夏目漱石『吾輩は猫である』 | 文学どうでしょう

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吾輩は猫である (新潮文庫)/夏目 漱石

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夏目漱石『吾輩は猫である』(新潮文庫)を読みました。

今回紹介するのは、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」(5ページ)という有名な書き出しで始まる夏目漱石の処女作『吾輩は猫である』です。

読んだことのある方も大勢いらっしゃるでしょうし、読んだことのない方でも、なんとなくの内容はご存知なのではないでしょうか。

〈吾輩〉はひょんなことから中学の英語教師、苦沙弥先生の家で飼われることになります。この苦沙弥先生はあばた面でどこか神経質な所があり、夏目漱石自身を思わせます。

この苦沙弥先生の所へ、友達や元教え子などが遊びに来るんですね。そこでの滑稽味あふれる会話のやり取りが〈吾輩〉によって語られる、そういう小説です。

『吾輩は猫である』を読んで、「全然面白くなかったよ」という感想をお持ちの方もいらっしゃるだろうと思いますが、その感想はあながち間違っていません。

というのも、基本的にストーリーらしいストーリーというのはないんですね。苦沙弥先生のかつての教え子で水島寒月という青年と金田の娘との結婚話というのが一つの重要な流れになりますが、その話でさえバックグラウンド(背景)に追いやられている感じがあります。

ではなにが描かれているかと言うと、まさにたわいない日常風景なんですが、それが単なる日常風景ではなく、滑稽味と風刺(戯画的に描き出すことによって批判を加えること)に満ち溢れているのが特徴的です。

苦沙弥先生とその愉快な仲間たちとの会話には、ギリシャ神話や哲学者の話が出てきますから、ストーリーがない上に肝心のユーモラスな会話にも難解さを感じてしまうと、『吾輩は猫である』の感想としては、「全然面白くなかったよ」というものになってしまいがちです。

ぼく自身、想定していたよりも読みづらく感じました。特に前半がそうです。後半は会話の改行も多くなり、やや読みやすくなりましたけども。

読み終わるまでに思いの外時間がかかってしまったので、みなさんがもし『吾輩は猫である』にある種の大変さを感じたとするなら、その気持ちもなんとなく分かります。

ただ、読み直してみてつまらなく感じたかと言うと、やっぱり面白かったんですよ。ストーリーではない『吾輩は猫である』の魅力というのは、一体なんだと思いますか?

『吾輩は猫である』の面白さというのは、ある意味では『坊っちゃん』の面白さにとてもよく似ていて、それは独特の個性を放つ1人称によって語られていることにこそあります。

坊っちゃん』は今なお魅力的なリズミカルな文体を持っていますが、『吾輩は猫である』は文体としてはそれほど特筆すべきものはありません。

ですが、物語の語り手の存在が非常にユニークなんです。そう、語り手は猫ですよね。猫によって語られることによって、物語の構造には極めて独特の歪みが生まれています。

『吾輩は猫である』の英訳のタイトルは”I am a cat”ですが、このニュートラルな「I」と〈吾輩〉の間には大きな差異があります。

「ぼくは猫だよ」と「わたしは猫なの」と「吾輩は猫である」とを比べてみても分かりますけれど、〈吾輩〉というのはずいぶん偉そうな、ふんぞりかえったようなニュアンスがありますよね。

あえて乱暴な言い方をするとですよ、本来は、人間の足元をうろちょろしていて、人間の思うがままに飯を与えられたり、捨てられたりするちっぽけな存在であるはずの猫が、むしろ人間より上の立場に立って、人間とはつくづくおろかな生き物だなあと見下している小説なんです。

そこに構造の歪みがあり、ユーモラスさが生まれているわけです。この人間と猫の立場の逆転現象にこそ『吾輩は猫である』の面白味があります。

語り手が猫であることについて、もう少し考えてみます。

動物が登場する小説は数多くありますが、『吾輩は猫である』はそうした動物ものとは明らかに一線を画しています。

ペットとして猫を飼っている家族を想像してみてください。同じ空間にいたとしても、人間とペットとでは住んでいる世界に大きな差があります。人間は人間の倫理で、猫は猫の本能で動いているわけです。

人間からすると、猫は気ままにうろちょろしている存在です。学校に行ったり、会社に行ったりしませんよね。そこに愛情は通うにせよ、同じ倫理観を持って行動してはいません。

一方、猫側からするとどうでしょうか。実際の猫の気持ちは分からないので物語で考えてみますが、物語の多くは人間社会とは違う、動物には動物の社会があるものとして描かれます。

それが人間社会の縮図として描かれるにせよ、「人間の世界」と「動物の世界」はほとんど交わらず、それぞれが別の層のものとして存在しています。

本来「人間の世界」に生きる者は「動物の世界」のことは考えないですし、また同じように「動物の世界」に生きる者は「人間の世界」のことは考えません。

では、『吾輩は猫である』がどういう世界かというと、本来は「動物の世界」に生きているはずの猫が、「人間の世界」のことを語るという歪みがあるわけですね。

〈吾輩〉が想いを寄せるメス猫の三毛子や乱暴者の車屋の黒という猫についてなど、「動物の世界」の話もあるにはあるんですが、ほとんどが「人間の世界」について語られています。

〈吾輩〉というのは、「ぼく」「わたし」などと同じ1人称なんですが、「動物の世界」の話が語られない以上、実は役割としては3人称の視点とほとんど同じなんです。

カメラを想像してみてください。部屋の中で話している人々がいて、それに近づいていくと映像と音声が撮れます。別の部屋に行くと、今度はその部屋で話している人々の映像と音声が撮れるわけです。

〈吾輩〉というのは、ほとんどこのカメラと同じ役割を果たしています。こうした映像と音声に加えて、〈吾輩〉は驚くべきことに、苦沙弥先生の心理描写までをも始めます。

「迷亭が帰ってから、そこそこに晩飯を済まして、又書斎へ引き揚げた主人は再び拱手して下の様に考え始めた」(389ページ)から「以上は主人が当夜煢々たる孤燈の下で沈思熟虜した時の心的作用を有のままに描き出したものである」(391ページ)まで、わりと長い間、苦沙弥先生の心理描写がされるんですね。

一応、「吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている」(392ページ)と強引な説明はされるんですが、これはもう猫から見た風景などという領域をはるかに超えていて、明らかに役割としては3人称の視点と同じです。

『吾輩は猫である』の前半はわりと〈吾輩〉の存在感は濃厚で、例の人間とはおろかな生き物だなあという感じが伝わってくるんですが、後半、人間たちの会話が軽妙に進んでいくに従って、〈吾輩〉の存在感というのはどんどんなくなっていき、ほとんど普通の3人称の小説と変わらないタッチになります。

そうした要素を、風刺のための猫の役割の終わりととるか、夏目漱石の文章スタイルの確立ととるか、色々考えていけそうではありますが、いずれにせよはっきり言えることがあります。

それは『吾輩は猫である』が、単なる生き物としての猫を主人公兼語り手にしたことに意味があるのではなくて、人間社会を歪んだ角度からとらえるための一つのカメラ的存在として機能させたことに意味があるということです。

ストーリーというほどのストーリーはなく、また、文体としても完成しきってはいない小説です。正直、読みづらさもあります。ですが、これほど人間社会を滑稽味あふれる風刺で描いた小説が他にあったでしょうか。ぜひ一度は読んでみてください。

作品のあらすじ


「書生という人間中で一番獰悪な種族」(5ページ)に母親、兄弟から引き裂かれ、野原に捨てられてしまった〈吾輩〉。ニャー、ニャーと泣きますが、誰も助けに来てくれません。

お腹が空いたので、垣根の穴から人間の家に入り込みます。ここで下女との戦いが繰り広げられることになります。首すじをつかまれて、外へ放り投げられてしまうんですが、寒くてひもじいので、何度も台所へ入っていきます。

どたばたしている内に主人が出て来ます。この子猫が何度も入ってくると下女が言うと、「そんなら内へ置いてやれ」(7ページ)と鶴の一声。〈吾輩〉はここの飼い猫となります。

主人である苦沙弥先生の所へは様々な人間が訪れるんですが、中でも傑作なのが金縁眼鏡の美学者迷亭です。迷亭はもうとんでもないやつなんです。

嘘つきというか、極めて論理的にほら話をするような所があって、大真面目にでたらめなことばっかり言っています。実際に近くにいたら嫌ですが、どうも憎めないキャラクター。

苦沙弥先生もいつも迷亭の話に騙されたりするんですが、中でも傑作なエピソードは、越智東風を連れて西洋料理屋に行った話です。東風が苦沙弥先生にその話をするんですが、迷亭は西洋料理屋で、さも自分が外国帰りのようなふりをします。

そして、ボーイに「トチメンボーを二人前持って来い」(49ページ)と注文するんですね。トチメンボーなんてものを聞いたことのないボーイは困ってしまって、奥と相談して「近頃はトチメンボーの材料が払底で」(50ページ)と残念そうに言います。つまり、材料がないというわけです。

トチメンボーというのは実は西洋料理でもなんでもなくて、俳人の号(ペンネーム)なんです。要するにいかに人が知ったかぶりをするかというのを見る、迷亭のたちの悪いいたずらです。

迷亭はこんな感じの人物です。嫌なやつですけど、ユニークですよね。

ある時、実業家の金田の夫人が苦沙弥先生の所にやって来ます。鼻が鍵鼻で極めて特徴的なので、それ以来〈吾輩〉に鼻子と呼ばれるんですが、苦沙弥先生の所に出入りしている水島寒月の評判を聞きに来たんですね。

金田家の娘と寒月の間になにかがあるらしく、結婚話が持ち上がっているんです。〈吾輩〉は近所にある金田家を覗きに行ったりします。この寒月と金田家の娘との結婚話が、寒月が博士になるのが条件だなどと色々あって、物語の背景で動き続けます。

もう一つくらい面白いエピソードを紹介しておきましょう。近くの学校で野球をしているんですが、ボールがしょっちゅう飛んで来るんです。そうすると、生徒たちが塀を乗り越えて入って来ます。苦沙弥先生がそれに文句を言って、トラブルになります。

このボール事件の時に遊びに来ていたのが鈴木という人物で、この鈴木が苦沙弥先生に言ったセリフがとても印象的でした。

「仕方がないと云えばそれまでだが、そう頑固にしていないでもよかろう。人間は角があると世の中を転がって行くのが骨が折れて損だよ。丸いものはごろごろどこへでも苦なしに行けるが四角なものはころがるに骨が折れるばかりじゃない、転がるたびに角がすれて痛いものだ。どうせ自分一人の世の中じゃなし、そう自分の思う様に人はならないさ。・・・」(336ページ)


この鈴木のセリフはとてもいいセリフですが、言ってみれば漱石自身の感じている窮屈さの裏返しでもあって、『草枕』の冒頭の名文と裏表になるようなものだと思います。

人生に起こる様々な出来事を、柳に風と受け流せれば楽なんですが、なかなかそうもいかないのが人生というものです。

この「苦しみのある生」と「楽に生きること」という対比は、そのまま人間と猫の対比と重なって、〈吾輩〉の「がりがりはこれぎり御免蒙るよ」(544ページ)に繋がっていきます。

物語の最後、〈吾輩〉は人間をどういう目で見て、どういう心境になるのか?

とまあそんなお話です。文体というよりも、会話の中で哲学者などの説がわりとたくさん出てくることに、難解さを感じてしまうかもしれません。必然的に注も多くなりますし。

その場合、あまり注などは気にせずに、話されている知識の正確な把握よりも、会話の流れをつかむことを意識した方が読みやすいだろうと思います。

日本代表する作家の代表作です。一度はぜひ手にとってもらいたい名作だと思います。とてもユニークで、ユーモラスな作品ですよ。ぜひぜひ。

明日は、稲垣足穂『一千一秒物語』を紹介する予定です。