始めている。
こういう記事を出せば出すほど、「生」の押し付けにうんざりし、反発心を招き、死にたいと思っている人達が、ますます声を出しづらくなり、似たような事件が起こって逆効果だと思う。』

 

『メディアはひどいですね。生きる希望を持ちこれからも戦う人、早く痛みや色々な辛さから開放されたい人、人それぞれだと思います。どんなに辛くても生きろ、私はそんな無責任なことは言えません。』

 

『メディアはひどいですね。生きる希望を持ちこれからも戦う人、早く痛みや色々な辛さから開放されたい人、人それぞれだと思います。どんなに辛くても生きろ、私はそんな無責任なことは言えません。』

 

切り(限り)が無いので、興味があれば前出の記事の下部にあるコメントに目を通して欲しい。

 

 

政府やメディアは、この声をいつまで無視し続けるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Part 3からの続き

 

「尊厳死」の定義について、ここまでは混乱を避けるために日本尊厳死協会のそれに甘んじてきたが、この定義にはかねてより違和感がある。

 

『充分な緩和ケアを施されて』などと、どうにでも取れる言い方もさることながら、ふたさんが、https://ameblo.jp/ookawas/entry-12618984226.html で指摘されている通り、「尊厳死」=「延命治療拒否」、逆に言うと「延命治療受入」=「尊厳の喪失」かのような捉えられ方をされかねないからである。


『治療法の選択一つで、尊厳が左右されるものではない、あらゆる選択はその人にとって尊厳を守る行動であるはず』

ふたさんの仰る通りだ。

 

個人的には、定義をもっと適したものに変えるべきだと思っている。散々考えたが適当な言葉が浮かばないので、ここではCategory別けをするに留める。

 

Category 1:

幇助された自殺による死

 

Category 2:

患者本人の意思によって延命治療を選択しない自然死、及び、装着済みの延命装置の撤去による死。

緩和ケアの一環として、苦痛緩和の薬剤使用も可能とする。

 

Category 3:

患者の希望を尊重することを条件とした、積極的安楽死(自然の死期に先だって直接短縮)、と間接的安楽死(苦痛緩和の薬剤使用で死期を早める)を複合させた形。

 

 

私は、上記のCategory 1は論外として、Category 2とCategory 3は、勿論推奨するわけではないが、厳しい条件をつけた上で認めることで、神経難病患者により多くの選択肢を与えるべきであると考える。(条件については後段参照)

 

 

「安楽死」について、1991年4月の「東海大安楽死事件」に際して、意図的に死を早める「積極的安楽死」が許容される要件として、横浜地裁が示した以下の判例はよく知られている。

https://square.umin.ac.jp/endoflife/shiryo/pdf/shiryo03/04/312.pdf

 

とは言っても、これは法律でもなければ最高裁判決でもないので、いつ覆ってもおかしくないことが前提となる。

 

1.患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること

2.患者の死が避けられず、その死期が迫っていること
3.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、ほかに代替手段がないこと
4.生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

 

多くの方々が、過去に様々な角度からコメントしているので細かくは触れないが、これは多分に神経難病以外の患者を念頭に置いたものなので、神経難病患者に適用する際に問題となり得る点を挙げてみた。

 

① 「肉体的苦痛」には言及しているが、「精神的苦痛」が判決文中で明白に除外されていること。

 

⇒ Part 3で述べた通り、『神経難病特有の肉体的苦痛は知られていない』上に、身体機能を日に日に削られていき、最終的には体のどの部位も他人に動かしてもらわなければ動かせなくなるという、神経難病特有の「精神的苦痛」や「精神的恐怖感」が含まれていない。

 

② 「肉体的苦痛」に対しても、「耐えがたい」や「除去・緩和するために方法を尽くし、ほかに代替手段がないこと」と言う極めて恣意性の高い条件がついていること。

 

⇒ Part 3で述べた通り、『除去・緩和するために方法を尽くす』ための、緩和ケアの対象に神経難病が含まれていないと思われるので、明白に含める。

⇒ 誰が、どう言う状況証拠を持ってこれらを証明することが求められるのか、を明らかにする。曖昧な恣意性を排除し、実現可能な手続きにしなければ意味が無い。

⇒ 主治医の主観のみによって患者の生死が決められてしまうことは避けなければならない。

 

③ 「死期が迫っていること」と書かれているが、余命判断の不確実性をどう考えるのか?

 

⇒ これもPart 3で述べた通り、神経難病の場合は余命予測が難しい。神経難病の場合は、「治療方法が無く、死が避けられない」だけで十分。

 

 

これらを考え合わせた上で、冒頭の勝手な定義(Category別け)に基づく私の提案は、以下の通りである。

 

1. Category 1

単なる自殺の幇助は、明白な罪である。

 

2. Category 2

「人工呼吸器装着の有無」と言う選択肢は、神経難病患者にも既に与えられている様に思われるが、これ以外の延命治療に当たる処方に対する選択権、それによって生じる苦痛の除去、及び「装着済みの延命装置の撤去」については、Part 3で述べた通りハードルが高い。

これらのハードルを明白に取り除く必要がある。

 

3. Category 3

上記①~③の問題点をクリアーした上で、認めるべき。

 

 

上記2.と3.については、以下が大前提。

 

ア) その時点で治療方法のない神経難病であること。

 

イ) 医師が、代替治療の有無や内容、治療中止後の余命などを患者本人とその家族にきちんと説明する、所謂インフォームド・コンセントの義務を遂行し、理解したことを書面に残すこと。

1998年の『川崎協同病院事件』と同じ轍を踏まないように)

 

ウ) 患者本人の書面による明確な意思表示(口述筆記や視線入力などの場合は、医師を含む複数の立ち会いと、立会人の署名入り議事録を残す)があること。

 

エ) 患者の意思は常に揺れ動くことが十分に考えられるため、イ)の意思の撤回については医師を含む家族等、複数の立会人による、患者本人の意思の確認で足りるものとすること。

 

オ) エ)の後、再度患者本人が、イ)の意思表示をすることも可能とすること。

 

カ) 明らかな認知症状が認められる場合はこの限りではない。

 

 

まとめとして、神経難病患者が希望に従って「緩和ケア」を受けられるように制度を明確にし、神経難病患者も終末期医療のガイドライン(Category 2 が含まれる)に従って選択ができることによって、患者は十分に考える時間を与えられるとともに、その途中、もしくはその先に、Category 3 の選択肢を残すことが、最善の方法ではないかと思う。

 

 

様々なご意見は有ろうかと思うが、あくまでこれは一個人の私見であることをお断りしておく。

 

神経難病患者が、林優里さんや小島ミナさんの様な、苦渋の決断はしなくても良い法律や制度になって欲しい、と心から祈ると共に、決してお二人の死を無駄にしてはならない、と思う。

 

 

”京都 ALS 安楽死” シリーズ =完=

 

 

 

 

 

 

この記事は、8月10日にアメンバー限定記事として投稿したものに、若干の加筆修正を加えて公開するものです。

 

 

昨年11月、京都市在住の林優里さん(アメブロのプロフィール名は「タンゴレオ」さん)が、安楽死を依頼して亡くなった事件。

 

もはや忘れ去られた感もあるが、最近のマスコミの論調(最近は殆ど報じられないので、旧い記事の抜粋)は、

 

『もはや安楽死論議以前の「トンデモ殺人」

・二人は主治医でもなく初対面

・たった10分で「任務完了」』

(デイリー新潮/2020年8月1日6時1分配信)
 

『京都ALS安楽死事件、”優生思想”医師は実刑となるか?』
(デイリー新潮/2020年7月24日掲載)

 

『京都府警は、「安楽死とは考えていない。安楽死か否かを問題にする事案ではない」と強調』

(産経ニュース/2020年7月24日1時4分配信)

 

などの見出しの通り、相模原障害者無差別殺傷事件の植松聖死刑囚と同列の”優生思想サイコパス事件”扱いとなっており、安楽死もしくは尊厳死を議論する風潮にはない。

 

とても残念なことである。

本件が、「嘱託殺人」として法に問われるかどうかはともかく、一連の報道の中で強烈な違和感を抱くのは、「週刊新潮」2020年8月6日号に掲載された、日本ALS協会の会長で、患者でもある嶋守恵之氏の以下発言に象徴される論調である。

 

『難病患者の死ぬ権利についての議論には不安を覚えます。生きるための励ましや社会支援がおろそかにならないか心配だからです。難病患者でも生きられる環境を整えることが大切だと思います』

 

死ぬ権利が議論されることと、『生きるための励ましや社会支援がおろそかになる』こと、の関連付けが私には全く理解できない。

 

また、あたかも『難病患者でも生きられる環境が整っていないことと、励ましが足りないことだけが原因で死を望むのだ』と言っているように聞こえる。

 

ALS患者で初の国会議員となった舩後靖彦参院議員の以下発言も同様に聞こえる。

 

『報道を受け、インターネット上などで、「自分だったら同じように考える」「安楽死を法的に認めてほしい」「苦しみながら生かされるのは本当につらいと思う」というような反応が出ていますが、人工呼吸器をつけ、ALSという進行性難病とともに生きている当事者の立場から、強い懸念を抱いております。』

 

『「死ぬ権利」よりも、「生きる権利」を守る社会にしていくことが、何よりも大切です。』

 

国民からの得票で国会議員になり、ALSでも強く生きていることを体現しなければならない立場上、「まだ死にたいと思っている」などと言えないのは勿論のこと、安楽死の議論の肯定発言など論外というのは分かる。(舩後議員は、同時に『私も、ALSを宣告された当初は、できないことがだんだんと増えていき、全介助で生きるということがどうしても受け入れられず、「死にたい、死にたい」と2年もの間、思っていました。』と発言している)

 

日本ALS協会の会長も同様に、ALS患者に希望を与えなければならない立場なので、安易に「安楽死問題」を取り上げるべきなどと言う発言は、間違ってもできないのも理解は出来る。

 

が、患者代表のような二人がこういう発言をすることで、神経難病患者が皆こう思っていると誤解されるのは困る。

 

確かに環境が整っていないから死にたいと言うケースも有るかも知れないが、それだけが問題の本質だろうか?

難病患者は、『(単なる生物として)生きる環境が整っていて、励ましを受けられさえすれば』、死を望むことは無いのか?

 

問題を抽象的な社会システムの議論にすり替えているだけで、想像し、考えることを放棄している様にしか聞こえない。

その証左が、『難病患者でも生きられる環境を整えること』とは、何をどうすることなのか、具体的な方策が一切語られていないことだ。

 

 

一昨年スイスで安楽死された小島ミナさん(アメブロのプロフィール名は「紺美」さん)は、お姉様方とそのご主人、そして医療機関によって十分なケアを受けていた。勿論、励ましも各方面から受けていた。

ご家族の負担をこれ以上増やしたくないという思いもあったかも知れないが、将来的には林優里さんのケースの様に24時間、外部のケアを受けてご家族に負担を掛けない方法は有ったであろう。

 

お二人とも『生きる環境が整っていたし、十分に励まされてもいた』。

それでも尊厳死を切望されていた。

何故なのか?

そこを議論して欲しいのだ。

 

 

日本のALS患者の7割が人工呼吸器の装着を望まない(他国ではもっと割合が高い)、と言う事実は何を物語るのだろうか?

前出の彼らは、具体性も無い『生きる環境が整っていて、励ましを受けられさえする』ことで、この比率が大幅に減少するのだろうか?

 

林優里さんのこんな悲痛な叫びを聞いても?

 

『普通にしてるのに眉間にしわの辛そうな(鏡に映る自分の)顔。唾液が垂れないようにペーパーと持続吸引のカテーテルもくわえ、操り人形のように介助者に動かされる手足。惨めだ。こんな姿で生きたくないよ。』

 

『自分では何ひとつ自分のこともできず、私はいったい何をもって自分という人間の個を守っているんだろう?』

 

 

そして、小島ミナさんとお姉様方の、以下のような思いを耳にしても?

 

『私の人生振り返り、思い残すことはない。ただ、いずれ寝たきりになり、世話をしてもらっても、ありがとうも、ごめんねも言えなくなる私は、何の為に生きるのか?』

 

『思うに死を迎えるのに大概は ある程度の期間を要します。
その期間とはおおよそアンハッピーな時間ではないでしょうか。
他の病気について、ほとんど知識もありませんから、比較はできません、が、この病気に関してはアンハッピーな期間が長すぎます。
それを「命には別状がない」として、安易に振り分けてもいいのでしょうか。
苦しくても、命があれば いいのでしょうか。』

 

『初めて告知されてときから約3年が経ちました。

3年間、1日も欠かさず、毎日毎日、どうやって死のうか死ぬことばかり考え、疲れました。』

 

『妹がこれ以上、体の痛みもそうですが、心まで壊れていくのを見ていられませんでした。「安楽死は自分に残された最後の希望の光」だと、切実に訴える妹。辛さ、切なさ、悲しみ、そして体の痛みや、心の痛みは、想像を絶する事だったでしょう。』

 

小島ミナさんは、『私が我が運命の支配者、私が我が魂の指揮者』の信念の元、3回の自殺未遂を経て、やっとスイスにまで行って希望を叶えることが出来たのだ。

 

 

Part 2に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事は、8月11日にアメンバー限定記事として投稿したものに、若干の加筆修正を加えて公開するものです。

 

 

Part 1からの続き

 

林優里さんの死も、小島ミナさんの死も、私は「安楽死」とは呼びたくない。

「安楽死」という表現は、「易にをしてぬ」と捉えられかねないからだ。

お二人の死は、決して「安易」などではなく、悩みに悩んだ末に、お二人それぞれの生きざまから生じた「尊厳」を守るために、死を選ばざるを得なかったのだと思う。

これは紛れもなく「尊厳死」と称して良いものである。

いや、これらを「尊厳死」と呼ばずして何が「尊厳死」だろうか。

 

しかしながら、日本尊厳死協会の定義、即ち、『延命治療を差し控え、充分な緩和ケアを施されて自然に迎える死を「尊厳死」』、『「安楽死」は積極的に生を絶つ行為の結果としての死』、が一般的にはまかり通っており、誤解や混乱を招く恐れがあるために、この投稿においては心外ながらこの定義を元に話を進める。

 

但し、「充分な緩和ケアを施されて」と言う、恣意性を含んだ曖昧な部分は定義には含めない。

 

 

ここに、「ALS患者の心理 -人工呼吸器装着の意思決定-」と言う大変興味深い論文が有る。

 


http://www.kamagaya-hp.jp/center/kc_mind/ronbun/60_10637-643.pdf

 

これは、ALS患者19名(内、人工呼吸器(以下「呼吸器」)をつけている、もしくはつける意思表示をしている患者が6名。)に、呼吸器装着の意思決定要因とその心理的背景などについて、2002年7月から2006年2月に渡って面接形式の聞き取り調査を行ったものである。

 

呼吸器をつけるかどうかは、前出の定義で言うところの「尊厳死」を選択するかどうかである。

 

興味深いのは、呼吸器をつける判断に至った最多の理由が、「死・苦痛への恐怖」であったことだ。

「死に至るまでの呼吸苦が怖いから呼吸器をつける」と言うことだ。

中には「苦痛は怖いが死は怖くない」とハッキリ言う人も居たようだ。

何らかの方法によって苦痛が取り除かれれば、呼吸器はつけなくても良いということになる。

 

「死生観」に関して、「生きることが前提」と考えている人は、迷うことなくつける判断をする。

人間は、何十億年も生存し続けている生物の中の、現在まで生き抜いている数少ない種の一つなのだから、どんな手段を講じても生きること、そして命をつなぐこと、が当たり前と考えるDNAが脈々と受け継がれていることは理解できる。

 

一方、「自然な呼吸停止=死」と考えている人はつけない。

「死」を「息を引き取る」こと、自然かつ運命的なものと考え、それを人工的に引き延ばす行為に抵抗を感じる人達だ。

 

人工的に呼吸を続けることを、どう捉えるかの違いだろう。

 

つけていない人や、既につけた人の何人かは、呼吸器をつけて生きることを、「生かされた状態」と認識している。

「生かされた状態」を「(自らの意思で)生きている状態」と考えるかどうかもその人次第。

 

「自己イメージ」と分類されたカテゴリーでは、自分がこうでありたい(あるべき)と思っている姿と、次々と身体能力を奪われていく現実の自分、更に呼吸器に生かされた自分の姿との乖離、が問題とされている。

 

自分の理想像とも言える罹患前の、そしてそれを超える可能性もあった「自己イメージ」を、出来ることが限りなく限定された現実の自分に、そして更に病気が進行して、意思表示も出来ず、手足を動かすことも、栄養摂取・排泄処理・呼吸管理までもを他人に頼らなければならない将来の自分の姿に、アジャストするのは簡単ではない。

言い方を変えると、自分が思ったような自分でなくなっている現実、更に思ったような自分自身のイメージが日に日に、そして確実に乖離していくことを受け止められるかどうか、と言うことだ。

 

人によっては受け入れ難いものだろう。

特にある程度社会でそれなりのことをやっていた自負のある人達にとっては。

恐らく、小島ミナさんや林優里さんはこのギャップに悩まれて、最終的に受け入れられなかったものと推察する。

 

 

この分析には含まれていないが、データから見ると呼吸器を装着しないと結論づけた人は、発症から判断までが短期間の(急速に病気が進行したと思われる)人が多いのに対して、発症から判断までの期間が長い(比較的進行が穏やかと思われる)人は呼吸器の装着率が高いことが見て取れる。

 

比較的進行が穏やかと思われる人は、時間的猶予が有ったために、「自己イメージ」をある程度現実の自分にアジャストし易かったこと、がその理由ではないかと邪推する。

加えて、呼吸器の装着後もある程度は病気の進行に煩わされず、これまでと同様に生きられるかも知れないことと、その間に特効薬が開発されるかも知れないことを、期待し得えたからではないかとも思われる。

 

 

神経難病患者は、進行速度の差はあれ日々確実に身体能力が失われていく。快復はおろか改善の希望も皆無(少なくとも現段階では)。

その状態でいつ終わるともしれない「生」。

それが「尊厳のある生」と言えるのだろうか?

 

皆さんは、Part 1で取り上げた「難病患者でも生きられる環境を整えること」や「生きるための励まし」が、状況を変えることになると思われるだろうか?

 

Part 3に続く。

 

 

 

 

 

 

 

この記事は、8月14日にアメンバー限定記事として投稿したものに、若干の加筆修正を加えて公開するものです。

 

 

Part 2からの続き

 

Part 2で紹介した「自己イメージ」

言い方を変えるなら、「自分の人生かくあるべし」と言う強い思い。

それこそが「尊厳」と言っても過言ではないと思う。

本来は、それを守るための「死」こそ「尊厳死」と呼ぶべきものだと思うが、混乱を避けるため、ここ以外では引き続きPart 2で紹介した、日本尊厳死協会の定義を使うこととする。

 

小島ミナさんや林優里さんは、それぞれが抱いていたであろう「自己イメージ」(即ち彼女らそれぞれの尊厳)と、現実もしくは将来の自分の姿とのギャップに耐えられなかったのだと思う。

 

神経難病患者に合法的な「尊厳死」の選択肢があるのかどうかは後段に譲るが、何れにしても「尊厳死」のタイミングではそのギャップが開きすぎてしまうとか、スイスまで行く身体能力の限界を考えてとか、尊厳死に至るまでに予想される苦しみを避けたいとか、色々な事情が想像はできる。

それぞれの事情で「安楽死」の道を選ばれたのであろう。

 

念の為に確認しておくと、私は無条件に安楽死を肯定するものでもなければ、神経難病患者がより良く生きていくための議論を妨げようとするものでもない。

また、各自の「自己イメージ」は人それぞれであり、「自分の人生かくあるべし」などと、考えたこともない人も居るだろうことも理解している。

 

そして、「自己イメージ」が時間の経過とともに変わっていくものでもあることも。

Part 2で、『発症から判断までの期間が長い(比較的進行が穏やかと思われる)人は呼吸器の装着率が高いこと』に関して、『比較的進行が穏やかと思われる人は、時間的猶予が有ったために、「自己イメージ」をある程度現実の自分にアジャストし易かったこと、がその理由ではないか』と推測した。

 

私事を申し上げるなら、最初の検査入院で「進行性の神経難病で治療方法は無い」、と宣言されてから10年も経った今になって、漸く”今日をゼロにリセット”することに気付き、”楽しんだ者勝ち”の”新境地”に至っている。

これには時間がかかったし、だからと言って尊厳を捨てたわけでもない。

「自己イメージ」のハードルを、ほんの少し下げただけだ。

 

 

話をもとに戻す。

 

私がこれまでに知り得た情報が正しいと仮定すれば、少なくとも小島ミナさんと林優里さんは、それぞれの気高き尊厳を守ると言う確固たる信念のもとに安楽死を選ばれたのであり、その死に関わった人達が罪に問われる様な法制度であってはならないと信じている。

そして、彼女らのケースが全く問題にならないようにする為には、神経難病患者の選択肢を広げる為の適切な法整備が必要だと考えている。

 

林優里さんの件では、幇助者が主治医ではなかったとか、幇助者の思想的背景がどうたらとか、本筋とは関係ないことがマスコミに取り上げられている。

 

現行の法制度において、且つ「東海大安楽死事件」において横浜地裁が下した判例が存在し(法律でもなければ最高裁判決でもない判例に、どれだけの効力があるのかは不明だが)、一つでも間違えれば医師免許剥奪どころか実刑を食らう現状で、主治医を含む一般的な医者が協力するはずがない。

 

主治医は主治医変更すら拒否したと言う報道があった。

そんな権限が医者にあるのかどうかは疑問だし、もし仮に有ったとしたら、その患者の生死は「主治医」の主義や信条、若しくは患者に対する感情などによってのみ決められてしまう。

万が一にも、患者本人の意向が無視されて、一人の医者に患者の生死が委ねられるなどということは許されない。

 

一般的な医者が協力しにくい状況下で、世間の一般常識からは外れた人達しか協力し得なかったのは必然だ。

それが問題だというのなら、どんな医者でも躊躇わずに協力できる法制度に変えればよいのだ。

 

肝心なのは、神経難病患者本人が「尊厳」を守るために「死」を強く望んでいたかどうかであり、幇助者は、患者に苦痛を与えずに実行できる能力を有することだけが条件であるべきだ。

 

どんな医師でも必要に応じて協力してくれる法制度が整ってさえいれば、小島ミナさんも「今この時を逃したらスイスに行く身体能力すらなくなる」と切羽詰まることもなく、今もお姉様方や外部のサポートの元に、含蓄とウィットに富んだブログを続けておられたかも知れないのだ。

 

私は、一足飛びに安楽死の是非を議論するのではなく、神経難病患者のQOL向上と、将来的には尊厳死につながる、神経難病患者に対する緩和ケアの環境整備の必要性から議論していってはどうかと思う。

 

2014年に書かれた「筋萎縮性側索硬化症の緩和ケア」によると、WHOが『緩和ケアは癌には限らない』言っており、英国でも緩和ケア確立当初から神経難病がその対象となっていたにも関わらず、日本においては未だに”緩和ケア=癌”と言う考えがはびこっている。

 

日本ホスピス緩和ケア協会のHPには、

『ホスピス緩和ケア病棟の利用対象となる患者さんは、現在の保険診療上は「主として苦痛の緩和を必要とする悪性腫瘍の患者又は 後天性免疫不全症候群(エイズ)の患者」となっています。従って現状では、その他の病気での利用は困難となっています。
難病等の病気については、専門病棟を設置している施設もありますので、病院のソーシャルワーカーや都道府県の保健所等の行政相談窓口にお問い合わせください。』

となっており、2014年当時とあまり変わっていない。

 

民間の施設では、神経難病患者を受け入れてくれるホスピスも存在しているようだが、そこで尊厳死や延命治療の中止をしてもらえるのか、そしてそれが法的にどう判断されるのかは不明である。

 

先ずは、神経難病を広く一般的に(勿論医療保険対象としても)緩和ケアの対象として貰う必要がある。

そうなれば、神経難病患者も癌患者と同様に安心して緩和ケアを受けることが出来て、その先に終末期医療における尊厳死(延命治療の中止を含めて)という選択肢が確保できる。

一旦呼吸器を装着しても、患者が望めば取り外せるとなれば、もっと装着率が上がるかも知れず、そこで新たな生き方を発見できるかも知れない。

「自己イメージ」を変えるのに必要な時間も生まれるかも知れない。

 

終末期医療については厚生労働省がガイドラインを策定しており、「痛みや不快な症状を緩和し、精神的・社会的な援助も含めた総合的な医療・ケアを行うこと」、「多職種のチームによる判断」などを条件に、医療行為の差し控えや中止を認めている。

 

ここには『癌患者のみ』と言う制約はないように見えるが、その手前の「緩和ケア」に神経難病が含まれていないなら、自動的に除外という扱いになることが危惧される。

 

また、「多職種のチームによる判断」の中には、「余命」と「肉体的苦痛」と言う条件が付随してくる可能性が高い。

そして、今後の「安楽死」の議論でもこれが問題となり得る。

 

神経難病は癌と比べて余命予測が難しいという問題があるからだ。
癌でも、余命3ヶ月と診断された人が5年後もお元気にしているなどと言う話はよく聞く。それも大部分の身体機能は保ったまま。

 

一方、神経難病は余命予測が難しい上に、仮に余命予測が出来たとして、そしてそれより長生きすることは有ったとしても、その間に確実に身体機能は奪われる。

 

「終末期医療」の必要性がより高いのはどちらだろうか?

 

肉体的苦痛にしても、癌の末期は耐えられないほどの痛みが襲うことは常識となりつつある。痛みがないケースなど存在しないかのようだ。

方や神経難病特有の肉体的苦痛は知られていない。

褥瘡や痰の吸引による苦痛などは、癌のケースではあまり一般的ではないと思われるが、神経難病患者にしてみたら耐えられない苦痛となる場合がある。

しかも、神経難病患者の場合はそれを伝える術の無いことが多いのだ。

 

そもそも痛みや苦痛(精神的苦痛を含む)は主観的な問題であり、客観的判断には適さない。

 

これらを外してもらうか、神経難病は例外としてもらうか、何れかでなければ意味がない。

 

これは「安楽死」においても同じことである。

 

 

Part 4に続く


 

 

 

 

 

 

 

普段はなるべくしないようにしている、少々暗い話。

 

 

 

7月23日、国立競技場にて、競泳女子の池江璃花子さんは、「逆境からはい上がっていくときには希望の力が必要」、「希望が輝いているから頑張れる」と言った。

 

希望、即ち、実現可能な進歩や改善が期待できる状態、での努力は誰でも出来るが、・・・・。

 

そうでない場合は、・・・・。

 

 

神経難病患者のリハビリは希望が無い。

現状、病気に対する唯一の対抗策であるリハビリで、病期の進行に抗えた例は無い、と言う冷酷な現実が立ちはだかる。

 

それでも、やらないよりは、そしてブロ友さんたちも頑張っているのだから、多分マシ、と思い込むことだけがモチベーション。

僅かな、そして恐らく思い過ごしでしか無い改善を、希望にすり替える作業は楽ではない。

リハビリをしたから此処で踏みとどまっていられる、そう思いたいが、リハビリが却って筋肉の硬直を招いて、逆効果になっているのではないかとすら思える時がある。

 

何処まで、何時まで、何のために、希望の無いリハビリを続ければよいのだろう。

何処までやれば止めることが許されるのだろう?

 

身体能力は着実に蝕まれて行くのだから、リハビリは時間稼ぎにしかならない、ということが分かっているのに。

他人に、立ち方、歩き方、食べ方、発語の仕方、呼吸方法、舌の動かし方・・・・、そんなことを習ってもいずれ出来なくなる。

ある程度病期が進行した神経難病患者で、リハビリに虚しさや無力感を感じたことのない人は居ないのではないかと思う。

表に出すかどうかは別として。

 

 

先日問題になった安楽死については、全体像も分からずにコメントする立場にはないが、緩和ケア医師の大津秀一先生の以下のコメント

https://news.yahoo.co.jp/byline/otsushuichi/20200724-00189629/

が腑に落ちる。

 

「筆者の20年あまりの臨床経験の中でも、とりわけ強く安楽死を所望された患者さんが少数おられますが、それらの患者さんが癌ではなく神経難病であったことも強い印象として残っています。」

 

それなのに、

 

「(日本での緩和ケアに関しては)診療報酬が発生するのは、がんとAIDS、末期心不全のみです。本来は病気を問わず緩和ケアが必要ですし、世界的にはほとんどの慢性病が対象に含まれると捉えられています。」

 

癌は患者やその家族の絶対数が多いし、肉体的苦痛は想像がつき易いから声が届くが、神経難病患者はその家族を含めても数が少ないし、精神的苦痛や閉塞感を想像するのが難しいから声が届いていないだけなのだろうか?

 

 

 

常日頃思っていることが、安楽死問題に触発されて漏れてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の現在の主治医は、某大学病院の神経内科の教授。

  • 愛想が良いなんて決して言えない。
  • 患者に寄り添うという雰囲気でもない。
  • 構音障害のある私の言うことはほとんど聞き取れない、と言うか聞き取る意思があるとは思えない。加えて、症状が候補に上がっている病気の典型例でないことも有り、症状を正確に把握しているとは思えない。

一方で、

  • 無愛想や安易に患者に寄り添わない姿勢は、医者として正直で、患者に下手な希望を抱かせないため(性格も有るとは思うが)とも取れる。
  • 病名が確定していない時点で、最も確率の高そうな病名をつけて、今後治療が高額になる可能性があるからと、難病申請を勧めてくれた(それが数々の福祉制度を知る切っ掛けとなった)。
  • こちらが提案した治療法を(渋々ながら)受け入れてくれる。恐らく治療方法を提案できないどころか、未だに病名すら確定できない中で病気だけは確実に進行していることへの後ろめたさ、と患者サイドからの提案(病院側はNo Risk)で実験ができる、と言う理由からだと思うが、結構無茶な提案を受けてくれる。

だから及第点。

 

患者に寄り添う点と日々の症状の変化については、神経内科専門のかかりつけ医(優しくて素敵な女医さんで、後に私が卒業した高校の後輩であることが判明)と、訪問看護師さん、PTさん、OTさんが十分に担ってくれている。

その女医さんが紹介してくれた別の大学病院の神経内科の先生にも、適宜診察を受けて意見を聞くことが出来る。

 

 

閑話休題。

主治医の話。

 

 

先日、珍しく主治医の意見と自分の体感が一致した。

 

それは、前回、偶然抗癌剤治療の結果体感した病状の改善が、今回はごく僅かにしか現れなかったことに対する見解。

  • 病気には原疾患(私の場合は神経疾患で、悪性リンパ腫が神経疾患の原因ではないと言われている)と、それとは別に炎症を起こしている部分があって、その病気に関係がないと思われる治療によって、原疾患は治らなくても炎症が抑えられたために、原疾患の病状が多少でも改善したと実感することが有る。
  • その治療はその炎症にしか効かないから、その炎症が治まっている間は再度その治療をしても効果がない。
  • 原疾患と炎症との比率は殆ど一定だから、仮にその炎症が再発していたとしても、その治療による改善は原疾患の進行に伴って漸減していく。

前回の治療は悪性リンパ腫の治療のためだったので、今回はその治療をそのまま再現した訳ではないことは理解した上でのダメ元治療だった。

 

僅かでも改善が有ったと思うのも錯覚の可能性は高いが、継続的に体調を見てくれている人達が口を揃えて多少でも改善が有ったと言ってくれた(慰めでないことを祈る)。

 

仮に効果があったのだとしても、私の場合は原疾患の進行がかなり進んでおり、その治療の効果もかなり限定的と言う説明が腑に落ちた。

 

これが正しいとすると、この治療を繰り返しても効果はどんどん限定的になっていって、そのうちに全く効かなくなるのだろう。

と言うか、そもそもこの危険を伴う治療が、何度も繰り返す度に効果があるかは疑問なのだが、当面はこれが私に残された「藁」だ。

 

 

 

 

あ、オチがない。