意識の流れ・内的独白 | 文学どうでしょう

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意識の流れ The Stream of Consciousness


人間の移りゆく意識を文章に組み込んだ技法。代表的な作品としては、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』、ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』などがある。3人称の地の文の中に1人称的な心理が描かれるが、単なる心理ではなく、思いつくままに思考が変化していくのが特徴的。通常の心理描写とは大きく異なる。

人間の心理を制約にとらわれず自由自在に描けるというメリットがある一方で、〈内的時間〉と〈外的時間〉のバランスは崩れ、時に起こっている出来事が分かりづらく、読みづらい。そもそも人間は文章で書かれるように思考するかという問題はあり、現代の小説では部分的に取り入れられたりすることはあるが、全体的に〈意識の流れ〉の技法を使った小説はなかなかない。

内的独白 Interior Monologue


ほとんど〈意識の流れ〉と同義語に使われるが、デイヴィッド・ロッジの『小説の技巧』の中では、〈意識の流れ〉は3人称の技法であるのに対し、〈内的独白〉は1人称の技法であると書かれている。

そうすると、普通の1人称の小説と〈内的独白〉との違いが気になるところだが、〈意識の流れ〉と同じように、文章の中に思考が描かれ、それが地の文と混然一体になっていること、発想が思うままに展開していくことが特徴としてあるのだろうと推察される。

また、川口喬一、岡本 靖正編『最新文学批評用語辞典』(研究社出版)では、〈内的独白〉は基本的には〈意識の流れ〉と同じだが、より狭義で限定された技法という風にとらえており、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』におけるモリーの独白が例にあげられている。

ちょっと詳しい解説


〈意識の流れ〉については、デイヴィッド・ロッジの『小説の技巧』のところでも触れているので、そちらを参照してもらいたいんですが、とにかく読みづらいです。

折角なので、心理描写について考えてみます。ぼくらには他人に共感する力があるので、心理をわざわざ描写しなくても、分かることがあります。

たとえば、ぼくの大好きなカンフー映画でよくある物語のパターンは、父親が殺されて、その仇を取るためにカンフーを修行して、憎き敵を倒すというものです。

その時に、父親の亡骸を抱えながら、「うおおー!」と泣きながら叫んだとしますよね。その時のキャラクターの気持ちって、すごくよく分かると思うんですよ。

逆に言えば、それは言語化できない気持ちであって、悲しみであり、絶望であり、憎しみであり、そうした感情が渾然一体となった「うおおー!」なわけです。つまり、キャラクターの心理を一番よく表すのは言語ではなく、状況だと思うんです。

文章でいくら「父親が殺されて悲しかった」と書いても伝わらないものがあります。それでも小説は言語の芸術なわけで、なんとか文章で表現しようとします。

小説は元々は、1人称のものだろうと思います。たとえば、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』のように、手記の形式をとられたり、手紙の形式である書簡体小説のように、実際にあった出来事のようにして架空の物語を書く形式。これが始まりだろうと思います。

それ以前にも詩や叙事詩などはありますが、それは英雄を歌い上げるものが多く、心理描写というのはないですし、現実の生活と重ならない点で小説とはやや異なる感じがします。

ともかく、1人称で始まった小説の初期は、フィクションではあるんですが、形態としては限りなくノンフィクションに近いやり方です。

ぼくらが日記や手紙を書くように書くわけです。この書き方における心理描写というのは、主に〈自分〉がどう思ったかで、〈他人〉の気持ちは推察にすぎません。そもそも起こった出来事をニュートラルに書くわけではなくて、ややいじわるな言い方をすれば、起こった出来事を〈自分〉のいいように取捨選択して、時に曲解して書くわけです。

つまりすべての世界、すべての出来事が1人の意識に内包されていると言えます。

一方で、小説のスタイルはやがて3人称というものを生み出していきます。詳しくは人称のページを参照してもらいたいんですが、この3人称にはやや問題があって、1人称が1人の意識に内包された物語であるのに対して、3人称は誰の意識に内包された物語なのかということがあるわけです。

簡単に言えば作者なんですけど、この作者の〈視点〉というのもまた、難しい問題を孕んでいます。つまりどの人物の心理は描いて、どの人物の心理は隠すかということが、自由自在なだけにバランスを取るのが難しいわけです。

作者がすべてを知っている場合は、〈神の視点〉や〈全知の視点〉などと呼ばれますが、多くの場合は、ジェラール・ジュネットの用語を使えば、〈焦点化〉と言って、1人の人物に寄り添います。

3人称の小説であっても、1人の人物の〈視点〉から描き、その人物の心理などを描きます。たとえば主人公の気持ちは描くけれど、主人公が好きな女性の気持ちは描かないというようなことをします。

この辺りの問題にはあまり踏み込みませんが、3人称の時の心理描写のバランスの取り方は難しいとだけ覚えておいてください。どの人物の心理は描いてどの人物の心理は描かないか、という難しさです。

心理描写の技法としては、地の文にとけこませる方法。たとえば「おなかがすいたなあ。そうだそろそろご飯を食べようと立宮翔太は思った。」や、カッコでくくる方法、「(おなかがすいたなあ。そうだご飯を食べよう)と立宮翔太は思った。」三島由紀夫がやっているように二重鍵カッコ(立宮翔太は思った。『おなかがすいたなあ。そうだご飯を食べよう』)で表したりします。

そうすると、時代の変化というか、心理学などの流れから、人間の思考の流れはそれほど単純明快なものではないだろう、という批判が寄せられることになるわけです。それはたしかにその通りで、人間の思考はあっちへいったりこっちへいったり、とりとめのないものですよね。

それを文章でとらえようとしたのが、すなわち〈意識の流れ〉です。カッコや二重鍵カッコなどを使わずに、3人称の地の文に1人称による思考を溶け込ませる書き方です。『ダロウェイ夫人』のところに引用文がのせてあるので、興味がある方は見てみてください。

そうした取り止めのない思考をとらえようとした〈意識の流れ〉は、文学的に高く評価されていますが、それは同時に文学がストーリーではないものを描こうとしたということを意味します。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』は特にそうです。

思考が描かれれば描かれるほど、物語を流れる〈外的時間〉と人物の思考という〈内的時間〉のバランスはうまく取れなくなっていくわけで、どれだけ〈内的時間〉で思考が描かれても、〈外的時間〉は止まったままです。そこではかつてあったような〈物語〉は語られなくなり、人間の心理だけに目が向けられているわけです。

つまり〈意識の流れ〉が部分的に取り入れられているにせよ、現代であまり使われることがないのは、〈物語〉を語るには適さない技法だという、まさにそのためだろうと思います。

ところで、これはまだ読み直していないので、なんとも言えないのですが、翻訳を通してですけども、心理描写に関してぼくが一番インパクトを受けた作家はフォークナーです。フォークナーというのはちょっとすごくて、翻訳だと心理描写がゴシック体で書かれたり、二重鍵カッコ(『 』)で書かれたりしていたはずです。

フォークナーをしっかり読もうと思っている内に、〈アメリカ文学月間〉が終わってしまいました。またその内機会があれば読んでみたいとは思っています。

参考文献


デイヴィッド・ロッジ(柴田元幸、斎藤兆史訳)『小説の技巧』(白水社)

川口喬一、岡本 靖正編『最新文学批評用語辞典』(研究社出版)


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