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レフ・トルストイ(望月鉄男訳)『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』(光文社古典新訳文庫)を読みました。
これはタイトルの通り、「イワン・イリイチの死」と「クロイツェル・ソナタ」の2編が収録されています。
トルストイは、『アンナ・カレーニナ』や『戦争と平和』など、超大作が有名ですが、こうした短い作品もなかなか面白いですね。
作品のあらすじ
「イワン・イリイチの死」
裁判所の休憩時間。新聞にイワン・イリイチの訃報の記事が載っています。イワン・イリイチは裁判所の判事だったので、周りにいるのは同僚たちなわけです。同僚たちの頭の中によぎるのは、イワン・イリイチのことではなく、イワン・イリイチがいなくなることによって、誰が出世するのかなど、そうしたことです。イワン・イリイチの法律学校の同級生だったピョートル・イワーノヴィチが未亡人に会いに行くんですが、まあそれはあまり物語の筋には関係ないので、ある程度読み飛ばして構いませんが、次の章からはイワン・イリイチが病気になって、死ぬまでの話が描かれます。
逃避や受容など、心理学的な段階としても読み解けそうですが、イワン・イリイチが死と向き合う過程が描かれていくわけです。イワン・イリイチがどのように仕事をしてきたか。病気になった時はどんな対応をしたか。そしていよいよ死が迫ってきた時、イワン・イリイチはどういう心境に達したのか。
平凡な1人の人間の死を描いた物語で、シンプルな淡々とした話ながら、壮絶な心理の変化が力強く描かれていきます。単純に面白いとは言えないテーマを孕んでいますが、非常に興味深い短編です。
似たような似てないような作品をリンクとしてあげておきますね。黒澤明の『生きる』という映画。役所でやっつけ仕事をしていた1人の人物が、自分の死と向き合うことで、ある奇跡のようなことを起こす話です。
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白黒映画ですが、白黒ならではの色がすごくよいです。途中でぐっと変わる叙述のあり方も賛否両論あるとは思いますが、かなり勉強になる手法です。興味のある方はぜひぜひ。
「クロイツェル・ソナタ」
これは叙述のあり方が若干複雑で、いわゆる額縁小説のスタイルになっています。フレームとしては、汽車の中です。語り手である〈私〉は長い間、汽車に乗っています。たくさんの乗客が乗り降りする中、何人かの乗客とはずっと一緒なんです。その中に1人、まだ老人でもないのに、白髪になっている紳士がいるんです。
ぎらぎらした目をした紳士。われわれ読者はこの紳士にどんなことがあったのだろう? と予想するわけです。白髪になるほどのどんな出来事があったのかと。
その紳士は、乗客たちが恋愛について話をしていると、すごく過敏に反応するんですね。恋愛感情なんてでたらめだと。乗客たちがいなくなると、〈私〉に紳士の身に起こったある事件について少しずつ語り始めます。こちらがフレームの中になります。会話文の形式で語られていきます。
語り手と紳士の対話の形式なのですが、ここからは紳士の方を〈私〉として書きますね。〈私〉は貴族出身で、わりと放蕩の生活を送るんですね。女性を買ったりします。そしてやがて身分にふさわしい令嬢と結婚します。愛とは? 性欲とは? 夫婦とは? 子供とは? そうしたテーマが議論の種になっていきます。
〈私〉と妻は些細なことから喧嘩したりします。そしてその衝突が偶然起こったものではなく、ずっと続くものであることに気がついてしまいます。
ぎこちない夫婦生活を送る〈私〉の家に、トルハチェフスキーというバイオリンを弾く男性が現れます。〈私〉の妻はピアノを弾くので、2人は音楽の話で盛り上がります。ベートーベンのクロイツェル・ソナタを一緒に弾くことになって練習したりします。そしてある時、嫉妬が元になって、ある壮絶な事件が起こってしまう・・・。
そういう話です。娼婦の話や夫婦生活など、性欲についてかなり踏み込んで書かれているのが興味深いです。こうした1人称の視点で語られる物語で、個人的に気になるのは、どこまでが事実か? ということです。
果たして〈私〉が思っていた通りのことは起こっていたのか? という疑問は残るわけで、その事実が本当はどうだったか、によって作品の解釈は大きく揺らぎます。
それぞれ読者が感じるままでよいと思いますが、わざわざ額縁小説のスタイルにしていることには意味があって、ただ事件が描かれるのみならず、その事件の当事者が語り手によって客体化されるんですね。つまり、〈私〉が語り終えた時の表情などが描かれるわけです。
そうすることによって、愛や性欲、夫婦などについて交わされてきた議論が、もう一度、読者によってそこで考え直されるきっかけになります。〈私〉が言っていることは正しいのかどうか。
こちらの短編もシンプルかつ壮絶な物語です。なかなかよい組み合わせの作品集だと思います。
大長編作家のトルストイの本質とは少しずれるような気もするので、この本を読んでトルストイを語ることはできないように思いますが、テーマ的に興味のある方はぜひ読んでみてください。色々考えさせられる作品だと思いますよ。