語り手
物語を語る1人称の人物。ぼく、わたし、おれなど。古くは手記や、誰かが話したというフレームが必要とされていたが、現在では虚構の1つのスタイルとして成立している。複数の語り手が交互に語る形式がとられることもある。
また、フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』など、語り手から見た主人公が描かれるケースなどもある。
主人公
主人公を定義するのは難しいので、現段階ではわりとゆるやかに使っておく。物語の中心人物であり、特に物語世界を代表するような人物のこと。悲しみや喜びが主人公を通して描かれる。
ちょっと詳しい解説
こちらもあまり普段意識しないことだろうと思いますが、〈語り手〉と〈主人公〉は違います。
ジュール・ヴェルヌの『海底ニ万里』やハーマン・メルヴィルの『白鯨』を読んだ時にぼくが驚いたのは、ネモ船長やエイハブ船長が〈語り手〉でないことです。より正確に言えば、〈語り手〉かどうかという問題ではなく、〈主体〉か〈客体〉かという違いです。
3人称の場合は、〈焦点化〉はあるにせよ、〈主体〉として描かれますが、『白鯨』のエイハブ船長は、イシュメルという〈語り手〉の主体によって、〈客体化〉されているんです。
それは関係が固定されているわけですから、読みやすい一方で、〈主体〉でない分読みづらい。エイハブ船長が実際にどんな考えを持っているかなどは理解しづらいんです。
この〈語り手〉という存在は、実は小説ならではといってよくて、ほとんど無色透明な存在なんですね。これが映像化になった場合、映像でも〈主体〉であり続けることは不可能で、どうしても一人のキャラクターとして〈客体化〉されてしまいます。小説の映画化で感覚がずれるところです。
こうした〈語り手〉と〈主人公〉のずれがあることも多くて、たとえばあらすじをまとめる時に、〈語り手〉をなかったことにして、エイハブ船長は~、ネモ船長は~と書かれることが多いんですが、どうしてもぼくはそこがひっかかってしまうんです。なんだか違和感を感じてしまうというか。
まあ難しい問題ですよね。そして〈主人公〉と安易に使ってますが、なにをもって〈主人公〉とするかについてはおそらくさらなる考察が必要だと思うので、今のところはふわっと使っておきます。
あっ、そうそう。もちろん〈語り手〉=〈主人公〉のことも当然よくあります。
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J.D.サリンジャーのサリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(『ライ麦畑でつかまえて』)は読んだことのない人は読んでみるとよいと思います。
物語の面白さというよりも、文体ですね。すごくエポック・メイキング的な作品で、後世の小説にとても大きな影響を与えたと思います。
ちょっと斜に構えた語り口。面白いです。ぜひぜひ。
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