世の中に当たり前のことなどない | 昭和80年代クロニクル

昭和80年代クロニクル

古き良き昭和が続いてれば現在(ブログ開始当時)80年代。昭和テイストが地味に放つサブカル、ラーメン、温泉、事件その他日々の出来事を綴るE級ジャーナルブログ。表現ミリシアの厭世エンタ-テイメント少数派主義ロスジェネ随筆集。

9年前くらいに「遺伝子ぼっちゃん・遺伝子お嬢ちゃん」という記事でも書いたが、

世の中には他人にたいして強く叱ったり強く怒ったりできる人間がいる。

 

そういう人達に限って、そんな自分の強気な性格や人間性を当たり前だと

思い込んでいる。

違う。気づいて欲しい。

自分たちが他人にたいして強くモノを言えるというのは決して当たり前じゃない

のだ。

当たり前どころか周囲に比べて、ものすごく恵まれているのである。

それをわかっていない。

 

この言葉嫌いだからあまり使いたくないが「努力」とか経験とかに関係なく

親が無条件で、「人に強く言える性格」を与えてくれたのである。

 

強気な性格、欲しいか欲しくないかといわれたら誰だって欲しいに決まっている。

だけど、オレふくめ多くの人が親からもらえなかったのである。

俗にいう「人に強く言える性格」の人は、そんな周囲の人がもらえなかった形なきものを

親からもらったわけである。

オレからいわせてもらえば、地球上でこんなに恵まれている人はいない。

 

「オレは言うことは言う人間だから!」

「わたしはこういう性格だからね!」

当たり前のようにこういうけれど当たり前じゃないのだ。

ものすごく恵まれているのだ。羨ましいのひとことに限る。

可哀想なところは「自分は言えて当たり前」と思いこんでいるところである。

強気な性格を親からもらって当たり前という感覚は、オレからみれば

車を親が買ってくれて当たり前という感覚と差はない。

経済的ぼっちゃんお嬢ちゃんならぬ、強気な遺伝子をもらって当たり前と

思っている遺伝子ぼっちゃんお嬢ちゃんである。

 

もっと範囲を広めて哲学的に語れば、すべてひっくるめて世の中に

「当たり前」など存在しないのである。

 

類似語で普通という言葉があるが、普通というものも存在しない

世の中で「普通」といわれているものは要するに「平均」なのだ。

つまりは割合の問題。割合を多くしめるモノが普通と呼ばれる。

 

「当たり前」も同じ。

大多数を占めるモノが「当たり前」と呼ばれ、少数派が「当たり前じゃない」

とされるということだ。

 

ちょっと前の時代だと、男性は女性が好きで、女性は男性が好きで当たり前という

価値観だった。

同性が好きな人が「当たり前じゃない」とされてきたのである。

でも時代とともにそれも変わってきた。

今はどちらも特別じゃない。

つまりは割合だけの問題。

世の中には異性を好きな人のほうが圧倒的に多いというだけで、少数派の人たちは

確実に存在する。

少数派の人たちが存在する以上、どんなに多数派が多かろうと多数派は当たり前では

ないのである。

 

もっと極端な話をすると、「人を殺したいと思わない」という感覚も決して

当たり前ではない。

(最後まで読んでいただければ誤解はないと思うが、決して殺人を肯定している

わけではない)

 

神戸児童連続殺傷事件の犯人である酒鬼薔薇聖斗もそうだが、たまに凶悪殺人事件で

サイコキラーが逮捕されると、供述で「人を殺してみたかった」などと言うことがある。

 

多くの人がその発言を‘オカシイ’と思うだろう。

たしかにオカシイのだ。

オカシイがその感覚は決して「当たり前じゃない」わけではない。

実際に「人を殺してみたかった」という人間が一人以上いるという事実があるだけで

当たり前という定義は消滅する。

だから当たり前じゃないという定義も同時に消滅する。

 

話を戻すと、当たり前というのは単なる割合、つまりはパーセンテージの問題であり、

世の中には、「人を殺したいと思わない」人間のほうが圧倒的に多いというだけである。

まだ事件は起こしていない、あるいは、起こしたけど捕まっていないシリアルキラーも

日本はじめ世界にはいると考えられる。

いいかえれば(ものすごく少ないだろうが)少数派の存在があるということだ。

 

よって、オレその他多くの「人を殺したい」と思わない人は、決して「当たり前の感覚を

持っている」わけではなく、単純に「多数派」というだけのことである。

 

世の中に「当たり前」「当たり前じゃない」などという定義は存在しない。

ただ、多くの人々が「多数派に属している」というだけのことである。

 

殺人鬼の例はまあ極論だが、他のことにおいて少数派の人たちを当たり前じゃない人たちと

特別視して排除する考えはもう排除した方が良い。