やってやったぞ「下克上」 4回生 楠見堅
セレクションに落ちたあの日から約3年半後、関西リーグ最終節でゴールを決めていた。'' まるで、夢のような瞬間でした。''新年明けましておめでとうございます。2024年度主務を務めました、政策学部4回の楠見堅です。あと、18年間で1枚もイエローカード・レッドカードを貰わなかった超フェアプレーな楠見堅です。この度、引退ブログとしてここに書き残す内容は、この大学4年間、いや、もしかしたら過去18年間の私のサッカー人生すべてを物語るような、鬼の自己満ブログになっているかもしれません。'' 今後も何か大きな壁に直面した際、また自分で見返せるように。''と思いながら書く反面、お世話になった方々への感謝の気持ちや、様々な想いを込めて書き残すので、本当に長く拙い文章にはなりますが、ぜひ最後にご一読いただければと思います。面倒であれば、最後の方だけでもいいです。「下克上」この言葉こそが、私の大学4年間の「目標」であり、今振り返ってみると、過去18年間のサッカー人生における「最大のテーマ」だったような気がします。というのも、2021年4月1日、大きな夢と希望を胸に入学した同志社大学でしたが、たったその3日後には、順風満帆だった(だと思っていた)はずのサッカー人生が一瞬にして覆されました。'' 入部セレクション「不合格」''一生忘れることのない、人生最大の挫折。しかし、この出来事こそが、この4年間における「挑戦の始まり」であり、自身18年間のサッカー人生を華やかに彩る為の、「最後の試練」でした。幸いにも、同志社大学体育会サッカー部には、第2回目のセレクションが設けられており、通常より約1ヶ月遅れで入部を果たしました。もちろん、5つあるカテゴリーの内、1番下のカテゴリーからのスタートでした。入部後すぐ、一足先に入部していた顔も名前も知らない同期たちと共にボール拾いをさせられながら、初めてAチームの関西リーグを見た時、衝撃を受けました。プロの試合でも見てるんかと思いました。(結構ガチで)「4年後、自分はこの舞台に立てるのか?」と考えた時、正直「不可能」という言葉しか思い浮かびませんでした。しかも、そんな試合の中に、新入生ながらもう既にスタメン出場してる同期(= 金沢一矢)の存在があり、化け物だと思いました。コイツとは大学4年間で一度も関わらないんだろうなって。この時は、後に一緒にサッカーをすることも、まさか毎日一緒に行き帰りするなんてことも、想像すら出来ませんでした。だから今でも、ふたごやで潰された一矢を隣で介抱していると、すごく優越感に浸れます。話を戻しますと、とにかく、当時 D2チームだった自分にとっては、「Aチーム」という存在が、そして「関西リーグ」という舞台が、遠すぎて、眩しすぎて、すごく苦しかったのを今でも覚えています。'' 自分には、本当に大学でサッカーを続ける意味があるのか。''と、思い悩む毎日でした。そんな中、周りを見渡しても、第1回目のセレクションに落ちた仲間の中に、選手権経験者やJユースの奴らがいたり、奈良の王様がいたり、、、いかにこれまでいた自分の環境や基準が低かったのかを思い知らされる日々でした。「上には上がいる」とは、まさにこのことだと示されるかのように。そして、そんな初めての感覚にバグってしまったのか、もはやその頃、セレクションに落ちた悔しさや自身の未熟さを忘れ、こんなすごいメンバーが集う組織に身を置くことに、変な誇りと優越感を抱いていました。(そうでもしないと、あんなド田舎のグラウンドに片道2時間かけてまでも、部活に行く理由が見当たらなかったからかもしれません。)こんな感じで、私の大学サッカーは、当初自身が想像していたものとは全く異なる形でスタートを切りました。当時は、かなり受け入れ難い現実でしたが、今思えば当然すぎる結果でした。その後、「下克上」という言葉を心に刻み、怒涛の大学サッカー生活が始まりますが、最初から最後まで、まさに「奇跡の連続」でした。4年間の出来事を全て話すとかなり長くなってしまうので、最初の1年間は省略したいと思いますが、この1年間で「D2→D1→C→B」という奇跡が起きました。こうやって聞くと、何度聞いても驚きが勝ちますし、自身の歩んで来た道のりに強い誇りを感じますが、この1年間が「人生で最も長く苦しんだ期間」であったのも、紛れもない事実です。そして2年目の春、Bチームでの生活が始まりました。ここでは、D1時代にお世話になった、後に恩師とも言える美尾さん(コーチ)にまた面倒を見てもらうことになりました。何度振り返っても、ここでの時間は本当にかけがえのないものでした。「自分なんかがここにいて良いのか。」と毎日疑問に思いながらも、美尾さんと偉大であり大好きな先輩たちから、毎日のように叱られ、走らされ、毎食奢ってもらい、様々なプレッシャーと恐怖に怯えながらも、非常に楽しく充実した毎日を過ごしました。そして2年目の夏、また1つ大きな出来事が訪れました。入部時は、もちろん自分には無縁だと思っていた新人戦で、まさかのキャプテンマークを巻いて試合に出場していた頃の話です。全国出場まで、あと2勝くらいの試合でした。近畿大学にボコボコにされていた試合のハーフタイムに、美尾さんから「とある言葉」をいただきました。'' 勘違いすんなよ。お前は下手くそなんだからゴール以外求めんな。誰よりも走れ。前だけ見ろ。後ろばっか見んな。お前、今日まだ何もしてないからな。'' この日は、その言葉だけを受け、後半に途中交代させられました。そして、試合にも負けました。久々に涙が出るほど悔しかったです。振り返ってみると、その日まで、何だかんだで上手く行き過ぎていました。どん底まで落ちていたはずの自分が、そして何の肩書きもなく無名の高校から来た自分が、Bチームまで昇格し、新人戦でも全試合に出場させてもらい、腕章まで。きっと自分では気付かない内に、自然と鼻が伸びていたんだと思います。そして、それに美尾さんは気付いていたのでしょう。あの時もらった言葉は、厳しくもあり、美尾さんらしい、非常に愛のある言葉でした。そして、それを機にもう一度自分を見つめ直し、その後もたくさん怒られながらも、受け取った言葉を信じ、前を向いてゴールだけを追い求めました。そして、2年目の夏が終わる頃、念願のAチーム昇格を果たしました。
それと同時に、大好きだったBチームの先輩や美尾さんと別れ、「関西リーグ出場」という最大の夢に向かって再スタートしました。Aチーム昇格9日後、ただ普通の平日練習で、鼻が折れました。さすがの強度の高さにビックリ。
いや、もはやビックリする間もなく鼻が折れていました。健斗、今度フェイスガード返すわ。ありがとう。1ヶ月ほど離脱し、気合いを入れ直して再々スタート。その2週間後、次は「右足首後脛骨筋腱脱臼」という聞いたこともない大怪我を負いました。
病院に行くと、手術が必要と診断されました。さすがの強度の高さに再々ビックリ。しかし、ちょうどその頃、FWに怪我人が多い + 奉仕者(= 川口優大)がいるという偶然が重なり、自分も怪我をしていましたが、試合に出れるチャンスは今しか無いと思い、怪我を隠蔽し、念願の関西リーグデビューを果たしました。-- 2年目終了 --OFFシーズンに手術を済ませ、リハビリがてら松葉杖のまま大雪の北海道と長野に旅行へ行き、リハビリを続けながら迎えた3年目。送られてきた2023シーズン選手編成名簿。
いくつかあるファイルの中から、当たり前のようにAチームの欄を見ていました。そこに、自分の名前はありませんでした。そして、京都府選手権4連覇を裏方として見守り、再び屈辱を味わいました。その後は、過去最高におもろかった宮崎遠征を経て、関西リーグ開幕1週間前にギリギリAチームに返り咲くことが出来ましたが、このシーズンは片手で数えられるくらいしか、出場機会はありませんでした。このシーズンの1番の思い出は、サッカーではなく、野下が競馬で賭けた100円が80,000円に変わり焼肉を奢ってくれたことでした。あと、梅景とのサシ飲み。-- 3年目終了 --そんな怒涛の3年間を終え、向かえた4年目。個人としても、チームとしても、とにかく「結果」が欲しかったラストシーズン。蓋を開けてみれば、5連覇をかけて挑んだ京都府選手権にて1回戦敗退、関西リーグ7連敗、リーグ最下位転落。再びどん底に落とされた気分でした。しかしこの頃、過去にもっと大きな壁を乗り越えてきたからなのか、「どうせ何とかなる。いや、必ず何とかしてみせる。」という、一見軽率でありながらも、確かな自信がありました。そして、また「奇跡」に救われることになります。【関西選手権 優勝】14年振りの全国総理大臣杯出場「偶然ではなく、必然。」という堂安律も口にしていた言葉があるように、本当は自分もそんな風に言ってみたいですが、さすがに奇跡としか言いようがありません。ぐちゃぐちゃだったチームが、どん底から始まった大学サッカーが、そして、過去18年間のサッカー人生が、全て報われたかのように感じました。'' 全国出場という夢を叶え、試合終了の笛と同時に芝に寝っ転がり、空を見上げる。''という、何度も夢の中で見てきた景色を、実際にこの目で見ることが出来ました。'' 頑張り続けて良かった。'''' 諦めなくて良かった。''と、心の底から思える瞬間でした。特に最後のシーズンは、本当に波乱万丈な1年間でしたが、「最高のチームだった。」と胸を張って言うことができます。試合では、いつも馬場拓己とか廣島大雅に後ろから罵声を浴びせられ、たまーーーにムカつくこともありましたが、そんな彼らが、実は私のゴールを1番喜んでくれていたことも知っています。阪南戦のゴール後とかも、脳震盪後の本当に本当に危ない頭にも関わらず、喜びのあまり皆にめちゃくちゃ頭を叩かれました。その中で唯一、それに気付いて私の頭を全力で守る野頼がいたり、その裏で、完全に良いとこ取りをされた上にアシストすら付かずに悔しがる織斗がいたり、フェンスにしがみついて大泣きしてる小山と熱田がいたり、しっかりそれを撮影し新聞に掲載してくれるアトム3人がいたり、リアルタイムの動画配信で応援してくれている同期がいたり、わざわざ祝福のLINEをくれる先輩がいたり、、、あの日、すごく幸せを実感しました。なんかめっちゃええチームやな。ってそして、この「めっちゃええチーム」という感覚は薄れることなく、むしろその輝きが更に増していくかのように勝ち続け、リーグ6連勝、後期優勝という最高の形で、私の大学サッカーは幕を閉じました。本当に都合よく言いますが、まるで自分の4年間を体現するかのような、どん底から這い上がったラストシーズンでした。結局、ここまで長々と話して来て、ただ4年間の思い出を美化しながら振り返っただけの、本当に自己満のブログが完成しつつありますが、今書き綴ったように、決して平坦な道のりではなかった中でも、夢を追い続けた日々を記録に残しておきたかったので、こんなにも長くなってしまいました。これでもめちゃくちゃ文字数を削った方なので、どうかお許し下さい。しかし、そんな山あり谷ありのサッカー人生のおかげで、沢山の人に出会い、助けられ、刺激を受け、数え切れない程の経験を得ることができました。乗り越えたからこそ、見える景色がたくさんありました。父と兄の影響で、気が付いたら始まっていた私のサッカー人生とその当たり前の日常。幼い頃から走り続けた愛宕浜の海岸も、真っ暗になるまでボールを蹴り続けた日々も、いろんな文句を言いながら歩いた帰り道も、鳴り響くYo-Yoテストの音声も、喉の奥に溜まった血の味も、全国出場が目の前で閉ざされた中学最後の夏も、セレクションに落ちた日の夜も、諦め切れなくてボールを蹴りに行った次の日のことも、関西王者になって見上げた空も、ラスト15分間目の焦点が合わなくなった自身初の全国大会も、これまで決めてきたどんなゴールも、、、全部、一生忘れることはありません。本当に苦しい時間も多く、何度諦めかけたかも分かりません。小・中・高時代では主将になったことを、そして大学では主務になったことを、後悔する日もありました。しかし、今となっては、あの時苦労しといて良かった、失敗しといて良かった、どん底まで落ちといて良かった、そう思えるほどに満足しています。だからこそ、今後もどんな困難が襲いかかろうと、乗り越えられる自信があります。何なら、心做しかそんな厳しい状況を待ち侘びている自分もいます。逆境が自分を1番成長させてくれたから。'' あの時、諦めなくて良かった。''と、また将来の自分が思えるように、これからも自分らしく前だけを向いて走り続けます。〈 両親と兄へ 〉自分のインスタのストーリーに毎回いいねをくれるので、きっとこのブログにも辿り着いているかと思います。最後の試合が終わった後、面と向かってお礼を伝えようと試みましたが、お互い泣いてしまってろくに喋れなかったので、この場を借りて改めて感謝の意を伝えます。本当に数え切れない程の迷惑をかけ、心配をかけ、負担をかけ続けたかと思います。1~2歳の頃から家の中でボールを蹴り始めたことを考えると、実質20年近くサッカーをしてきました。それでも、文句一つ言わずに支え続けてくれてありがとう。家族の期待に応えることが、1番の喜びでした。世界一アツい応援をありがとう。〈 関わって下さった全ての方々へ 〉今、この文章をどこで誰が読んでくれているかは分かりません。しかし、「サッカー」というたった1つのツールを通じて、数え切れないほど多くの方々に出会い、一人の選手として、そして一人の人間として、大きく成長させてもらいました。サッカー仲間だけでなく、それ以外の友達や関係者全員にです。サッカーがなければ、修猷にも、同志社にも行けていません。地元姪浜から離れていたかもしれません。なので、サッカーが「私と皆」を繋いでいなければ、今、こんなにも幸せな気持ちでこのブログを書くことはできていません。
本来なら、面と向かって全員に感謝の気持ちを伝えたいのですが、それはかなり難しいので、またどこかで会う為の言い訳にでもしておきましょう。
本当に皆さんの支えや応援に、何度も救われました。散々迷惑をかけましたし、数え切れないほどの決定機を外してきましたが、この先、皆さんの記憶の中に、自分のゴールが1つでも残ってくれていたら、それが何よりも幸せです。また、どこかで会いましょう。最後に、甘い自己採点かもしれませんが、自信を持って言い張れます。'' やってやったぞ「下克上」''この4年間、そして、18年間のサッカー人生に、後悔はありません。もちろん、欲を言えば、最後にインカレにも出場したかったですが、「関西王者」という称号を手に入れ、ずっと「夢」として追い続けて来た全国の舞台にも立つことができ、小学校の頃は福岡市のトレセンにすら選ばれなかった自分からは想像もできない程、大きく成長することができました。そして何より、こんなにも素晴らしい舞台で、最高で最強の仲間たちに囲まれながら、大好きなサッカーができたことに、感謝と喜びの気持ちでいっぱいです。なので、これ以上に求めることは、もう何もありません。最終的には、両足の手術、顔面骨折、三度の脳震盪、腕骨折、鼻骨折、指骨折など、身体のほぼ全部位の骨が折れ、身体には少し無理をさせすぎたかもしれませんが、'' 夢に向かって走り続けたこの18年間を誇りに思います。''サッカーに出会えて良かった。皆に出会えて良かった。皆ありがとう。そして、サッカーありがとう。もしかしたら、嬉しいことや楽しいこと、努力が報われた瞬間、頑張って良かったと思える瞬間よりも、キツいことや悔しいこと、悩むこと、痛いこと、結果が出ない時期、苦しい時期などの方が遥かに多かったかもしれませんが、'' 何度生まれ変わっても、また同じサッカー人生を歩みたい。'''' そして、また皆に出会いたい。''心の底からそう思える、最高のサッカー人生でした。ここで一旦、長いサッカー人生とはお別れ。そして、また1からのスタート。いや、何ならまた0以下からのスタートかもしれません。
しかし、新たな夢に向かって、謙虚に直向きに取り組み続けるしか、道はないと思います。
これまでのサッカー人生と同じように。'' 自分らしく。''さて、次はどのような試練が襲いかかって来るのでしょうか。かかってこい逆境。'' やってみせるぞ 「下克上」 ''同志社大学体育会サッカー部2024年度 主務楠見 堅