ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』 | 文学どうでしょう

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ロリータ (新潮文庫)/ウラジーミル ナボコフ

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ウラジーミル・ナボコフ(若島正訳)『ロリータ』(新潮文庫)を読みました。

「ロリータ」という語が持つ印象は、いまやちょっと特殊なものになっています。みなさんは「ロリータ」と聞いてなにを思い浮かべますか。「ロリコン」は「ロリータ・コンプレックス」の略ですし、最近では、ファッションなどの用語としても「ロリータ」は使われているように思います。ゴスロリなど。

「ロリータ」は少女への歪んだ愛情、とくに性的関心を指すことが多いですよね。つまり、「ロリコン」は成人女性に性的関心が抱けず、少女にしか性的関心を抱けないということで、おおよそよいと思いますが、ではその元になったナボコフの小説『ロリータ』はどういう物語なのか、興味がわいてきませんか?

どんな物語なんだろう、と興味を持った人は、ぜひ読んでみてください。エロいのかな、わくわくという方はちょっと残念ですが、直接的な性描写はないです。おいおい触れていきますが、読みやすい小説ではない部分もあります。特に文体ですね。ストーリーラインとしては特に混乱もなく、わりとすっと入ってくると思います。

ちなみに作者のウラジーミル・ナボコフは、ロシアの作家ですが、亡命してアメリカに行き、英語でも小説を書いた人です。複数の言語での執筆というのは、チェコ語とフランス語のミラン・クンデラ、日本語とドイツ語の多和田葉子などがいますが、かなり興味深いです。

『ロリータ』と聞いて、他に思いつくであろうものとして、スタンリー・キューブリック監督の映画があります。

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まだ映画も小説もどちらも未見な人は、どちらかと言えば、小説から読むことをおすすめします。映画は物語のラストから描かれ、過去に戻るという形式なので、小説の方がストーリーラインとしては楽しめると思います。

『ロリータ』はわりと謎に満ちた小説なんです。ロリータという少女が出てくるんですが、そのロリータは実際どんな少女なのかという謎。純粋無垢なのか、そうでないのか。そしていなくなったロリータを探すところなど、ミステリーに近いものがあります。

小説と映画の違いで毎回触れていることではありますが、小説の場合は〈私〉という1人称で描かれているものが、映画では1人のキャラクターになってしまいます。

つまり、〈私〉はロリータのことを他に男がいるんじゃないかなど、疑心暗鬼の目で見るんですが、小説の場合には、信頼できない語り手の手法のように、どこまでが真実で、どこからが妄想か、が曖昧に描写できるんです。この辺りは映画にはない、小説独特の面白さだと思います。

映画ではいわゆる倫理コードの関係らしく、ロリータの年齢はやや上がっています。まあそりゃそうだ。小説では、13歳くらいからスタートして、17歳くらいまでが描かれています。映画ではクールなキャラクターのロリータですが、小説ではもう少し子供じみた乱暴さのような感じがあったりします。

小説は特に文体がやや読みづらいので、もしダメそうだったら、もちろん映画からでも構わないと思います。いずれにせよ小説と映画を見比べてみると、両方の違いが分かって面白いと思いますよ。

作品のあらすじ


映画は場面として物語のラストから始まりますが、小説には架空の博士の「序」がついていて、ある人物の手記がこれから始まることが分かります。なにかの犯罪を犯し、勾留中に動脈の血栓症で死亡したハンバート・ハンバートという男の手記です。

額縁小説のスタイルではないですが、読者は、ハンバート・ハンバートがなにかの罪を犯した人物だということを前提にして物語を読み進めることになるわけです。一体ハンバートはどんな罪を犯したのか。

手記はすべて回想の形で書かれていて、時おり裁判長や陪審員に言葉を投げかけることもあります。物語のメインとなるのは、ほぼロリータとの関係です。ロリータといかにして出会ったか、そしてロリータとの関係はどんなものだったのか。

本編の書き出しは、こんな印象的な文章で始まっています。

 ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩めにそっと歯を叩く。ロ。リー。タ。(17ページ)


一般に「ロリコン」は少女にしか性的関心を抱けないわけですが、ハンバートである〈私〉がどうして少女に関心を抱くようになったか、〈私〉の少年時代の話が語られます。

簡単に言えば、少年の頃に若い恋人がいたんです。アナベルという少女。ところがこのアナベルが亡くなってしまいます。それ以来、〈私〉にはアナベルの幻影が色濃く残ってしまったわけです。

〈私〉は普通に結婚したりしますが、浮気されて別れることになります。〈私〉はニンフェットを追い求め続けます。ニンフェットというのは、ニンフという神話などの精霊や女神を元にナボコフが作った語のようですが、ともかくある一時期にのみ現れる魅力を持った少女を指す語のようです。

つまり少女の中にもニンフェットな子とそうでない子がいて、ニンフェットであっても、いずれはニンフェットではなくなるわけです。なんとなく分かってもらえるでしょうか。単純にセックス・アピール(性的魅力)の問題とばかりも言えないんですが、まあ本編を読めば、大体のニュアンスは分かると思います。

〈私〉は研究に打ち込むために、田舎町で下宿をすることになります。未亡人と1人娘が暮らしている家。そこで見つけたニンフェットが、ロリータです。本名はドロレスですが、主にローと書かれ、時おりドリーと書かれることもあります。

ロリータがどんな少女なのか、〈私〉との関係がどんな風なのかがよく現れている場面を引用しますね。ロリータの母親がいない時、ロリータが目にゴミが入ったというと、〈私〉は舌で舐めて取ってやります。

そっと私は震える棘を彼女のくるくる動くしょっぱい眼球に沿って押し当てた。「きっもちいい!」と彼女は瞬きしながら言った。「取れた」。「もう片方は?」「何言ってんの」と彼女は言いかけた。「そっちにはなんにもーー」。そのとき彼女は私がすぼめた唇を近づけてくるのに気がついた。「いいわ」と彼女が承知して、上向きになったその薔薇色に火照った顔にかがみ込みながら、憂い顔のハンバートはぴくぴくしている瞼に唇を押しつけた。彼女は笑い出して、私のそばをかすめながら部屋から出て行った。(78ページ)


ロリータの喋り方というのは、原文ではいわゆる若者言葉を多用しているらしく、翻訳でも工夫が凝らされているものの、やはり文章としてしっくり馴染んでいない感じもします。あんまり気にせず読むとよいです。

この場面から、ロリータがどんな少女なのか、なんとなく分かるでしょうか。わがままで、それでいてどことなく〈私〉を誘惑するような天真爛漫さもあるような。

映画では二枚目とは言い難い感じでしたが、小説の〈私〉はわりと魅力的な男性のようです。つまり女性に好かれるんですね。下宿先の未亡人と結婚することになります。つまり、ロリータの義理の父親になったわけです。

この辺りの〈私〉の行動は、能動的というよりは受動的のように感じます。つまり、ロリータと近づくために結婚したというよりは、たまたまロリータの母親が言いよってきたから、という受け身の要素が強いですし、ロリータの母親を殺害すればロリータが自分のものになるという考えが頭をよぎりますが、実行することはありません。欲望はすべて妄想にすぎないわけです。

あえてざっくり省きますが、〈私〉はキャンプに行っているロリータを迎えに行きます。母親が病気になったと言って連れ出します。ところが実際には母親は亡くなっているんです。なぜ死んだかは、本編でぜひぜひ。

〈私〉とロリータはモーテルに泊まりながら、車で旅をします。ある時、〈私〉とロリータの関係は変化します。それがどのような変化なのか、それもぜひ本編で。どんな風にどんなことが起こるのか。『ロリータ』で一番気になるところですよね。やがて1つの所に落ち着くことにし、ロリータは学校に通い、演劇なんかをやり始めます。

ロリータに夢中な〈私〉は、ロリータを束縛しようとします。男の子に会うことは禁止しています。ところがロリータは〈私〉の裏をかいて、陰でこそこそやっているらしい様子もあります。それが〈私〉の勝手な疑心暗鬼にすぎないのか、それともロリータは本当に男と会ったりしているのか、その辺りは曖昧に描かれています。

心配になった〈私〉はロリータを連れて街を出ますが・・・。

とまあそんなお話です。〈私〉とロリータの話。ストーリーラインとしては単純ですし、すべて〈私〉の視点で描かれるので、ロリータの心情や本当はどのような行動をしているのかは分かりませんが、わりと読みやすいと思います。

では読みづらいであろう部分について少し触れます。主に文体ですね。

ナボコフの文体は衒学的というか、文章の中に他の文学作品を仄めかすことが多いです。この『ロリータ』の訳注のほとんどは、そうした文学作品への言及と物語の解釈にあてられていて、訳注なのに、「本文読了後にお読みください」という但し書きがついているくらいです。めずらしいですよね。

特に重要と思われる作品をいくつか指摘しておきます。まずは〈私〉がニンフェットを愛するきっかけになったアナベルは、エドガー・アラン・ポーの『アナベル・リー』という詩のイメージが下敷きになっています。それから物語の全体の構造としては、メリメの『カルメン』と類似しています。つまり、男が女を激しく愛するが・・・という展開ですけども。

〈私〉がロリータは浮気をしているのではないかと疑心暗鬼になるところは、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』が、後半の展開は、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』が下敷きになっています。

普通は他の文学作品に影響を受けていても、本当に影響を受けているかどうかは、はっきり分かりませんよね。構造として似ているけれども、影響を受けているかもしれないし、受けていないかもしれない。では『ロリータ』の場合、なぜそんなことがはっきり言えるかというと、本文の中に、それらの作品への言及があるからです。

さすがに注釈がないとぼくも分からないですが、ある独特の言い回しの一節が出てきて、それが他の文学作品からの引用という感じなんですね。多少語句は変わっていたりもしますけども。

これは果たしてどんな効果が生み出せるかというと、和歌で言うところの本歌取りの手法に似ている部分があって、元の文学作品のイメージを多少なりとも組み込むことができるわけです。つまり、元の作品を知っていれば、それだけより楽しめます。

ただ、注釈でも解説があるので、知らなくても大丈夫です。読んでおいた方がよい作品があるとすれば、メリメの『カルメン』です。『カルメン』のラストに触れられていたりもしますので。他の作品は大丈夫です。

つまりそうした他の文学作品への目配せみたいなものが、若干の読みづらさに繋がっているわけです。この読みづらさはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』に近いものがあって、その文章だけを読んでもなんの意味か分からず、注釈を読んで、その言い回しがどこからきたかを知って、はじめて意味が分かるという厄介さがあります。

そうした文体の問題はあるものの、ストーリーやロリータというキャラクターはとても魅力的なので、あまり難しく考えずに、気軽に読んでみてください。注釈はある程度飛ばして読んでも大丈夫なので。

この小説の一番の魅力は、ロリータというキャラクターがつかみにくことです。純粋無垢なのか、それともみだらでずる賢いのか。ロリータには果たして他に男がいるのかいないのか。なぜロリータはあんな行動を起こしたのか。ぼくら読者は〈私〉であるハンバートと一緒に思い悩みます。そしてハンバートが捕まったきっかけになる事件が起こります。

あっ、そうそう、最後まで読み終わった方は、もう一度「序」を読み直すといいです。最初には分からなかったことが分かります。

文体的にはやや難しいですが、興味を持った方はぜひ読んでみてください。

おすすめの関連作品


ではリンクとして小説を3冊紹介します。

まずは似たような話として、谷崎潤一郎の『痴人の愛』です。

痴人の愛 (新潮文庫)/谷崎 潤一郎

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詳しくはそちらの記事を参照してもらいたいんですが、女の子を引き取って、やがて夫婦になるというお話です。親子あるいは友達のような関係から、夫婦へと変化していく関係性が面白いですし、なによりナオミが浮気しているのかどうかという点で悶々と悩むところが似ています。

続いては東野圭吾の『秘密』です。

秘密 (文春文庫)/東野 圭吾

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わりと最近ドラマになっていたので有名だろうと思いますが、奥さんと娘の心と体が入れ替わってしまうんです。娘の中に奥さんの心が入ってしまう。性的な関係に踏み込もうにも、中身は奥さんですが、体は娘なので、微妙な問題があるわけです。最後に残る、真相はどちらかという曖昧さも非常に面白いです。

最後に、桜庭一樹の直木賞受賞作『私の男』です。

私の男 (文春文庫)/桜庭 一樹

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義理の父と娘の禁断の関係を書いた物語ですが、ある種『ロリータ』のロリータ側から描いたと言ってもよいであろう作品。義理の父親のキャラクターというか、描き方もかなり巧みです。2人の関係性にはさらに展開があるんですが、それは実際に読んでのお楽しみということで。映画化の企画もあるようです。よく映画化する気になったなあ。

それではみなさんよい週末を。