菊池寛『父帰る・屋上の狂人』 | 文学どうでしょう

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菊池寛『父帰る・屋上の狂人』(新潮文庫)を読みました。残念ながら、現在は絶版のようですね。

タカアンドトシの「ほこ×たて」というバラエティ番組があります。矛盾するもの同士を対決させたらどうなるのか? というコンセプトの番組で、特にドリルと金属との対決は興奮ものでした。

「絶対に穴の開かない金属」と「どんなものでも穴を開けられるドリル」を対決させるというもので、それぞれの製造会社がプライドと実績を持って勝負に挑むわけです。

RPGなどでは、勇者が悪の大魔王を倒すという単純な構図があります。それはどう転ぶか分からないものではなく、はっきりと目的があって、それを達成するまでの物語ですよね。

一方、「ほこ×たて」というのは、結果がどちらに転ぶか分からないわけです。「絶対に穴の開かない金属」のすごさも分かるし、「どんなものでも穴を開けられるドリル」のすごさも分かります。

そうなると、見ていてもう単純にはらはらどきどきするしかないわけで、結果はともかく、すぐれたスポーツの試合を見るような「ドラマチック」さがあります。

菊池寛の戯曲の魅力というのは、そうしたまったく違った論理・主張を持つ同士の対決が描かれ、そこに「ドラマチック」さが生まれていることにあります。

『父帰る・屋上の狂人』には、全部で8編の戯曲が収録されているんですが、「敵討以上」のあらすじを先に紹介しましょう。

「敵討以上」

「敵討以上」は、短編小説「恩讐の彼方に」を舞台用に脚色したものです。短編小説の方も近い内に紹介したいと思っています。

中川三郎兵衛という旗本がいます。この三郎兵衛の妾のお弓と、その家で働いている市九郎という男が密通するんですね。

その2人の不義の現場が三郎兵衛に見つかってしまい、市九郎は殺されそうになります。しかし揉みあっている内に、市九郎は三郎兵衛を殺してしまいます。

主殺しは大罪ですから、市九郎とお弓は逃げるわけですが、どんどん身を持ち崩すんですね。旅人を殺してお金を奪うような生活です。

市九郎は非常に後悔した気持ちになって、お坊さんになります。了海と名を変えた市九郎がやり始めたのは、洞穴を掘ることです。岩壁を削っていって、道を作ろうというんですね。

初めは誰もが反対というか、できるわけがないと思うわけです。ところが了海は馬鹿にされても、石を投げられても、黙々と穴を掘り続けます。いつしか周りもその熱意に負けて、みんなが手伝うようになりました。

了海は20年も洞穴を掘り続けて、あともう少しで貫通しそうという時に、了海の元を一人の青年が訪れます。

それはなんと10年がかりで市九郎を探していた、中川三郎兵衛の息子実之助だったんです。

親の仇を討とうとする実之助の気持ちもよく分かりますし、また、本人はともかく、あともう少しで道が貫通するのだから、了海に仕事を成し遂げさせてやりたいという周りの人々の気持ちも非常によく分かります。

そうした究極の立場同士のぶつかりあい。これは非常に「ドラマチック」だと思いませんか? はたしてどうなるのか、気になる方はぜひ読んでみてください。

菊池寛の戯曲の魅力をもう一つ言いますと、一幕物が多い所にあります。

一幕物というのは、簡単に言えば場面が変わらないものだと思ってください。長い演劇だと暗転して場面が変わったりしますが、一幕物では一つの場面で物語が完結します。

菊池寛の代表的戯曲の「父帰る」を初めて読んだ時、ぼくはぽかんとして、「えっ、もう終わり?」と思いました。こんな話です。

「父帰る」

母親と三人の子供の一家があります。必死で働いて一家を支えてきた長兄で28歳の賢一郎、小学校教師をしている23歳の弟新二郎、そろそろ嫁入りの時期が近づいて来た20歳のおたね。

つつましい生活ながら、幸せな日々を送っている一家なんですが、父親の姿がありません。この父親がろくでもない人間で、お金ばかり浪費して、挙げ句の果てに女と逃げてしまったんです。20年前の話です。

このいなくなった父親が、突然帰ってくるんですね。年齢を重ねて、なにもかも失って帰ってきたんです。母親や父親の悪い部分を覚えていない弟や妹は、父親にやさしくしてやろうとします。

ところが父親を頑として許さないのが、長兄の賢一郎です。

賢一郎 (昂然と)僕達に父親がある訳はない。そんなものがあるもんか。
父 (烈しき忿怒を抑えながら)何やと!
賢一郎 (やや冷かに)僕達に父親があれば、八歳の年に築港からおたあさんに手を引かれて身投をせいでも済んどる。あの時おたあさんが誤って水の浅い処へ飛び込んだればこそ、助かっておるんや。俺達に父親があれば十の年から給仕をせいでも済んどる。俺達は父親がない為に、子供の時に何の楽しみもなしに暮して来たんや。(18ページ)


賢一郎の気持ちも非常によく分かります。また、落ちぶれてしまって、頼るところがない父親の心細さとぬくもりを求める感じもよく分かります。はたして一家が出した結論とは・・・?

「父帰る」は、一幕物の特性を非常によくいかした作品だと思います。つまり、ストーリーが大事なのではなくて、一つの場面の人物の心情・関係の変化を巧みに描いているんですね。

一幕物なので、場面としてはこの場面だけです。物語としては呆気ないほど短いものですが、一度読むと忘れられない作品です。シンプルながら、じんわりしたものが残るんです。

「コロンブスの卵」的発想というか、この作品を読むと親子関係を描いた作品として、たしかにこれ以外の展開はありえないだろうと思わされます。これは面白い作品ですよ。とにかくおすすめです。

作品のあらすじ


では、他の作品にも少しずつ触れて終わります。

『父帰る・屋上の狂人』には、「父帰る」「屋上の狂人」「海の勇者」「時勢は移る」「真似」「義民甚兵衛」「敵討以上」「藤十郎の恋」の8編が収録されています。

「屋上の狂人」

勝島家には一つ悩みがあります。それは長男の義太郎の頭がちょっとおかしいことです。義太郎は暇があると屋根の上に登って、海を眺めています。

降りて来いと言われると、駄々をこねて「厭やあ。面白い事がありよるんやもの。金比羅さんの天狗さんの正念坊さんが雲の中で踊っとる。緋の衣を著て天人様と踊りよる」(27ページ)と言っています。

霊験あらたかな巫女さんに祈祷して治してもらうことになりますが・・・。

「海の勇者」

海が荒れて、ある船が港にうまく着けないんです。嵐にまじって聞こえてくる悲鳴。

ところが、その船は他村の船な上に、持ち主がみなに嫌われているらしく、「何や阿呆らしい、××の舟や」(51ページ)と言って誰も助けに行こうとしません。はたして・・・。

「時勢は移る」

大きな変動の時期を迎えた幕末の時代。このまま江戸幕府についているか、それとも朝廷側につくかで藩は揉めています。

その争いは家庭にも入り込み、父親の杉田源右衛門は幕末側、息子の源之丞は朝廷側に意見が分かれます。やがて源右衛門が刀を振り回す争いにまで発展し、源之丞は家を出ていました。

朝廷側の軍が近づき、藩としての決断が迫られる中、源之丞は無駄な血が流されぬよう説得に戻って来ます。

源右衛門は呼び出されて家を出て行くんですが、源之丞はふと気がつきます。もしかしたらそれは、朝廷側につく人々の罠で、邪魔な意見を持つ源右衛門を暗殺しようとしているのではないかと。

親子の情と自分の主義との狭間で心揺れる源之丞は・・・。

「真似」

村人から尊敬されている聖フランチェスコ。フランチェスコのようになりたいと思った百姓ジョバンニがやって来ます。

ジョバンニはなんでもフランチェスコの真似をするんですね。フランチェスコが、咳払いをしたら咳払いをします。

病人のお見舞いに行くフランチェスコとジョバンニですが、病人はフランチェスコには、「何処も痛むところはありません」(84ページ)と言い、フランチェスコが席を外すとジョバンニに「身体中痛くない処なんか一箇所だってありゃしない。第一に、この足をさすってくれ」(85ページ)と言います。

病人の言うがままに行動するジョバンニは、やがてある問題を起こしてしまい・・・。

「義民甚兵衛」

農作物が思うように取れず、村全体が食うや食わずやの状態です。その村の中にある一家があります。一番上の兄の甚兵衛は頭がちょっと悪く、足も不自由な所があって、一家の中でいつもいじめられています。

やがて苦しい暮らしに耐えかねて、一揆が起こります。

一揆の集団が甚兵衛の家にやって来て、一揆に参加するか、もしくは家を叩き壊してしまうと脅されて、甚兵衛は無理やり参加させられてしまいます。弟たちは家に隠れていました。

一揆が終わり、一揆を先導していた男たちは磔になって殺されてしまったんですが、あるえらい人に石をぶつけた者がいるといって、その石をぶつけた人間が探されることとなります。

みんなが石を投げてたんですが、誰も石を投げたと名乗り出る者はいません。そこへ甚兵衛が無邪気に「わしゃ投げたぞ」(125ページ)と言います。弟は驚きます。犯人とされたら、家族まで罪に問われてしまうのですから。

甚兵衛 (うるさそうに、弟を排ねのけながら)ええ、彼方へのいとれ。わしゃ、投げたぞ。おまけに、一つの方はこななでっかい奴じゃ。藤作どん、われも投げていたじゃないか。勘五郎どん、われも投げていたじゃねえか。
勘五郎 (愕然として)滅相な、わりゃ何を云うだ。
藤作 (同じく)ほんまじゃ。人違して何云うだ。
甚兵衛 そうけ。人違だったか。わしゃ皆投げていたけに、わしも真似して投げたんじゃ。(125ページ)


はたして純粋な気持ちで名乗り出た甚兵衛の運命はいかに!?

「藤十郎の恋」

こちらも短編小説のバージョンを近々紹介しようと思っているので、あまり触れないでおこうと思いますが、坂田藤十郎という歌舞伎役者が、演目で不倫の恋に苦しむ役を演じることになります。

仲間うちで話していると、若太夫が冗談で、「坂田様にはこうした変わった恋の覚えもござりましょうな、はははは・・・・・・。」(188ページ)と言います。すると、藤十郎はこう答えるんですね。

藤十郎 (先刻から、益々不愉快な悩ましげな表情をしている。若太夫の最後の言葉に傷つけられたようにむっとして)左様なこと、何のあってよいものか。藤十郎は生れながらの色好みじゃが、まだ人の女房と懇ろした覚えはござらぬわ。(188ページ)


ところが一人になった藤十郎は悩んでいる様子なんです。脚本から自分のセリフを抜き出したものを口に出して読んでみるんですが、どうもしっくりきません。不倫の恋の気持ちがうまくつかめないんですね。

そこへたまたまお梶という宗清の奥さんがやって来ます。藤十郎はこのお梶に20年来秘めていた恋心を告白します。しかし「恋をする男とは、どうしても受取れぬほどの澄んだ冷たい眼附」(193ページ)なんです。

はたして藤十郎の恋の行方は・・・?

とまあそんな8編が収録された戯曲集です。

もしかしたら「屋上の狂人」や「義民甚兵衛」など、少し頭のおかしい人物が登場することが、この本の絶版の事情に関係しているのかも知れません。単純に売れないということが大きいとは思いますが。

ただ、そうした人物を配置することは、その人物の純粋さを際立たせるとともに、周りの人間の醜さを描き出すことに成功していて、非常に面白いです。

「父帰る」「敵討以上」がやはりおすすめです。それぞれに違った魅力があって、「父帰る」は場面としてのうまさ、「敵討以上」は展開のドラマチックさに心打たれます。

菊池寛は「通俗」であるからと現在ではあまり読まれない作家なんですが、『真珠夫人』など長編は長編で面白いですし、戯曲もまたいいんです。

そして明確なテーマ、ドラマチックな展開を持つ短編も極めて面白い作家です。興味を持った方はぜひ読んでみてください。

近い内に短編集『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』を紹介する予定ですので、お楽しみに。

明日は、夏目漱石『吾輩は猫である』を紹介する予定です。