広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

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 景数  98景 
 題名  両国花火
 改印  安政5年8月 
 落款  廣重畫
 描かれた日(推定)  安政5年5月28日

両国花火

改印が安政5年8月で、広重の死の直前の改印がある3枚の絵のうちの1つである。
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隅田川では毎年5月28日から舟遊び、両国橋付近での花火、両国橋東西の夜店が許され、これを川開きと呼んだ。川開きはもともとは、享保2年(1717年)に水神祭の余興として、鍵屋が花火を打ち上げたのが始まり。花火師は玉屋と鍵屋が有名であるが、玉屋は鍵屋の六代目の番頭の清吉を別家させたもの。ところが玉屋は天保14年(1843年)に2度目の失火をしてしまい、江戸所払となった。以後、鍵屋が花火を扱うが、掛け声だけは「たまや~、かぎや~」と呼ばれれいる。
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この辺りの安政地震による被害を見てみよう。
まず両国橋は地震のとき掛け替え中だったようで、地震後の安政2年11月23日に早くも修復されている。百景は安政地震の復興を描いているとされるが、改印が安政5年8月で2年半も建っていることから、地震後の復興を描いたとするテーマからは外れる。
 次に、対岸に白い三角の屋根が見えるのが御船蔵である。地震での被害は、「江戸大地震取調 相沢宅右衛門」では「御船蔵壱棟潰」とあり、大した被害ではなかった。初期の摺りでは、御船蔵の壁が白く浮き出ているものがあり、以後の作品よりはっきり建物が確認できる。ただし過去の作品の江戸名所 両国大花火(有田屋 天保11~13年)では、御船蔵を前景で堂々と描いているところからすると、この構図は幕府の防衛施設を控えめに描くという百景の傾向そのものである。

両国大花火_有田屋

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最後にこの絵が描かれた日の推測をしてみよう。
過去に描かれた川開きの花火の絵と比較すると、どこかわびしい感じがする。広重が迫りくる死を悟ったように思う。死の直前に描かれたとすると、安政5年の両国川開きなの5月28日となる。
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この記事で参考にした本

江戸川柳歳時記

江戸の日暦〈下〉 (1977年) (有楽選書〈15〉)

広重 名所江戸百景

広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))

 景数  97景 
 題名  小奈木川五本まつ
 改印  安政3年7月 
 落款  廣重筆
 描かれた日(推定)  安政3年7月

小奈木川五本まつ


 小名木川の大横川と横十間川の中間地点に、大きく張り出している松がある所は五本松と呼ばれた。かつては5本の松が植わっていたが、絵にあるように他は枯れて1本だけになっていた。この松は、綾部藩九鬼家の下屋敷に植わっていた。
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この絵のモチーフとされた江戸名所図会にも五本松が描かれている。小名木川のカーブが図会では左、百景では右になっているが、実際は直線の川であるのでデフォルメされている。両絵とも船が描かれているがこれは行徳船で、小網町と行徳を結ぶ船便である。乗客が川面に手拭いを濡らしているところも一致している。

小名木川は、かつては行徳塩を運ぶため開削された。当時は小名木川の辺りまで海で、海の近くに水路を掘る沿岸運河という方法がとられた。海岸沿いに水路を掘ることで、掘削する土の両が少なくて済み、また運航も波の影響を受けにくく、安全で安定した塩の輸送が可能となったのである。
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この辺りの安政地震の被害は、武江年表に猿江町の近くの寺院が倒壊、猿江裏町は3件を残して倒壊したとある。切絵図を見ると猿江町と猿江御材木蔵の間に、数件の寺院があり、これらが倒壊したのだろう。この辺りの震度は6弱と推定され、記録にはないが多くの家屋が倒壊したと考えられる。ただ五本松が大丈夫だったので、火災はなかったようだ。
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最後にこの絵が描かれた日を推測してみよう。
広重は小名木川のカーブを右カーブに変更している。これは小名木川の北側の町屋が遠くまで見通せるようにデフォルメしたと考えられる。安政地震によって、小名木川の北側の町屋は多くは倒壊してしまったが、この絵では復活している様子がわかる。改印の安政3年7月で地震から9ヶ月、深川の復興を描いたのだろう。


この記事で参考にした本
広重 名所江戸百景
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武江年表


 景数  96景 
 題名  堀江ねこざね
 改印  安政3年2月 
 落款  廣重画
 描かれた日(推定)  嘉永5年(1852年)2~3月

堀江ねこざね

 百景シリーズで改印が安政3年(1856年)2月と最も古い5枚のうちの一枚である。

 絵に描かれているものを見てみよう。
 中央を流れる川は、利根川(現在の江戸川)で、前景の「鴻の台とね川風景」で崖の下を流れていた川の河口付近にあたる。川の左側が堀江村、右側が猫実(ねこざね)村である。猫実とは変わった呼び名の地名であるが、その由来は古くから津波の被害を受けていたこの地は、津波のための堤防を作りその上に松を植えた。それ以後、津波はこの堤防を越えることがなかったのである。松の根を越さぬ、がなまって「ね、こさぬ」が「ねこざね」となった。

 ねこざねは、あおやぎ(ばか貝)の産地でもあった。ばか貝はカラが薄く、剥き身を作る剥ぎ子泣かせの貝であった。カラが薄いことから破家蛤と名づけられ、それがいつしか馬鹿扱いになってしまった。味はアサリより上である。

 絵の手前に鳥を捕っている人がいる。砂浜の鳥は大膳(だいぜん)という千鳥の一種。それを千鳥無双網と称する網で捕ろうとしている。
 猫実村の林の中の神社は、豊受神社、川にかかる橋は境橋である。(船橋市ホームページより)

 安政地震では堀江村、猫実村とも被害の記述はないが、安政3年8月の台風では大きな被害が出た。堀江・猫実のあたりは潰れ家がおびただしかった。(安政風聞集)

 広重が猫実を描いた意味を考察してみよう。広重は後にも先にも猫実の地を描いたことはなく、江戸から遠く離れた名所とは言い難い猫実を百景に、しかも最初の5枚に入れたということは、この揃物がそれまでの多くの江戸名所絵シリーズのように、もっぱら江戸土産として他国の出身者のみを購買層としているのではなく、江戸の町に長く住み、この町の伝統性に強い関心を寄せる人々をも視野に入れて制作されたのではないかという想像である。(広重と浮世絵風景画)


 最後にこの絵が描かれた日の推測をしてみよう。千鳥のだいぜんは、冬毛と夏毛があるので時期を特定できればと思ったが、あまりにも小さすぎて無理。人々の服装から冬の服装であることが分かる。広重は、嘉永5年(1852年)2~3月に房総方面へ旅をしているので、そのときに通りかかった猫実をスケッチしたと予測される。

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江戸文学地名辞典


広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))

江戸・町づくし稿〈下巻〉

実録・大江戸壊滅の日 (1982年)


高橋誠一郎コレクション浮世絵〈第5巻〉広重 (1975年)
江戸東京湾事典
絵本江戸土産

 景数  95景 
 題名  鴻の台とね川風景
 改印  安政3年5月 
 落款  廣童画
 描かれた日(推定)  安政3年3月

鴻の台とね川風景

 今にも崖が川側に崩れそうな崖は、鴻の台と呼ばれた台地で、江戸近郊にある名所の1つであった。
 鴻の台は国府台とも書かれ、奈良時代には中央官庁の出先機関である国府が置かれたことから名づけられた。要害の地として滝沢馬琴の南総里見八犬伝の発端となる里見氏が居城をかまえていた。

 広重は絵本江戸土産で同じ構図で描い絵いる。しかし崖の形が異なっていて、絵本江戸土産の方が緩やかになっている。百景の方は今にも崩れ落ちそうなくらい湾曲している。地質学的にもこのような地形はありえず、広重がデフォルメしたと考えられる。

最後にこの絵が描かれた日の推測をしてみよう。高橋誠一郎コレクションでは、高台の木はピンクになっており、桜のようだ。また全体的に緑が多い。縦絵東海道も緑が多いが、安政2,3年の広重の特徴である。
 このような理由から安政地震後に描いたとすると、安政3年3月頃に描かれた絵と考えられる。

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江戸文学地名辞典


広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))

高橋誠一郎コレクション浮世絵〈第5巻〉広重 (1975年)


広重 名所江戸百景

絵本江戸土産

 景数  94景 
 題名 真間の紅葉手古那の社継はし
 改印  安政4年正月 
 落款  廣重画
 描かれた日(推定)  安政3年秋

真間の紅葉手古那の社継はし

 江戸名所花暦に
「真間山弘法寺、下総国着飾郡、江戸より三里余。本堂の前に楓あり。高四、五丈余、たぐいなき名木なり」
とあり、この名木の間から風景を描いたものと思われる。

 題名の解説をしてみよう。
 真間は地名で現在の市川市の丁目として、京成電鉄の市川真間駅、真間川などに名前が受け継がれている。
 手古奈とは手古奈伝説のことで、手古奈という美女が住んでいて水汲みなどの仕事をしていたが、言いよる男が多く、しつこい男たちを扱いかね、また長くない一生をはかなく思い、真間の入江に身投げしてしまった。人々は哀れに思って霊を神に祭った。絵に見える鳥居のあるところが手古奈明神である。
 継はしとは、真間の入江は砂洲が多いが、その砂洲を渡す橋を継橋と呼んだ。継橋は絵の真ん中辺りに見える。

 次に絵の色合いを見てみよう。 
紅葉は退色して紫かかっているが、元は赤だった。赤は退色しやすい。

 最後にこの絵の描かれた日を推測してみよう。
 広重は真間の絵を嘉永3年刊行の絵本江戸土産の1編に描いている。ただし構図は似ていない。しかし江戸から東に向かった中で最も遠くの絵をわざわざ出向いたとは考えにくく、この嘉永3年の絵から想像して描いたのではないかと推測する。

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江戸名所花暦

高橋誠一郎コレクション浮世絵〈第5巻〉広重 (1975年)


 景数  93景 
 題名   にい宿のわたし 
 改印  安政4年2月 
 落款  廣重画  
 描かれた日(推定)  安政3年冬

にい宿のわたし

 水戸街道が中川を渡るところに宿場町があり、それを「新宿(にいしゅく)」と呼んだ。現在でも葛飾区に町名を残しており、新宿踏切は渋滞する場所として交通情報で、良く出てくる地名である。

 新宿は水戸佐倉街道の宿場町として知られてる。江戸開府前、北条氏の支配のころに既に整備されていた宿場町である。江戸から新宿を過ぎると、水戸街道と佐倉街道が分岐する。

 この絵は中川の亀有側からにい宿側を描いていおり、亀有側にあった料亭が描かれている。にい宿の名のある料亭は、藤屋、中川屋、亀屋などがあり、中川でとれる鯉や鱸を料理として出していた。

 にい宿の渡しは広重が過去に描いていない場所であるが、同時期に刊行された「絵本江戸土産」7編に構図を変えて描いている。これを見ると百景では1件しか描かれいない料亭が、数件あることがわかる。
 
さて最後にこの絵が描かれた日を推測してみよう。絵本江戸土産には中川が夏秋は増水して海のようになるとあり、また描かれた人々が厚着であることから、冬の絵と推測できる。

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東京の地名由来辞典

絵本江戸土産 7編


 景数  92景 
 題名  木母寺内川御前栽畑 
 改印  安政4年12月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政4年秋

木母寺内川御前栽畑

 題名になっている御前栽畑とは、将軍に献上するために四季の野菜を育てている場所のことを言う。

絵に描かれているものを見ていこう。手前の舟から芸者が下りて向かっている先の建物が、
蜆料理で有名な植半という料亭である。御前栽畑周辺には他にも名高い料亭があったという。
流れる川は内川、絵の左側が御前栽畑である。木母寺は手前側になり描かれていない。
 この辺りは古松があり、景観の良い場所であった。将軍の御成のときに、休憩所になる。

 木母寺は梅若伝説がある。京都の公卿の子梅若丸は、7歳の時勉学に行った比叡山で、仲間のイジメにあい、逃げて帰る途中悪者に誘拐され、隅田川まで連れて来られて病死した。これを哀れんだ僧が埋葬して築いた塚が梅若塚である。ちょうどその1年後、子供の行方を訪ねてやって来た母親が塚の由来を聞いて世をはかなみ、供養の念仏を唱えて鐘ケ池(対岸の橋場の西)に身を投じて自殺してしまった。これが梅若伝説で、謡曲や歌舞伎にも取り入れられている。
ここで一句川柳を紹介しよう。

帰りには人買いになる梅若忌

木母寺には近くに遊廓があるが、人さらいにさらわれた梅若の死を悼むのに、女郎を買っているので、皮肉った句。

最後にこの絵の描かれた日であるが、嘉永3年出版の絵本江戸土産にも御前栽畑が描かれているが、雪景色であり構図もほとんど同じである。広重はこの絵を秋の風景にして描きなおしたと考えられる。

絵本江戸土産木母寺料理屋御前栽畑内川



この記事で参考にした本

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江戸風俗 東都歳時記を読む

将軍の鷹狩り (同成社江戸時代史叢書)


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江戸・町づくし稿〈下巻〉

 景数  91景 
 題名  請地秋葉の境内 
 改印  安政4年8月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政3年秋

請地秋葉の境内


 現在の秋葉原の語源にあたる秋葉神社は、江戸時代には請地村にあった。

 まずは題字の解説をしてみよう。請地とは秋葉神社がある村の名前で請地村という。またの名を向島と呼び、現代ではこの方が分かりやすいだろう。請地とは、江戸の初期、この辺りはまだ湿地で浮き地と呼ばれていたことから。切絵図では地が濁ってジになるが、点が取れて「請シ」となっている。
 秋葉神社は、秋葉大権現と千代世稲荷を合祀しており、別当は満願寺。

 次に絵に描かれているものを解説してみよう。秋葉神社は神社でありながら庭園をもっている。本来神社は境内に庭園を設けることはなく、自然に任せるのだが、別当として寺が入っている場合、寺の風習に従って庭園を作るようになる。他に庭園が立派な神社として根津神社のつつじが有名である。
 境内にある松は、千葉松という。うろから神水が涌き出て、もろもろの病に奇瑞に効くという。絵には松がたくさん描かれているが、どの松が千葉松であるかは不明。(江戸名所花暦、江戸町づくし稿)
 境内には紅葉が色づいていて、それを見て、一句詠もうとしている隠居姿の人が対岸にいる。境内は太田南畝などの文化人に好まれ、秋葉神社周辺には、料理屋の平岩、大七、武蔵屋がある。

東都高名会席尽大七の河岸
東都高名会席尽  大七の河岸


 最後にいつものように、この絵の描かれた日の推測をしてみたいが、残念ながら日付を特定できるものがなにもない。
絵本江戸土産7編(安政4年)でも同一場面が出てくるので、この絵と合わせて描かれたことが分かっている。
改印直前の秋の絵としておこう。

この記事で参考にした本


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江戸名所花暦
東京の地名由来辞典
江戸・町づくし稿〈下巻〉

 景数  90景 
 題名  猿わか町よるの景 
 改印  安政3年9月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政2年12月15日 

猿わか町よるの景

 安政地震では、猿若町にあった芝居小屋はすべて焼失してしまい、この絵は地震後の復興を描いた絵とされている。

 天保の改革で二町丁(堺町と葺屋町)から、浅草裏の猿若町に芝居小屋が移されたのは、天保12年(1841年)で、改印である安政3年のおよそ15年前のことである。
 天保12年(1841)の十月の火事によって一帯が消失したのをきっかけに、天保の改革を断行中であった水野忠邦は、芝居小屋を江戸の中心地から郊外へ移すことで、その衰退を狙ってのことだが、浅草寺、吉原、芝居小屋と浅草周辺に娯楽が集中したことから、却って繁盛したという。
 その繁栄ぶりを、この絵は北側から猿若町を描いており、右手前から森田座(河原崎座)、市村座、中村座と続いている。森田座だけはっきり読める絵になっていることから、森田座の入銀ものと考えられている。

 森田座は地震後、安政2年12月に興業を再開している。しかし地震の影響あってか、このときは
「引き続き天災にて芝居不入。三座とも顔見世できず」(歌舞伎年表)とあり、実際はこの浮世絵のようにはいかず、顔見世興業ができないほど入りが悪かった。

 最後にこの絵の描かれた日を推測してみよう。地震後、森田屋は安政2年12月に開業を再開している。また改印の安政3年9月より前の満月(15日)に描かれたものである。原信田実氏の謎解き広重「江戸百」によると、森田屋の宣伝をしているということと、服装が冬物であることから、森田屋開業直後に描かれたものと推測している。以上から、安政2年12月15日に描かれたものと推測する。

この記事で参考にした本
謎解き 広重「江戸百」 (集英社新書ヴィジュアル版)
歌舞伎年表


広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))


広重 名所江戸百景

斎藤月岑日記6

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 景数  89景 
 題名  上野山内月のまつ 
 改印  安政4年8月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政4年7~8月

上野山内月のまつ

 11景「上野清水堂不忍ノ池」の左側の松を見ると、枝が一回転している松がある。その松を拡大したのかこの絵で、この松を月の松と呼んだ。輪になっているところから、不忍池の対岸を覗いている斬新な構図である。

 描かれているものを詳細に見てみよう。まずは月の松。月の松を描いた浮世絵は過去になく、また植えられた日もわかっていない。
 最近になって、清水堂の脇に月の松を復元したらしく、見に行ってみた。自然に枝が丸くなったわけではなく、復元松はテープをぐるぐるにしてなんとか輪の形をしているのだが、痛々しかった。輪にする技法は現在に伝わっておらず、思考錯誤の末復元したと担当の方は語っていた。過去に描かれた絵がないことや、江戸名所花暦や各種の名木番付にも載っていないため、おそらく安政年間になって、新たに移植された松ではないかと思う。

 輪の右下には不忍池の弁財天の赤い屋根が描かれている。その周辺には料亭や水茶屋が多いところであった。京都の比叡山にならって江戸では、東叡山寛永寺を置き、不忍池は琵琶湖を模して、竹生島のように中島を築き、さらに竹生島弁天を勧請して、中島弁財天と称した。

 輪から見える不忍池の対岸は、茅町の町並みで、絵の右側の森が心行寺の森、輪の中に見える火見櫓は加賀藩の支藩富山藩松平家の上屋敷、輪の左側側の火見櫓は越後高田藩榊原家の中屋敷のものと思われる。

 次に絵に見える所の安政地震の被害を見てみよう。この辺りは安政地震の揺れが大きく、推定で震度6強だった。そのため被害が大きい。
 中島は地震で島に行く途中の石橋が倒壊し、さらに境内の茶屋は全て焼けてしまった。また対岸の茅町は建物がほとんど倒れ、その上茅町2丁目と、近くの七軒町から出火して付近が延焼した(武江年表)。せっかく地震と延焼を免れた茅町の家屋も、安政3年8月25日の未曽有の台風によってほとんどが倒壊してしまった(安政風聞集)。
 榊原家下屋敷も類焼し、この辺りは死亡者が計り知れないほどあった(武江地動之記)。

 さて最後にいつものように、この絵の描かれた日を推測してみよう。対岸の茅町が地震と火事で壊滅し、さらにそのあとの台風からの復興を描いたものと思われる。おそらく復興には半年以上かかり、改印より前の秋と考えると、安政4年の7~8月に描かれたものと推測する。

この記事で参考にした本

広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))

実録・大江戸壊滅の日 (1982年)


武江年表 1 (東洋文庫)


武江年表 (2) (東洋文庫 (118))

武江地動之記
斎藤月岑日記6

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