人称・視点・焦点化 | 文学どうでしょう

文学どうでしょう

立宮翔太の読書ブログです。
日々読んだ本を紹介しています。

人称


一人称・・・ぼく、わたしなど主観的な視点で描かれる形式のこと。わりと一般的。心理や感情が丁寧に描けるが、個人の視点を越えた物語は描けない。手記など、書かれたものとしての意味あいが強かったが、近年では特に書かれたものという意識はなくとも小説の形式として使われることがよくある。

二人称・・・滅多にないが、あなた、君など、語りかけるような形式のこと。実験小説的。

三人称・・・立宮など名字、彼、彼女など客観的な視点で描かれる形式のこと。わりと一般的。個人の視点を越えた物語が描けるが、誰の視点かが問題となる。「神の視点」や「全知の視点」と呼ばれるすべてを知っている書き方もあれば、一人称的に、ある人物の主観を中心に描かれることもある。

視点・焦点化


それぞれどこにスポットライトがあたっているかということを、簡単に視点と呼ぶが、もう少し厳密に考える必要があるかもしれない。視点に関しては今は曖昧に使っておく。「焦点化」とは、ジェラール・ジュネットの用語で、視点がどこに寄り添うかというバランスの問題である。立宮翔太とガールフレンドのエリザベスがいるとして、立宮翔太の心理を描けば、立宮翔太に焦点化されていると言う。

ちょっと詳しい解説


ぼくが小説を読んでいて、最も気になるのがこの問題です。つまり視点がどこにあるのか。この項目ではそうしたことを非常にざっくり触れようという試みです。

みなさんは、人称についてはどれほど知識をお持ちでしょうか。一人称と三人称は大体分かりますかね。みなさんが普段どれほど意識して読まれてるかなども気になるところです。

一人称

一人称というのは、簡単に言えば、「ぼく」「わたし」「おれ」など自分を指し示す言葉が主語になっている文章のことです。元々はおそらく手記から始まっていますが、現在では小説の形式として普通に出てきます。もう「ぼくって誰だよ!」という人はいませんよね。

日本語はわりと一人称が豊富だと言われていて、たとえばレイモンド・チャンドラーという作家の小説の主人公で、フィリップ・マーロウという私立探偵がいるんですが、この一人称「I」を「俺」と訳すか、「私」と訳すかで大分イメージが変わってしまうということがありました。

逆のことももちろん言えて、夏目漱石の『吾輩は猫である』の「吾輩」は英訳すると「I」になってしまって、身分が下である猫が偉そうな一人称を使っているという滑稽さは失われてしまいます。

一人称のよいところであり、かつ弱点は、多層な出来事を描けないといことにあります。

ラブストーリーがあるとします。たとえば「ぼく」という一人称だとすると、「ぼく」=主観=読者の視点はほぼ重なるわけで、彼女が客体化されるわけです。

それはすごく共感しやすいのでいいことですけれど、彼女にも心理はあるわけで、そうした心理を描こうとすると、一人称では限界があるわけですね。

昔は裏技的に、彼女の手紙が来たということで、さらに一人称で心理が描かれることがよくあります。

三人称

現在で多いのは、三人称で書かれた小説です。三人称というのは、彼、彼女、あるいは立宮翔太などの名前です。よくあるのは、たとえばこんな感じ。

 翔太はふとコーヒーを飲みたいと思った。そこでエリザベスに、
「ねえコーヒー飲みたくない?」と言った。エリザベスは興味なさそうに雑誌をぱらぱらめくりながら、「別に」と言う。
「いやいや、今のはタグ・クエッションだから、要するに、『コーヒーいれてよ』ってことなんだけど」
「へえ。一つ賢くなったみたい。ありがと」
「いやいや、あのね……」
「家を出て公園を抜けると、コンビニがあるじゃない?」
「うん」
「その隣に自動販売機があるよ。売ってると思うよ、コーヒー」
 だったらコンビニで買うよと思って、翔太はため息をついた。(『ショータ・タチミヤと緻密なベアー』167ページ)


まああれですね、コーヒーくらい自分でいれろって話ですよね・・・。

ともかく、そうした感じで、翔太にもエリザベスにもいいバランスで視点が当たっているのが、三人称です。自分で書いておいていいバランスとかなんか変な感じですけど(笑)。

現在の小説ではそれほど意識して読まなくてもよいですが、日本近代文学の三人称は少し特殊な意味を持っていました。

つまり島崎藤村など、自然主義あるいは私小説というのは、三人称でも、ほとんど一人称と同じくらい視点が主人公に同一化されていて、つまり主人公が知りえないことは知らない、心理もその主人公しかほとんど描かれないという技法が使われていました。

主人公=作者という構図が成立していた頃の話です。

ぼくは今「視点」という用語をちょっと安易に使ってしまっていますが、三人称の中でも厳密に言えば、色々なパターンがあるんです。

一人称的に描かれることもあれば、作者が顔を出すこともあり、「全知の視点」や「神の視点」と呼ばれる全てを知っている書き方もあります。

つまりかなり上から登場人物たちを統御する書き方ですね。書き手はすべてを知っている形式。

また、ジェラール・ジュネットの用語ですが、「焦点化」という用語があって、こちらも実際はかなり複雑な分類をしますが、ざっくりといえば、視点が誰に寄り添うかということです。

さきほどあげた例文で、エリザベスの心理が描かれれば、エリザベスに「焦点化」されていることになり、立宮翔太の描写に移れば、立宮翔太に「焦点化」されていることになります。

内面、外面など本当はもう少し色々な分類があるので、興味のある方は『物語のディスクール』という本を参考にしてみてください。一人称、三人称に限らず「焦点化」という語は使われます。

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))/水声社

¥5,250
Amazon.co.jp

三人称はかなりフリーに色々なことが書ける一方で、「誰から見た誰なのか」という点が問題になってきます。

たとえば、ぼくは自転車を持っていますが、これは「ぼくの自転車」なわけで、単なる「自転車」という概念を越えたものになっています。

どこかの誰かの自転車が盗まれても「ふーん、そりゃまあ災難だったねえ」と簡単に言えて、というかむしろ「鍵をかけなかったからじゃないの?」と余計なアドバイスまで言ってしまうかもしれませんが、「ぼくの自転車」が盗まれたら、それこそ悲劇です。泣きます。そして怒ります。

つまり、一人称では関係性がすべて主人公である「ぼく」や「わたし」に固定されているわけで、恋人は、「ぼくの恋人」「わたしの恋人」であり、「ぼくの学校」「ぼくの両親」「ぼくの食事」など、すべてが分かりやすいものになるわけですね。

一人称的に関係が固定されている三人称でも同じことが言えます。

ただ、それ以外の三人称は微妙な感じになっていて、たとえば自分の家族を想像してもらうと分かりやすいと思いますが、自分中心に、父親、母親、兄弟がいるわけで、それを三人称で描くとなると、その関係性はリセットされてしまうわけです。

父親が父親ではなく、単なる一人の男として登場してくる。それってやっぱり違和感がありませんか?

なんだかうまく説明できませんが、その視点のバランスは実はすごく難しいということです。

ある種の関係性の固定を行いつつ書かざるをえないわけで、そうしないと「◯◯の恋人」ということがなくなってしまい、どこかの誰かが死んだというだけでは、読者は感動しません。

死傷者一名という数字にはなんの感動も覚えませんが、かけがえのない人の事故だからこその衝撃があるのです。

三人称はそうした部分が難しいところです。みなさんもちょっと注目して読んでみてはどうでしょう。

二人称

二人称というのも、あるにはあるんです。イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』、ジェイ・マキナニー『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』、ビュトール『心変わり』、あるいは『心変わり』に影響を受けた倉橋由美子の『暗い旅』など。

二人称とは、「君」「あなた」「お前」などですが、小説の人称としては、なかなかうまく機能しません。

読者に対する呼びかけや、作者から作中人物への呼びかけなどはある程度ありますが、「君は電車に飛び乗った」と書かれても、その「君」=読者になるわけは当然なく、結局は三人称的になってしまうのがオチです。

まあある種の効果を狙った実験小説としてはよいと思いますが、もうすでにやり尽くされてる感もあって、二人称で小説を書くと、ああ『心変わり』のパスティーシュね、と言われて終わりです。

パスティーシュというのは、パロディとは若干違う概念なので覚えておくとよいと思いますが、まあパロディみたいなことです。もうちょっと真剣に受容した感じですけどけども。

とりあえずそんな感じで、人称、視点、焦点化については終わりにします。ふう。

参考文献


ジェラール・ジュネット(花輪光、和泉涼一訳)『物語のディスクール』(水声社)


≫〈文学理論的な何か〉目次に戻る