一歩動く前にまずはグダグダ言え | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

例によって最初に断わっておくが、これは個人的な考え。

そして、最近誰かにそういうことを言われたというわけでもない。

むしろ、前から疑問に思っていたことを今やっと書くだけ。


今までの人生のなかで、直接言われたり、誰かが言われているのを聞いたり

あるいはテレビドラマや映画の中でも聞いたのとかいうのも含めて


「グダグダ言っている暇があったら、まずは動け」


といった言葉を耳にしたことがある人は多いと思う。

オレはその言葉の根拠に以前から疑問を抱いている。


完全に間違っているとはいわない。それが吉と出る場合もあるのはわかる。

ただ、吉と出るか凶と出るかは動いていないとわからない。


――『活動的な無知より、恐ろしいものはない』


これはゲーテの言葉である。


例えば、あなたが迷っていたり、行動に伴うリスクについて周囲に相談している時に

誰かが「グダグダ言っている暇があったら、まず動け!!」と言ってきたとする。


言ってきた人間は、そこまで言えるほど責任を背負えるのだろうか。

あなたがどこまでの能力を引き出せるかとか、どこまでの潜在能力を秘めているのかとか

自分なりに分析した結果、そうやって言っているのだろうか。


おそらくそこまで理解していない。

ほとんどが精神論と、「そうやって言うのが本人のため」と言った思い込みから出ている

言葉だろう。


その言葉を受けたほうが、よく考えなかったり悩んだりしないまま行動に移し、結果として

大きな失敗を犯したところで、言った側は発言の責任も取らなければ、謝罪もしないだろう。

これは今までの経験だ。


もし成功した場合は

「ほら、オレが言ったとおりに、まずやってみてよかっただろ!」とくる。


失敗したらしたで

「でも、精いっぱいやってダメだったんだから、それはそれで良い結果だよ」

「ひとつ、『これは自分に出来ない』ってことがわかっただけ、前進だからよかったじゃん」

とくるのがお約束。


つまり… どちらにしても、「オレの言う通りにして、よかっただろ」と言わせるような流れになる

ことが多い。


言った人間や状況の規模にもよるが、オレはこういった発言に対して、動いた人間に対する

「前向きな励まし」だとは感じない。むしろ「やってみろといった側の巧みな責任逃れ」として

映る。 ひねくれているからね(笑)


美輪明宏も書いていたが、何か行動を起こす前に、最悪な結果も含んであらゆるネガティブな

状況を頭にめぐらせてしまうというのは、その人の想像力が豊かな証拠である。

これにはオレも思いきり共感する。


あなたに対して

「グダグダ言っている暇があるなら、まずは動け!」と言ってきた人は他の人に比べて

度胸と行動力はあると思える。


だけど、想像力はあるだろうか。

最高の結末だけでなく、ゲームブックや推理サスペンスゲームのシステムのように

20パターンくらいの最悪の結末をシミュレーションしたり、想像したりする能力はあるのだろうか。


それを踏まえたうえで、まずは動けと言っているのだったら発言する資格はある。


でも、ほとんどの人がきっと備えていない。

自分が今までそうしてきたから、他人にも勧めているというだけの根拠だと思う。


さらに言ってしまうと、相手の能力や行動力に関係なく、迷っている人間やグジグジ言っている

人間には、そうやって勢いづけることが優しさだという思い込みなのだ。


何かあれば悩む前に動いてきた人を見てくると、見えてくるのは

「この人は積極的なのではなくて、想像力に欠けているから、選択肢が『まず動く』の

ひとつしかなかったんじゃないだろうか」といった背景。


ただ、自分の想像力のなさを欠点として認めたくないから、自分の中で「行動派」と

と思うようにしている。 観察しているとそう感じる。


精神論とか気持ちの持ちようとかでなく、それこそ世間が好きなシビアな現実的な結末を

見てみたい。まず動いたことでどれだけの人が良い結果にたどり着いたか?


そりゃあ、まず動いたことで良い結果につながった人もいるにはいるだろう。

だけど、おそらく過半数が情報不足や忍耐的なもので失敗していると思う。


悩んでいることを実行に移した結果として、良い結果はもちろん、そこにありえるあらゆる

最悪の結論や、そうなった時、自分が果たして耐えられるか。自分以外の誰かに迷惑を

掛けないか? 最悪な結果でへこんだことにより他の作業などに影響が及ばないかとか

そういうことまで考えてこそ、思想の備えなのだ。


まさに、備えあれば憂いなし。


あらゆるパターンを想定し、散々考えて周りからいい加減に動けよと言われるくらいまで

悩んでから動くことこそが備え。そして計画性というもの。


「前向き」と「計画性のなさ」は紙一重だと思う。


悩んでいても始まらないからまずは前向きに動く。

…と言って最高の結果しか考えず動き出すのは、大した装備もせず山頂からの景色の美しさを

見ることだけを励みにして、へインズのティーシャツ1枚で真冬の雪山に登ろうとする行為に

等しい。


オレだったら、出発がかなり遅れたとしても、あらゆるアウトドアショップを歩いてまわり、

必要な道具を見極めて購入してから、山の地図を何度も見直し、たとえリュックが重量

オーバーでパンパンに重くなっても、そこまで備えてから出かける。


自分でやることは、最後までやりたい。

知識不足や、忍耐不足、情報不足により途中挫折して引き返し、

「でもできる限りはやったから後悔はない」

とかいう綺麗ごとはいいたくないのだ。


だったら、最初から「やらない」と決めたほうがマシ。


まわりはグダグダ言っていないで、とにかく動けと急かすケースは多いが、そうやって行動を

急かす人間というには意外と相手の得意不得意を理解していない。


行動途中で失敗した原因を訴えると、急かすだけ急かしてグダグダ言うなと言っていたくせに

「そんなこと最初に言っていなかったじゃないか!」

とすべてを本人のせいにしてきて、自分が急かしたことの責任を逃れようとする場面は多い。


本当に成功したいことに挑む場合は、徹底的に死ぬほど慎重に、創造できるすべてのケースを

想定してから動くようにオレはしてきた。


オレは数年前から文学を志してきたが、開始する間ではかなり悩んで考えた。

その結果、かなり遅れてのスタートとなったが、オレにとっては正解だったと思っている。


原稿の書き方とか、物語の進め方とかを勉強しただけではなく、執筆を開始し、それを継続するぉとによって起こったりすることや、周りの反応などあらゆる状況を思い浮かべられるだけ想定した。


結果として報われるか報われないかとか、金につながるかとかいう問題だけではない。



夜に家に帰ってからまで原稿に向かって頭を悩ませてストレスにならないだろうか?


そんな99パーセント報われないような作業やってどうするんだとか、そういう時間があるならば

何か資格の勉強でもしたほうがよっぽど有意義なんじゃないかとか批判したり、鼻で嗤う奴が

いても、相手にせずに書き続けることができるだろうか?


批判を受けなくとも、オレ自身急にいやになって投げ出したりする可能性はいくらくらいあるだろうか?


そもそも書くことに何か意味があるのだろうか?


これは何かの勢いだけじゃなくて、本当にオレがやりたいと思っていたことなのだろうか?

やるべきことなのだろうか?



書くことから発生しうるあらゆる過程および結末、そして自分自身への意思確認をしこれでもかといくらいに繰り返した。


あらゆることを時間かけて何度も考えた結果、やはりオレは「書くべきだ」と決めたのだ。

時間をかけてグダグダ言った末に本格的に実行に移して正解だったと思う。


「報われない」「バカにするやつがいる」など、可能な限りの最悪パターンはすでに想像した。

つまり、実際にそういうことが起きても、もう心の準備はできている。

免疫のワクチンはもう心に打っているのだ。

だから失敗したり批判されても、そこで投げ出したりはしない心構えは出来ていたのだ。


もし、最初に何も考えずに、「悩んでもしょうがないから、まずは一歩動こう!」と

意気込んで開始してしまっていたら、オレは執筆開始後すぐに煮詰まったり、現実的な

利益のことを気にしだしてしまったり、バカにされるのが嫌になったりして、書くことをすぐに

やめてしまっていたに違いない。


つらくとも、そこを乗り越えれば継続してゆける力が自分にあることに気づかずに、あっさりと

文学から撤退してしまうというもったいないことをしていただろう。



開始する前に、散々悩んで、グダグダ言ってから始めて本当によかったと思う。

グダグダ言って開始するのを慎重に悩んだからこそ、今こうして3年間毎日のように書き続けることが出来ている。


オレには、まず動くことよりも、最初にグダグダいうほうが向いていたのだ。

だからこそ、慎重かつ冷静になり、抵抗要素に対する免疫も持って、根気よくこうして書き続けて

いることが出来る。




「一歩動く前に、まずはグダグダ言え」といったひねくれたような記事タイトルにはしたが

まあ、言ってしまえば、売り言葉に買い言葉だ(笑)


世の中にあまりにも「まず動け!」的な体育会系的風潮が増えたから極端な記事タイトルにしたけど、まず動いたことで成功につながった人もいるというのは認める。


でもね、それは誰にとっても正解じゃないと思うんだ。

だから、それを良い標語みたいな風潮にしてしまうのは逆に危険かと。


世間てね、失敗した人の例はあまり表に出さないで、成功した人の例ばかり表に出すんだよ。

悩まずにいきなり一歩踏み出してしまったことで、その一歩が取り返しのつかないようなことになったり、大きな代償につながった人とかも絶対にいると思う。

そこをよく考えて、慎重に発言してほしい。


人にはそれぞれ、その人に適合した動き方やタイミングというものがあるはずだとオレは

信じている。




「グダグダ言っている暇があったら、まずは動け」…



それは本当にあなた自身の心の底にある行動哲学だろうか?


親から教わった。

恩師から教わった。

好きなアーティストがそう語っていた。

周囲の多数がみんなそう言っていた。

昔からそう言われてきた。



そうやって誰から言われたとか、叩き込まれたとかでなくて本当に自分自身の素直な哲学で

「まず動くべき」だと考えているのならばそれは尊重する。


だけど自分に合ってる生き方が、他人にも合っているとは限らない。

だから考え方の押し売りはいけない。


本当に相手のことを心配しているのならば、自分の思想や成功例を押し付けるのではなく。

たとえそれが自分の信念に反していたり、一般的にマイナスとされるような考え方であっても

相手の性格や能力をちゃんと考えたうえで相手に合った助言をするべきではないだろうか。


もっと根本的な問題なんじゃないかな、これって。

だけど決してそんな難しいことじゃない。


「すぐ動く」か「動かない」なんて実はそれほど重要じゃないんだ。


重要なのは、その判断が誰かに言われたとか、世間の風潮に流されてとかじゃなく

本当に「自分自身の考え」かということではないだろうか。


オレはそう思うんだけどね。



日本人て、なんか個々の思想を尊重するよりも、一体化したポジティブ正解を固定したがるよな。


今日は書いてて、いつにも増して疲れたからこれでおしまい。