夏目漱石『草枕』 | 文学どうでしょう

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草枕 (新潮文庫)/夏目 漱石

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夏目漱石『草枕』(新潮文庫)を読みました。

芥川賞を受賞した朝吹真理子の『きことわ』という作品があります。

ストーリーよりも流れるような文章が印象的な小説です。その『きことわ』のコメント欄で、ともすけさんと少しやりとりがあって、エンタメ小説と文学との違い、そして文学に「筋」は必要かどうか、ということが話題になりました。

そうしたテーマについてはここでは詳しく触れませんけども、そのやりとりの中であがってきたのが、この『草枕』です。いわゆる「筋」がない小説なのではないかと。そこで早速読み返してみました。

『草枕』というのは、以前読んだ時はすごく難解に感じたんです。それから泉鏡花の小説に似たおどろおどろしさのようなものも。どちらの印象も間違ってはいなかったですが、『草枕』は想像していたよりもずっと面白かったです。

昔は難解だと思っていた部分もわりと楽しめました。その難解さについては、後から細かく触れていきます。

『草枕』はたしかに「筋」のない小説の印象があるかもしれません。でもこの物語の構造自体は夏目漱石の他の小説とも類似していて、とりわけ「筋」がないとも言えないと思います。あるいは夏目漱石の小説全体に「筋」があまりないとも言えます。

『草枕』がどういう話かを簡単に言うと、1人の青年が山奥に行くんです。画家なので、絵を描きに。温泉のある宿に泊まる。お客はその青年だけです。その宿には出戻りの女がいます。青年とその女との不思議な関係を描いた小説です。

それは決して性的な関係ではなくて、青年の芸術論と関わってきます。つまり青年はずっと女のことがつかめないんですね。ずっと女が演技をしているように感じるんです。絵に描こうとしても描けない。

その女の中身というか本質というか、そういうものをつかもうとする話でもないんですが、まあその女の印象をつかめるのか、つかむとしたらどういう風につかむのか、ということに注目して読んでみてください。

この小説の〈筋〉のなさと言われるであろう部分とこの小説の難解さとは、大きく関わってきます。芸術論が書かれる部分は難解で、出来事の描写ではなく考えが書かれるわけですから、学術書に近い部分があります。

『草枕』は読みやすい部分と読みにくい部分にはっきり分かれます。読みやすい部分は会話の部分です。女との会話、和尚さんとの会話はコミカルかつユーモラスで楽しいです。

女と青年画家との会話はたとえばこんな感じです。女が話しかけるところから会話が始まっています。

「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるんでしょうね」
「なあに」
「じゃあ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分からないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。只机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「何故?」
「何故って、小説なんか、そうして読む方が面白いです」(112ページ)


どうですか、ユーモラスでしょう? もし夏目漱石を難しいだろうなあと思って敬遠している方がいらっしゃったら、もったいないです。夏目漱石の小説はすごく面白いんですよ。文体はまあともかく、内容としてはさほど難しくはありません。ただ、深く読み込んでいける作家ではあります。

そうした会話の部分はやさしい一方で、読みづらく、難解さのある部分があります。これはもうはっきり分かれていて、つまり青年画家の1人称である〈余〉が1人で考えている部分です。

〈余〉は絵画を描こうとするのみならず、詩も作ろうとします。特に漢詩です。つまりそうした芸術全般、絵画や詩歌を作るためのなにか、モチーフというか、発想というかそうしたものをぐっとつかもうとしているわけです。そうしたものをつかめれば、もう芸術は成ったと同じことなわけです。

この〈余〉は絵を描くために山奥に行きますが、全然絵は描かないんです。ぷらぷらしているだけです。でもそれでいいんですね。イメージをとらえられればそれでいいわけです。〈余〉は画題として風景などをとらえようとしますが、その1つとして、女が出てくるわけです。

つまりこの小説は、女がメインではなくて、そうした芸術論の方がメインです。芸術論があって、風景など画題の中に女がいるという感じ。

〈余〉の考える芸術論についてはあまり深入りしませんが、海外の絵画や詩歌が頻繁に出てきます。この辺りは注を参照にして乗り切ってください。海外の色と日本の色は違うから、自ずから芸術は異なってくると考えたりもします。

この辺りの〈余〉が考えている部分の文体は、漢詩が多く引かれることもありますが、漢語というか、分かりやすく言えば二字熟語が多く使われていて、なかなかの読みづらさです。ぼくもほとんど分からない熟語が多かったです。新潮文庫だと注が丁寧についているので、確認しながらじっくり読んでみてください。

まあ難しいようでしたら、〈余〉の考えは、ある程度飛ばしながらでも大丈夫です。会話文が出てくるまでがんばってください。

ただ漢語のようなものは、調べてみるとすごく面白いです。たとえばこんな言葉が出てきます。「蜀犬日に吠え、呉牛月に喘ぐ」(146ページ)という言葉。『三国志演義』などが好きな方は多少ピンとくると思いますが、「蜀」という国の犬と「呉」という国の牛の話です。

短いながらもエピソードのようなものがあって、それが意味を持ってくるんですけど、興味のある方は『草枕』を読むか、調べるかしてみてください。そうした諺みたいなのを知っていく面白さが漢語にはあります。

注を見るだけではなくて、「こういう漢字の組み合わせだからこういう意味になるんだ」と納得しながらやっていくと、すごくいいと思います。

ここらで軽くまとめてみます。〈余〉が1人で考えている芸術論の部分は難解さがあります。内容としてもそうですし、文体として漢語が多く使われていること、漢詩などの引用が難解さに繋がっています。注を頼りに乗り切ってください。できれば楽しめるといいですね。

一方で、会話文はユーモラスで読みやすいです。そして単純に読める奥に深みがあります。どういうことかというと、女がどういう女かをみんなはそれぞれ言います。少しおかしいとか、立派な人だとか。それはすべてその人の語る女であって、女が本当はどんな女なのか、それは最後までよく分からないわけです。

夏目漱石にはそうした読みやすさと謎のようなものを兼ね備えた作家なんですよ。

作品のあらすじ


書き出しは、日本文学屈指の名文です。みなさんもきっとどこかで聞いたことがあるのではないかと思います。

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。(5ページ)


まあそういって、山道を歩いていくんです。色々芸術論を考えながら。温泉宿に泊まります。この辺りから泉鏡花の『高野聖』のようなおどろおどろしさが出てきて、物語のバックグラウンドに怖ろしいイメージが流れ始めます。

人々から色んな話を聞くんです。「長良の乙女」という2人の男に求婚され、投身自殺をした女の話。実際にあった投身自殺の話。ミレイのオフィーリアの絵。オフィーリアというのは、『ハムレット』のヒロインです。ミレイという画家に有名な絵があるんです。

こうした〈死〉のイメージが重なりあって、鬱蒼としたその山奥が、冥界のような一種独特な空気を醸し出しています。そして、そこで出会った女。もうそれだけでただものではない雰囲気ですよね。一体なにものなんだろうと。

風呂場で〈余〉は謎の女と出会います。ここは難解な文章かもしれませんが、すごくいいです。こうした文体でしか書けないものですね。折角なので引用しておきます。

 黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞絨の如く柔かと見えて、足音を証にこれを律すれば、動かぬと評しても差支ない。が輪郭は少しく浮き上がる。余は画工だけあって人体の骨格に就いては、存外視覚が鋭敏である。何とも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、この風呂場の中に在る事を覚った。
 注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は遺憾なく、余が前に、早くもあらわれた。漲ぎり渡る湯烟の、やわらかな光線を一分子毎に含んで、薄紅の暖かに見える奥に、漂わす黒髪を雲とながして、あらん限りの背丈を、すらりと伸した女の姿を見た時は、礼儀の、作法の、風紀のと云う感じは悉く、わが脳裏を去って、只ひたすらに、うつくしい画題を見出し得たとのみ思った。(94ページ)


この謎めいた女の正体は、しばらく夢かうつつかというような感じで描かれます。物語が進むにつれ、段々実体を持ったものになっていって、人々は色々この女について語ります。でもそれは女の本質にはたどり着かないんですね。

〈余〉は女の行動を演技じみたものに感じたりもします。自分が身投げして浮かんでいるところを絵に描いてくれと言い、びっくりした〈余〉に「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」(123ページ)と言う女。ある時、短刀を持っているところに出くわしたりします。なぜ女は短刀を持っていたのか?

〈余〉は山奥で芸術について考えを深めます。女だけが重要ではなく、景色なども重要です。特に椿をめぐる描写は、すごく生々しくて、鮮烈かつ幻想的なイメージを持っています。ここはちょっとすごいですね。長いので引用はしませんが、126ページくらいのところです。ぽとりと落ちる椿が魂のイメージと重なり、その赤い色は血のイメージと重なっていくんです。

果たして〈余〉の思う芸術は完成するのか?

とまあそんなお話です。固い芸術論の中に、おどろおどろしい雰囲気の山奥、謎めいた女が組み込まれています。読みにくさと読みやすさを同時に兼ね備えた小説です。

分かりやすいと同時に分かりづらい小説。〈余〉と女の関係を描いた小説ではなく、ひたすら〈余〉の中の芸術の話です。その辺りが〈筋〉がないと言われる由縁だろうと思います。

文章としてはやや難解ですが、興味がある方はぜひ読んでみてください。

おすすめの関連作品


リンクとして日本文学の作品を2つ紹介します。

まずはなんといっても泉鏡花の『高野聖』です。

歌行燈・高野聖 (新潮文庫)/泉 鏡花

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山奥で不思議な女に出会ったお坊さんの話です。幻想的かつおどろおどろしいものを描かせたら右に出るものはいない泉鏡花。機会があればぜひ読んでみてください。

それから印象的なお風呂場の場面と言えば、川端康成の『伊豆の踊子』でしょう。

伊豆の踊子 (新潮文庫)/川端 康成

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伊豆の踊子』は恋愛小説のように読まれることがありますが、やや違います。踊子がお風呂に入っているところを見て、主人公がどう感じたかにぜひ注目してみてください。

明日は、村上春樹の『国境の南、太陽の西』を紹介します。