手記・書簡体小説 | 文学どうでしょう

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手記


ある人物が文章を記録しているという形式のこと。当然1人称。真実の物語であるという強調になるので、誰かの手記を再構成して作ったものだという作者の序文がつくことがよくある。

書簡体小説


基本的には手記と同じだが、手紙など、複数の書き手が出てくる場合がある。3人称で物語が展開するのではなく、1人称が重なっていくことによって物語が展開していく。現在ではややまどろっこしさを感じざるをえないことから、使われることが少なくなっている。

ちょっと詳しい解説


今では小説というのは、当たり前の形式になっていまして、フィクションはフィクションとしてすっと読めるわけですが、昔はどうやら違っていたらしいです。

古典的な作品を読むと、手記という形式がよく使われていることに気がつきます。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』からしてそうです。

これはあくまで事実であって、そうした記録が残されているものを、わたしがまとめただけですよ、という形式がよくあります。

手記ですから、1人称ですが、特徴としては独特の文体があります。つまりフィクションではなく記録に近いわけですから、小説的な技巧に凝ったり、詩的な表現がされることはあまりないといってよいです。

手紙のやり取りなどで小説が構成されている場合は、書簡体小説と呼ばれます。書簡体小説の傑作と言えばラクロの『危険な関係』というフランス文学の作品です。

最近では、森見登美彦が『恋文の技術』で使っていました。


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