青空片想い2 | Commentarii de AKB Ameba版

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Tag:片想い、「僕」の歌

 一昨日に引き続きこの曲。歌詞のバックグラウンドについての雑感。
 歌い出しは、「僕」が偶然を装って「君」とすれ違う朝の情景。偶然のふりをして女の子とすれ違うというというのは、その名もずばり「偶然の十字路」等々でもみられた。
 それに続く歌詞。

名前も知らない野花(のばな)に惹かれて/手折(たお)ることもなく 遠くから眺めてる
このまま枯れずに咲けばいい

 「野花(のばな)」に「手折る(たおる)」。
 どっちも少し古風な香りのする言葉で、若い女の子たちの歌にはあまり出てこない(「君が手折りし桃の花」という歌詞が「蘇州夜曲」にはあったね)。

 「野花を手折る」で思い出すのは、このゲーテの詩(と曲)。

童は見たり/野中のばら

 で始まる詩の第2スタンザ、

手折りて行かん/野中のばら
手折らば手折れ/思い出ぐさに
君を刺さん/紅におう
野中のばら

 リンク先にもあるように、ゲーテが自分が若かったころの、フリーデリーケという女の子との恋について書いた詩。

 ゲーテは基本モテモテの人で、いっぱい恋愛をしたらしいんだが、その中でもこの恋は、後で振り返って「彼女に悪いことしたなあ」と反省しきりだったとのこと。大学生だったゲーテは、彼女とつき合うだけつき合って、卒業したら黙っていなくなっちゃったんだそうだ。

 彼女はその後生涯独身だったっていうんだから、ゲーテ悪いよねえ。

 これにシューベルトとウェルナーが曲をつけた。今はどうかわからないけど、中学か高校の音楽の教科書に載っていたと思う。当時はそれが恋の隠喩であるとは知らなかったし、気がつきもしなかった。

 今だったら「野に咲く花を手折る」、というのは「女の子を喰っちゃう」って意味だよーってすぐに判るのだが(この「喰っちゃう」というのも隠喩だけどね)。

 秋元康が「青空片想い」を書いたとき、頭にゲーテのこの詩を思い出していたんじゃないかな、というのが僕の想像。彼ほどの作詞家が「野ばら」を知らないはずはないし、わざわざ「野花」「手折る」という言葉を使うのには意味があるんだろうと思う。

 もっともモテモテのゲーテは、さっさとフリーデリーケを「手折」っちゃって、血を流すことになるのだが、「チームこっちがわ」の「僕」は手折ることなくじっと見守り続ける。つーか女の子を「手折る」スキルを身につけるには、もう少し苦労しなくちゃなんないんだけど。

朝露みたいに瞳が濡れても/僕はここにいて盾になる
味方の一人でいるから
誓いは片想い/君は知らなくても構わない

 「僕」のスタンスは、まるで貴婦人に忠誠を誓った騎士のようだ。

 こういう純粋な片想いができるのも思春期の一瞬だけだよな、とは思う。

 でもホントは、傷つき傷つけ合う恋愛をするのが人生だぞ、とか、「声に出さずに励まそう」じゃあ伝わらないし、彼女もわからんぞ、とかオジサンが思うのも事実。
 で、次のレッスンは「大声ダイヤモンド」というわけ。