ポケットマスターピース07『フローベール』 | 文学どうでしょう

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ポケットマスターピース07(堀江敏幸編)『フローベール』(集英社文庫ヘリテージシリーズ)を読みました。

 

日本での評価の変動とか、位置づけの変遷とかは正直よく分かりませんが(というかその辺りはさほど変わっていないのではないかと思いますけれど)、ここ何年かでフローベールの作品は本当に手に取りやすくなりました。

 

ぼくが昔よく本を読んでいた頃、フローベールと言えば代表作の『ボヴァリー夫人』か、あとは『感情教育』が文庫で手に入るくらいで、他は読みやすい翻訳がほとんどなかった印象があります。(特に角川文庫の『サランボオ』は、復刊されたものを買いましたが、旧字体の漢字が使われていることもあって難しくて未だに読めていません)

 

そんな中、2018年に谷口亜沙子訳の『三つの物語』が光文社古典新訳文庫から、2019年に菅谷憲興訳の『ブヴァールとペキュシェ』が作品社から、そして同じ年に中條屋進訳の『サランボー』が岩波文庫から上下巻でそれぞれ翻訳出版されて、フローベールの代表作のほとんどすべてが手に入りやすくなったのです。

 

 

 

 

まあだからといって、フローベールが日本の読者の間で大ブームになったとか、『サランボー』や『ブヴァールとペキュシェ』がこれを機会に広く読まれるようになったりしたかというと、そんな感じはなく、長い間読みやすい翻訳がなかっただけあって、それぞれが癖の強い作品だからでしょうか。

 

ボヴァリー夫人』を代表作に持つフローベールと言えば、写実主義といって、現実をありのままに描き出そうとする筆致に特徴のある作家なのですが、『サランボー』はむしろ写実主義とは真逆の雰囲気を持つ歴史小説で、発表された当時から賛否が分かれた作品。

 

菅谷憲興による作品解題によると、「大多数の論者の否定的な評価にもかかわらず、『サランボー』は出版直後から大成功をおさめることになった」(805頁)と、芸術性は評価されなかったものの、大衆には受けたことが書かれています。

 

そして、様々な学術的知識を盛り込み、理論に興味を持つけれど実践の経験に乏しい二人の中年男性がくり返し失敗し続けるという、どこか滑稽味もある『ブヴァールとペキュシェ』は今でいうところの実験小説的な趣があり、こちらもまた写実とはかけ離れた作品です。

 

写実主義の先駆者としてばかり注目されるフローベールですが、そんな風に変わった小説も結構あって、今回紹介する「ポケットマスターピース」の一冊『フローベール』では、どれも抄訳(一部分の訳)ではあるものの、『ボヴァリー夫人』『サランボー』『ブヴァールとペキュシェ』の三編がすべて収録されています。

 

なので、フローベールの全体像を垣間見るのには最適な一冊なのではないでしょうか。その三作の他には、破綻してしまった習作(一人称で書き始められたものの行き詰まり、時間をおいて結末は何故か違う人の視点になる)『十一月』と、収録された四作品に関連した書簡選が収められています。

 

作品のあらすじ

 

十一月 なんらかの文体の断片(笠間直穂子訳)

 

思春期を迎え、様々な詩人の作品を目にした〈わたし〉は、「恋への憧れに囚われた。満たされぬ飢えのように恋愛を求め、恋の苦悩を夢み、無上の喜びをあたえてくれるはずの悶絶をいまかいまかと待ち受けるようになった」(17頁)のでした。

 

しかし恋らしい恋に巡り合うことは出来ず、娼婦たちが住む通りを、強い関心を抱きながら歩き回るようになります。そしてある時、〈わたし〉は意を決して一軒の家に入っていったのでした。〈わたし〉は女性とベッドに入ります。

 

熱く息づく彼女の肌が、わたしの下に横たわり、わなないていた。自分が頭から爪先まで性の快楽にすっぽりと包まれているのを感じた。口と口を重ね、互いに指をもつれさせ、同じ戦慄に揺さぶられ、同じ抱擁で絡み合い、相手の髪の匂いを、唇から漏れる息を嗅いで、わたしはうっとりと死んでいく自分を感じた。しばらくそのまま、口を開けて、自分の心臓の鼓動と、昂ぶった神経の最後の痙攣を噛みしめた。それから、すべてが消えてなくなった気がした。(56頁)

 

再び彼女に会いにいった〈わたし〉は、自分が童貞であったことを告白し、今までの人生を語ってほしいと頼んだのでした。そうしてマリーと名乗った女性は、自分がいかにして娼婦の身となったかの身の上話を始めて……。

 

ボヴァリー夫人 抄(菅野昭正訳)

 

開業医(オフィシエ・ド・サンテ)の免許試験に失敗してしまったシャルル・ボヴァリーでしたが、勉強を重ねてなんとか合格することができました。母親のボヴァリー夫人は息子の開業先を見つけてやります。年寄りの医者しかいないトストという所。

 

そして息子の結婚相手も見つけてきました。不器量でひどく痩せた四十五歳の未亡人ですが、千二百フランの年収がある女性です。そうして医師として開業し、結婚したシャルルはやがて、足をけがした農夫の所へ診察に行くことになりました。

 

その農夫にはエンマという娘がおり、シャルルは訪問を楽しみにするようになります。それを知ったボヴァリー夫人は激しくやきもちを焼きますが、自分の資産の保管者がお金を持って逃げたことを知り、血を吐いて死んでしまったのでした。

 

エンマに求婚したシャルルは承諾をもらい、二人は結婚します。そうして結婚生活を始めたエンマはしかし、かつて書物で読んで夢想していたような「至福、情熱、陶酔」(177頁)という恋愛の気持ちのたかぶりがないことに気が付いてしまいました。

 

そして侯爵の館に招待されて、上流階級の人々の暮らしぶりを目にしたことがきっかけとなり、自分にはもっと違った人生があったのではないかと強く思うようになります。凡庸な暮らし、まるで野心のない夫に不満は募っていくばかり。

 

 こんな惨めな状態がいつまでも続くのだろうか? ここから脱けだすことはできないのだろうか? なんにせよ彼女は、幸福に暮らしているどの女性にくらべても決して見劣りはしないのだ! ヴォビエサールでは、自分よりもずんぐりした身体つきで、態度や物腰にも品のない侯爵夫人を何人も見た。そこでエンマは神の不公平を呪い、壁に頭をもたせかけて泣いた。波瀾の生活、仮面の夜、放埓な快楽、そしてそれらの快楽があたえてくれるはずの、自分はまだ知らないすべての熱狂を彼女は羨望した。
 彼女は顔色が蒼ざめ、動悸がするようになった。シャルルは鹿の子草の根の煎薬と樟脳をまぜた薬湯を投与した。が、試しにやってみることはすべて彼女をいっそう苛立たせるように思われた。(224頁)

 

エンマがトストの不平不満ばかり言うので、やむをえずヨンヴィル=ラベイという村へ転地することを決意したシャルル。そしてそこでエンマは、公証人の書記をしている青年レオン・デュピイ氏と出会って……。

 

サランボー 抄(笠間直穂子訳)

 

カルタゴの郊外にあるハミルカル邸の庭園で大宴会が開かれていました。あらゆる国の傭兵たちが集まっています。リグリア人、ルシタニア人、バレアレス人、黒人、ローマからの逃亡奴隷などなど。しかし大きな問題がありました。

 

戦争に疲弊したカルタゴ共和国は、彼ら傭兵たちに払う俸給がないのです。不満を漏らす傭兵たちの気持ちを抑えるために一先ず宴が開かれたのでした。やがてきらびやかな宝石の装飾を身にまとった、ハミルカルの娘サランボーが現れ、歌い出します。

 

その姿に心打たれ、「あの女が欲しい! どうしても手に入れたい。苦しくて死にそうだ」(414頁)と思うようになったマトー。やがてカルタゴ共和国と傭兵たちの溝は深くなり、両者の間で戦いが始まります。タニト神殿の聖衣(ザインフ)を盗まれてしまったことが大きな問題となりました。

 

民衆からその責任がサランボーへと押し付けられます。ハミルカル軍がマトー軍の襲撃を受けて危機に瀕しているという知らせが届く中、祭司シャハバリムは、「カルタゴ共和国およびハミルカルの生命は、娘であるサランボーただ一人にかかっている」(446頁)と言うのでした。

 

自分になにができるのかと叫ぶサランボーに、シャハバリムは、「蛮人たちのところへ行って、聖衣を取り返すのだ」(446頁)と命じます。逡巡した末、決意を固めたサランボーは様々な浄めの儀式を行い、案内人に連れられてマトーの元へと向かったのですが……。

 

ブヴァールとペキュシェ 抄(菅谷憲興訳)

 

ブールドン大通りにある同じベンチに腰掛けたことで偶然出会った二人の男、ブヴァールとペキュシェは、お互い間違って持っていかれないように帽子に名前を書いており、共通点が多いことから意気投合します。

 

ブヴァールとペキュシェはどちらも筆耕の仕事をしており、四十七歳。すっかり仲良くなった二人は、お互いの職場を訪ねるなど、交流を深めていきました。やがてブヴァールが、叔父(ということになっている実の父)の遺産を相続します。

 

それをきっかけに二人は田舎で隠遁生活を送る計画を立て、ブヴァールの世話になりたくないペキュシュの定年退職を待って、シャヴィニョールの地所へと引っ越しました。三十八ヘクタールの農場に、ちょっとしたお城のような邸宅と庭園がついた素敵な所。

 

計画ではすべてうまくいくはずでしたが、村の人々たちに受け入れられず、やり方に口を出したせいで小作人と揉めてしまいます。

 

雇人の不行跡に苦しめられ続けたブヴァールとペキュシェは誰も信用できないと自分たちだけで農業をやろうとしますが、作物は次々と失敗し続け、ようやくできたのは化け物のようなキャベツ。しかしそれに気をよくしてメロンの栽培を始めます。

 

 マスクメロンが熟した。
 まず一つ目を口にして、ブヴァールは顔をしかめた。二つ目も、三つ目もやはりいただけない。ペキュシェはその度に新しい言い訳を考え出したが、とうとう最後の一つを窓から放り出すと、まったく訳が分からないと白状した。
 実際、様々な種類をあまり近くで栽培したために、甘みの強いのは酸味の強いのと、丸いポルトガル種は大きなムガル種と混じり合ってしまった。さらにトマトがそばにあったことが混乱に拍車をかけて、カボチャの味をしたとんでもない雑種が出来上がったというわけである。(589頁)

 

やがて酒の蒸留にも失敗したブヴァールとペキュシェは、「おそらく僕らが化学を知らないからだろうよ!」(622頁)と結論付け、様々な学術的資料を取り寄せて人型模型を使った解剖学の実験に取り掛かりますが、村の人々たちからは本物の死体を隠していると思われて……。

 

書簡選(山崎敦訳)

 

フローベールが自らの作品について書いた箇所を中心に、部分的に訳し、作品ごとに並べたもの。たとえば恋愛関係にあったと言われる女流詩人ルイーズ・コレ宛てには、韻文(詩)に負けない散文(小説)を書こうとする決意などが綴られています。

 

散文とはろくでもない代物だ! まったくきりがない。かならずどこかでやりなおさなければならない。ぼくはそれでも、散文に韻文の稠密性を与えられると信じています。散文の優れた一文は、優れた韻文のように替えのきかないものでなくてはならず、韻文と同じようにリズムをもち、音を響かせていなければなりません。少なくともぼくの野心とはこのようなものです(確信していることがひとつあります。それはこれまでだれも、ぼくほど完璧な散文のあるべき姿を思い描いたことはないということです。しかし、いざそれを実行するとなると、なんたる力不足、まったくの力不足です!)。(737~738頁)

 

とまあそんな五編が収録されています。『ボヴァリー夫人』はやはり、今読んでも多くの共感を生みそうな作品ですね。理想と自己評価が高くなければ自分の暮らしに満足できるはずで、平凡な日々でもなんとも思わないはずです。

 

ところが自己評価が高く、夢想していたものが手に入らないので、エンマは理想と現実のギャップに苦しめられます。これはエンマだけでなく、学校や仕事などで、誰もが多かれ少なかれ経験する、言わばあるあるの状況なのではないでしょうか。

 

この「ポケットマスターピース」では、物語の後半(エンマが夫以外の男性によろめく所)はばっさりカットされているので、もしこの作品に興味を持った方は、新潮文庫の芳川泰久訳などで読むことをおすすめします。

 

 

『十一月』も結構興味深い内容でした。日本文学にも童貞というか初体験がテーマになる青春小説ってわりとあって、たとえば夏目漱石の『三四郎』は主人公が上京中に人妻と同じ部屋に寝る羽目になったり、森鷗外の『青年』では主人公が未亡人と出会ったりします。そんなことを思い出しながら読んでましたね。

 

『十一月』は明らかに途中で行き詰まり、破綻している小説で、「原稿はここで中断しているが、わたしは書き手を知っているので〔……〕当方から結末を差しあげよう」(108頁)と、別の(わりと客観的な)視点から淡々と書かれて終わります。

 

ある種の告白のように書き始められたのに、それが他人の目から見たものに急に変わっているわけで、非常にぶれた作品になっていて、「これを出版しなかったとは、ぼくは若いときずいぶん目先が効いたものらしい。出版していたら今頃赤っ恥をかいていたところです」(731頁)とフローベールが手紙で書いたほどの、言わば失敗作。

 

ただ、じゃあ面白くないかというとそんなことはなくて、所々ですごくきらきらした部分を感じましたね。なるほどこうした習作が後に『ボヴァリー夫人』へと繋がっていったんだなあと思わせてくれる作品ではありました。

 

歴史小説『サランボー』と未完の作品『ブヴァールとペキュシェ』については、それぞれ今はいい翻訳があるので、またいずれそれぞれ単体で取り上げることがあるでしょう。随分長い記事になってしまったので、今回は触れないでおこうと思います。

 

というわけで、これにて集英社文庫ヘリテージシリーズの「ポケットマスターピース」十三巻、全巻読破です。達成感ありますね。文学全集って、気になった作品とかをぱらぱら見るものであって、通読するものじゃないと改めて骨身に沁みて思いましたが、楽しく読めたのでまあやってよかったです。

 

数ある文学全集の中でも、文庫サイズの「ポケットマスターピース」は手に取りやすい全集だと思うので、我こそはという方はぜひ読んでみてはいかがでしょうか。「ポケットマスターピース」をきっかけに読みたい本が増えたので、僕もこれから色々な小説を読んでいきたいと思っています。