Commentarii de AKB Ameba版 -38ページ目

Commentarii de AKB Ameba版

AKBとかその周辺とか

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Tag:恋、【僕」の歌、季(夏)

 何だか帰り途がわからなくなってしまったような感じ。

 Amazonから立て続けにChocolove from AKB48のCDが届く。そりゃAmazonのせいじゃないよね、だって注文したんだもの。ま、そうなんだけどね。何だかもう会えないこどもの年齢を勘定しているようなつらさがあるね。中西の歌をもっと聴きたい、と思って探してたらChocolove from AKB48にたどり着いたというわけ。
 
 「Chocolove from AKB48は、AKBでいちばん最初にスピンアウトしたユニット(AKBとは別のセールスを行うユニット)で」、と書こうとしてもう一度調べたら、違いました。

 こっちの方が前だったんですね。DVDを買ったばかりなのに、何やってるんだ。念のためメモリストで確認。間違いなくほね組 from AKB48の方が先。板野さん増山さん奥さん小野さん申し訳ありませんでした。

 なるほど、板野は「AKB初のソロデビュー」という記録の他に、「AKB初のスピンアウトユニットのメンバー(しかも唯一の現役)」という輝かしい称号を持っているというわけだ。

 閑話休題。
 Chocolove from AKB48の話

 前に書いた「明日は明日の君が生まれる」には4種類のCDが発売されている。
 初回限定版rina-mix版sae-mix版sayaka-mix版 である。
 初回限定版CDには、ノーマルな「明日は明日の」とchoco-mixとinstrumentalと、カップリング曲の「チョコレート」が入ってて、DVD、それに全国握手会参加券(←うそうそ。当時はたぶんそんなの必要なく「会いに行ける」ことができたはず)が付いてる。その他の版には、それぞれのメンバーがソロで歌った「明日は明日の」とinstrumentalと「チョコレート」が入っている。
 
 これを全部揃えると、曲としては全種類の「明日は明日の」が揃うわけだが、カップリング曲の「チョコレート」にもrina-solo、sae-solo、sayaka-soloというヴァージョンがあって、それはこれらのシングルを買っても付いてこない(←このブログ史上初めて強調文字を使っちまったよ)。

 「チョコレート」の、メンバー各々のソロ音源を聞きたい人は、アルバム「Desert」じゃないや「Dessert」を買わなくちゃいけないわけだ。

 おい、秋元くん。ちょっと話があるんだが、放課後体育館の裏に来てくれるかな?

 同一タイトルの複数仕様はこの前後から大々的に行われるようになるわけだが、感想を言わせて貰えば、「小遣いの乏しい高校生でなくてよかった」だな。

 まあもともとの目的が中西の歌を聴きたい、ということだったのだけれど、ひとつ聞くと他の二人の声も聞き比べたくなるってもんで。秋元くんのいいようにされましたよ。

 で、この曲。 

君のキスはチョコレート/触れただけで溶けるように
甘くなる/少しビターな
その愛しさ もう忘れられない

 夏の恋、それも始まったばかりのころの一場面のスケッチ。

 引用した歌詞(サビに相当)のところだけは「現在」なんだけど、曲全体では明示されていないけれど「過去の回想」という印象(だからサビの「現在」はいわば「歴史的現在」)。
 それは最後のスタンザ

バスの座席に/置き忘れたあの麦わら帽子

 が暗示している。
 あの日、「君」と「僕」はキスをしたあの日、置き忘れたのは麦わら帽子だけじゃない。
 「君」に対する「僕」の想いもまた、あの夏の日のどこかに置き忘れてきてしまった。
 そういう歌。

 秋元くんが上手なのは、ホント商売だけじゃないよねえ。

 あ、中西を目当てに買いあさったChocolove from AKB48だったけど、「チョコレート」はsae-soloにいちばん心ひかれた。
 宮澤の過度に女性を感じさせない歌声が「僕」の歌の切なさに見事にフィットしていた。

 秋元くんの言うとおり買って(あと高校生じゃなくて)よかったよ。
ラジオ日本 「佐藤亜美菜のこの世に小文字はいりません!」

 ラジオ日本が入らなくてこりゃあダメだと思ったら、翌朝(今朝ね)何とか音源をqあwせdrftgyふじこ。人って暖かいね。

 タイトルを番組中に決定。

 小文字ってなんだあ? と思ったら捨て仮名のことね。
 なるほど、佐藤(亜)はブログの表記に捨て仮名を用いないようにしているわけか。

 とブログを読んでみると、「ファン」を「ふあん」、「しちゃいますぜ」を「しちやいますぜ」、と確かに捨て仮名を用いていない。

 伝統的な日本語の表記法では、むしろ捨て仮名を用いない方が主流だった時代が長く、公文書等においても昭和63年の内閣法制局布告までは原則捨て仮名を用いていなかったので、ある意味先祖がえりの趣がなきにしもあらずと言えば言えなくもない。
 
 と思ったら、この日のエントリータイトルがいきなり「みよっとよっと」。いきなり捨て仮名「っ」を二つ使っているじゃんか! 促音の捨て仮名はいいのね。あと片仮名の場合は捨て仮名容認なのね。

 ということで、正しいタイトルは「この世に捨て仮名はいりません(促音の「っ」および片仮名を除く)」ということですか。

 佐藤(亜)はかつて「ブログだって、いつも頑張って、こう面白いことやってるんですよ、とか、てかそれなりに私だって、やっぱり読みにくいかな、と思っていろいろ頑張ったりしてたのに…」とぼやいていたが、その「頑張り」というのの一つが、この「捨て仮名(促音の以下略)」ということなのだとしたら、うーん…。

 ちなみに我れらが敬愛する百戦百勝の
コバヤシカナ大王陛下におかせられましては、そのブログにおいて係助詞の「は」を表記するのに捨て仮名の「ゎ」を用いられておられる。
 
 係助詞「は」を「ゎ」と表記するのは、  コバヤシカナ大王陛下お馬鹿さ加減、まあ秋元も「くるくるぱー」とは小林香菜のことだって言ってるくらいだし、それが売りっちゃ売りなんだが渦巻き主義を如実に表現しているという意味で有効な表記と言えるかもしれない。
 でも佐藤(亜)の「捨て仮名(略」という表記法にどぉいぅ意味があるのか、僕にゎよくわからなぃ。

 佐藤(亜)はすっごく努力する人なんだけれど、いま一つそれが成功に結び付かないところがあって、歯がゆい感じを禁じ得ない。つーかぶっちゃけそういうところが好きなんだけどね。
 基本報われず。で、どこかでどかーんと大逆転するのが似合う、みたいな。

 番組自体は、初めて自分の番組が持てた喜びがいっぱい感じられて楽しかったし、聴いてて嬉しい気持ちになれた。
 心よりお喜び申し上げます。
 おめでとう、ラジオガール。

 「東京都大田区のトランボンさんがネタを送る」→「佐藤(亜)喜ぶ」→「でもネタ事自体は没」というANNでお馴染みのコンボも聴けたし。

 ただこのコンボは、トランボンさんは名前は読まれるがネタは読まれないという、お約束について来られるか、にかかっている。
 ANNではかつて、「佐藤(亜)が生放送中、トランボンさん名指しでネタを強要」→「それを聞いてたトランボンさん投稿」→「佐藤(亜)喜ぶ」→「でもネタは没」、という伊集院光なみに美しいコンビネーションもあった。

 これはこれでANNで佐藤(亜)が、自分のブログが「今週のブログコーナー」に選ばれない、という自虐ネタと平仄が合っている

 一方、トランボンさんは、佐藤(亜)以外がパーソナリティをやっていたANNでは高率でネタを読まれている。
 メンバーからは「わーすっごーい」「トランボンさん面白ーい」と誉められるのだが、本来の深夜ラジオの水準からすると、そんな大したレベルではない(すいませんねトランボンさん。てかANN自体ぬるぬるなんだから仕方ない)。

 他のメンバーはそんなに深夜ラジオなんて聞いてないからそれがわからない。でも佐藤(亜)は知っている。深夜ラジオのネタってもっともっと面白くて、抱腹絶倒であるべきだってこと。

 だからついついトランボンさんに厳しくなってしまうんだろう。
 
 当のトランボンさんはそれをどう思っているのかというと、微妙みたい。でもファイト、トランボンさん。

 ずっとネタを読まない、というフリをしていると、いざ読むときのネタのハードルが高くなって落ちにならないだろうし。いっそ月に1回はトランボンさんに「百発98中券(この場合は権かな)」を発行して、全ネタ読むくらいのことしなくちゃダメかもね。

 これからどんなコーナーが生まれるのかわからないけど、僕としてはやっぱり「干され気味&ポジション微妙」な自分の立場を生かした出血ネタを期待したい。ANNのぬるぬるさとは明らかに一線を画するような。

 だってあの歳の女の子で「ラジオが大好きで、ずっとパーソナリティになりたかった」なんて子、滅多にいないもの。ラジオの面白さ、マスではないがスペシフィックなメディアの魅力がわかっている子なんだもの。AKBを全く知らない人にも楽しみにしてもらえるプログラム。

 「佐藤亜美菜って子のラジオ面白いんだけど、あの子AKBのメンバーなんだってね」と言われるような番組。
 
 佐藤(亜)にはそれができると思う。
 がんばれ、ラジオガール。

ps.
 そういや秋元御大が世に出るきっかけも深夜ラジオだったんだよね。ってことは御大のスピリットは他でもない、佐藤(亜)に引き継がれていくのかもだよ。
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Tag:AX、サヨナラ
 寄り道が終わりません。

 2009年のAXは「初日」が第1位になったことで記憶されている(言うまでもなく「くるくるぱー」は第0位である)。

 その時の8位がこの曲。スクリーンに曲名が映し出されると「うぉー」とも「えー」ともつかないどよめきがAXを満たす。そして暗闇の中から聞こえてくる透き通るような歌声。

たったひとつの空しかないよ/どんなに空が広くたって
大事な人とはぐれたとき/見上げる者を勇気づける

 そう、その時はすでにメンバーではなかった彼女の、水のような声。

 会場に響き渡る彼女の名。

 彼女について本当に語りたいことがある人たちは、口をつぐんでいる。
 シアターで彼女と出会い、ともに育ち、別れ、彼女とはぐれてしまった人たち。ネットを歩いていると彼らの情熱や哀しみがいたるところに残っている。
 それを知っていて彼女について語るのは、とても気が重い。 

今日まで歩いてきた道/今は二つに分かれてる

 彼女と彼らは別々の道を歩いて、ずいぶん遠いところまで来てしまった。

 AKBが有名になるにつれて、後から彼女を知った人増えた。僕もそうだ。握手はおろか、生の歌声すら聞いたことのない「新規」。それでもその時彼女がどんなに輝いていたかを想像することはできる。あったかいお味噌汁とからあげが恋しくもなる。
 
 アイドルとは虚像である。ファンはそれが虚ろなものと知っていて、そこに「愛」を注ぎ込む。
 「地下アイドル」でスタートしたAKBは多くのファンの愛(とお金)をエネルギーに、どんどん加速していった。その過程でスピードについて行けず自ら降りたり落ちたりしていった女の子たちがいたのは仕方のないことなんだろう。

明日は明日の君が生まれるよ/長い夜を越え
陽が昇るように/夢の続き
すべて捨てて/両手を広げよう

 これは別れの歌であると同時に、死と再生の歌でもある。西の果ての冥府に逝った太陽が、長い夜を経て生まれ変わる歌。

 彼女は別の名を得て、夢の続きを捨ててまでも新しい自分に生まれ変わった。その姿を望まない人々のことを思うと心は痛むが、その痛みは、愛したゆえのもの。

誰もが愛に傷ついて/その悲しみに立ち止まる
痛みが地図になって/迷ってしまう

 どれほど痛みが強かろうと、愛さなかった方がよかった、とは言えない。
 だってそんな気持ちになれるって、「僕」はついているね、なんだぜ?

 歌が終わった時にも彼女を呼ぶ声は会場に響いた。

 「里菜!」

 明日は明日の君が生まれるのならば、何度でも生まれ変わればいい。
 あなたの名を呼ぶ声は、今もどこかで響いているのですよ。
 
 聞こえる? りなてぃん。
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Tag:?

 ええええええー、まさかの2ですかあー。「くるくるぱー」でそんなに語るんですかー。

 四月馬鹿にちなんで、「くるくるぱー」を見たのだが、いまや渦巻き主義のトリコ仕掛けにはまってしまったようである。
 恐るべし「くるくるぱー」。
 敬うべしコバヤシカナ大王陛下

 この曲の歌詞は、一読すれば楽観的、非真面目的、非教養主義的等々のお気楽な処世術を説いただけのように見える。

嫌なことは/全部 もう 忘れちゃえ

 であり、

難しいことは/ドブに捨てて

 なのである。
 また、

探しものは/いつでも頭の上にある
明るく生きていこうよ

 と言い、

しあわせって/湿気が嫌いなんだってさ
笑顔を見せてごらんよ

 と説く。
 だがこの歌詞は本当にそれだけであろうか。

 否、吾人はこの一見軽佻浮薄なる詞藻の中に絶対真理の片鱗を見出さざるを得ないのである(とちょっと明治の文豪調)。

 言葉は時として、それを書いた者の意図や思惑や意思を遙かに越えた射程も持つことがある。詞を書いた秋元康も知らぬところで、この曲にミューズは舞い降り、「詞」は「詩」に生まれ変わった。

 たとえばこうだ。

探しものは/いつでも頭の 上にある

  多少なりとも神秘主義に造詣のある者は、このカードを思い出すに違いない。

 そう、タロットの大アルカナカードの「0番」、その名も「愚者」すなわち「くるくるぱー」である。旅にある若者は、未来を象徴する左を向き、手に花を持ち、頭の上を見上げている。それは、探しものを天に求める姿そのものである。

 若者の歩むその先は崖である。落ちるかも知れない、落ちないかも知れない。そう、この若者は一瞬後に崖に落ちて命を落とすことができるほど自由である。

 それは即ち、百尺竿頭さらに一歩を進むの世界でもある。
 
 さらに曰く、

くるくるぱーで/ごめんね
大切なものは/何もないよ

 大切なものなど、何もない。

 先日は、これを般若心経の心無罣礙の心境に擬した。大切なものとはすなわち煩悩であり、心を惑わすものである。それを追い求める限りはそれにとらわれ続ける。

 コバヤシカナ大王陛下は「そんなものは無い」と喝破したのである。

 いや、そんなことを言っても

宝物は/おそらく ガラクタの中だね

 と、宝への執着(ここはひとつ「しゅうじゃく」と読んでください)も歌っているではないか?

 いやいやさにあらず。
 
 「くるくるぱー」のPVを思い出して欲しい。コバヤシカナ大王陛下の従者達は、歌いながら手に持つ「宝」を、地に投げ捨て、そのあとわざとらしく拾い上げるではないか。

 これは即ち「宝」などは、すでにその手の中にあり、いつでも捨てることも拾うこともできるとの教えに他ならない。宝とはそれを「宝」と定めるおのれの中にこそあるのだ。
 
 そして終わりに言う、

愛をお代わりして/最高!

 愛も「お代わり自由」。それは尊いものであっても決して絶対なものではない。何度失ってもお代わりすればよいのだ。

 ああ、かくもありがたきコバヤシカナ大王陛下の渦巻き主義よ。

 AX2009も大詰め、第2位の発表。
 大方の予想を裏切り、前年大ヒットの「大声ダイヤモンド」は、1位ではなく2位であった。どよめく会場。

 じゃあ、一位の曲は何? ま、まさか??
 その刹那ひな壇中央にましますコバヤシカナ大王陛下は、紅の王冠に青葱の王杖を携え、下々に詔を賜った。
 「えええ『くるくるぱー』が1位? いい、いいからもう2位やっちゃって」。

 結果、第1位は「初日」であった。発表の直後、アップで抜かれるコバヤシカナ大王陛下。陛下がっくし。

 でもいいのだ。AX2009第1位。それは今に語り継がれる、希に見る美しいステージであったのだから。CinDyのティアラも輝いていたし。

 そして渦巻き主義者は知っているのだ。あの日、「くるくるぱー」は1位の上、すなわち愚者のナンバーである第0位に鎮座していたことを(それを疑う不心得者はAKB日誌2009年1月25日を見るがよい)。

 すいません。以上四月馬鹿の延長のような与太話でした。
 でも「くるくるぱー」が、せめて90位くらいでいいから入って、コバヤシカナ大王陛下が葱を振り回すシーンを正月に見たいものです。

 全国の渦巻き主義者よ団結せよ! 
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Tag:ええい控えい、そんなものは無いわ!

 四月馬鹿とて御出御あるはコバヤシカナ大王。
 紅の王冠をオツムにかむり御手には青葱の王杖を携えのお出ましにござる。

くるくるぱーで/一緒に
難しいことは/どぶに捨てて
あっけらかん/お馬鹿丸出しで

 AX2008では93位、2009では圏外、このまま泡と消え去ると思いきや2010では80位とまさかのランクアップ。

 しからば上昇に転ずると思えばAX2011は再び圏外とまことに掴み所なき「くるくるぱー」にござる。

ゼロになれば/これ以上引かれるものはない

 残念、大人には借金がござる。
 されど

どこかで運が振ってくる/心の雲の向こう側には青い空

 しかり、しかり。
 運は拾うもの。捨てるもの。 

落ち込んだら/賑やかなラッパを鳴らすんだ

 ぱっぱかぱっぱっぱー。

くるくるぱーで/ごめんね
大切なものは/何もないよ
すっかんぴん

 これぞまさしく心に罣礙無くば、罣礙無きゆえ、恐怖有ること無し、一切の顛倒夢想を遠離し、涅槃を究竟すの心地ににござる。

愛をお代わりして/最高!
渦巻き主義者

 我ら忠良なる臣民は今こそコバヤシカナ大王を奉戴し、渦巻き主義を堅持し、もってすべからく世を覆う暗雲を吹き払うべし。
 依って件の如し。

 放送にのせるのはキビシイみたいだけどね。

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Tag:片想い、「僕」の歌

 一昨日に引き続きこの曲。歌詞のバックグラウンドについての雑感。
 歌い出しは、「僕」が偶然を装って「君」とすれ違う朝の情景。偶然のふりをして女の子とすれ違うというというのは、その名もずばり「偶然の十字路」等々でもみられた。
 それに続く歌詞。

名前も知らない野花(のばな)に惹かれて/手折(たお)ることもなく 遠くから眺めてる
このまま枯れずに咲けばいい

 「野花(のばな)」に「手折る(たおる)」。
 どっちも少し古風な香りのする言葉で、若い女の子たちの歌にはあまり出てこない(「君が手折りし桃の花」という歌詞が「蘇州夜曲」にはあったね)。

 「野花を手折る」で思い出すのは、このゲーテの詩(と曲)。

童は見たり/野中のばら

 で始まる詩の第2スタンザ、

手折りて行かん/野中のばら
手折らば手折れ/思い出ぐさに
君を刺さん/紅におう
野中のばら

 リンク先にもあるように、ゲーテが自分が若かったころの、フリーデリーケという女の子との恋について書いた詩。

 ゲーテは基本モテモテの人で、いっぱい恋愛をしたらしいんだが、その中でもこの恋は、後で振り返って「彼女に悪いことしたなあ」と反省しきりだったとのこと。大学生だったゲーテは、彼女とつき合うだけつき合って、卒業したら黙っていなくなっちゃったんだそうだ。

 彼女はその後生涯独身だったっていうんだから、ゲーテ悪いよねえ。

 これにシューベルトとウェルナーが曲をつけた。今はどうかわからないけど、中学か高校の音楽の教科書に載っていたと思う。当時はそれが恋の隠喩であるとは知らなかったし、気がつきもしなかった。

 今だったら「野に咲く花を手折る」、というのは「女の子を喰っちゃう」って意味だよーってすぐに判るのだが(この「喰っちゃう」というのも隠喩だけどね)。

 秋元康が「青空片想い」を書いたとき、頭にゲーテのこの詩を思い出していたんじゃないかな、というのが僕の想像。彼ほどの作詞家が「野ばら」を知らないはずはないし、わざわざ「野花」「手折る」という言葉を使うのには意味があるんだろうと思う。

 もっともモテモテのゲーテは、さっさとフリーデリーケを「手折」っちゃって、血を流すことになるのだが、「チームこっちがわ」の「僕」は手折ることなくじっと見守り続ける。つーか女の子を「手折る」スキルを身につけるには、もう少し苦労しなくちゃなんないんだけど。

朝露みたいに瞳が濡れても/僕はここにいて盾になる
味方の一人でいるから
誓いは片想い/君は知らなくても構わない

 「僕」のスタンスは、まるで貴婦人に忠誠を誓った騎士のようだ。

 こういう純粋な片想いができるのも思春期の一瞬だけだよな、とは思う。

 でもホントは、傷つき傷つけ合う恋愛をするのが人生だぞ、とか、「声に出さずに励まそう」じゃあ伝わらないし、彼女もわからんぞ、とかオジサンが思うのも事実。
 で、次のレッスンは「大声ダイヤモンド」というわけ。
 
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Tag:片想い、「僕」の歌

 一昨日に続いてSKEの曲について。2枚目のシングル。

 秋元康は、時折ものすごく消極的または絶望的な片想いを歌にすることがある。最初っから成就することを諦めているような片恋の歌。
 たとえば「君のことが好きだから」。

愛とは返事を/求めない声さ
一方的に贈るもの

 であり、「僕」は

君のことを思う度/僕は神に感謝してるよ
振り向いてくれるのは/永遠の先

 で満足しちゃっているのである。
 
 この、「青空片想い」もそんな曲。

 PVはビルの屋上の、高いステージ。空からヘリが舐めるようにフライパス。空撮もカッコイイぞ。
 サウンドはバスドラがドン・ドン・ドン・ドンと強めに刻んで、いかに「これでどうだーヲタどもーミックス打てよ-!」ってなイントロで、かつダンスもSKEらしくアクティブで、松井Jはいつもどおりコマ落としダンスだ。

 でも詞は、というと

青空片想い/僕は君の空になりたい
見守っていること/気づかなくていいよ

 とあくまでも消極的・絶望的なのだ。
 
 何も知らなくてこの歌詞だけを読んだら、普通はフォーク調で少し寂しさを湛えたメロディーが浮かんでくるよねえ。タイトルの連想発作曲者経由でたどり着くとしたら、こんなイメージだろふつう。
 でもあの曲。あのダンス。

 もちろん秋元康が作曲するわけではないが、曲のコンセプトは全て秋元のコントロール下にあるわけだから、この詞とのミスマッチも計算の上のはず。

 何考えてんだろ、このおっさん。そう思うことしばしばである。

 言い訳Maybeのところでも言及したのだけれど、秋元自身はちょっと「こっちがわ」の人間の匂いがするんだよね。「こっちがわ」ってのはちょっとヲタで、少なくとも思春期にはせつない恋の経験をきちんとした人のチーム。
 あ、もう少しぶっちゃけると、今風に言うと、非モテ系ね。うん。知識や才能はあるんだけど、女の子の前に出ると萎縮して何も言えなくなるような。

 それくらい秋元の「僕」を主人公とした片想いの歌には、リアリティーと切なさと説得力がある。
 ふだんの、ポジティブに前向きに積極的にの説教よりも、はるかにしっくりくる。 

 こういう「かなわない片想い」を、明るく楽しく力強く歌っている彼女たちは、決して詞の心を体感しているわけではない。彼女たちには彼女たちなりの苦しさ、つらさはあるだろうが、それは片想いのそれとは異質なものだ。そこには絶望的な断絶が横たわっている。

 しかしそれでも彼女たちは、その断絶を越えようと一生懸命、「こっちがわ」の人たちに手を差し出す。意味はわからなくとも、そう振る舞うように秋元Pは要求する。もちろん「こっちがわ」ではその手は決してつかむことはできない幻想、フィクションの手だということは、わかっているのだけれども。
 それでもその手は、僕らが(あ、一人称使っちゃったよ)、かつて心の底から憧れた手にそっくりなのだ。
 
 かくして、今日も「チームこっちがわ」のハートは鷲づかみというわけだ。
 

 
 
 土曜から被災地に出張。
 東北道を一路北へ。
 
 一般車両の通行が可能になったせいか、多くの車が北に向かっていた。
 支援物資を家族に届ける車や、肉親を迎えに行く車なのだろう、さまざまな地方のナンバープレートが北に向かっていた。もちろん、自衛隊、タンクローリー、救急車もたくさん。

 車中録音しておいた前日のANNを聞く。
 被災地に支援に向かうたくさんの車列を見ながら、聞こえてきたのは冒頭で流れた「誰かのために」。

一人ぼっちじゃ/生きていけない
誰かがいるから/わたしがいるの
誰かのために/人は生きている
私に何が/できるのでしょう?

 うるっと来ちゃいましたよ、そりゃあ。

 久しぶりの生放送(の録音だけどね)のANN。パーソナリティは高橋、大島(優)、秋元。
 内容はいつもどおり、深夜放送にしてはぬるぬるなんだけどさ。アイドルのラジオなんだからこれでよし。ラジオで血を流すのは佐藤(亜)だけでいいんだよ。あ、そういうやブログ紹介のコーナーやってなかったな。 
  
 夕刻被災地から50kmほど離れた町に到着。土曜はホテル泊。部屋はお湯が出ないので風呂は大浴場で。エアコン効かないので暖房はハロゲンヒーターで(放射性物質を心配しての措置か?)。まあ電気が通っているだけありがたい。飲食はふつうにできたが、ペットボトルのお茶類がみな売り切れ。缶コーヒーは全部残っている。

 夜は自室で予定通りAXを視聴。
 第100位。曲は知らないが、いきなり大島と佐藤だあ! ANNのお三人方が頻用していた表現を使うならば「あがった」。

 ほら、このところ見てるのがA1とか、A2とかでしょ。新しい人よか大島とか佐藤とかの方がなじんでる感じなんだよね(って、いっぱしの古参きどりのセリフですみません。本当はぽっと出の、シアターに行ったこともないぺいぺいですすみません。しかも「曲は知らないが」ってどうゆうことよ。だってひまわり組まだ見てないんだもんほんとゴメン)。
 
 ああ、AX見てると、僕もまだまだだなあ、と思うことしきり。曲知らねえもんなあ。
 第92位にSKE登場。「恋を語る詩人になれなくて」。これも知らないけど、松井JをはじめSKEの張り切りぶりは伝わってkる。ただちょっと、観客の反応が薄い?

 松井JのMCに、「お前たち何しに来てるわけ?」「必ずしも俺たちお前ら100%支持してるわけじゃないかんね」みたいな空気、アウェー感とでも呼ぶべきものがあったようななかったような。
 
 AKBは熱愛しているがSKEは嫌い、とか、その逆の人もいるようで、もしそのせいならちょっと残念。
 だが松井Jは、そのような空気とは関係なしに声を張り上げて元気よく叫んでいました。

 考えられれる状況は3つ。
 1 アウェー感なんてそもそもなかった。全ては僕の杞憂だった。現場にいないヤツがテケトーなこと言うんじゃない。すいません。

 2 アウェー感はあったけど、松井Jはそれを跳ね返して頑張った。どこまで大物なんだこの中学生は。

 3 アウェー感はあったけど、松井Jはそれを感じなかった。それはそれで大物だぞ。

 どういう状況だったんでしょ。

 その後も知らない曲ばかりで、修行の足りなさを痛感しているところで、第86位、DMT(この言い方の初出は2006年4月10日のメモリスト)。しかもA1のオリジナルメンバーばっかだ! 増山もいる!!
 残念ながら宇佐見、中西はいなかった模様。でもステージは見たことないくせにDVDで追体験をして、いっぱしの古参気取りの僕にとっては大満足であった。
 というところで就眠。
ps.
 あとでもう一度DMTを見直す。前田が終始後ろの方で目立たないのに気がつく。ソロも取らない。大島や折井や駒谷や佐藤や星野のかげでひっそり踊っている。そういうやA1でもDMTではあんまし前田は目立たなかったよなあ。見直してみると、曲の大半でセンター後方で、一人ぽつんと踊っていた。扇の要のように。最後は前に出るけど。

 翌朝町を出て被災地へ。現地スタッフと支援の打ち合わせ。その後現場を視察。

 3月11日以前には民家が密集していたという場所で声を失う。

 「あららら、すっかりさっぱりしちゃったねえ」「あそこら辺に実家があったんですけどねえ、これじゃあもう何にもわかんないね」
 現地スタッフの声は不思議に明るい。もう暗くなっている時期は通り過ぎたということだろうか。

 帰途東北道を南下。昨日に続いてANNを聞く。今回はエンディングも「誰かのために」。
 あの光景を見て、もう一度自分に問う。

 「私に何ができるのでしょう?」

愛をごめんね/愛をごめんね
君のすべて知っていると思っていた

 今から25年前、秋元は小泉今日子にこんなを提供した。インターネットもケイタイもなかった。CDプレーヤーは発明されていたけど、まだ持っていなかった。だから僕は借りてきたレコードをカセットテープに録音して何度も何度も聞いた。

 コイズミが好きだったということもある。でもこの歌の「愛をごめんね」というフレーズがずっと耳に残っていた。秋元の詞だってことは知らなかったよ。興味なかったし、「おニャン子の仕掛け人」って感じでたまにテレビにでても、俺らうちじゃあ、「なんだあのちょっとすかした林家こぶ平は」ってな感じだったし。

 でも「愛をごめんね」という言葉は心にひっかかって、取れないシミを残した。

 そういう年齢だったのだと思う。「愛ってなに?」という疑問を、照れることなく真っ正面から議論できる時間と友人と、照れくささに負けない真摯さを持ち合わせた、人生でもごくごく限られた年齢。

 ちょうどそのころニューアカとかいって、いろんなシソー家がやたらいろんなメディア(といっても主に雑誌なんだけどね)に出て、様々な言説(そういやゲンセツっていったなあ、要は与太話なんだけど)を唱えるのが流行ったことがあった。
 僕が熱を入れて読んだのは、栗本慎一郎。いまやすっかり老いさらばえてしまったが、かつては国会議員までやった人だ。当時はまだ若手のシソー家で、次々に本を書き、雑誌に寄稿していた。
 
 彼の思想のキーワードのひとつが「蕩尽」。「大切なものを無駄遣いしてしまう」こと。人間らしさの本質はそこにある、と彼は説いた(と僕は理解した)。
 大事に大事にして蓄え、はぐくんできた「もの」を一気に蕩尽する快感とエロスへの性向こそが、人間を動物から峻別するものである、と。
 その究極の「もの」こそ「わが命」であり、それを無駄に滅ぼすことに伴う喜びが「愛」の本質なのだ、と。

 恋とは、要は生殖の美名である。自己と種族保存の本能に裏打ちされた行動が「恋」である。だから動物にも「恋の季節」はやってくる。だが根底に自己破壊衝動を隠す「愛」は、非動物的である。

 なるほど、愛に自己犠牲はつきもの。愛国心で人は死ねるが、国に恋するヤツはいないよね。
 
 クリモトはさらに説く。 
 愛の本質である「自己犠牲」で快感を得られるのは、「自分の命を蕩尽した人」=「愛した人」だけである。「愛された人」には何の得もない。愛されることも喜びかもしれないけど、それはおまけみたいなもので、時にはそれが迷惑なこともある。
 つまり愛とは、カンタンに言っちゃうと、実に自分勝手で、時には迷惑なものなのだ。
 だから「君を愛している、だから君は僕に感謝すべきだ」というのは大きなマチガイであって、「君を愛しています。僕はこの愛に命をかけて快感を得たいと思います。迷惑だったらごめんね」というのが正しい態度なのだ。

 こんなことを読んだり考えたりしている最中、コイズミの歌声が響いたというわけだ。歌詞を書いたのは誰かなんて、気にしもしなかったが。

愛をごめんね/愛をごめんね
君が全て知っていると思っていた

 その後、そんなに多い機会じゃないけど、「愛をごめんね」と胸の内でつぶやいたことが、確かにあった。

 あれから四半世紀(だってよ、おい)。すっかり忘れてたところに、またとびこんできたのだ。

真っ白な砂は/正直な気持ちさ
度が過ぎた愛しさを/あやまろうと思う
ごめんね、SUMMER

 25年前のあれが、センセイの作とも知らずに、ごめんね、秋元センセイ。


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 いよいよ午後からは東北道を一路北へ。
 さあ何が待っていることでしょう。ドキドキ。
 ちゃんと録音できた、久しぶりのANNを聞いて行きましょう。
 
 
 今日もこの曲。
 
 ごめんね、って、誰に何をあやまってるの?

ごめんね、SUMMER/眩しい
その横顔を/見てたら
ハートにそっと/触れたくなった
僕のいたずら

 この前に、「僕」は、「君」が波を数えているのを知っているのに、邪魔するように話しかけたことを歌っている。だからまあ、この「ごめんね」はわかる。「君」を邪魔したことについてあやまっているんだよね。
 
 ただ、今度は波なんか数えなくたっていいじゃん? って疑問も起こってくるよね。それに数えたって数えたって、波なんか(後にも出てくるけど)どうにもきりがないし。
 だからこの「波を数える」というのは、比喩なんだと考えるべきだろう。「君」に寄せては返す何か。
 
 ふつうに想像するならば、それは寄せては返す、過去の思い出。それもたぶん昔の恋の。
 ふたりはまだ「友達」の関係のまま、海に来た(か、または海で出会った)。そこで物思いにふけっている「君」に、「僕」は「もう昔のことなんか忘れなよ」というように話しかけた。
 
 女の子の昔の恋について話すなんて、友達にしてはちょっと行き過ぎ? 
 案の定彼女は「もうその話はやめてよ」とばかり、肩を叩いた。
 やっぱちょっと行き過ぎかな。まだそこはひりひりとする、触れられたくない部分。まさにハート。でも僕はもう君ののハートにそって触れないではいられない。だって愛しくてしかたないんだもん。

 だから、ごめんね。

真っ白な砂は/正直な気持ちさ
度を過ぎたいとしさを/あやまろうと思う

 いとしさをあやまろうと思う? なんで?
 
 うーん、昨日もここまで来たんだけど、今日も書ききれないや。
 この歌まだまだ続くみたい。
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 今日は船で出張。
 ダイアはふだんの半分。おかげで5時起き。
 町は暖かく平静で、ガソリンも問題ない。ただ水はやや不足気味だがパニックにはなっていない。それでも2週間前とは空気が変わってしまったような印象。でもこういう時って、変わったのは自分なんだよな。

  先日アマゾンからNot yetのA、Bが届いた。そしたらCもあるというではないか。慌ててCも頼んだ。でもよく考えたら慌てる必要ないんだけどね。同じ「生写真」が3枚になっちゃった。

 で、今日見たらコネクティングカードというものがついてきた。言われた通りに手続きしたら、最後、機種が対応していないそうな。

 べ、別に特典映像なんか見たくなんかないんだからね。
 でもちょっとがっかり。

 ちなみに今日はAX2011も届いた。勤め先にね。ほら、妻にはナイショだから。
 そしたらあれ、AKBのオフィシャルショップって、送り主も中身もちゃーんと書いて送って寄越すのね。
 アマゾンは何も書いてないから、何が届いたかいつも開けるまでわかんないでしょ。油断したよね
 出張から帰ったら、受付で「お届け物でーす」って、台帳にしっかり「送り主AKBオフィシャルショップ」って書いてあるの。ええええ、部下の目の前で何食わぬ顔でサインしましたよ。
 ああ、こどもの荷物が届いたのかなーなんて顔して。いいじゃん、8歳でAX見たって。で、部屋に入るとちゃーんと机の上に置いてありましたよおっきな荷物。
 
 妻にナイショと、職場にナイショ、どっちがよかったんだろう。

 明日はいよいよ被災地に出張。たぶんヨード剤を飲んでいくんだろう。やだなあ、あんま心配させないで欲しいよね。

 ま、電気は通じているようなので、夜はAX2011を見て過ごすことにしましょ。