ウィリアム・シェイクスピア『新訳 ハムレット』 | 文学どうでしょう

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新訳 ハムレット (角川文庫)/ウィリアム シェイクスピア

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ウィリアム・シェイクスピア(河合祥一郎訳)『新訳 ハムレット』(角川文庫)を読みました。

「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」(99ページ)というハムレットの独白は、かなり有名ですよね。シェイクスピアを知らない方でもご存知だろうと思います。

ところが、訳者あとがきで初めて知ったのですが、そのお決まりの台詞で訳された翻訳書は今までなかったそうです。どのように訳されてきたのか、歴代の訳が載っているので、興味のある方はぜひ参照してみてください。

孫引きですが、一応代表的な翻訳者の訳を引いておきます。「世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ」(坪内逍遥訳)、「生か、死か、それが疑問だ」(福田恆存訳)、「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」(小田島雄志訳)、「生きてとどまるか、消えてなくなるか、それが問題だ」(松岡和子訳)

ふむふむ。興味深いです。みなさんはどれがお好きですか? 坪内逍遥も捨てがたいですよね。「ぢゃ」という響きがいいです(笑)。

「ハムレット」は人の名前です。デンマークの王子。『ハムレット』がどういう物語かというと、一言で言えば復讐譚です。王である父親が亡くなり、母親は王の弟、クローディアスと再婚します。ところが、ハムレットの父親、先王の亡霊が現れるんです。そこでどうやらクローディアスに毒殺されたらしいことが分かります。

父を殺し、母を娶った憎むべきクローディアス。ハムレットは復讐を決意します。しかし・・・とまあそんな物語です。

『ハムレット』はシェイクスピアの作品の中でもかなり有名な悲劇ですが、実はそれほどシンプルな分かりやすい話ではありません。単純な復讐譚になってもいません。実際の舞台を観ているわけではなく、文章で読んでいるせいもあるかもしれませんが、筋がごちゃごちゃしているという印象があります。

より正確に言うと、誰にスポットが当たっているかが分かりづらいんです。これは小説と違う戯曲の特徴でもあると思うんですが、小説に比べて、戯曲はわりと複合的な視点でストーリーを描けるんですね。

つまりハムレットが叔父クローディアスを倒そうとする筋と、逆にクローディアスがハムレットを殺そうとする筋、それからまだ紹介してませんでしたが、レアーティーズという人物がハムレットを倒そうとする筋があります。

それぞれのキャラクターの、それぞれの視点で人物が描かれることになるわけです。小説というのは基本的には語りの構造を持っていて、語り手がいるにせよいないにせよ、この人物はこういうキャラクターだというのは、方向性としては必ず示されるものだと思います。

というより、作者が無意識でも、文章には現れてしまうものです。結局は、作者の考え方という、1つの主観に集約されていきます。

ところが、戯曲の場合は、1つの主観的なものに集約していかないので、ハムレットが実際にどういう人物なのかすら、よく分からないんです。ハムレットを見る人によって印象が違います。クローディアスから見るハムレット。オフィーリアから見るハムレット。それぞれ違うだろうと思います。

ハムレットは果たして、弱々しいキャラクターなのか、それとも健康的で太ったキャラクターなのか、頭がおかしくなっていたのか、それとも頭がおかしいふりをしていたのか。観客や読者にとって、様々な解釈ができる可能性があります。

舞台で演じられる時は、演出や役者の演技によって、そこにある程度のパースペクティブというか、1つの解釈でもって描かれるのだろうと思いますが、戯曲で読む場合はそれがないので、ある意味では読みづらいですし、また発想を変えると、自由な読みの可能性があるとも言えます。

作品のあらすじ


舞台はデンマーク。2人の歩哨が立っています。歩哨というのは、まあ見張りをする兵士だと思ってください。するとそこへ亡霊が現れます。

ハムレットだけに見えているとするなら、亡霊はハムレットの妄想であるということもできますが、こうして他の人間に見えるということが、個人的には面白いです。客観性を持った幽霊。小説ではあまりこうした客観性は出ないと思います。興味のある方は、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』と読み比べてみると面白いですよ。

その亡霊は先王の亡霊だと分かります。デンマーク王子のハムレットは、叔父であるクローディアスに父親が毒殺されたのだと知って、思い悩みます。今の感覚と少し違っていて、実際には血の繋がりはなくても、兄の妻との結婚は、近親相姦的に語られたりもしています。

すぐクローディアスを殺せばいいんですが、そうはしない。思い悩んで、自殺すら考えるハムレット。ところが宗教的に自殺はできませんから、すごく悶々とします。「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」(99ページ)です。

そんな変わってしまったハムレットの様子を、周りの人は勝手に解釈します。ポローニアスは、ハムレットが自分の娘のオフィーリアに恋しているからだと考えます。ポローニアスの息子がレアーティーズ、娘がオフィーリアです。この2人は覚えておいた方がいいです。

ハムレットのオフィーリアに対する態度というか、どう思っていたかもよく分かりません。有名なセリフ、「尼寺へ行け」(102ページ)の解釈も様々あるようです。「尼寺」がなにを指し示すかの時点で解釈は分かれますし、描かれていないハムレットの心情になると、さらに解釈は困難なものになります。

ぼくは解釈の方には踏み込みませんが、表面上を見ると、ハムレットはひたすらオフィーリアを罵倒し、辛く当たっています。

ハムレットは、王と王妃の前で劇を演じさせます。クローディアスがやったことをそのまま暗示しているような劇を。

それから、ハムレットにとっても思わぬことが起こります。ある人が死ぬんです。オフィーリアは衝撃を受け、レアーティーズはハムレットを敵と思うようになります。一方、クローディアスはハムレットを亡き者にしようとし、様々な策略を実行に移していきます。

風前の灯とも言えるハムレットの命は果たして!? 絡み合う宿命の糸。オフィーリアに振り下ろされる運命の鉄槌!! ハムレットとレアーティーズの決闘の果てに迎える壮大なラストとは!?

とまあそんなお話です。ストーリーラインは分かりやすいシンプルなものですが、キャラクターがどういうキャラクターで、なぜそういう心理になったかは、分かりづらい部分が多いです。その分、自由な解釈の余地があるとも言えます。興味を持った方はぜひ読んでみてくださいね。

戯曲を読んだ時は毎回言ってますが、舞台を観てみたいですね。実は『ハムレット』の映画化作品すら観たことないんです。おすすめの映画があれば教えてくださいな。

シェイクスピアの悲劇にはいくつか特徴があります。悲劇というのは、ただ人が死ねば悲劇になるのではないんだろうと思います。こうあるべきという明るい未来へのラインがあることが前提になり、そのラインが思わぬこと、運命的とも言うべきねじれによって、悲惨な出来事が起こってしまう。誰にもどうすることにもできない運命的なねじれ。それが悲劇だろうと。

それでも、どうすればみんなが幸せなれたのか、をぼくはよく考えます。この悲劇は、誰のどの行動が引き起こしたものだったのか。どうすればすべての物事がうまくいったのか。単純にクローディアスが悪いとばかりも言えないと思います。そしてハムレットは一体どうすればよかったのでしょうか。

そんなことを考えながら、壮絶なハムレットの独白をぜひ戯曲で味わってみてください。印象深い読書体験になると思いますよ。

明日はナボコフの『ロリータ』を紹介する予定です。