ごめんね、SUMMER3 | Commentarii de AKB Ameba版

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愛をごめんね/愛をごめんね
君のすべて知っていると思っていた

 今から25年前、秋元は小泉今日子にこんなを提供した。インターネットもケイタイもなかった。CDプレーヤーは発明されていたけど、まだ持っていなかった。だから僕は借りてきたレコードをカセットテープに録音して何度も何度も聞いた。

 コイズミが好きだったということもある。でもこの歌の「愛をごめんね」というフレーズがずっと耳に残っていた。秋元の詞だってことは知らなかったよ。興味なかったし、「おニャン子の仕掛け人」って感じでたまにテレビにでても、俺らうちじゃあ、「なんだあのちょっとすかした林家こぶ平は」ってな感じだったし。

 でも「愛をごめんね」という言葉は心にひっかかって、取れないシミを残した。

 そういう年齢だったのだと思う。「愛ってなに?」という疑問を、照れることなく真っ正面から議論できる時間と友人と、照れくささに負けない真摯さを持ち合わせた、人生でもごくごく限られた年齢。

 ちょうどそのころニューアカとかいって、いろんなシソー家がやたらいろんなメディア(といっても主に雑誌なんだけどね)に出て、様々な言説(そういやゲンセツっていったなあ、要は与太話なんだけど)を唱えるのが流行ったことがあった。
 僕が熱を入れて読んだのは、栗本慎一郎。いまやすっかり老いさらばえてしまったが、かつては国会議員までやった人だ。当時はまだ若手のシソー家で、次々に本を書き、雑誌に寄稿していた。
 
 彼の思想のキーワードのひとつが「蕩尽」。「大切なものを無駄遣いしてしまう」こと。人間らしさの本質はそこにある、と彼は説いた(と僕は理解した)。
 大事に大事にして蓄え、はぐくんできた「もの」を一気に蕩尽する快感とエロスへの性向こそが、人間を動物から峻別するものである、と。
 その究極の「もの」こそ「わが命」であり、それを無駄に滅ぼすことに伴う喜びが「愛」の本質なのだ、と。

 恋とは、要は生殖の美名である。自己と種族保存の本能に裏打ちされた行動が「恋」である。だから動物にも「恋の季節」はやってくる。だが根底に自己破壊衝動を隠す「愛」は、非動物的である。

 なるほど、愛に自己犠牲はつきもの。愛国心で人は死ねるが、国に恋するヤツはいないよね。
 
 クリモトはさらに説く。 
 愛の本質である「自己犠牲」で快感を得られるのは、「自分の命を蕩尽した人」=「愛した人」だけである。「愛された人」には何の得もない。愛されることも喜びかもしれないけど、それはおまけみたいなもので、時にはそれが迷惑なこともある。
 つまり愛とは、カンタンに言っちゃうと、実に自分勝手で、時には迷惑なものなのだ。
 だから「君を愛している、だから君は僕に感謝すべきだ」というのは大きなマチガイであって、「君を愛しています。僕はこの愛に命をかけて快感を得たいと思います。迷惑だったらごめんね」というのが正しい態度なのだ。

 こんなことを読んだり考えたりしている最中、コイズミの歌声が響いたというわけだ。歌詞を書いたのは誰かなんて、気にしもしなかったが。

愛をごめんね/愛をごめんね
君が全て知っていると思っていた

 その後、そんなに多い機会じゃないけど、「愛をごめんね」と胸の内でつぶやいたことが、確かにあった。

 あれから四半世紀(だってよ、おい)。すっかり忘れてたところに、またとびこんできたのだ。

真っ白な砂は/正直な気持ちさ
度が過ぎた愛しさを/あやまろうと思う
ごめんね、SUMMER

 25年前のあれが、センセイの作とも知らずに、ごめんね、秋元センセイ。


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 いよいよ午後からは東北道を一路北へ。
 さあ何が待っていることでしょう。ドキドキ。
 ちゃんと録音できた、久しぶりのANNを聞いて行きましょう。