オレはコミュニケーション能力があるのかもしれない。 | 昭和80年代クロニクル

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古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

いつも自虐的なことやマイナスなことばかり書いているので、今日は珍しく

自慢話をさせていただきたい。

 

昔いた会社で広告の仕事をやっていたとき、営業で繁華街のキャバクラ・パブや

不動産業者、ネイルサロンなどを回っていた。

歌舞伎町にRという不動産屋があって、そこも担当だった。

月に2,3回ほど顔をだしていたのだが、いくといつも決まってお馴染みの従業員の

人たちがいて、とても良くしてくれていた。

そこにSさんという部長だったかな。とにかく店舗でちょっと偉い人がいてよく話して

いたのだが、あるとき、自分で独立して企業するとのことでRを辞めた。

ああ、寂しいなあと思っていたのだけど、近くに事務所をかまえたらしく、独立した

あともよくRに遊びに顔をだしていて、オレが営業でRにいったときもよくあった。

 

ある日、オレが営業にいったら、入れ違いでちょっと前までSさんがまた顔出しにきて

いて、従業員の人と楽しく話していったとのこと。

そこでさっきまでSさんと話したRの従業員の人から、

「ああ!今、Sさんが来ていたんですけど、○○さん(オレ)のこと、めちゃめちゃ褒めて

いましたよ!『ああいう営業マンがうちにも欲しいよ』っていっていました!!」

と聞かされた。

すごい嬉しかった。

 

また池袋にもAというロシアンパブの客さんがあって、そこも社長含めた従業員の人ととても

仲良くしてもらっていた。

こちらも月に2回くらい通わせていただいていたのだが、ある日、集金いくと社長が

不在だった。でも社長と同じくらい仲良くしてもらっていた若い男性の従業員の方がいて、

その人が対応してくれた。そのとき、

『社長が○○さんのことすごく評価していました。このへん(池袋)回っている営業マンの

なかではたぶん一番やり手なんじゃないかって!』

と聞かされた。

すごい嬉しかった。

 

西新宿にはCというネイルサロンのお客さんがいて、オレよりも若い女性がオーナーだった。

ある日、新人の女の子が入ってきたから同行でその店に一緒に連れていった。

店にいくとオーナーがでてきて今日は新人を連れてきたということを伝えてそれから

一通り仕事の話をした。帰り際、女性オーナーが同行した女の子に向かって、

「この人(オレ)、すごく仕事できる人だから一緒にいると勉強になるよ!」

と笑顔でいってくれた。

これまたすごい嬉しかった。

 

歌舞伎町のRと、池袋のAに関しては、とくに嬉しかった。

なにが嬉しいかって、Sさんや社長本人から直接言われたとするならば、お世辞の

可能性も否定できないが、第3者から「○○さんのことを褒めてた」といわれたことが

リアル味あって嬉しい。この気持ちわかっていただけるだろうか。

 

オレにはこれだけ気にいってくれているお客さんたちがいる。

改めてそう思った。

会社で上の上にいる人間からは、仕事が出来る人間、お客さんに求められている人間として

認識されたことはたぶんなかった。

 

でもオレには実際したってくれるお客さん、オレが顔を出すと楽しそうにしてくれる客さんが

まわりにはいた。

基本、嫌われている人間には出来ない芸当であり、存在であると思う。

 

オレはずっと自分でコミュニケーション能力が無いと思っていたが、実は自分で思っている

以上にコミュニケーション能力があるのかもしれない。

いや、誤解はしないでほしい。

このブログでもずっとしつこいくらい昔から書いてきているように、オレは今でも

「コミュニケーション能力」という言葉、またそれを啓発するような風潮は大っきらいである。

 

でもここ最近、ひとつ気づいたことがある。

「好き・嫌い」と「持っている・持っていない」は、まったく別であるということだ。

 

ボクシングの内藤大助は子供のころ、いじめられっ子だった。

だけど、チャンピオンになった。

内藤のジムの会長はこういった。

「内藤はいじめられっ子だったけれど、喧嘩は強かったんです」

そうなのだ。いじめられっ子は喧嘩が弱いというのは固定概念なのだ。

 

コミュニケーション能力の有無についても同じことがいえる。

 

オレはコミュニケーション能力という言葉は大嫌いだし、その上達を流行らせようとする

風潮も大嫌いだけど、コミュニケーション能力はコミュニケーション能力で十分持っている

のかもしれない。

だから、広告営業マン時代も仲良くしてくれるお客さんがいたのではないかと。

 

「嫌いだから持っていない」「持っていないから嫌い」というのは固定概念。

英語や数学が嫌いだけどしっかり出来る人もいるように、コミュニケーション能力

は嫌いだけれども持っているかいないかといえば持っている人間はいるかもしれない。

 

逆もあることに気づく。

ヘタの横好きというか、実際コミュニケーション能力がまったくない人間が、

「コミュニケーション能力」という言葉がやけに大好きだったり、また、また会議や朝礼

とかで人に向かって、「コミュニケーション能力を身につけなさい!」と偉そうに説いて

いるケースも多いのではないだろうか。

 

みなさんのまわりで普段から「コミュニケーション能力!」「コミュニケーション能力!」と

人にたいして言っている人間がいたら、その人間自体が本当にコミュニケーション能力らしき

ものを持っているか、まずはよく観察してみるといいかもしれない。

実は持っていないということが発覚した時点で、説得力も威厳もすべてなくなるだろう。

それはそれである意味面白いかもしれない。

 

そういえばつい最近、久しぶりの人からLINE電話がかかってきた。

お互いもうやめたけど、7年前くらいに半年間同じ会社で働いていた人だ。

お互いやめてからは、数回しか会っていないけれど、サウナという共通の趣味があるので

2回ほど一緒に銭湯にいった。また行きましょうという話をした。

 

そうだ。

コミュニケーション能力が影響しているのかどうかわからないけれど、オレのまわりには

営業マン時代のお客さん以外にも、今でもずっとたくさんの呑み仲間や友人がいる。

 

大学時代の友人たち。

高校時代の柔道部の友人たち。

それとは別の高校時代の同じクラスの友人たち。

最初の会社で最初の部署だったときの友人Sさん。

最初の会社で2番目の部署だったときの友人・同僚たち。

前の会社で一緒だったサウナ仲間のKさん。

西川口のガススタでバイトしていたときの先輩で今群馬にいるN先輩。

同じ埼玉西武ライオンズファンでブログでも数回登場しているコバさん。

最近会ってはいないけど、年賀状でつながっている友人たち。

そして、このブログでやりとりさせていただいているみなさん。

 

オレは環境的には恵まれていないけれど、友人(フォロワーの皆さん含む)には

恵まれたと思う。ありがたいことだ。

 

オレは結婚する予定はないから、式や披露宴も当然あるはずないが、もし結婚して

披露宴をやることになったら招待客の席決めをする際、うちの親とかは

「何! うちの息子はこんなに友達がいたのか!」

と驚くことになるだろう。

 

決して自惚れているわけじゃないが、まったくコミュニケーション能力がない人間に

ここまで友人知人は作れないだろうという自負はある。

 

いままで賛同をいただいていたアンチコミュ能派を裏切るつもりはない。

オレにコミュ能があろうがなかろうが、オレは今までもそしてこれからもコミュ能という

言葉および風潮が嫌いなことに変わりはない。

 

コミュ能があるのもないのも両方とも個性だ。

どっちかがどっちかを潰すようなことがあってはいけない。

コミュニケーション能力がないことも多様性を考えると個性なので、ある人もない人も

お互いを尊重しながら共存できる世の中をつくっていかないとオレは思う。

 

今改めて考えると、発達障害だったこともあって、大学4年生時の就職活動は苦労して

結局就職浪人になった。

書類選考や筆記試験は突破するのだが、どうも面接がうまくいかなのだ。

それからオレは自分のことをコミュニケーション障害およびコミュニケーション能力が

ない人間だと悩み続けた。

 

でも今ならばはっきりいえる。

企業の面接官のいうコミュニケーション能力と、本当に仲にいい友人を作るための

コミュニケーション能力はまったく別モノである。

 

企業の面接官が求めるコミュニケーション能力というのは、今その場で自分にたいして

どれだけ自己アピールできるかというだけのもの。

つまり純粋よりも小利口な人間。

そこに惑わされたり、そこで自信を失ってはいけない。

 

まわりの友人知人やフォロワーさんに感謝しつつ、今日はこんなところで。