この前は憲法記念日があった。
今にはじまったことじゃないが、やはりその際も自衛隊についての議論が各所で
かわされている様子だった。
三島由紀夫が「若きサムライのために」という自著エッセイの中で自衛隊に関して、
「彼らは自分たちのやっていることの無用性、効用のなさに耐えられないと言ふんだよ。
それはわれわれが文学をやることと、ある意味では似ているんだ」
と書いていた。
それ以上の意味は記していない。
だから、もしかしたらオレがその意味を履き違えているかもしれないが、そうだとしても
その言葉から改めて確かに似ている部分をオレなりに感じた。
以降はすべてオレの見解。
三島が言うとおり、たしかに「自衛隊」と「文学を行う者」に間には似ている部分が存在して
思える。
なんだかんだ言っても日本は平和主義だ。
ここ最近はアジア情勢がピリピリしてきているとはいえ、長い戦後の歴史の空気や流れから
考えると、そう簡単に核弾頭が飛び交うような戦争はおきないと思える。
いくら仲が悪いとはいえ、隣国だってそこは慎重にくるはず。北朝鮮はわからんけど。
あれだけの訓練をし、空母や爆撃機などのそれなりの高性能は戦力(メンドクサイから
ここでははっきり戦力と言ってしまうが)を保持しているとはいえ、最終的にそれが他国の脅威や
攻撃に対して火を吹くことはないまま終わる可能性は高いと思える。訓練ではしょっちゅう火を
吹いているかもしれないが、実戦ではきっと吹かずに終わる。
ただ、平和を考えて言えば、まともに使用せずに戦力としての役割を終えるのがべストには
違いない。
オレは集団的自衛権に関していえば、前にも書いたとおり、限りなく反対に近い賛成、
消極的賛成である。それは今のところ変わらない。
だが平和は当然望んでいるので、その望みも含んだうえで言えば、自衛隊は最後まで
その本来の役割をおえないまま、戦力として戦闘シーンに出ることのないまま存在を終える
のがもっともよい情勢であるのは間違いない。
でもオレや多くの人の希望に関係なく、そんな簡単に戦争が起きることはないだろうから
自衛隊が自衛隊として登場する瞬間はきっとない。
三島が書いた「彼らが感じる自分たちの無用さ」というのはそういうことじゃないだろうか。
だからといってその存在はなくてはならないものであるし、自衛隊員は絶えず訓練をしないといけないのだ。緊迫した場面は絶対にこないわけではないから、99%平和が続くと思っていても
それが100%じゃなければ自衛隊は存在して訓練を続けなければならないと思う。
オレもそうだし、オレの文学有志、そのほか文学賞などの表現の道を志してる人間も、
心のどこかで執筆や表現活動を継続することに対する「無用さ」を憶えたり感じながらも
それを続けているのではないだろうか。
ひょっとしたら一部のプロの人ですら……。
オレが感じている文学に対するその「無用さ」は2種類ある。
ひとつは純粋に現実的な結果をもとめるうえでの「無用さ」だ。
文学賞を目指しているヤツも、自分の能力をはるかに上回る文才を脳ミソに搭載した
ヤツも世の中にたくさん存在する。天文学的な数字レベルで存在すると思う。
そんな強豪が多い世界。
毎日疲れて帰ってきてからパソコンの原稿画面を立ち上げて必死に文章考えて打ちこんで
までやって果たしてそれが結果につながるのだろうか。強豪がひしめく世界で、どう考えても
オレなんかが結果を出せるわけがない。
オレが今時間を費やしてやっていることこそ無駄というか無用なのではないだろうかという
不安と弱気にたまに襲われる。
それがまずひとつ。
そしてもうひとつは賞関連はとれないにしても、間違って何かちっぽけな活躍を得て自分の
文章や表現を日本中に発信できたとして、それで何か変わったりするのかということ。
一万歩譲って、結果が出せたとしてもそれが何かを変えたり救えることになるのかという
意味での「無用さ」だ。
自衛隊はおそらくこの先、本当の戦争に繰り出す機会はないと思う。
だけど、もしものために存在はしないといけないし、訓練もしないといけない。
オレもこの先、どんなに頭を悩ましてストーリーや文章を考えてながら執筆を続けても
はっきりいって確率的に何かの賞を受賞することはないだろう。
毎日文章を書いて賞を目指したまま、最終的には文壇に立つことも文学賞を受賞することもなく
一生を終えるだろう。
一緒にしたら失礼だと思うが、一部の角度的なものでは毎日厳しい訓練を繰り返すが
最終的には日本で戦闘をすることなくその任務を終える。
でも、それでいいのではないか。
何かあった時のために自衛隊とその訓練は必要なのだ。
なんだかうまく言えないけど、文学を続けるものも同じ。
純文学は非生産的だと言われることがある。
しかし自衛隊も戦争が起きない限りはある意味非生産的ではあるのだ。
批判ではない。むしろこれは重要だということの裏返しの表現だ。
普段、非生産的な存在ほど、なにか有事が起きた時にはもっとも重要な存在になりうると
オレは思っている。
それは文学にも通じるものがある。
人々が指南書やマニュアルのような書物しか読まないようになった時代には日本人の
発想力の平均値が一気に下がると思われる。
すべてがマニュアル化されたり、思想が一色に染まるということはある意味で
細菌兵器のような脅威ではある。
そんな時に文学という存在は、その毒を中和するクスリとなるのではないだろうか。
文学を継続する人間はそういう時にために書くことを継続させているのだ。
そう言いたい。
そして、自衛隊は実際の戦争に参加しなくても災害発生時などにおいて、人命救助なども
行っている。
そういった意味では文学を目指したり、文章を書いて発信している人間も、一部の読者を
楽しませたりはしているという部分では似ているのではないだろうか。
賞がとれなかったりプロにはなれなかったりしても。
また、自衛隊が訓練しているのは決して国や国民を守るためだけではなく、極限状態に
来て時、自分自身も生き延びれるようにという意味もある。
だから体を鍛えている。
文学をやる人間もそうだ。
金とか結果だけのためじゃなく、自分自身の想像力は発想力が衰えてこないように毎日
何かしら書き散らすという訓練を続けているのだ。
この先ほんとうに何が起こるかわからない。
無人島や、焼け野原にいる時にパワーポイントを使いこなせる技術があったところで
何も役に立たない。
生産に直結する能力や、人から言われたことにしっかり従う能力があったとしても
それはそのステージがしっかりしているという前提があっての話。
つまりは従属する組織がまともかどうかということ。
これから先には組織の倒産もまだ続くだろう。
単純に自分の時間を切り売りする生き方だけでなく、自分の能力を切り売りする生き方も
身につけていかないと、本丸が崩れてから自力で何も出来なくなる。
だからそんな日にそなえて自衛隊が生き残る知恵や忍耐力をつける訓練をするように
オレも自分で何かやらないといけない時が来ることに備えて、毎日のように何かしら文を書いて
発想力や創造力が衰えないようにしている。
文学だけに限らず、描いたり、歌ったり、踊ったり、演じたり、噺したり、演奏したり、
する人は皆、思想が一色に染まるのを防ぐカルチャーの自衛隊のようなものではないだろうかと
最近感じる。
自衛隊にも陸上自衛隊や海上自衛隊や航空自衛隊があるように、表現者にも
ブンガク自衛隊があったり、オンガク自衛隊があったり。
うーん……今回は書くのがすごく難しいテーマだった。
言いたいことを上手く伝えられたか自信がない。
誤解もまねいているかもしれん。
最初の方で読むのやめた人もいそうだな(爆)
そんな中でも最後まで読んで頂いたパソコンの前のアナタには素敵なお知らせ♡。
↓
オレも行けたら行くかも。