マルセル・プルースト『失われた時を求めて』 | 文学どうでしょう

文学どうでしょう

立宮翔太の読書ブログです。
日々読んだ本を紹介しています。

失われた時を求めて〈1 第1篇〉スワン家のほうへ (ちくま文庫)/マルセル プルースト

¥1,418
Amazon.co.jp

マルセル・プルースト(井上究一郎訳)『失われた時を求めて』(全10巻、ちくま文庫)をようやく読み終えました。Amazonのリンクは1巻だけ貼っておきます。

誰もが一度は読んでみたいと思う『失われた時を求めて』。ぼくが読んだちくま文庫の井上究一郎訳の他に、集英社文庫ヘリテージシリーズで全13巻の鈴木道彦訳があります。岩波文庫や光文社古典新訳文庫からは新訳が刊行中です。

『失われた時を求めて』の率直な感想ですが、内容云々の前に正直長いですね。ほんとに長いです。

同じフランス文学では、ロジェ・マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』も13巻あって結構長いんですが、1冊辺りのページ数が少ないですし、内容的なとっつきやすさもあって、わりとすらすら読めたんです。

それに対して『失われた時を求めて』の場合はもう大変でした。1冊1冊もすごいページ数ですし、なによりストーリーというよりは印象で紡がれていく小説なので、ぐいぐい読んでいける感じではないんです。

ぼくの場合は1日に読むページ数を決めて、コンスタントに読み進めるようにしていました。毎日50ページずつ。数か月かかりました。『失われた時を求めて』の重みが骨身に沁みましたよ・・・。

ぼくがなぜ『失われた時を求めて』を読むにいたったかについて少し書きます。

ぼくは『源氏物語』で卒業論文を書いたんですが、「語り手」の問題のところで、ある文学理論の本を参照したんですね。

それはジェラール・ジュネットの『物語のディスクール』です。文学作品の視点に関して、人称で分類していた今までの方法ではなく、〈焦点化〉という新しい概念を導入した興味深い本です。

物語のディスクール―方法論の試み (叢書記号学的実践 (2))/ジェラール・ジュネット

¥5,250
Amazon.co.jp

『物語のディスクール』に関して興味のある方は、こちらの記事で少し触れているので、参考にしてみてください。こちら→人称・視点・焦点化

ジュネットが『物語のディスクール』の中で分析していたのが、プルーストの『失われた時を求めて』だったんです。これが一番のきっかけです。

人妻との恋愛がテーマとなること、そしてサロンが舞台となること。『源氏物語』とフランス文学には、そういったなにかしらの共通点があるような気がぼくはしていて、中でも『失われた時を求めて』が最も気になる作品だったということもあります。

この辺りから、徐々に『失われた時を求めて』の内容について触れていきます。

おそらく一番有名なのは、マドレーヌの挿話だと思います。マドレーヌを口に含んだら、過去の思い出があふれてくるというあれです。具体的には次の場面になります。

そしてまもなく私は、うっとうしかった一日とあすも陰気な日であろうという見通しとにうちひしがれて、機械的に、一さじの紅茶、私がマドレーヌの一きれをやわらかく溶かしておいた紅茶を、唇にもっていった。しかし、お菓子のかけらのまじった一口の紅茶が、口蓋にふれた瞬間に、私は身ぶるいした、私のなかに起こっている異常なことに気がついて。すばらしい快感が私を襲ったのであった、孤立した、原因のわからない快感である。(1巻、74ページ)


人間は思い出とか記憶とかを意識的に思い出すことができますよね。「あの頃はこんなだったなあ」という回想。そしてそれとは別に、意識的に思い出すものではなく、なんらかのきっかけで、ふとあふれ出すものがあります。

それが「無意識的記憶」です。おそらくにおいや食べ物の味、音楽など、五感に関するものが「無意識的記憶」を一番呼び起こしやすいだろうと思います。

この場面では、マドレーヌの味が、幼い頃に食べたマドレーヌの味と繋がり、それはさらに食べた場所、子供時代に過ごしたコンブレーという町の思い出に結びつきます。

「全コンブレーとその近郷、形態をそなえ堅牢性をもつそうしたすべてが、町も庭もともに、私の一杯の紅茶から出てきた」(1巻、79ページ)んです。

この現象自体は『失われた時を求めて』の〈私〉にだけ起こる特別なことではありません。一番分かりやすいのは、昔よく聴いていた音楽をふと耳にした瞬間でしょう。

たとえば、昔つきあっていた恋人が好きだったバンドの音楽が町中で流れてきたら。意識しようとしまいと、ふとなにかを思い出してしまうかもしれませんよね。

そういえば、村上春樹の『ノルウェイの森』は、飛行機でビートルズの「ノルウェイの森」を耳にしたことから回想が始まる小説でした。

このように、「無意識的記憶」という現象自体は特別なものではありませんが、〈私〉のとらえ方はかなり特別といってよいと思います。

普通の人だったら、ふと思い出して、しばらくその感覚を味わったら、すぐまた忘れてしまいますよね。それで別に構わないわけです。

ところが、〈私〉はその感覚を捕まえようとしている感じがします。なぜその感覚が生まれたのか、その感覚がどういうものなのかを執拗に分析し、すぐに失われてしまうその感覚をなんとか自分のものにしようとするんです。

つまり『失われた時を求めて』というのはそういう小説なんです。言葉にならない印象を描き出そうとした小説。なので、ストーリー云々は重要ではありません。それだけにかなり読み通しづらい小説ではあると思います。

逆に言えば、独特の長い文章や、そこに入り混じっている感覚的なものを楽しめばいいので、難しく考えながら読むことはないんですよ。濃厚な詩的感覚を味わえばよいという感じでしょうか。

この長い物語には、ストーリーらしいストーリーはほとんどないです。〈私〉とアルベルチーヌという女性の恋愛が一つのメインにはなりますが、そうしたことよりも、〈私〉の目から見た世界が描かれていくことの方が比重が大きいです。

そしてそれはいくつかの問題を孕んでいるんですね。同性愛の問題、ユダヤ人の問題、ブルジョアと貴族の階層の問題。そうした物語のバック・グラウンドに関して非常に参考になるのが、鈴木道彦の新書『プルーストを読む』です。

プルーストを読む―『失われた時を求めて』の世界 (集英社新書)/鈴木 道彦

¥777
Amazon.co.jp

これは手元にあるとかなり参考になります。〈私〉の目から見た様々な出来事を、〈私〉の感覚とともに描くことによって、人間の人生そのものを描いたのが、プルーストの『失われた時を求めて』なんですね。

作品のあらすじ


この物語でぼくが最も印象的なのは書き出しです。少し長いですが、引用します。

 長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。ときには、ろうそくを消すと、すぐに目がふさがって、「これからぼくは眠るんだ」と自分にいうひまもないことがあった。それでも、三十分ほどすると、もう眠らなくてはならない時間だという考に目がさめるのであった、私はまだ手にもったつもりでいる本を置こうとし、あかりを吹きけそうとした、ちらと眠ったあいだも、さっき読んだことが頭のなかをめぐりつづけていた、しかしそのめぐりかたはすこし特殊な方向にまがってしまって、私自身が、本に出てきた教会とか、四重奏曲とか、フランソワ一世とカール五世の抗争とかになってしまったように思われるのであった。(1巻、7ページ) 


さあみなさん「。」の数を数えてみてください。こんな長い文章なのに、3つしかないんですよ。この一文の長さは非常に特徴的です。

では次に、この文章を要約してみてください。一言二言で簡単に言うと?

いや、なんだか騙したようで心苦しいですが、要約するのが非常に難しい文章だと思います。つまり、自分の動作や客観的な物体の描写だけではなく、回想や感覚が入り混じっている文章なんですよね。

つまりこの冒頭の時点で、他の作家の誰もが描かないものを描こうとしているということが、分かってもらえるかと思います。ストーリーを語ろうとするなら、こうした部分は必要ないですよね。

『失われた時を求めて』では、登場人物同士のやりとりとか、主人公の成長とかのテーマよりも、こうした感覚的なものを描くことの方が、より重要なんです。

もう一点面白いのは、この冒頭が「いつ、どこで」書かれたのかが分からないことです。戦時中のサナトリウムだろうとか、パリのアパルトマンだろうとか、いくつか推測は可能ですが、たしかなことは分かりません。

物語は、〈私〉の子供時代の思い出が描かれていくことになります。子供時代に休暇で過ごしたコンブレーには2つ方角があります。「ゲルマントのほう」と「スワン家のほう」。そのどちらかの方角へ散歩に行くんですね。

それぞれ家があることから名前がついているんですが、「ゲルマントのほう」は貴族のイメージを表し、「スワン家のほう」はブルジョアのイメージを表しています。この重ならず、対極とも言える2つのイメージが、物語の最後でどうなるのかに注目してみてください。

成長した〈私〉は、やがてサロンに出入りするようになります。サロンというのは、文化人など様々な人々が集まって、政治のこととか、芸術のこととか、色んな話をして交流する場のことです。

この小説の中では、ほとんど女主人がサロンを開いています。この女主人の格によって、サロンの格も変わってくるんですね。

貴族の女主人が開くサロンには身分の高い人が集まり、ブルジョア(商売で儲けている階層)の女主人が開くサロンには、そこそこの身分の人が集まります。

こうしたサロンを通して、人々の感情の変化や、格の変化(サロンで認められたり、あるいは追い出されたり)、また歴史的な事件についての人々の意見など、そういったことが描かれていきます。

『失われた時を求めて』でメインとなるのは、「第五篇 囚われの女」(8巻)「第六篇 逃げ去る女」(9巻)で描かれる、〈私〉とアルベルチーヌという女性との恋愛です。

〈私〉はアルベルチーヌという恋人と、パリで一緒に暮らしています。ですが、2人はなかなかうまくいかないんですね。

〈私〉はアルベルチーヌが浮気(しかも女性と)しているのではないかと疑い続けるんです。やがて、アルベルチーヌは家から出ていってしまいます。

〈私〉はアルベルチーヌについて、悶々と考え続けます。この時の〈私〉の思考こそが、この小説の一番の読みどころなのではないかと思います。

そこだけ読みたいという方は、光文社古典新訳文庫から、9巻にあたる部分の別バージョンが出ていますよ。『消え去ったアルベルチーヌ』です。

消え去ったアルベルチーヌ (光文社古典新訳文庫)/プルースト

¥740
Amazon.co.jp

少し『消え去ったアルベルチーヌ』の話をすると、これだけ単体で読むと興味深いのは、アルベルチーヌが表面上に全く登場しないことです。

つまり、『失われた時を求めて』では、アルベルチーヌとの出会いが描かれますし、パリでの生活も描かれますが、『消え去ったアルベルチーヌ』は、アルベルチーヌが家を出ていったところから始まるので、アルベルチーヌは〈私〉の意識の中にしか存在しないんです。

話を戻します。〈私〉とアルベルチーヌの関係については、実際に読んでもらいたいのでこれ以上は触れませんが、感覚の「ずれ」が最も重要なところです。

感覚の「ずれ」に関しては、あえて別のエピソードの話をしますね。物語の中で、〈私〉の祖母は亡くなります。普通、祖母が亡くなったのは、亡くなった時ですよね。

もうこの時点で変な言い方ですが、なぜそんな言い方をしたかと言うと、実際に祖母が亡くなったのと、〈私〉が祖母が亡くなったと認識する時までには、時間、そして感覚の「ずれ」があるからです。

つまり、祖母が亡くなった時には、理性としてはともかく、感覚としてはまだ認識していなかったんです。やがて祖母と旅行した地を訪れ、祖母の不在に気がついた時に初めて祖母が亡くなったと気づくんですね。

物語では、こうした感覚の「ずれ」が随所で描かれるのも特徴的です。ぜひ注目してみてください。

マドレーヌの他に、もう1つ「無意識的記憶」を呼び起こす出来事があります。〈私〉はある時、敷石につまずくんですね。そうすると、マドレーヌの時と同じように、強い感覚を持ったイメージがあふれ出してきます。

そのことによって、〈私〉は長年悩んでいたあることをついに決意します。そして・・・。

とまあそんなお話です。あらすじの紹介の中で、興味を持ってもらえた部分もあったかと思います。描写だけではなく、感覚をも含んだ独特の文体で書かれた小説であること。そして感覚の「ずれ」が描かれること。

とことん現実を描いたリアリズムの小説もあります。あるいは、夢や幻想を描いた〈シュールレアリスム〉の小説もあります。

同じ20世紀を代表する代表するジェイムズ・ジョイスは、〈意識の流れ〉という技法にこだわって小説を書きました。

しかしプルーストの『失われた時を求めて』は、まさにそのどれでもない独自のスタイルで書かれた小説です。リアリズムでも〈シュールレアリスム〉でも〈意識の流れ〉でもない小説。

そう聞くと、興味がわいてきませんか? 興味を持った方は、ぜひ手にとってみてください。すごく長い小説ですけれど。

書き出しの引用で分かってもらえたと思いますが、プルーストは普通の人では見ないものを見て、普通では描かないものを描こうとした作家です。

独特の長い文体は読んでいる内に、そのリズムに慣れて、段々好きになってきますよ。毎日少しずつ読み進めるとよいかと思います。